吾亦紅(ワレモコウ) 高峰高原 2009.8.3 |
羊飼いは、腰をかがめて優しく花にさわり恐(おそれ)に言いました。「自分を低くしなさい。そうすれば、足の下には愛の花の敷物が広げられているのがわかるだろう。」
恐(おそれ)は真剣なまなざしで言いました。「野の花のことでよく不思議に思うことがあるんです。地上のほとんどの花は人に見られることもなく、やぎや牛に踏まれてだめになってしまうだけだというのに、ちゃんと咲いています。どんなにかわいらしく、美しくても、それを与える相手もいないし、それを鑑賞してくれる人さえいません。」
その時羊飼いは、とても美しい表情を見せて静かにこう語りました。「私の父と私の造った物は、何でも決してむだになることはないのだよ。小さな野の花もすばらしいことを教えてくれる。見てくれる人、ほめてくれる人がいなくても、優しく、一心に、喜んで自分自身を差し出している。たとえ愛してもらえなくても、愛することは本当に幸せだと謳歌しているのだよ。
恐(おそれ)、多くの人々には理解されない偉大な真理を教えよう。人間の魂の最も美しい面や、すばらしい霊的勝利や成果の数々というものは、だれにも気づかれず、はっきりとは認められないものなのだよ。真の愛に対する心の応答と、自己愛の克服のひとつひとつが、愛の木に新しい花をつけるのだ。
世間には知られない静かで平凡な、隠れたような人生が、実は愛の花とその実の完成する本当の庭なのだよ。その庭は、愛の王ご自身が歩まれ、その友と喜び合う歓喜の場だ。目に見えるはっきりとした勝利を得、多くの人に愛され尊敬された私のしもべが何人かいるが、彼らの最高の勝利というものは、実はいつも野の花のように人に知られないものだった。恐、今、この谷にいる間にこのことを学びなさい。山の険しい所へ行った時にはきっと慰めになるだろうからね。
ほら、鳥がうれしそうに歌っている。私たちもいっしょに歌おう。花々を見ていると心に浮かぶ歌があるね。」
ふたりは、羊飼いの本にある古い歌を歌いながら、川に向かって谷を降りて行きました。
われはシャロンのばら
野のアネモネ
いばらの中にゆりのあるごとく
わが愛する者は われにあり
雑木林にりんごの木あり
わが愛する者は近くあり
われその陰に座す
その実は わが喜びなり
われを宮へ携え行き
宴の間に入れたまえり
大いなること分かたんため
最も小さきわれと
われを助け慰めたまえ
われ 恥により痛みわずらう
彼のともにはふさわしからず
その名を受けるにふさわしからず
娘らよ われは請う
木々の間のかもしかよ
ことさら起こすなかれ
わが愛する眠れる者を
愛のおのずから起こる時までは (雅歌2・1〜5、7)
(『恐れのない国へ』ハンナ・ハーナード著津久井正美訳いのちのことば社1988年刊行49〜52頁より引用。この文章は恐という名を持つ少女が、どのようにして親族の恐怖家を逃れ、羊飼いとともに屈辱谷から「全き愛は恐れを締め出す」1ヨハネ4・18高き所へ旅したかを物語る全文244頁よりなる寓意物語の抜粋です。著者ハーナードは最晩年その信仰は変節したようであります※。それがどのような理由によるのか私にはわかりませんし、残念に思いますが、この本ともう一冊の『香り高き山々の秘密』は良書だと思います。※Despite this awesome witness, later in her life Hannah showed the ever-lurking danger of trusting inner voices. She veered away from sound doctrine, embracing universalism (denying God's wrath), pantheism (God is everything) reincarnation and many new age ideas.http://www.christianity.com/church/church-history/timeline/1901-2000/miserable-hannah-r-hurnard-was-converted-11630738.html)
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