イエス様の「再臨」の日のカーテンの後ろにわれわれの信仰の現われがあります。イエス様はわれわれに見えるようになるのです。私たちはイエス様はすべてのもののすべてであるという目標を持っています。
イエス様のこの「再臨」の日は、われわれの生活におけるもっとも大きなたいせつな日です。ですから、私たちの生活にとって、この日が力強い原動力となるべきです。イエス様の「再臨」はわれわれに道を示してくれます。この目標の偉大さが考えられないほど重要なのであります。私たちがあらゆる認識を信仰の中にはっきりと自分のものとすれば、その認識がわれわれの生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわちイエス様の将来、私たちのイエスと会う日(が)、信仰によって自分のものとならなければならない。「再臨」の日が自分にとって事実とならなければなりません。そして、この事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演ずるのです。もしもイエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜなら、イエスに属する者だけがその日に空で主と会うようになるからです。
パウロはロマ書の中で、8章9節
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
ですから、キリスト教に入ることによって、ある教会の会員によって救われるのではない。キリストの御霊を持たない者はキリストのものではない。結局、聖霊の宿になることがまことの救いそのものである。パウロは書いたのであります。同じく5章5節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「私たちに与えられた聖霊 」これこそもっともたいせつなのではないでしょうか。コリント第一の手紙の12章、主な内容とは結局、教会とは人間の造ったものではなく、イエス様のからだのものです。イエス様はかしらであり、このかしらとつながっている者は本当の教会です、12章の13節。
私たちはみな、・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
と、あります。イエス様の「再臨」は、イエス様の死と復活と五旬節と実に密接なつながりがあります。私たちがこれらすべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちは「再臨」の日に燃えることのない金や銀となって耐え通すことができます。イエス様の十字架においてイエス様とともに変えられた者がイエス様に属するのです。私たちはイエス様に、われわれ自身より、われわれの持てるものすべてを、われわれの罪、悩み、病、困難などすべてをささげるのです。するとイエス様はそれらすべてを受け取り、われわれの罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その現われは十字架の死です。けども私たちがイエス様を、主のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また主のいのちを受け取るのです。いのちのやりとり、それは完全にお互いに与え合うことです。イエス様はわれわれの罪の罰を十字架で担い、イエス様のよみがえりのゆえに、主のいのちはわれわれのうちによみがえっているのです。これが信ずる者の一番たいせつな経験です。すなわち、イエス様がわれわれの救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となるのです。
イエス様は信ずる者すべてに与える聖霊によってわれわれのうちに生きておられます。私たちはこの最初の経験を体験的に知っているでしょうか。イエス様の「再臨」の日を考えると、もっともたいせつな、そして個人的な質問がそこにあります。すなわち、私はほんとうに永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちはイエス様をわれわれの救い主としてほんとうの意味で経験しているのでしょうか。
もし誰かが、ある若い娘さんに「あなたは結納を済ませましたか」と尋ねれば、その娘さんは「ハイ」または「イイエ 」と答えることができます。けど彼女があなたに「そんなことがどうしてわかりましょうか」と答えたら、あなたは何かおかしいと思うのではないかと思います。これと同じように主のものであるかどうか、または今日からイエス様のものになりたいなのかどうか、人々は本当にはっきりと確かに知ることができます。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く新しい内容、すなわちイエス様は私たちのいのちであるということを知るのです。もし私たちがこの最初の経験をしたのなら、イエス様はわれわれに新しい歩みのために、奉仕するために必要な力を必ず与えてくださいます。
イエス様は五旬節の時、弟子たちに与えられた力、また装備をわれわれにも与えたいのです。聖書は簡単に言っています、「一同は聖霊に満たされた」(使徒2・4)と。この装備なしには私たちはその「再臨」の日に主の前に耐えることが出来るような生活をすることがもちろんできません。聖霊の力なしにはだれも聖霊による生活を送ることはできない。 すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は聖霊に満たされなければなりません。
私たちが自分の生活に聖霊がつく貢献をいかに十分持っているか※、また私たちが聖霊は主であるとどれだけ良く知っているか否かはわれわれの意志の決定にかかっています。もし私たちが聖霊にわれわれのすべてをささげるならば、聖霊はすべてを受け取り、私たちを完全に満たします。もし私たちが本当に主イエス様のものであるならば、聖霊は私たちのうちに宿っているはずです。その私たちのうちに住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が私たちをイエス様とのより深い交わりに導くということです。
聖霊はわれわれを祈りに追いやります。聖霊は私たちに主の前にあって正しい道を指し示すのです。聖霊はただ一つの願い、すなわち、私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人々は、平安を好む人々であり、祈りの人です。聖霊は信者をイエス様の姿に立ち帰らせるという大きな使命を成し遂げるために(働いてくださいますが、私たちにとって)主の前に過ごす時間が何と必要なことでありましょうか。ヨハネは簡単に当時の信ずる者を励ましたのです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3・3)
もう一ヵ所読んで終わります。コロサイ書3章の3節と4節、360頁です。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・3〜4、1〜2)
イエス様は近い。来られます。 このことばこそ初代教会にとって考えられないほどたいせつでした。「イエス様はすぐ来る」このことばは口から口へ語り伝えられ、そしてこのことばは当時の証し人たちに迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が「わたしは再び来る、しかしその時と場合は父が定めておられる」と語られましたから(そんなことはありません)。と言うのも、このことばは生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の「再臨」の事実が目の前に生き生きと認められるのです。すなわち多分今日かも知れない。「再臨」を待ち望むことこそが考えられないたいせつなのではないでしょうか。思い煩い、心配、恐怖、孤独から解放されるからです。その時は近い、と主は呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られるという事実を信じましょう。
(※この箇所は何度聞いてもそのようにしか聞こえないが、日本語としてはわかりにくい表現になっている。前後関係から類推するに「私たちが聖霊に支配されるために自分をどれだけ明け渡しているか」という意味でないかと推察する。次回の家庭集会は来年の1月15日午後2時からです。)
2013年12月7日土曜日
2013年12月6日金曜日
備えあれば憂いなし(中)
イエス様のからだの肢体である者が確実に明らかになります。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。ひと文章だけですが、エペソ5章の30節(です。)
私たちはキリストのからだの部分だからです。
有機的に主と結びついているのです。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのある所どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は特別な特権を持っています。すなわち彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。
すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々がその日に死んだにしろ生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだをもって、会うようになります。このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とはコリント第一の手紙15章なのではないかと思います。311頁です。コリント第一の手紙、先ず15章23節
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから、51節52節
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
とあります。その日にはまた多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所ですけど、428頁です。ヨハネ第一の手紙、428頁、3章の2節。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
なお私たちの身についている全ての汚いものは清めをし、私たちのうちにあるイエス様はすばらしき形のうちに姿をあらわされるのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』(2コリント5・17)蝶々がさなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものはわれわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであったわれわれのうちにある罪がもはやなくなるとき、そして罪の因(もと)、すなわちわれわれの生活の最も深い悩みであるその因(もと)がなくなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまたイエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人一人は主の恵みの座の前に立つようになります。
パウロはこの事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。コリント第二の手紙の5章、320頁です。5章の10節です。
私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
と。聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活・働きが主の火によって明らかにされるのです。すなわち信ずる者の行なった結果によってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中でパウロはこの区別について次のように書いたのです。結局二種類の信ずる者がある、239頁ですね。コリント第一の手紙3章11節から15節までお読み致します。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
その火がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金・銀・宝石と木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのとき、主はわれわれに次のように言うことができれば本当に幸いです。マタイ25章の21節。
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信ずる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして信ずる者同士に語られなかった多くの人々は金(きん)を与えられるでしょう。われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちは本当にイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらかでしょう。その火がそれを明らかにします。その日は真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するためにただひとつのことばで表現しています。すなわち、「栄光」ということばです。コリント第一の手紙2章9節を見ると次のように書かれています。292頁ですね。コリント第一の手紙2章9節。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
とあります。「栄光」ということばはロマ書8章の18節に出てきます。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みはいかに重く深いことでしょう。しかし、この「栄光」はそれに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足りないとパウロは経験したから当時の信ずる者を励ましたでしょう。また13章ですね。ロマ書13章。パウロは結局今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。13章11節から
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
(今日のメッセージの後半に非常に印象的な言い回しがなされていることに読者は気づかれることでしょう。そしてこのように語れるということは、この方がいかに主の前に小さく小さくなっておられる存在であるかがわかるというものではないでしょうか。その秘訣はどこにあるのでしょうか。明日もこの項は続きます。ご期待ください。)
私たちはキリストのからだの部分だからです。
有機的に主と結びついているのです。イエス様は信者たちを呼び、そして彼らはイエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から、海から、または信ずる者のからだのある所どこからも、信ずる者のからだはこの偉大な第一の復活の日をともに祝うためによみがえるようになります。また、その日にこの地上に永遠のいのちを持っている救われた人々は特別な特権を持っています。すなわち彼らは死を見ず、墓を知らないのです。すなわち彼らは一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。
すべての本当に救われた人々のために、その救われた人々がその日に死んだにしろ生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。救われた人々は新しいからだをもって、会うようになります。このからだとはイエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。この事実について、いわゆるよみがえりの書に書かれています。よみがえりの書とはコリント第一の手紙15章なのではないかと思います。311頁です。コリント第一の手紙、先ず15章23節
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから、51節52節
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
とあります。その日にはまた多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そしてキリストにおける新しく造られた者は一瞬にして完全になると聖書は言っています。よく引用される箇所ですけど、428頁です。ヨハネ第一の手紙、428頁、3章の2節。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
なお私たちの身についている全ての汚いものは清めをし、私たちのうちにあるイエス様はすばらしき形のうちに姿をあらわされるのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』(2コリント5・17)蝶々がさなぎを脱ぎ捨て、つばさを広げると同様に、古きものはわれわれの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。この瞬間に、すなわちこの世でもっとも大きな悩みであったわれわれのうちにある罪がもはやなくなるとき、そして罪の因(もと)、すなわちわれわれの生活の最も深い悩みであるその因(もと)がなくなるとき、すべてが新しくなり変わり、われわれの願いは完全に満たされるのです。しかし、その偉大な日には、私たちの全生活もまたイエス様の光の前に現われるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人一人は主の恵みの座の前に立つようになります。
パウロはこの事実についてコリント第二の手紙の中で次のように書いたのであります。コリント第二の手紙の5章、320頁です。5章の10節です。
私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
と。聖書には二つのさばきがありますが、これは栄光か、または破滅かを決定するさばきではありません。その日、この世における一人一人の救われた者の生活・働きが主の火によって明らかにされるのです。すなわち信ずる者の行なった結果によってイエス様は救われた人々に報酬、報償、王冠を分け与えるのです。コリント第一の手紙の中でパウロはこの区別について次のように書いたのです。結局二種類の信ずる者がある、239頁ですね。コリント第一の手紙3章11節から15節までお読み致します。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
その火がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金・銀・宝石と木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにするのです。失われるいのちは何と悔やまれることか、それは取り返すことができません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのとき、主はわれわれに次のように言うことができれば本当に幸いです。マタイ25章の21節。
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信ずる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるでしょう。それとは反対に人々から忘れられ、隠れた生活をした人々、そして信ずる者同士に語られなかった多くの人々は金(きん)を与えられるでしょう。われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちは本当にイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらかでしょう。その火がそれを明らかにします。その日は真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するためにただひとつのことばで表現しています。すなわち、「栄光」ということばです。コリント第一の手紙2章9節を見ると次のように書かれています。292頁ですね。コリント第一の手紙2章9節。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
とあります。「栄光」ということばはロマ書8章の18節に出てきます。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
大いに悩んだ、何回も刑務所に入れられたパウロの告白です。今の時のわれわれの悩みはいかに重く深いことでしょう。しかし、この「栄光」はそれに比べると限りなく大きなものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足りないとパウロは経験したから当時の信ずる者を励ましたでしょう。また13章ですね。ロマ書13章。パウロは結局今覚めるべき時刻だよと書いたのであります。13章11節から
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
(今日のメッセージの後半に非常に印象的な言い回しがなされていることに読者は気づかれることでしょう。そしてこのように語れるということは、この方がいかに主の前に小さく小さくなっておられる存在であるかがわかるというものではないでしょうか。その秘訣はどこにあるのでしょうか。明日もこの項は続きます。ご期待ください。)
2013年12月5日木曜日
備えあれば憂いなし(上)
引用聖句 マタイ25章1〜13節
今お読みいただいた最後の13節「目を覚ましていなさい」、これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが覚えるべきは「もうちょっとで、イエス様が来られる」なのではないでしょうか。
ヘブル書の著者は書いたのです。ヘブル書9章28節
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
とあります。また10章37節
もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
とあります。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と、ルカ伝の中でも言っています。イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。
今の世を見てもはっきり言えることとは、今の世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。 毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。けれども、次の世界の大きな出来事は「再臨」です。すなわちイエス様の日です。すなわちイエス様は雲に乗って再びお出でになり、主の恵みによって救われた人々を再びご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は将来のこの偉大な出来事について多くのことを言っています。いわゆる「空中再臨」のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケの第一の手紙4章を覚えるのではないでしょうか。366頁になります。テサロニケの第一の手紙4章13節から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らもいろんなことで悩んだり、どうして、なぜ?と考えた人々がいます。答えとしてパウロは書いたのです。13節から
眠った(すでに死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・13〜18)
この箇所に三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになる、ということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえる、ということです。三番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに雲の中で主イエス様に会う、ということです。
イエス様はお出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければあとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことをもちろん知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちはイエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できない、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは考えられないことでしょう。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。マタイ伝17章1節に、三人の弟子は主の栄光を見たのである、とありますね。17章1節、2節。
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
この山の上におけるイエス様の変容は来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。イエス様は昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。使徒行伝の1章11節
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
とあります。イエス様が再び来られます。この日は主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように、現われます。けれども、「再臨」の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ。』と言っているなのか、あるいは本当にイエス様に、恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。 次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。マタイ伝25章22節23節ですね。48頁。
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝7章。全く逆のことが書いています。マタイ伝7章の21節から23節まで、お読み致します。
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイ伝25章に出てくる五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ、形式、外部の容れ物を持っていますが、彼女たちは油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、形だけだったのです。しかし思慮深いおとめたちは油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形もふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはおまえたちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。
(昨日の家庭集会のベック兄のメッセージの聞き書きである。冒頭でベック兄は今日のメッセージの題名は「主の再臨と私たち」と言われ、他の題名としては「用意ができているの?」「備えあれば憂いなし」「愚かか賢いかのどちらか」が考えられると言われた。ここでは敢えて三番目の題を採用させていただいた。)
今お読みいただいた最後の13節「目を覚ましていなさい」、これこそが単なる提案ではなく、命令です。そして、われわれが覚えるべきは「もうちょっとで、イエス様が来られる」なのではないでしょうか。
ヘブル書の著者は書いたのです。ヘブル書9章28節
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
とあります。また10章37節
もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
とあります。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」と、ルカ伝の中でも言っています。イエス様を知るようになった人々は確かに輝くすばらしい将来を持っています。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、彼らは知って確信しているからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。
今の世を見てもはっきり言えることとは、今の世界の歴史の夜の時と言えるのでないでしょうか。真っ暗な夜の時に向かって歩いています。 毎日のニュースを聞くと、今の世界を見ると、良くなる可能性はないと、誰でも認めざるを得ません。けれども、次の世界の大きな出来事は「再臨」です。すなわちイエス様の日です。すなわちイエス様は雲に乗って再びお出でになり、主の恵みによって救われた人々を再びご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日のできごとです。聖書は将来のこの偉大な出来事について多くのことを言っています。いわゆる「空中再臨」のことを考えると、恐らく誰でもテサロニケの第一の手紙4章を覚えるのではないでしょうか。366頁になります。テサロニケの第一の手紙4章13節から。パウロはどうしてテサロニケの兄弟姉妹にこの箇所を書いたか。必要だったからです。彼らもいろんなことで悩んだり、どうして、なぜ?と考えた人々がいます。答えとしてパウロは書いたのです。13節から
眠った(すでに死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4・13〜18)
この箇所に三つの事実が明らかにされていますね。第一番目、イエス様ご自身が天から再びお出でになる、ということです。二番目、イエス様にあって死んだ人々のからだがよみがえる、ということです。三番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人一人が変えられ、よみがえった主のものになった人々とともに雲の中で主イエス様に会う、ということです。
イエス様はお出になります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければあとで後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことをもちろん知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。すなわち第一番目、イエス様が信ずる者の前に姿を現される日です。二番目、イエス様に属する者がイエス様の前に姿を現わす日です。私たちはイエス様のまことの姿を見るのです。それは想像できない、すばらしい瞬間です。イエス様のまことの姿を見るということは考えられないことでしょう。目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様はわれわれの目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立たれるのです。マタイ伝17章1節に、三人の弟子は主の栄光を見たのである、とありますね。17章1節、2節。
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
この山の上におけるイエス様の変容は来たるべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感に過ぎません。イエス様は昇天なさったとき、弟子たちはすばらしい約束を聞くようになりました。使徒行伝の1章11節
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
とあります。イエス様が再び来られます。この日は主が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。イエス様はあのとき、信者たちの目の前で消えたと同じように、現われます。けれども、「再臨」の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではなく、今話したように、二番目、イエス様の前に信ずる者が現われる日でもあります。その日には本当に信じていた人々、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。ただ口で『主よ、主よ。』と言っているなのか、あるいは本当にイエス様に、恵みによって救われ、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。 次の二ヵ所を読むと分かります。両方とも厳しい箇所です。マタイ伝25章22節23節ですね。48頁。
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
本当にすばらしい褒め言葉なのでないでしょうか。今度はね、マタイ伝7章。全く逆のことが書いています。マタイ伝7章の21節から23節まで、お読み致します。
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイ伝25章に出てくる五人の愚かなおとめと五人の思慮深いおとめの二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。この愚かなおとめたちはランプ、形式、外部の容れ物を持っていますが、彼女たちは油と中味と真のいのちを持っていなかったのです。すなわち、彼女たちはみことばを聞き、祈り、聖書も読みますけど、形だけだったのです。しかし思慮深いおとめたちは油、すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形もふくめて持っていました。その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはおまえたちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。
(昨日の家庭集会のベック兄のメッセージの聞き書きである。冒頭でベック兄は今日のメッセージの題名は「主の再臨と私たち」と言われ、他の題名としては「用意ができているの?」「備えあれば憂いなし」「愚かか賢いかのどちらか」が考えられると言われた。ここでは敢えて三番目の題を採用させていただいた。)
2013年11月19日火曜日
高き所へ向かって(完)
| ユングフラウを仰ぎ見て 2010.10.8 |
恐(おそれ)は思わず身ぶるいしました。どちらにしてもぞっとしてしまいます。恐怖こそ彼女がよく知っているものですし、悲しみと苦しみこそは、彼女が最も恐れる体験なのです。どうしてそんな彼女たちと共に行けましょう。ふたりに振り回されてめちゃめちゃにされてしまってよいものでしょうか。彼女は羊飼いを見上げました。すると、彼を疑ったり彼に従って行くのをやめることなど、どうしてもできないと、急に思えてきました。ほかのだれをも愛せなくても、彼を愛していることは、みじめにふるえる小さな胸の中で、よくわかっていました。彼がどんな無理難題を言っても彼女は拒むことはできないでしょう。
一瞬つらそうに彼を見てから言いました。「帰りたいかですって? 羊飼い様、どこへですか? 私にはこの広い世界にあなたしかいないのです。どんなにたいへんでも、どうか私がお従いできるよう助けてください。あなたをお慕いすると同時に、本当に信頼することもできるよう、どうぞ助けてください。」
羊飼いは、このことばを聞くや顔を上げ、勝ち誇ったように喜びの笑い声を高く上げました。それはこの小さな谷にこだまして、山全体が彼といっしょに笑っているように聞こえました。こだまは岩から岩へとはね返り、どんどん高く上がって行き、頂上へ届いたかと思うと、最後には細いかすかな響きとなって天国へと吸い込まれていくようでした。
こだまがすっかり消えると、彼の声が優しく聞こえてきました。「愛する者よ、おまえのすべては美しく、おまえは何の汚れもない」(雅歌4章7節)。そしてつけ加えて言いました。「恐(おそれ)よ、恐れることはない。ただ信じなさい。決して辱められることはないと約束しよう。悲(かなしみ )と苦(くるしみ)と共に行きなさい。今彼女たちを喜んで受け入れることができなくても、この先、ひとりではどうすることもできない困難に出会った時には、信じて彼女たちの手に任せなさい。そうすれば、私が望む方向へまちがいなく連れて行ってくれるだろう。」
恐(おそれ)はじっと立ちつくして、勝利と喜びに輝く羊飼いの顔を見上げていました。それは、救うことと、解放することに最上の喜びを見出す人の表情でした。ふと彼女の心に、羊飼いの弟子が書いたある賛美歌のことばが浮かび、小声で口づさんでみました。
憂き悩みも 何かは
主を愛するわが身に
ほむべき主よ 愛させたまえ
なれをば なれをば(※)
私の前にもこうして行った人たちがいるのねぇ。そして彼らは、あとになってそのことを歌うことさえできるようになったんだわ。私は弱く臆病だけれ ど、だからといってあの方が私には真実をつくしてくださらないなんてことはないと思うわ。あの方はとても強く、しかもお優しいのだから。それにあの方の最上の喜びは、従う者をすべての恐れから解放して、ついには高き所へ連れて行くことなのだもの。」恐(おそれ)はそう考えました。そして、それならこのふたりの案内人と早く出発しよう、それだけ早く栄光の高き所へ着けるのだと思いました。
彼女はベールのふたりを見つめ、今までになかった勇気にあふれて一歩前に進み出ました。「あなたがたとまいります。どうか道案内をお願いします。」それでもまだ、手を差しのべて握手するまでにはいきませんでした。
羊飼いは再び笑い声を上げてから、高らかに言いました。「私の平安をおまえに残していく。私の喜びがおまえに宿るように。私は必ず山頂の高き所へおまえを連れて行くこと、そして、決しておまえが辱められるようなことはないと固く誓ったことを覚えておきなさい。さあ、私は『そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに・・・・山々の上のかもしかや、若い鹿のように』なろう(雅歌2章17節)。」
そう言ったかと思うと、もう彼は道のわきの大きな岩の上に飛び移っていました。そこから次々に岩を駆け上がり、見る見る高みへ移り行き、あっという間に彼女たちの視界から消えていました。
彼の姿が全く見えなくなった時、恐(おそれ)とふたりのお伴は麓の道を登り始めました。足を引きずるようにして高き所目指して歩き出した恐(おそれ)は、ベールをかぶったふたりの差し出す手など見えないふりをして、できるだけ離れて歩いています。もしだれかが見たら、なんとも奇妙な光景だったにちがいありません。けれども、だれも見ている者はありませんでした。というのは、雌鹿の足を得るための過程は極秘であり、決して傍観者があってはならなかったからです。
(『恐れのない国へ』63〜66頁より引用。※この歌詞は聖歌263番「いのりまつる」の三番目の歌詞であります。作者や曲については下記サイトをご覧になるとよくわかります。http://www.cyberhymnal.org/htm/m/o/morelove.htm 以上5回にわたって同著から一部の作品である「4、高き所」を紹介しましたが、ここには全部で「高き所」を始めとする20の寓話が納められてあり、続編の『香り高き山々の秘密』にはさらに18篇があります。全篇を読み終える時に、恐(おそれ)の名前がいかにして栄恵(さかえ)と変えられるか、一方新しくされた栄恵(さかえ)の祈りを通して故郷屈辱谷に住む一人一人もまたいかにして主の救いにあずかるものと変えられるか、私たちひとりひとりに潜む罪の性質を明らかにしつつ、主の御名に頼ることのすばらしさを高らかにほめあげんとする著者の意図が伝わってきます。まさしくこの本は現代版『天路歴程』と言っていい作品でありましょう。)
2013年11月18日月曜日
高き所へ向かって(4)
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| 『恐れのない国へ』挿絵より写し |
「もちろんだよ。おまえの心の中で愛の花が開くばかりになったら、愛されて新しい名前も与えられる。」
恐(おそれ)は橋の上で立ち止まり、歩いて来た道を振り返ってみました。濃い緑の谷間はいかにも平和そうに見えましたが、それに比べ、眼前の山々は巨大な土塁のごとく、挑むように立ちはだかっています。遠くの震撼村を囲む木立を見つめていると胸がきゅっとして、羊飼いのしもべたちが楽しげに働く姿や、牧場に散らばる羊の群れ、住みなれた白い小さな家などが思い出されます。
そんなことを思い浮かべていると涙がにじみ、心の中ではあのとげがチクリと感じられるのでした。でも、すぐに彼女は羊飼いのほうに向き直り、心から言いました。「私はあなたを信頼して、あなたのおっしゃる通りいたします。」
見上げると、彼はこの上なく優しいほほえみをたたえながら、初めてこう言いました。「恐(おそれ)、おまえにはひとつの本当に美しいものがある。信頼の目だ。この世で最も美しいもののひとつが信頼だ。どんなに多くの美しい女王たちと比べても、おまえの目にある信頼のほうがずっと美しいと私は思う。」
まもなく橋を渡りきり、山の麓のゆるやかな勾配を行く道に出ました。大きな石がごろごろしています。恐(おそれ) は、道のわきの石に、ベールをかぶったふたりの女性が腰かけているのに気づきました。羊飼いと恐(おそれ)がやって来るのを見ると、ふたりは立ち上がって、彼に向かい黙って頭を下げました。
羊飼いは、穏やかな調子で言いました。「おまえに話しておいた案内役だよ。今から、急で険しい困難な所を通り抜けるまでずっと、このふたりがおまえのお伴であり助け手となる。」
恐(おそれ)は不安な気持ちでふたりを見やりました。確かにふたりとも背が高く丈夫そうでしたが、なぜベールをかぶっているのでしょう。なぜ顔を隠しているのでしょうか。見れば見るほど不安になりました。ふたりは無言で、しかも強そうで、神秘的でした。なぜ何も言わないのでしょう。なぜ彼女にあいさつのひとこともしてくれないのでしょうか。
彼女は羊飼いに、小声で聞いてみました。 「おふたりは何ておっしゃるんですか? お名前を教えてください。なぜ私に声をかけてくださらないんですか? しゃべれないんですか?」
「もちろんしゃべれるよ。彼女たちは、おまえがまだ知らないことばで話すのだ。この山の方言とでも言おうか。でもいっしょに旅するうちに、少しずつ彼女たちの言うことがわかってくるだろう。ふたりは実に良い教師だ。彼女たちにまさる者はちょっといない。ふたりの名前だが、おまえのわかることばで教えよう。あとになれば、彼らのことばで何というのかわかるだろう。」彼は無言のふたりをそれぞれ指して、「こちらが悲(かなしみ)という。そしてあちらは双子の妹で苦(くるしみ)という。」
ひどい! 恐(おそれ)のほおは青ざめ、からだ中がふるえ出しました。気を失わんばかりにふらふらしてしまい、羊飼いに寄りかかりました。そして苦しそうに言いました。
「彼女たちとは行けません! いやです、いやです! ああ私の主、羊飼い様、どうしてこんなことをなさるのですか? どうしてあの人たちとなどいっしょに旅ができましょう? 耐えられません。山道は険しく困難で、私ひとりでは登れないとおっしゃったではありませんか。それなのに。それなのになぜ悲(かなしみ)と苦(くるしみ)などを私のつき添いになさるのですか? 喜(よろこび)と平安を私といっしょに行かせることはできないのですか? そうすれば困難な道を行く時、私を強め励まし、助けとなってくれるではありませんか。ああ、あなたがこんなことを私になさるなんて!」彼女はどっと泣きくずれました。
(『恐れのない国へ』60〜62頁より引用。聖書にはイエス様の有名な次のおことばがあります。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13・7)
2013年11月17日日曜日
高き所へ向かって(3)
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| 秋菊 談笑する 声聞こゆ |
翼持つわたしたち
空を行くわたしたち
わたしたちの喜び
愛するということ
愛せるということ
「知らなかった・・・・この谷間がこんなに美しい所だったなんて。こんなに歌声があふれているなんて・・・・。」恐(おそれ)は感動していました。
羊飼いは朗らかに笑ってからこう言いました。「愛だけが、すべての造られた物のうちに植えつけられている音楽や美や喜びを本当の意味で理解することができるのだよ。二日前、おまえの心の中に愛の種を植えつけたね。おまえが前には気づかなかったことが聞こえたり見えたりし始めているのは、そのせいだ。
愛がおまえの中で育っていくにつれて、前には思ってもみなかったようなことを理解するようになる。未知のことばがわかるようになり、愛の特別のことばも話せるようになる。しかしその前にまず、愛の基本レッスンを学び、雌鹿の足を持つようにならなければならない。高き所への旅でその両方とも学ぶことになる。さあ、川へやって来た。向こう岸は山々へ続くすそ野だよ。そこではふたりのお伴がおまえを待っている。」
こんなに早く川まで来てしまって、もう山々に近づいているのが、恐(おそれ)には不思議でもあり、感激でもありました。羊飼いの手に支えられ、その力に助けられ、彼女は疲れも弱さも感じずにやって来ました。ここからも、ほかの人と行かせずに彼自身がずっとつき添ってくれればよいのですが。
彼女はそう思うと言ってみました。「これからもあなたが連れて行ってくださるわけにはいかないのですか? あなたがいっしょにいてくだされば私は力強いし、あなたこそが私を高き所へお連れくださる唯一の方ですもの。」
彼はこの上もない思いやりをもって彼女を見ながら、静かに答えました。「恐(おそれ)、私は何でもおまえの望むようにしてあげることができる。高き所までずっとおまえを抱きかかえて行くこともできる。しかしもしそうするなら、おまえは決して雌鹿の足を持つことはできないし、私の友となって共に歩み行くこともできない。たとえ長い困難な旅でも、おまえのために選んでおいた案内役といっしょに登って行くなら、必ず雌鹿の足を持つことができるのだよ。本当だ。
そして私といっしょに山々を駆けめぐることができるようになる。登ったり降りたりを瞬間にしてやってのけるようになる。それに、もし今おまえを抱きかかえて高き所まで連れて行っても、おまえの心の中の愛の種は小さ過ぎて、愛の王国に住むことはできないだろう。王国の外の低い所にしかいられないだろう。しかもそこはまだ敵の手の届く所だ。
彼らの中には、山のそうした低い所までやって来る者もいる。おまえがこれから登って行く時、彼らに出会うだろう。だからこそ私はおまえのために、力強い最高の案内人を厳選したのだよ。でもよく覚えておきなさい。たとえ私の姿が見えない時にも、私はおまえのそばを片時も離れないし、助けを求めて叫べば、私はすぐに来る。目には見えないけれど、常におまえと共にいるのだよ。今出発しようとしているこの旅を通して、おまえは必ず雌鹿の足を持つようになる。これは私の、真実な約束だ。」
(『恐れのない国へ』56〜60頁より引用。聖書には次のような約束がある。「わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」エゼキエル34・13〜15)
2013年11月16日土曜日
高き所へ向かって(2)
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| 『恐れのない国へ』挿絵写し |
すべりやすい石の所では、羊飼いが彼女をかかえてくれました。恐(おそれ)は言いました。
「流れる水が、いったい何を歌っているのかわかったらなあと思います。静かな夜、床についてから、庭の裏を流れる小川のせせらぎに耳を傾けることがあるんです。なんだかとても楽しそうな情熱的な音色で、素敵な意味を秘めているように聞こえます。水の流れる音というのは、大きくはっきりしていても、小さく低くても、いつでも同じ歌を歌っているような気がします。流れはいったい何を語っているんでしょう。海や海水の立てる音とは違うんです。でもやっぱりわからない。私たちには理解できないことばなんですね。羊飼い様、あなたにはおわかりなんでしょう、水が勢いよく流れて行く時、いったい何を歌っているのか。」
羊飼いはにっこりほほえみました。ふたりがその勢いよく流れる小川のふちにたたずむと、一段と大きな力強い水音になりました。まるでふたりが話を中断して耳を澄ませるのを待っていたかのようです。恐(おそれ)は羊飼いのそばに立っていると、耳と理解力が急に敏感に働き出すように感じました。そして少しずつ、水のことばがわかるような気がしてきました。水のことばで書き表すことなどもちろん無理ですが、できるかぎり、ここに訳してみました。でも、なかなかうまくいきません。水の歌を音符で表すことならできるかもしれませんが、ことばというものは全く性質の異なるものですから。
水の歌
行こうよ行こう 低きへ行こう
毎日いっそう 低きへ行こう
最も低きへ きそって行こう
きそって行くのは 何たる喜び
われらが慕うのは 楽しきおきて
低きへ下るは われらの幸い
心はせき立つ 心は躍る
まだまだ低きへ 下って行こう
招きの呼び声 夜昼聞こえる
われらを呼んでる 行こうと呼んでる
駆け降り行こう 流れて行こう
高きを降りて 谷間へ下ろう
呼び声聞こえる お応えしよう
最も低きへ 下って行こう
心はせき立つ 心は痛む
もいちど高きへ 登り行くために
恐(おそれ)は、しばらくの間じっと耳を傾けて聞き入りました。さまざまな違った音色を混じえて、このように繰り返し歌われているようでしたが、恐(おそれ)には不可解でした。「何だかわからないわ。『まだまだ低きへ下って行こう』なんて、水は楽しげに歌っているようですけれど、あなたは私を最も高き所へ連れて行こうとなさっています。どういうことですか?」
「高き所は、この世の最も低い所への旅の出発点なのだよ。雌鹿の足で山々を駆け回り丘を飛び歩くことができるようになれば、私のように喜んでみずからを捨てて、高い所から下って行くことができるようになる。そして再び高い山々へ登れるわけだ。鷲よりも素早く登って行ける。自分を全く捨て去る力は、愛の高嶺にだけ存在するのだから。」
このことは神秘過ぎて、よくわかりませんでしたが、とにかく彼女の耳は敏感になっていて、小道を横切って流れるせせらぎが、繰り返し歌うのをすっかり聞きとることができました。野の花々もまた同じように歌っているようです。色彩のことばで歌っているのですが、やはり水のことばのように、知的にではなく心で理解されるのでした。幾千ものさまざまな違った音符が重なり合っていて、それがひとつのコーラスをなしているようでした。
与え 与え 与えること
何と甘美なことでしょう
これがわたしたちの人生です
(『恐れのない国へ』52〜57頁より引用。今朝、旧約聖書のエゼキエル書33章34章、新約聖書ヘブル書13章を読んでいて共通することが書いてあることに気づいた。それは私たちの見張り人である羊飼いと私たちとの関係についてである。その聖書は次のように語っている。「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ。――」エゼキエル34・31。「恐」がどのようにして高きところへ向かうのか、その出発点の描写を明日も続けたい。)
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