2022年1月7日金曜日

天から、愛の声

 そして、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1・11)

 これだ。私はイエスのみでなく、これが神の造りたもうた本来の人間だと思う。罪を知らず、汚れもなく、清浄無垢(せいじょうむく)の人間は何は無くともこの特権だけは持っているのである。神と人とは近い。

 現在の世界はいかに物質文明が発達しても、霊的には全く不自然な世界に堕落している。私たちを生み、私たちを造りたもうた、父の姿も見えず、声も聞こえない。そんな馬鹿なはずはないのである。もしアダム以来今日に至るまで、何人も罪を犯さず、神を離れなかったならば、今日の私たちは文字どおりこの時のイエスのご経験のように、天よりの声を聞き、天の父の愛撫の手を感じ得るに違いない。

 キリストに救われた私たちでさえ真剣に考えて信じ進む時には、誠にボンヤリとではあるけれども、天よりの声を聞き、父の愛撫の御手の暖かさを感じ得る時(※)があるではないか。

祈祷

父よ、私はあなたに帰ります。豚の豆がらを棄てて今あなたのもとに帰ります。願わくは先に失った私の特権を私に返し、私をして再びあなたの声を聞く耳を与え、あなたの愛撫を感ずる触覚を与えて下さい。アーメン

(※申命記1章に「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」(34節)とある。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」(イザヤ46・3)ともあるように、主なる神様が御子イエスさまだけでなく、神の子とせられた私たちをも愛していてくださる暖かさに目覚めさせられたいと思わされた。昨日の朝はこの冬一番の寒さを感じる、と思っていたら、昼前から雪が舞い降りて来て、積雪となった。一週間ほど前にふるさとの大雪の報に接したばかりであった。空曇り、曇天の中、上から雪が舞い降りてきたふるさとには冷たさだけでなく、暖かさも覚えたものだ。それは少年の心が普段は汚れに毒されている世界が一夜にして白銀の世界と化した世界を見る喜び、雪合戦ができる楽しさで心が満たされていたせいだろうか。)

2022年1月6日木曜日

天が裂けて

日輪の 川面照らして 空蒼く ※
そして、水の中から上られると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。(マルコ1・10)

 これこそ実に偉大なる体験である。現代人にはそのまま受け取れまい。イエスの錯覚ぐらいにしか考えられまい。しかし神の子の姿をそのままに保持する人の子、堕落以前のアダム、理想の霊魂を持つ人間にとってはこれくらいの体験がなくてはならない。

 自分の頭上の天は一直線に神の御座まで通ずる、そして、神の御霊は一直線に自分の頭上に降ってくる。この聖なる交通を妨げるものはことごとく『 裂け』るのである。一点の雲さえこれを遮(さえぎ)ることを許さない。紺青の大空さえ裂かれなければならない。

 物質的障害はことごとく溶け去って端的に天の父がその御手を御子イエスの頭において祝福なさるのである。紙一枚の隔ても許さない神人の抱擁、これがやがて私たちにも与えてくださるイエスの賜物である。

祈祷

天の父よ、私たちはこの肉とこの物質との中に閉じ込められ、押しつけられて、あなたとあなたの世界よりあまりに遠く離れているのを悲しみます。願わくは私の頭上の天が裂け、あなたの霊が私の上に降りてきて下さいますように。 アーメン

(※青木氏は天が裂ける意味を強調され、「紺青の大空さえ裂かれなければならない」と述べられた。一昨日老聖徒からお電話をいただいた。「新約聖書は夜空の星々から始まり、終わりは明けの明星で終わる。いや明けの明星で終わりでない、義の太陽が上りイエス様がすべてとなられるのだ」と。お聞きしながらこの方の骨太の信仰に触れた幸いなひとときであった。同氏との過去のふれあいはhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/12/blog-post_26.htmlに示したことがある。)

2022年1月5日水曜日

イエスさまのヘリくだり

鴨一羽 古利根川に へりくだる 主バプテスマ ヨルダン川に※ 
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。(マルコ1・9)

 イエス自ら罪を感じられたことはない。それでは、何ゆえにバプテスマをお受けになったか。

 一つには明らかにマタイ伝に書いてあるとおり、『このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』(マタイ3・15)とのお考えからである。自分に必要のないことでも一般の(人の)ために善いことは進んで行なう精神である。

 これはいたずらに他を批評して自らを高くする人のなし得ることではない。一般普通の善と称することに対する寛大な心を示している。自分の理想とするところよりも低い他人の善に快く共鳴する同情の心である。

 二つにはイエスが私たち罪人の罪をご自分の罪とまで考えなさったのであろう。不良少年の罪は、これを自分の罪のように考え自分が先ず悔い改めて立派にならねばならぬと思う親心と同じであろうと思われる。

 私が一つの罪を犯せば主イエスは私よりも先に私のために悔い改めのバプテスマを受けずにおられないほどに私と一つになっていて下さるのである。

祈祷

主イエスよ、願わくは私の高ぶりを砕いてください。私をしてどんな人の善にも心からの同感を与え得る謙遜を与えてください。他人の善を私の善のように喜ぶことができる広い心を私に与えてください。

(※古利根川は、今、川べりに数羽の鴨が、たむろしては、水中の魚はじめ餌をあさる姿が見える。写真はその中であえて一羽のみ撮影したが、付近には仲間の鴨がいる。イエスさまはヨルダン川でバプテスマを受けられた。その川べりはどんな状態だったのだろうか。それはともかく、そこにも「へりくだり」の姿が見られるのでないだろうか。)

2022年1月4日火曜日

聖霊のバプテスマの与え主、主イエス

 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1・7〜8)

 水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、この二つは信仰の生活にとって無くてならぬ経験である。一つは悔い改めを意味し、他はキリストの内住を意味する。洗礼が一つの儀式となってしまったらもはやその味を失った塩である。止めたがよい。

 しかし洗礼を受けた者は信仰によって新たにキリストのものとなり、朝に夕にキリストと親しく交わり、キリストのご指導を被(こうむ)り、常にキリストと共に歩むことができるのである。

 もちろん私どもは完全にこのことを意識してはいないけれども、このように信ずることができるのである。その時に聖霊は実に私どもの中に内住し給うことを体験して大きな満足を感ずる。自分以外の大いなる知恵と大いなる力が自分の内に宿っているという自覚は実に私どもを強くする。

祈祷

知恵と力のもとである主よ。あなたはあなたの聖い御霊をもって私の内に住んでくださることを感謝申し上げます。私たちの信仰の足らないところを憐れんでくださり、あなたこそ聖霊によってバプテスマを施(ほどこ)し給うお方であることを深く信じさせてください。アーメン

(上記文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著より引用。青木氏がどんな人物であるかはネット情報以外には詳しくは知らないが、この方の書かれた『詩篇の研究』(昭和34年出版)をたまたま古本で手にし、その文語体の文章に悩まされながらも、行間から立ち上る主を愛される思いが伝わって来た。ましてやマルコ伝という最も章立ての少ない福音書を一日一日コツコツ読み上げて読者に提供されるその姿勢に自分もあやかりたいと思い、ブログでの連載に思い至った。国会図書館にはこの書をふくめて青木氏の著書が多数デジタル化され、ライブラリーに収められている。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/search?keyword=青木澄十郎&searchCode=SIMPLE

2022年1月3日月曜日

バプテスマのヨハネの人となり

 

野にありて 強く逞しく 生きる術

ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(マルコ1・6)

 今日のらくだの毛織のような柔らかいものとは全くちがう極めて粗(あら)いもので、古預言者の衣服をそのままに踏襲(とうしゅう)したのである。多分昔のエリヤを慕い彼に倣(なら)ったものであろうと思われる。その衣服と言いその食物と言い、その住所と言い全く超世間的である。

 彼は肉体的生活を無視してかかっている。肉体の生活が罪悪であるとか、軽蔑すべきものであるとか言うわけではないが、人間にはこれぐらいの見識が無ければなるまい。ヨハネのように一生涯を通じてではなくとも、時と場合によっては自分の肉体的生活を超越するだけの気概がほしい。

 この気概がなければ人間も肉体の奴隷たるに過ぎないで、あるいは単なる一個の動物となり終わるかもしれない。経済問題が信仰問題よりも大きく、パンの問題が霊魂の問題よりも大きく感ぜられる間はまだヨハネの弟子となることすらむづかしい。

祈祷

天の父よ。あなたは私に霊と肉とを与えてくださいました。しかし私は度々肉に仕えて霊を忘れてしまいます。願わくはヨハネのように強く霊に生きることを得させてください。アーメン

(上記文章は元旦、昨日に引き続いて『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著から転記させていただいています。なお、題名は引用者の判断でつけさせていただいておりますので、引用者の主観が入っています。三百六十五日のうち、まず三日間は続きました。さて、三日坊主に終わることなく、このまま走り抜くことができるか?今後もご愛読の上、お気づきの点があれば、コメント欄に投稿して下さるなりして、お教えくださいますれば幸いです。)

2022年1月2日日曜日

新しい日には新しい悔い改めを!

「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。・・・」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。(マルコ1・2、4)

 バプテスマのヨハネの無い信仰生活は柔弱である。イエスに来(きた)る前にヨハネに来(きた)らなければいけない。あの峻厳(しゅんげん)なヨハネの前に立って『罪の赦し』を受けんがために痛烈な悔い改めをしなければならいけない。

 罪がすべての災害の根であることを深く考えねばキリストの福音の徹底を期することはできぬ。自分の善を認めて喜んで居るのがパリサイ人であり、自分の罪を自覚して神と人との前に常にへりくだるのがクリスチャンである。

 洗礼を受ける時に悔い改めたからよいのではない。新しい年には新しい悔い改めをなし、新しい日には新しい悔い改めをする。かくて時々刻々が懺悔(ざんげ)の生活となるとき、イエスを心に宿す準備ができたのである。

祈祷

聖なる主よ、願わくは私にへりくだりと心からなる反省とを与えてください。願わくはあなたの使者ヨハネとともに荒野に出で行きて、ひとり罪に泣くことを教えてください。そしてその涙をもって世の罪と人の足とを洗わせてください。アーメン

2022年1月1日土曜日

福音のはじめ

 神の子イエス・キリストの福音のはじめ(マルコ1・1)

 マルコの福音書全体が『福音』であって1章がその『始まり』であるという意味ではない。イエスの御一生が人類の『福音のはじめ』であるという意味である。イエスは『神の子』すなわち神を地上に代表するおんひとり子であると信ずることが私たちの幸福の第一歩である。

 今日の元旦を『福音のはじめ』をもって始めることは何というおめでたいことであろう。イエスが始めて下さったこの福音を私たちの生活の中に生かして行く。一日一日と福音の中に、歩を進めて行く。この年の一日一日が天国の祝福への一歩一歩となる。毎日毎日イエスの与えてくださる福音に新しく生き、毎日毎日『いのちのパン』である主イエスの饗宴にあずかる。このようにして私たちの一生は福音の一生となる。

 私たちイエスを信じ彼と共に歩む者には時はいつも正月、日はいつも元旦である。私たちは自分の猿知恵を出して『福音』を割引きしたり、神の御約束を疑がったりするから、イエスの福音も私たちを祝福することができない。イエスを信じ切って行けば福音が腹から河のように流れ出る。

祈禱 
慕いまつる主イエスさま。あなたは私の神、私の救い主、私のいのちの君です。願わくは、この年も自分の猿知恵を捨て、一心不乱にあなたの声を聞き、日々あなたの福音にあづからせてください。アーメン

(新年明けましておめでとうございます。1年越しのご挨拶となりましたが、本年もよろしくお願いします。今年は毎日マルコの福音書をご一緒に味わいたいと思います。この記事は青木澄十郎という方の『一日一文マルコ伝霊解』という1934年(昭和9年)に出版されたものを底本にしています。なるべく今の私たちが読んでなじみのある表現に変えて読んでいくつもりです。ご愛読ください。)