2025年4月8日火曜日

桜花爛漫の古利根川

桜花愛(め)づ 足音軽く 引きも切らぬ  
 今日も古利根川縁では、人々が行き交っていた。画面中央の御仁はキャンバスに向かって絵筆を走らせていらした。その左側の人は上を仰いで桜の木にカメラを向けていらっしゃる。自転車を走らせておられる方、前屈みがちになって歩を早めている方も、すでに心は豊かにされての帰り支度に違いない。

 川中には亀と鴨がお互いに仲良く共存しあっていた。亀は十匹近く縦一列に隊を組んでいる。その近くを鴨の数羽がこれも一団となって、回遊している。画面では捉えられていないが、親鴨は画面右の方に行ってしまったが、親子家族の鴨のようだ。百数十羽いた鴨もここ数日の間にすっかり姿を消しつつあるのだが・・・

 一方、魚は水量たっぷりの河中から浅瀬に入り込んでは、産卵するのだろうか、雌雄互いにのたうち回っての勢いは激しい。波飛沫をあげ、その音がバシャバシャと聞こえる。毎年のように、魚はここに上がってくる。いやが上にも生命の躍動を感ずる。一度その様を撮りたいのだが、中々iphoneでは撮れない。川中の波渦が辛うじてその様を映している。それで了としたい。

  かと思えば、今日じゃなく昨日の写真だが、相変わらず青鷺が虎視眈々と獲物を狙って王者の如く川央を飛んで行く。水辺に少し止まったところを撮影したが、すぐ気づかれて飛び去られてしまい、至近距離では撮影できなかった。それでも嘴の黄色が撮れたので良しとしたい。



 先週は寒く、春だと言うのに、全く冷え切ってしまった。しかしそんな時も川は流れている。暖かくなって桜の開花が進み、私たちの心も陽気になった。もし水なくばどうなるのだろう。樹木、植物は川の水を吸い上げ、実を結び花を咲かせる。一方川には魚が住み、鳥が近寄り餌を求め囀る。私はこの囀りを聴いているだけで心豊かな思いにされる。まさに春爛漫である。最後に今日の古利根川を紹介しておこう。


イエスは立って大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書 ヨハネの福音書7章37〜38節)

2025年4月7日月曜日

春眠、夢を覚え


 四月も早や一週間が過ぎた。このところ連日のように古利根川縁は桜を愛でる老若男女の人々で賑わっている。溢れかえるほどではないのが、良い。皆それぞれじっくり桜を鑑賞できる。素晴らしいことだ。

 大抵、ほとんどノルマと化している、一冊の本(※)の書写に倦み疲れた頃を見計らって家内を誘い出し古利根川まで出かける。ある時は自転車で、ある時は徒歩で。徒歩だとかれこれ四キロになる。少し負担がかかるので、自転車で出かけ、古利根川の一周で我慢する時もある。まあ、半々である。82歳と79歳のコンビだから、果たしてこの先何年くらいこのような生活を続けられるのだろうか。

 漱石は確か、「午前の創作は午後の愉悦をもたらす」とかどこかで言っていたように思うが、私にとっては午前中の書写と散歩が、彼の「創作」にあたる。午後はゆっくり寛ぐ、それは彼の「愉悦」にあたる。

 さて今朝は不思議な夢を見た。ある集まりで音楽会が催された。指揮者として「山田耕筰」氏がタクトを振るから、という前宣伝であった。果たせるかな、彼がやってきて、演奏会は始まった。曲目はヘンデルであった。その音色は何とも言えない音色で、その音を聞きながら、ヘンデルにはこんな作品があったのだと独り感動しているのだ。感動していると言ったが、私はと言えば、演奏会の隣室の大きな部屋で寝そべって聞いているのだ。だから当然、指揮者である山田耕筰氏の顔はわからない。演奏される音楽だけが聞こえてくる。

 一体、これは夢と言っていいのだろうか。音が聞こえるなんて。しかも振り返ってみるとその音楽はサンサーンスの交響曲第三番の曲中、オルガンの全奏の前後(?)に奏でられる曲に似ているが、それよりもはるかに落ち着いていて、深みのある、えも言われぬ曲想だった。そんな夢の話を家内に話したら、「随分と高尚な話ね」と言った。私もこんな夢を見るのは初めてだ。まして音楽の素養がなく、むしろ音楽には劣等意識さえ持っている私がそんな夢を見たのだ。

 フロイトは夢判断をしたのだろうが、私の夢判断はどう出るのだろうか。春眠暁を覚えずという言葉もあるが、春の夢を語ってみた。

※『聖パウロの生涯とその書簡』(デーヴィツド・スミス著日高善一訳1927年刊行)

を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ書55章6節)