2013年2月12日火曜日

驚くべき回心

ソファーに鎮座まします花瓶(二つの造型を組み合わせて)
 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(旧約聖書 箴言1・7)

1825年の11月のある土曜の夕べ、ジョージは友人のベータと散歩していた。友人は彼に、最近ある個人の家庭で行なわれている祈り会に出席していることについて話をした。それによると、そこでは聖書が読まれ、賛美がなされ、祈りがなされ、印刷された説教が読まれているということだった(※)。ジョージはベータの話を聞いたとき、まるで彼が今まで全生涯で求めていた宝物を見つけたかのような思いになった。その晩、二人は一緒にその祈り会に行った。

ジョージは家に迎え入れられたとき、よくはわからなかったが、信者たちの間にある喜びに気づいた。彼の人生では初めて、人が祈りのために跪(ひざまづ)くのを目にしたのだった。そのことは彼に深い印象を与えた。カイザー兄弟が祈っている間、ジョージは考えていた。「私はこの人よりは教育を受けているが、この人のようには祈れない」

集会を辞してから、彼はなぜだかはわからなかったが、幸福感を味わった。以前の自分の生活のどんな喜びも祈り会の間に彼が経験した喜びに如(し)くものはなかった。神さまが彼の心に恵みのみわざをなされ始めたのだ。その晩が彼の人生の分岐点となった。

彼は続いてこのクリスチャンの兄弟の家を訪ねるようになった。もう一回神のことばを学び兄弟たちと一緒に祈れるように経巡ってくる土曜日がほとんど待ち切れなくなっていた。彼が直ちにすべての罪から手を切ったわけではなかったが、悪い仲間と時間を費やしたり、居酒屋に行くことはもはや止めにしたのだ。彼の虚言癖でさえ、木っ端みじんに砕かれた。正しい動機で教会に出席し始め、仲間の学生からあざ笑われることも意に介せず、心を開いてキリストご自身に罪の告白をするようになった。

※当時、プロシアでは任職された牧師がいなければ、説教が宣べ伝えられることは禁じられていた。

(『Release the Power of Prayer』10〜11頁訳出 。この同じくだりのところを解説してA.T.ピアソンは『信仰に生き抜いた人』の中で次のように述べている。

「彼は再びハレに戻ったが、その後まもなくキリスト・イエスにあって新しい人となろうとは、知る由もなかった。彼が神を見いだしたために、彼の人生の流れは、全く新しい水路に向かって流れはじめるのである。彼のこの20年にわたる罪と哀れな状態を書き連ねたのも、ただ彼の回心が超自然的なみわざによるものであり、神を除外してはいかにも説明のしようがないということを、より明白にしたかったからである。

このような結果を生み出したのは、決して彼の「進化」ではなく、また「環境」でもなかった。あの大学の町には、彼が救われて経験したような性格とふるまいの大改革を引き起こすほどの自然の力は、何一つ存在していなかった。その町には千六十人の学生がおり、そのうち九百人が神学生で、みな説教することを承認されていたのであるが、彼自身によると、真に「主を恐れる」者はそのうちの百分の一にも満たなかった。形式主義がきよい汚れのない信仰に取って代わり、多くの場合、敬虔な告白の陰には不道徳と不信仰が隠されていた。このような状況の下にある人間が、自分以外から、しかも天上からの大いなる力の介入を受けないで、どうして真の性格といのちの大変化を経験することができようか」同書19〜20頁引用)

2013年2月11日月曜日

どうすることもできない人の性

ジョージ・ミュラーは1805年の9月27日にプロシアのクロッペンシュタットで生まれた。父は収税吏であったが、子どもたちを世に役立つ者として教育した。ところがジョージも弟たちも落ちこぼれでたくさんの罪の生活にはまっていた。ジョージは10歳になるまでにすでに繰り返し、父に託されていた公金を盗んでしまっていたのである。父はその穴埋めを無理矢理させられるはめになったくらいである。

ジョージが11歳になったとき、父は彼をハルバーシュタットへ送り、彼が大学で学べるように取り計らった。父はジョージが教会の聖職者になるのを望んでいた。それは彼が神に仕えるというよりはむしろ暮らし向きのいい生活が送れるようにということだった。ジョージが好んだことと言えば、小説を読んだり、不道徳な生活を淫することだった。

母は彼がまだ14歳の時に突然亡くなった。母が亡くなった夜、朝の二時までトランプ遊びをしていてそれから次の日は酒場に行った。彼のアルコール癖は母との結びつき以上のものがあったのだ。

堅信礼を受ける前の三日間、彼は、後に彼自身が認めているように「とんでもない不道徳な罪」を犯した。堅信礼の前の日には、自分の罪を告白するどころか、聖職者に嘘を言った。堅信をなし得るやいなや、自らが変わる決意を反古にしたのである。

ジョージは16歳になったとき、高級ホテルの宿泊代を踏み倒して逃げようとしたため、4週間拘置された。父親は助けるためにやって来たが、家に連れ帰るまで何度も打擲(ちょうちゃく)するしかなかった。

ジョージは父を説得し、もう一回チャンスを与えてもらうことにした。ノルドハウゼンの学校の入学の許可をもらい、同校の校長の家に住まわせてもらった。ジョージは校長に自分が模範的な学生だと思わせることにまんまと成功した。しかし、内側は以前にも増してひどかったのだ。彼が自らの力で改良しようとする努力は決して長続きせず、効果のないものだった。

20歳のとき、神学を学ぶためにハレ大学に入学した。そしてルーテル派の教会で説教する資格を得たのだが、彼は以前よりも不幸で、神さまからはるかに離れていた。彼の神学校での生活はまさに使徒パウロが「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(ローマ7・19)という言葉に尽きるものだった。

(『Release the Power of Prayer』9〜10頁より訳出。私は、いつの間にかこの二月で70歳を超えてしまった。けれども私には自らの誕生日をそのまま素直に祝えない自分がいる。なぜだろうか、と振り返って見て、それは18歳からの挫折の経験が影響していることに思い至った。実はこのミュラーの小伝記を一部紹介する気になったのはその辺のことが頭にある。彼の20歳までの人生は普通の人が想像もできない悪さの生活があった。〈くわしくは、A.T.ピアソンの「信仰に生き抜いた人』いのちのことば社刊に紹介されている〉その彼はその忌まわしい過去と完全に決別した生活を私たちに提示して、それを知る者に喜びを与える。それがキリストにある新生の生活そのものではないか。だとすれば、私自身本当にキリストにある一歩を歩んできたのかという悔い改めの情さえ覚えるのだ。しばらくミュラーの歩みに並走したい。)

2013年2月9日土曜日

アンテパスは、今日どこにいるでしょうか(下)

ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。(新約聖書 黙示録2・13)

「サタンの住むあなたがたのところで殺された」。主はペルガモにある教会の状態を見られました。サタンはそこに座を持っていただけでなく、自らそこに住んでいました。獅子の穴の前で、紅の血や砕けた骨を見いださないことは、困難です。サタンの住む所に迫害があるのは、驚くことではありません。サタンは初めから人殺しです。サタンは最初の日から今日に至るまで同じです。

「わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも」。証人となること、すなわち真実であり、サタンの怒りをかき立て、サタンの王国を麻ひさせる者となることは、必ず敵の迫害を生じさせます。証人は、サタンの王国を麻ひさせることができない限り、彼は真の証人ではありません。真の証人は、必ず敵の怒りを引き起こします。しかしながら、時には、私たちが証をする時でさえも、殺されないでしょう。

アンテパスは、単に証人であるだけでなく、忠実な証人でした。忠実に証をする者はみな、迫害を受けるでしょう。サタンは私たちのむなしい言葉を恐れません。サタンが我慢できないのは、忠実な証です。証人となるだけでは多くの代価は要求されませんが、忠実な証人となることは自分のいのちを賭けることが要求されます。ここに代価があります。だれが進んで代価を払うでしょうか?

「あなたは、わたしの名を堅く保って、・・・アンテパスが・・・殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった」。主は彼らの上に困難が臨むのを許されました。ですから、主は彼らに尋ねられませんでした。彼はあわれみ深い主です。主は裁きの中にもあわれみを忘れられません。最善を尽くして教会を賞賛しようとされました。彼の子どもの長所に気づかないとか、知らないということはありません。主は彼らの環境の困難をよくご存じです。主は彼らが彼の名を堅く持ち続け、信仰を捨てなかったことを賞賛されました。

「あなたは、わたしの名を堅く保って、・・・わたしに対する信仰を捨てなかった」。彼らは、いったん聖徒たちに伝えられた信仰を否みませんでした。彼らは主の名に包含されるすべてを堅く持ち続けました。この名は、主のパースンの栄光を示します。彼らは、主の肉のからだのゆえに、彼のパースンを忘れたりしませんでした。彼らの目は主を見ませんでしたが、彼らは主の神性を信じました。彼らは主の名を堅く持ち続け、信仰を捨てませんでした。

このようなことが、この世的な教会から起こるとは何と不完全なことでしょう! しかし、主は人の長所を無にされません。こういうわけで、主は賞賛されます。初めの半分の主の賞賛は後の半分の賞賛よりも強力でした。なぜなら「堅く保つ」ことは「否まない」ことよりすばらしいからです。いずれにせよ、「堅く保つ」ことも「否まない」ことも、容易なことではありません(※)。これだけでさえ、主を感激させるのに十分です。こういうわけで、彼は喜んで彼らのことを述べ、彼らを賞賛されました。

主は今日の教会に、この言葉を言うことができるでしょうか? 今日私たちは何を見るでしょうか? 私たちは、キリストのパースンが至る所で拒絶されているのを見ないでしょうか? 人は20世紀の文化を褒めそやしますが、20世紀のこの世は依然としてサタンの座ではないでしょうか? しかし、ここにアンテパスがいました。彼の名前の意味は、「あらゆる人に反対する」です。彼はステパノのように、自分が担っている証を、自分自身の血をもって確認しました。彼は黙っていることを拒絶する者です。地獄の力も、この世の迫害も、生命の危険も、彼があらゆる者に反対するのをやめさせることはできません。主のために忠実に証し、自分のいのちを死に至るまで惜しまないこれらの証人は、今日どこにいるでしょうか?

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集280〜282頁より引用。※本文では[「堅く保つ」ことは「否む」ことよりすばらしい・・・「堅く保つ」ことも「否む」ことも容易なことではありません]とあり、何らかの誤訳が生じたと思い、引用文のように変えました。念のために並行する英文サイトを紹介しておきます。http://www.ministrybooks.org/books.cfm?id=0A847B

2013年2月8日金曜日

アンテパスは、今日どこにいるでしょうか(上)

造型の妙
教会はこの世の中に住んでいます! これは何と奇妙なことでしょう! 敵対するこの世は、もはや教会を追い出せませんし、教会に、この世と異なるものを感じさせません。今や教会は、この世の底にまで堕落したのです。もはや教会は、くずではなく(1コリント4・13)、まして疫病のようなものでもありません(使徒24・5)! 今や、一つの地位を獲得し、人の誉れとなっています。教会は、サタンが王として支配するこの世に住んでいるのです。「住む」とは家を造ることです。教会はもはやこの世では客ではなく、この世にあって重要なメンバーとなっています。教会はこの世に家を造ったのです! 何とこれは主と異なることでしょう!

主は地上における最初の夜を、宿屋の飼葉おけで過ごされました。また地上での最後の夜を過ごされたのも、宿屋でした。(ルカ22・12の「広間」という言葉は、原文ではルカ2・7の「客間」と同じ言葉です)。主イエスは、地上で初めから終わりまで旅人でした。彼が死なれた後でさえ、彼は他人の墓に葬られました。彼は本当に客でした。彼が教会に求めておられるのは、地上で客になること以外の何ものでもありません。ですから彼は、救われた者を宿屋に置かれます(ルカ10・34)。

主は再臨の時に、救われた者がみな宿屋にいることを願われます。しかしながら、哀れなことに、教会は寄留者、旅人の性質を失ってしまいました! この世の中に「いる」ことと、この世の中に「住む」こととの間には、違いがあります。この世の中にいることは、旅人であることにすぎません。ところが、この世の中に住むことは、この世の市民であることです 。これは一つの道徳的な問題です。彼らはこの世と結合したので、異端を受け入れる可能性があります。肉体がこの世の中に住んでいても、危険はありません。しかし、心と霊がこの世に家を造ることは、哀れなことです。

救い主は、環境が困難であることを認められました。彼は教会が危険な所にあることを知っておられました。罪と偶像が至る所にありました。主は、教会に苦境が臨んでいるのを認識しておられました。ですから彼は、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」と言われたのです。主イエスは殉教者に誉れを与えられます。ですから主イエスは、「わたしの忠実な証人アンテパス」(黙示録2・13)と言われました。アンテパスの名は、聖書にも歴史にも見あたりません。しかし、これは主のために真に苦難を受ける人の名です。人は彼を知らなくても、主は特別に彼の名を述べられました。主は彼の忠実さを述べられました。これは何という賞賛でしょう! 聖徒たちの死は、主の目にいかに尊いことでしょう!

主はご自身に属する者をご存じです。主は、だれが主のために患難と苦難を経たかを知っておられます。人はアンテパスを知らなくても、良き羊飼いは彼の羊の名を知っておられます。これは何という慰めの思想でしょう! いかに孤独でも、人の目に知られなくても、迫害が死にまで至るものであっても、この世に何一つ残さなくても、歴史家が名前を記録しなくても、主の目は見ておられ、主の心は覚えておられました。

主は彼を褒め、彼を賞賛されました。これはまことに「閉じられた庭・・・封じられた泉」のようです(雅歌4・12)。この世は彼に触れることはできませんでした。なぜなら、彼は主の目のひとみであったからです。彼がこの世に何かを与えることは、容易ではありませんでした。彼はただ主を知っており、ただ主を喜ばせることだけを求めていました。彼は孤独な殉教者であり、主が賞賛される者です。

主に感謝し、賛美します。主は決して、名のない、隠れたしもべでも忘れはしません。主のために苦しむ者はだれであれ、主によって知られているのです。主は彼らすべてを、心の中に覚えておられます。主よ、私に対するあなたの思いは、何と多いことでしょう! 来たるべき王国で、主のために苦しむ者はみな栄光を受けるでしょう。今私たちが失ういのちは、将来得ることができるでしょう。これは、アンテパスだけでなく、いのちであれ死であれ主のための殉教者である、名もない英雄たちもみなあずかるのです。彼らはみな太陽のように輝くでしょう。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻278〜280頁より引用。)

2013年2月5日火曜日

啓示録は人に無視された(下)

多くの人は、この世は日一日と良い方向へ進んでおり、あらゆる文明は進歩し続けていると考えています。この世は発展し進歩しており、堕落の事実などどこにもないと考えています。もしこの世が現在の勢いで進歩していくなら、キリストの理想の社会は間もなく地上にやってくるであろうと考えています。啓示録と人の考えには何という著しい対照があることでしょう! 

啓示録は、世の中が一瞬たりと進歩しているとは考えません。その証しによれば、世の罪悪は増し加わっており、また人はどうしようもないほど神ご自身と彼の救いを拒否し続けてきたと告げます。神には彼らを裁く以外に方法はありません。神が彼らを厳正に裁いたとしても、彼らはなお悔い改めないでしょう! 

これはこの世だけでなく、教会についても言えることです。教会は最初の愛から離れたがゆえに、ついに主から吐き出されてしまいました。現代の人の考えは神のみことばと完全に異なっています! 啓示録は神のための証しです。それは人と妥協することを求めません。そのために人から受け入れられないのです。啓示録において、多くの人が罪の世に対して持つべき霊と証しとを失ってしまったことは、悲しむべきことです。

本物の教会はある水準へと達するはずであると言っているのも、啓示録が人々に好かれないもう一つの理由です。啓示録第二章と第三章とで教会に要求された水準を見る時、この世を愛している信者は実に恥ずかしい思いをするでしょう。今日人々が最も注意を払っているのは働きです。最高のクリスチャンとは最も多く活動している人です。ところが啓示録は、もし人が初めの愛を失うなら、彼のすべての働きは無益であると言います。主に対して真実である者は死に至るまで忠実であって、また目を覚ましていなければなりません。これは確かにこの世的な信者にとっては耐え難いことです。

いつの日にか全世界の人々がみな救われることが、今日の人々の願いです。啓示録はこれとは正反対です。数限りない人々が火の池で永遠に滅びると預言しています。自らを神以上に親切であると考えている人たちは、この言葉をどのように受け止めるのでしょうか? 人々は、罪人に対する懲らしめは一時的であり、いつかは消え去るものと考えます。啓示録はこれとは正反対です。むしろ、人々は火の池で永遠に苦しみ、彼らには一日たりとも安息が与えられないと預言します。この書は災害、災難、のろい、問題、警告に満ちています。ですから人々から敬遠されてしまうのです! 結論から言うと、啓示録はあらゆる人の意見とは相入れないということです。このために今に至ってもなお、この書を学びたいという人は極めてまれであるのです。

しかし、主を愛する聖徒たちがこの書を取り扱う態度は何と違っていることでしょう! 彼らは必要に応じて供給を受け、失望している時には支えを、悲しんでいる時には慰めを、弱い時には助けを得ます。この書は彼らの涙をぬぐい去り、信仰を増し加え、熱意を呼び覚ますのです。主のために苦難を喜んで受けようとする聖徒たちは、何とこの書を読むのを好むことでしょう! 彼らは主のために貧しく、孤独になり、十字架の狭い道を歩みます。これは人の目から見れば苦難でしかありませんが、彼らはこの書によって慰めを受けます。信者たちがこの書から多くの希望を見いだしているのは事実です。主イエスの到来は彼の出現を待ち望んでいる人々に幸せを与えるとは思いませんか? この地上で苦難を受けている彼らにとって、天に携え上げられること以上に良いことがあると思いますか?

金でできた町、新エルサレムは彼らの内側に強烈な願いを持たせないでしょうか? たとえ彼らが多くのものを捨てたとしても、主とともに王となり、その何倍をも受けるのではありませんか? 彼らが今受けている苦難は一時的で、軽いものです。千年王国と永遠の御国における来たるべき栄光とは最も高く、最も秀でたものではないでしょうか? 啓示録はクリスチャンにとって真の祝福です!

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第三巻163〜165頁より引用。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。黙示21・18

2013年2月4日月曜日

啓示録は人に無視された(上)

昨日の浅間山
創世記は聖書の最初の書であり、サタンが神によってのろわれたことを述べています。啓示録は最後の書であり、どのようにサタンが将来打ち破られて、神が彼の上に裁きを執行されるかを述べています。サタンの正体と彼の永遠における終局とがこの二冊の書に記されています。このためにサタンは特にこの二冊の書を憎んでいます。彼は、創世記は科学に一致しないばかりか、創造の物語は神話にすぎないと言って攻撃してきます。表面上は創造の記録を攻撃しているように見えますが、そうすることによって、彼は自分ののろわれた背景を人の目から巧妙に隠しているのです。彼の終局を預言している啓示録の場合は、彼は戦術を変えてきます。彼は啓示録をあからさまに攻撃するのではなく、それを「黙示録」に変えてしまうのです。彼は信者たちにこの書は非常に難しく、深く、理解するのが難しいから、たとえそれを勉強し、調べたとしても、それは時間の無駄であると思い込ませるのです。このために多くの信者たちは聖書の他の箇所は読みますが、啓示録にはあえて触れようとしないのです! このようにして、サタンは自分の来たるべき屈辱をいともたやすく覆い隠してしまうのです!

私たちは、啓示録が初期のクリスチャンたちによって軽んじられたことを知っています。彼らはそれを軽んじたばかりか、完全に拒絶さえしました。私たちは歴史を学ぶことによってこのことを知ることができます。この二十世紀においても、この書を喜んで読んでいるクリスチャンが幾らかいるにしても、大半の人たちはそれに対して冷たい態度を取り続けています。人々はそれを人目に触れない所に置きたがります。彼らがそれを読もうとしないのは、おそらく聖書そのものをあまり読まないからではないかと思います。そういう人が啓示録も読まないのは当たり前のことです。また他の人たちは聖霊に全く信頼しないために、聖書を読み続けるための忍耐に欠けています。彼らはしばしば、「この書はあまりに深く、あまりに奥義的である。わたしには難しすぎる」と言います。

実際、啓示録が人に受け入れられず、つまずきの石として考えられているのには、多くのはっきりとした理由があります。簡単に言えば、サタンの失敗を除いても、この書の内容は世的な信者に楽しい印象をほとんど与えないのです。それは千年王国の栄光と永遠の御国の楽しみに関わるものであるからです(20・1〜9、21・1〜22・5)。そこには栄光と真の喜びとがあります。しかし、この栄光と喜びを享受したければ、「死に至るまで忠実である」、「主が来られるまでしっかり持ち続け」、「目を覚ましており」、「悔い改め」、「熱心で」なければなりません。将来の世を得たいと思う者は、現在の世を放棄しなければなりません。もし彼らが今日苦難を受けるのでしたら、将来は栄光を受けるでしょう。その反対に、今この世の栄光を持っているのでしたら、将来は恥を被るでしょう。多くの世的な信者たちはこの世を手放すことはできません。なぜなら彼らはあまりにも長くそれを愛してきたからです。突然の別れを告げる時が訪れても、心の中ではそお愛情を断ち切るのは困難でしょう。啓示録を読めば読むほど、彼らはますます煩わされます。結局、読むのをやめてしまいます。

さらに、この書の大部分は神の激怒と裁き(第4章〜第19章)について述べています。しかし、人はどちらかというと神の優しさや愛について聞きたがります。彼らの想像の中では、神は決して怒ったり人を裁いたりしません。しかしこの書は神の義に関する書です。彼の激怒や裁きは人から敬遠されます。心の中で敬遠している書を彼らは果たして読むでしょうか?

この書全体は、初めから終わりまで超自然的な事柄に言及しています。神は人が全く天然の領域の事柄にのみ関係することを欲しておられません。神は私たちが顔と顔とを合わせて彼を見ることを願っておられます。彼は私たちを超自然的な領域で取り扱いたいのです。人は過去にあった超自然的な物語を黙認することができます。なぜなら過去の出来事や状況は現在の彼らの上にいかなる影響も与えないからです。しかし、もしこれらの超自然的な事柄が将来起こるとすれば、彼らの物質主義的な心や、しるしや不思議に対する彼らの不信仰は大打撃を受けるのではないでしょうか! もしこれらの事柄の多くが将来において実際に起こるとすれば、人はどれほど日々の生活を敬虔に過ごし、神に栄光を帰すべきでしょうか。多くの人々が啓示録の単純で直接的な教えに我慢できなくなり、この書をただ霊的に捕らえてしまっているとは何と悲しむべきことでしょう! 彼らはこの書を将来的に歴史的価値を全く持たない比喩としか考えようとしません! これは何ということでしょう! 神のもろ刃の剣の前に肉はどれほど恥じ入らせられるべきでしょう! 真に心はすべてのものにまさって偽るものです。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第三巻160〜162頁より引用。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」黙示1・3)

2013年2月1日金曜日

私は何を見て生きてきたのでしょうか?

柚子の実、一月前に来れば良かった 昨日栃木市内の友人宅で
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった(新約聖書 黙示録1・17前半)

振り返って、一目この栄光の主を見るだけで、このような結果になります。この栄光は並外れたものです。だれの目がその光景に耐えることができるでしょうか? ヨハネはかつてイエスの胸に寄りかかりました。しかし、この栄光、威厳、力、聖のゆえに、彼は主の足もとに倒れて死人のようになりました。キリストが来られて、教会とこの世を裁かれる時、だれがこのような光景に耐えることができるでしょうか? もしヨハネがそうであったなら、他の人々はどうなるでしょうか? 不忠実な信者たちはどうなるでしょうか? 主の敵はどうなるでしょうか? どうかすべての聖徒たちと罪人たちが、この来るべき裁きの厳粛さを認識しますように!

もし私たちが真に主の栄光、主の聖、さらには主ご自身をも見たのでしたら、私たちは昔の聖徒たちのようになるでしょう(※)。私たちは、みずからを深く恨み、自分自身を最も憎悪すべき、最大の敵であると見なすでしょう。あらわにされている高ぶりであれ、隠されている高ぶりであれ、両方とも私たちがキリストを見ていないことによって起こります。いずれにせよ、私たちは自分自身を知らないのです。

自省は益になるかもしれませんが、それは完全な導きにはなりません。心はよろずのものよりも偽るものであって、だれがこれを知り得るでしょうか? もし主がなければ、私たちは自分自身さえも知らないのです。もし私たちが主の光の下にいなければ、どうして私たちは自分自身の光で見ることができるでしょうか? 私たちが主の前にやってきて、自分自身を吟味する時こそ、私たちは真の自己を見ることができます。

自分は何かを持っていると考えたり、自分自身を他の者よりも強いと見なす者たちは、自分自身を知らないからです。主は私たちの生活におけるあらゆることを案配し、導いて、私たち自身の完全な失敗を私たちに見させます。私たちがこの学課を学ぶことは、何と難しいことでしょう! 

私たちは失敗する時は、少しへりくだるかもしれませんが、私たちが神の恵みで満たされ、働きにおいて成功する時は、私たちが自分は役に立たないことを認めることはとても困難です。もし私たちが常に主イエスを見て、絶えず彼の足もとに倒れて死人のようになるなら、それは何と驚くべきことでしょう! どうか主の栄光と聖が、私たちに自分自身を憎ませ、そして私たちが地にひれ伏し、自分自身を死にゆだねますように。その時のみ、主はご自身を私たちの生活において現わされます。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻98〜100頁引用。※この文章の前にイザヤ、ヨブ、ダニエル、ハバククの経験がそれぞれ述べられており極めて有益であるが編集上省略せざるを得なかった。文意は充分汲んでいただけると思う。それにしても弱冠24、5歳にしてこのような思いで生きていた人と、そうとは知らず、高慢なまま人生を終わろうとするこの者とではいかなる違いがあることだろうか。しかし、今からでも遅くないと主は言ってくださるから、有難い!)