2013年11月9日土曜日

「赦罪」のことばに、我感謝す!

琵琶湖  2013.11.3
下記の文章はパゼット・ウィルクスの『贖罪の動力』第6章「血による赦罪」からの引用である。同書はほぼ百年前に出版され、大江邦治氏によって訳されたものである。同氏は詩篇32篇の以下のみことばを引用し、英明かつ信仰深きダビデが犯した殺人と姦淫の罪にも関わらず主なる神様から自らが経験した三つの赦し、すなわちそむきの罪の赦し、罪が覆われていることから来る赦し、そして最後に自らの罪が完全に主なる神様から忘れられていることを歌っていると指摘して次のように述べている(http://sacellum-chimistae.org/)。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1〜2)

赦罪! 実に幸いなる優しき語よ! 我ら急いで、頭を垂れ、信じ、驚き、礼拝しよう。しかして我らの愛のないこと、聖からぬこと、キリストに似ないこと、 すべてみな神に告げ、みな御耳に聞こえ上げ、いまひとたび主の最も貴き御血を敢えて信ぜよ。しかしてかく信ずるにあたり、我らの心中に何らの恐れも疑いもなからしめよ。断乎、極端まで信ずることを決心せよ。しかして言い難き喜びをもって喜ぶまで信じ続けよ。ただ、あなたの罪の告白が充分に、自由に、正直に、赤裸々にて、何ら自ら義とする精神なきものなることを確かにせよ。

     われは迷い出で道を失いぬ
     負い目は積もりて払うよしなく
     罪は言い解くすべもなし
     ただこのままを主に告げまつる

   かくて、我らは詩篇作者と共に『その愆をゆるされその罪をおほはれしものは福ひなり不義をヱホバに負せられざるものはさいはひなり』と言うであろう。しかして我らはこれに付け加えて言おう。何らの赦罪も要せぬと想像する者、赦罪なる語をただ徒な無意味な語と想像する者はわざわいなるかな。しかり、三度も重ねて言おう、わざわいなるかなと。かかる人はまだ人生の最上の喜びを決して経験せぬ。もしかかる人が平和を保つとするならば、それは赦罪の真の平和、すなわちインマヌエルの御血管より流れる御血を信仰をもって見上げる時に確信せしめられる、赦罪の事実より来る真の平和でなく、罪が忘れられ、無視せられたと想像する虚偽の平和のほかでない。

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