ヘブンリーブルー |
拙宅に一番近い線路際の住宅寄りの道路にも、もう何年か前からか、家内がほぼ全長2、30メートルになろうとする線路沿いのフェンスを利用して朝顔の種を蒔いては育てて楽しんできた。水やりが中々大変で、夏の暑い時期に雨が降らない時など、遠出しようものなら、そのことを一番気にして外出するのは彼女だ。たくさんの住民の方がいるが、家内一人でせっせと水やりに勤しんでは、開花を楽しんでいる。私も一度くらいは水やりを手伝ったりするが、今年は全然手伝わなかった記憶がある。天候不順な今年はいつの間にか夏が過ぎ去り、秋になっていたからである。
そんな後ろめたさもあり、「種を集めるのを手伝って」と言われたので、今日はめずらしく一緒に精を出した。フェンス10スパンほどには朝顔の蔦が絡まっており、まだまだ現役の朝顔もいるなかで、枯れ枝になってしまった朝顔の実をもぎとっては種を取り出す作業だ。実には決まって種が4個だろうか、しっかり詰まっている。もぎとりながら、こうしてしっかり子孫を残し、枯れていくのだと感心する。
おびただしい種を取っていると、通りすがりの方が「私も取っていいですか」と寄って来られる。「どうぞ、どうぞ」とお勧めする。犬の散歩でいつも通る人たちも、全く見ず知らずの方だが、「きれいでしたね」とていねいに挨拶しながら通りすがりに声をかけて下さる。種を取り、絡まっている蔦をはがし、根っこを抜き、きれいに元通りにするのには、小二時間ほど、二人してかかった。久しぶりの野良仕事(?)である。たくさんの方々が行き来されるが、すべて皆さん「朝顔の存在」に感謝しておられることが何となく伝わってきて嬉しい。
大した土いじりではないが、花の持つ縁がこうして普段行き来のないお互い同士を結びつけてくれる。表題のことばはやはり普段は話すことのない男性が自転車で通りすがりにかけてくださったことばだ。「年々歳々花相似て、年々歳々人同じからず」とは学校教育の現場で陽春を迎えるたびに感じたことだが、朝顔が種を残して消えて行く、その「挽歌」を聞く思いがしてちょっぴり寂しかった。すっかり作業を終えて家に入るともうあたりはすっかり暗くなっていた。思わず何時だと時計を覗くと正五時だった。「秋の日は釣瓶(つるべ)落としの如し」とは、若い世代には馴染みのない常套句が浮かぶ。
それでも手にはしっかりと子孫を残した証である黒い特徴ある朝顔の種がたくさん残されて充実感を覚えた。そう言えば、昨晩、パゼット・ウィルクス氏のほぼ100年前の『信仰の秘訣』という本を国会図書館の近代デジタルライブラリーから引き出したが、その中に次のような文章があったのを思い出した。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906908
由来種子には生命があり、この生命が種子の中に驚くべき潜勢力として静かに伏在しておる。土と種子とはその本質において同一の元素であって互いに適合しているゆえ、種子が土の中に埋められ時にその中にある潜勢力たる生命が動揺し始め、鼓動し活動する。信仰もあたかもその如く、一度聖霊によりて霊魂の中に植えつけられれば直ちに活動し始め、鼓動し出し、奇しき力を表わして静かに働く。かくしてわれらの一切の願い、愛情、感情、思想、想像など、今まで自己中心のために神に対して無感覚となり、死にし如き睡眠状態にありしものが、それより覚醒し、あわれむべき罪深き人類に対する神の愛の光線の中に萌芽発育するのである。
文章の表題は「信仰は種子なり」と題して以下のみことばが引用されていた。
「からし種ほどの信仰」(マタイ17・20)
駄作一句 「朝顔の 黒き種子に 宿りたる 潜勢力 イエスのいのち」
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