『恐れのない国へ』挿絵写し |
すべりやすい石の所では、羊飼いが彼女をかかえてくれました。恐(おそれ)は言いました。
「流れる水が、いったい何を歌っているのかわかったらなあと思います。静かな夜、床についてから、庭の裏を流れる小川のせせらぎに耳を傾けることがあるんです。なんだかとても楽しそうな情熱的な音色で、素敵な意味を秘めているように聞こえます。水の流れる音というのは、大きくはっきりしていても、小さく低くても、いつでも同じ歌を歌っているような気がします。流れはいったい何を語っているんでしょう。海や海水の立てる音とは違うんです。でもやっぱりわからない。私たちには理解できないことばなんですね。羊飼い様、あなたにはおわかりなんでしょう、水が勢いよく流れて行く時、いったい何を歌っているのか。」
羊飼いはにっこりほほえみました。ふたりがその勢いよく流れる小川のふちにたたずむと、一段と大きな力強い水音になりました。まるでふたりが話を中断して耳を澄ませるのを待っていたかのようです。恐(おそれ)は羊飼いのそばに立っていると、耳と理解力が急に敏感に働き出すように感じました。そして少しずつ、水のことばがわかるような気がしてきました。水のことばで書き表すことなどもちろん無理ですが、できるかぎり、ここに訳してみました。でも、なかなかうまくいきません。水の歌を音符で表すことならできるかもしれませんが、ことばというものは全く性質の異なるものですから。
水の歌
行こうよ行こう 低きへ行こう
毎日いっそう 低きへ行こう
最も低きへ きそって行こう
きそって行くのは 何たる喜び
われらが慕うのは 楽しきおきて
低きへ下るは われらの幸い
心はせき立つ 心は躍る
まだまだ低きへ 下って行こう
招きの呼び声 夜昼聞こえる
われらを呼んでる 行こうと呼んでる
駆け降り行こう 流れて行こう
高きを降りて 谷間へ下ろう
呼び声聞こえる お応えしよう
最も低きへ 下って行こう
心はせき立つ 心は痛む
もいちど高きへ 登り行くために
恐(おそれ)は、しばらくの間じっと耳を傾けて聞き入りました。さまざまな違った音色を混じえて、このように繰り返し歌われているようでしたが、恐(おそれ)には不可解でした。「何だかわからないわ。『まだまだ低きへ下って行こう』なんて、水は楽しげに歌っているようですけれど、あなたは私を最も高き所へ連れて行こうとなさっています。どういうことですか?」
「高き所は、この世の最も低い所への旅の出発点なのだよ。雌鹿の足で山々を駆け回り丘を飛び歩くことができるようになれば、私のように喜んでみずからを捨てて、高い所から下って行くことができるようになる。そして再び高い山々へ登れるわけだ。鷲よりも素早く登って行ける。自分を全く捨て去る力は、愛の高嶺にだけ存在するのだから。」
このことは神秘過ぎて、よくわかりませんでしたが、とにかく彼女の耳は敏感になっていて、小道を横切って流れるせせらぎが、繰り返し歌うのをすっかり聞きとることができました。野の花々もまた同じように歌っているようです。色彩のことばで歌っているのですが、やはり水のことばのように、知的にではなく心で理解されるのでした。幾千ものさまざまな違った音符が重なり合っていて、それがひとつのコーラスをなしているようでした。
与え 与え 与えること
何と甘美なことでしょう
これがわたしたちの人生です
(『恐れのない国へ』52〜57頁より引用。今朝、旧約聖書のエゼキエル書33章34章、新約聖書ヘブル書13章を読んでいて共通することが書いてあることに気づいた。それは私たちの見張り人である羊飼いと私たちとの関係についてである。その聖書は次のように語っている。「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ。――」エゼキエル34・31。「恐」がどのようにして高きところへ向かうのか、その出発点の描写を明日も続けたい。)
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