2024年1月11日木曜日

幸三郎さんの作品の鑑賞

冬寒に 人の暖(談)見つ 兄弟
 東京はやはりすごいところだ。漱石の「三四郎」の中に、三四郎が熊本の母からの便りに辟易しながらもありがたがっているふうなのだが、夜遅くまで返事を書いている場面がある。その終わりに「東京はあまりおもしろい所ではない」と書いた、とあった。作品中の中頃の場面だから、その後三四郎がどう思ったかわからない。

 このように書いてみたのは、昨日谷口幸三郎氏の「家族の風景」と題する個展(※)に出かけたことによる。同氏の作品はそのアトリエを知っているし、自転車で走れば、10数分のところにある。だからいとも簡単にその作品に接することができる。ところが、「個展」となると別だ。東京に限る。何しろ東京は人が集まる。だから、個展は個展でも同時に人が集まり互いに交わる世界を提供してくれるやはり不思議な空間なのである。それは東京ならでは得られない。だから、悔しいが東京はすごい。※https://sukiwa.net/

 この個展で私はいとこの義妹夫妻と一緒に鑑賞した。展覧会というのは中々楽しいものだ。作品もさることながら、鑑賞者お一人お一人の気持ちが、その展覧会場の空気を支配するからである。私が行った時は、3、4組の方がお見えになっており、どなたも作品を鑑賞する喜びに満たされておられたように見えた。作者である幸三郎さんも、夫人である晶子さんと一緒に接待に応じておられた。思わず、「三四郎」の中で丹青会の展覧会に原口の作品を美禰子に誘われて三四郎が出かけて行く展覧会場での場面を想起した。互いに見知らぬ者同士が作者を知って(慕って)集まってくる独特の空間を漱石ならではの筆致で描写している(同書294頁以下)。

 初めて幸三郎さんの個展に接したのは、もうかれこれ30年ほど前にはなろうか。お茶の水画廊が最初だった。その頃初めて幸三郎さんとは主にある兄弟(主イエス様を信ずる信仰を通して神の子どうしである兄弟)として知り合いにになったばかりであった。いとこや職場の同僚を誘って行ったこともある。その画廊が閉じられ、この近年は西荻の「数寄和」が中心である。ところが、西荻はいとこや我が長男も住まい、知人も何人か住んでおられるところだ。これは私にとって東京ではあるが不思議な特別なところである。

 冒頭掲げたのは会場の絵では唯一写実的なデッサン絵と言っていいのだろうか、ジャンルを知らないが、私が最も気に入った作品である。鉛筆というべきか、細かい線描に幸三郎さんの繊細な神経がうかがわれ嬉しくなった。いや羨ましくなった。モデルは二人の息子さん、幸平さん、遼平さんである。確か1999年と表示があったから、四半世紀前の作品である。


 何年か前から幸三郎さんは絵以外に陶器の作品に手を伸ばされるようになった。それは立教女学院短大の先生や附属天使園のお仕事をなさった頃と並行しているのだろうか。絵とはまた肌合いの違った暖かい感触を持った作品の数々である。ライフラインを寸断され、水、電気に事欠き生命の危機にさらされている能登半島の震災被災者の方々が一日も早く平常の生活に復帰でき、能登半島の様々な文化遺産を維持され、このような空間をゆとりを持って味わわれる日が来るようにと祈らざるを得ない。

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから、実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を行ってその後影を見送った。(『三四郎』303頁、「野々宮」は確か寺田寅彦がモデルだったと記憶しているが・・・)
 我が漱石は中々の絵画愛好家でなかったのでなかろうか。さしずめ、私は作者の気韻を下記のみことばだと思った。読者はいかが読み取られるだろうか?

安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(新約聖書 ヘブル人への手紙4章9〜10節)

2024年1月9日火曜日

我がパソコン人生

鴨の群れ 一つに成りて 冬越ゆる
   昨年末、ノートパソコンが壊れた。人生最後のパソコンと死ぬまで、これで終われれば良いと密かに期するところがあった。早速、主治医ならぬ、我がパソコンのエキスパート・保護者の支援を仰いだ。長男、次男、三男のそれぞれ頼もしい面々である。遠くパリにいる次男もLINEで意見してくれた。最後の頼みの綱は、普段仕事で使い切っているであろう三男であったが、敢なくも、「駄目だ」と宣告された。万事休すである。

 私のパソコンはこれで五代目である。一番最初は長女が1996、7年ごろ誕生祝いにプレゼントしてくれたiMacであった。我が家庭にiMacが運び込まれた時は、かつてのテレビ時代の黎明期を思わせる喜びぶりだった。私は、ひょんなことに1967年商業高校での初任の時、会計や商業法規や商品という科目とともに英文タイプの科目を持たせられた。それまでこのような前頭葉を使わず側頭葉をのみ働かせるタイプ打ちは良くないと主張していた「数学者岡潔」の信奉者であり、専門学校ならともかく、高校教育がやるべきでないと考えていて気の進まぬ授業であった。しかし、教師である限り、そんなことは言っておれぬ、やむを得ず、自らも練習に励んだ。その後、1970年代、80年代とワープロは事務機の主流の一つとなった。こうしたお陰で、私は同年輩のアナログ世代を尻目にデジタル社会に一早く雄飛する準備が出来ていた。

 残念ながらそのiMacは3、4年で使えなくなった。同時に職場ではどうしてもWindowsが主であったので、苦労したが、次男の勧めもあり、ソニーのVAIOを購入し、定年までこの機種で過ごした。ところが、この頃であろうか、今度は次女がMack Book Airをプレゼントしてくれた。Windowsのバージョン変更の動きもあり、この久しぶりのMacで潜り抜けることができた。しかし、この機種も数年足らずで充電機能が働かずダウンしてしまった。再び次女が今度はMac Bookを買ってくれた。これが年末使えなくなった、私にとって五代目のパソコンになる。かれこれ都合7、8年ほど使ったのだろうか。

Mac二台に久米律子さんのGrace3
 こうして我がパソコン人生は終焉を迎えつつある。今、打っているパソコンはやはりMacだがデスクトップ型であり、私のパソコン人生にとっての初代にあたるiMac以来のデスクトップ型である。これはこれで三男の深い配慮で使わせていただいている。だから、これをカウントするなら、六代目となる。ノートパソコンの使い勝手はないが、部屋の衣替えをして初代のIMacの位置に設置した。

 Net社会にいち早く馴染まされたのは、長男であり、次々、五人の子供たちは、その後に続き、Net社会に捕まえられ、泳ぎ切っている。遠くパリに20年の長きを数える滞在が許されているのも、まあ言うなればNet社会、グローバル社会の特徴であろう。一人、我が連れ合いはNet社会に乗り損ね、今もアナログ社会を満喫しており、家族にあって大切なその証人となっていてくれる。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(旧約聖書 伝道者3章1〜2節)

2024年1月7日日曜日

メモリアル・トレインの「暖」

北風に 記念トレイン 暖運ぶ
 昨年の11月、東武野田線の古利根川の鉄橋の側で、何人かの人たちがカメラを向け、待ち構えていた。どんな電車が来るのかと思っていたら、朱色の車体の電車だった。青い空や常緑樹の緑などを背景に色鮮やかな印象が残った。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/11/blog-post.htmlその電車に今朝は偶然乗り合わせた。傘寿を過ぎたと言うのに、年甲斐もなく、興奮して手ぐすね引いて、iphoneで4枚ほど撮った。

 乗ってみて驚いた。車内には、かつての東武電車の車体などが、霊験あらたかの如く、写真となって、いつもは広告板と利用されているところに、所狭しと何枚も一斉に展示されていたからだ。左に掲げたのは、その意義を述べた文章の一つである。乗車時間は春日部・岩槻間のわずか10分足らずだったが、その電車はメモリアルトレインで後尾車両のお尻に当たるところに「東武鉄道杯少年野球大会」と銘打っていた。始めて昨年、人々が写真を撮りに集まって来る理由がわかった。東武鉄道が、車両開発を記念して、いつもはその路線では走っていない車両をこうして走らせているのだ、と。

 こうして着いた岩槻駅駅前のワッツコミセンのお借りしている多目的ルームで、今年初の礼拝を持った。いつもどおり、賛美と聖書の朗読と祈りを、示された者がするという自由なスタイルである。事前の打ち合わせは一切ない。一年52週、愚直に各人が御霊に示されたまま参加している。牧師のいない私たちの集会は、まさにここ数日連載したモラビアン兄弟団が志向した「ユニクス・フラトルム(兄弟の教会)」である。

 その最後にささげられた、聖書朗読の箇所と祈りには嬉しくさせられ、主の御名を崇めざるを得なかった。それは昨晩、家庭で輪読し、そのことについて書かれているF.B.マイヤーの「きょうの力」を読んだ以下の霊想に通ずるものがあったからである。

私たちが神によりたのまないのは、神を知らないからです。もしも、神の神たることを知ったならば、どうして神によりたのまないことがありましょうか。人はよく自分の信仰の小さいことを嘆きます。その原因は神を知ることの少なさにあります。あるいは私たちは神については知っているかもしれません。けれども、神ご自身を知らないのではありませんか。人々が神について語っていることは多く聞きます。けれども、自分自身で、直接に、人格的に、神ご自身を知らないのです。

神を知る材料は至る所にあります。自然にも、聖書にも、また諸聖徒の模範にも。そして、何よりも、「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう」という、主ご自身の論理を突きつめて考えてください(マタイ7・9、10)。ちょっと知っただけでは、友人を知ることはできません。神はなおさらです。もっとゆっくり、もっと深く、もっと親しく、顔をあわせて、神ご自身を知りましょう。

 このようにF.B.マイヤーが書き記した(『きょうの力』328頁)のは、下段にお示しする聖句だった。そして、先ほどの最後の方というのは、お年を召してから、主の救いにあずかられた元国鉄マンであったが、その方が読まれたのも同じ聖句をふくんだものであった。顧みると、礼拝に参加するために、寒風の中「暖を運ぶトレイン」に乗車した私は、礼拝においては、その元国鉄マンの方の祈りに励まされ、心の中に「暖」をいただいたと言える。記念にその聖句を記す。

御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね呼び求める者をお見捨てになりませんでした。(旧約聖書 詩篇9篇10節)

2024年1月6日土曜日

ツィンツェンドルフ伯爵(補遺編)

白鳩と 小春日和を 分かち合う
「ツィンツェンドルフ伯」と題して過去三日間、長々と書いてきましたが、モラビアン・ミッションの成り立ちについて、海老澤氏がそのヘルンフートの故地を訪ねて、帰国後書かれたレポートをこの機会に転写します。(『海外伝道物語』5〜12頁より※。)

神の国のために

 今しもデンマークの国中、歓喜にあふれて、会堂の鐘は鳴り響くのであった。

 それは若いスエーデンの王チャールズ第十二世の凶暴な手より逃れ、彼の軍隊はデンマークから撤退して平和が回復されたからである。

 デ・デアムの聖歌の声はすべての会堂から洩れてくる。この日デンマーク王フレデリック第四世は、深い感激をもって会堂から出てきた。彼の心の中に、不思議にも、神の恵みを、この本国の臣民ばかりでなく、海外の属領、そこには白人を牧する牧者もなく、ましてや異邦人の魂に心を用うる何者もまだおらない所の海外に、福音の伝うべき責任のあることを、ささやいてやまぬものがあった。彼はすぐに宮廷牧師を召してその心中を打ち明けた。

 先ず最初に宣教師をインドへ送らなければならぬ。「それはデンマーク国家のための事業でなくして、神の国のためであらねばならぬ」と彼は言い、宮廷牧師にその宣教師の推薦を命ぜられた。

 宮廷牧師は考えてもみたが、どうもデンマーク人中にその適任者の心当たりがなかった。それで当時ドイツにおいて、キリストのために特殊な献身の覚悟をなした一団の者を率いて、ドイツルーテル教会に新生命をそそぎつつあったスピネルという人に手紙を認めたのであった。

 その一団とは世に「敬虔派」と呼ばるるところのものであり、敬虔派とは、神の聖言(みことば)を研究し、そのごとく生活せんとする主意によって結成された一団であった。そこでスピネルはその一団の中から、特に青年チーゲンバルグを選んで、海外伝道の準備のために、彼をハレ大学へ送った。

 当時ハレ大学にはオーガスト・ヘルマン・フランケがおった。彼は教授であると共に、一大孤児院の創立者であり、貴族の子弟を収容する学校の校長であり、その大学、その町で、有数な人物であった。彼は海外伝道の熱心家であって、その頃支那伝道のことをしきりに考えていたのである。

 前途有望の青年チーゲンバルグは、フランケ教授の下に、異邦人の使徒となるべき準備をなした。

 そしてその親友ブルツチャツと二人は、1705年10月に、コペンハーゲンへ往って、フレデリック第四世に謁見した。その後インドへ出かけて往き、この王および英国の友人らの後援の下に、インドに新教のミッションを開設したのである。

 これは、我がモラビアン教派の運動の先駆と言ってよい、これからツィンツェンドルフ伯爵の活躍する舞台が展開してくるからである。
           ☆
 10年の後、休養のため、インドの宣教師チーゲンバルグがドイツに帰国した。彼はインド人の信者二人を同伴して帰った。そしてその一人は将来伝道する目的で、教育を受くることとなった。

 ハレにおけるフランケ教授の家で、この珍しい宣教師に逢い、その話を聞いた者の中に、熱信な青年貴族、我がツィンツェンドルフ伯爵がおったのである。伯爵は当時同大学に学び、その学生間に、すでに「芥種(からしだね)の会」というのを組織していた。その会の目的はユダヤ人を始めすべての異邦人を教化するというのにあった。そのような心がけで、今海外から戻った宣教師の話を聞きその生きた証し人たるインド人を見て、伯爵はどのように激励されたであろうか。若い貴族の信仰の血は燃えた。

 そして伯爵はその親友の一人、フレデリック・ホン・ワッテビルと契って、何れの時か、神様が選び給う宣教師を用いて、他の何人も伝道しない地方に、福音を伝えるミッションを開始しようと決心していた。少年は成人した。神は時至って彼らにその働き手を与え給うのであった。

兄弟教会の人々

 三十年戦争によって打撃を受けて離散したユニクス・フラトルム(兄弟の教会)の残党が、その頃まだ、モラビヤの地方に彷徨(さまよ)うて、その信仰と実行を継続していた、彼方此方にその尊い信仰と伝統とを持っている家々があったが、次から次とこれを訪ねまわっていた一人の篤志家があった。その名をクリスチャン・ダビッドと呼ぶ。

 彼はかつてローマ・カトリック教の熱心家で、ほとんど狂熱的であったが、のち漸くその良心に不安を覚え、信仰の自由を求めて彼方此方を流浪していた。ローマ・カトリック教会の圧制の下に、聖書を読もうとしても、秘密にして持っていなければならず、その上、信仰上の光を求めても誰一人導いてくれる者のない当時において、ダビッドは自身の宗教経験から、かかる人々の助け手となっていた。彼らの間には、何とかして自由の天地に信仰を楽しみ、良心の満足する宗教生活をしてみたいという熱望が、自然に湧いてきたのも無理のないことである。

ツィンツェンドルフ伯爵の保護

 「ツィンツェンドルフ伯爵の領地内にその安住の地が求められよう」というニュースは、彼ら同信の友には、実に神様からの恵みの音づれと響いた。当時ツィンツェンドルフ伯爵はすでに二十二歳の青年で漸く丁年に達して、伯爵と同様に神の国の事業に熱心な美しい夫人と、結婚するばかりになっていた頃であった。斯くてモラビアンの一小団、大人五人小児五人の一行が、身に一物も持たずに、夜陰に乗じて、住み慣れた今のチエコスロバキヤの地方を逃れ出て、ダビッドに導かれつつ、約束の地を目ざし、寂しい森の中を辿って、旅を続けた。ただ信仰自由の境地が、南ドイツの彼方に見出されるであろうという望みをもって・・・

 彼らは、斯くてサクソニーの一小邑ヘンネルスドルフへ辿り着いた。そこには伯爵の祖母の住み家があって、伯爵の幼年時代を過ごした村である。そこで伯爵の家庭教師はこの亡命客の一行を熱心に親切に世話してくれたのであった。 

 彼は、一行に、今のラバウとチッタウとの間の道路に沿った地をあてがった。それは一行の中の二人が鍛冶屋の経験をもっているので、この地方の道路が悪いために、車の輪が多く破損するから、この辺に落ちついたならば、仕事にありつき得るであろうという予想からであったという。

 彼はまた一行が木を伐って家を建つべき地点までも指し示してくれた。そこでダビッドはその斧を木の根に打ち込みながら、感謝と感激とにあふれて
   「まことや雀はやどりを得
        燕(つばくらめ)はその雛(ひな)を入るる巣を得たり」
と歌いつつ、働いたということである。それは1722年の6月17日のことであったと、その地点に建てられた記念碑に刻まれてある。

 ツィンツェンドルフ伯爵の教師は、この森の中に、泉を中心として、一つの広場を設け、市街を建設すべき考案を描いていた。けれどもそうするうちに冬が来て、ただ漸く淋しい森の中の路傍に、最初の一軒ができただけであった(この最初の家はその後火を失して半ば焼けたが、残された材木をもって、ツィンツェンドルフ伯爵の肖像を納める額縁が造られ、私も記念のためにその小さいのを一つ求めて帰った)。

 ある日のたそがれ時であった。若い夫人と馬車を駆って、その家路についたツィンツェンドルフ伯爵は、森の木立の間から、洩れ来る光に目をとめた。馭者に聞いて見ると、あれが信仰のために遁れて来た人たちの家であるという、伯爵は馬車から下りてその家を訪づれ、親しく歓迎の意を表せられた。伯爵がまことに愛と信仰とに満ちた好個のキリスト者であったことは、こうしたことによっても窺われる。

 彼の領地に定住することとなったのであるから、事実上彼の家臣である。けれども伯爵が彼らと共に跪(ひざまず)いて、彼らとその家とを祝福するよう神に祈られた時、主従の関係などというものは少しも感ぜられなかった、これがヘルンフートの小邑の始めであり、モラビアン・ミッションの起源をなす出来事であった。

ツィンツェンドルフ伯爵の指導

 その後もツィンツェンドルフ伯爵は、ただに保護者であったばかりでなく、その信仰、人格において終わりまで一団の指導者であった。彼は自ら毎回司会をして多くの歌を歌わせ、礼拝を守る習慣をつくった。また最初より兄弟主義をもって一団を律し、単純質朴をもって教会の風とした。今もなお婦人は教会に出席する時は、必ずレースの白頭巾をかぶり男女席を別にしている。昔は婦人たちが皆同じ質素な制服を着ていたというが、今は服装は色々である、そしてそのキャップを結ぶリボンの色によって、寡婦は白、夫人は緑、娘はピンク、少女は紅というように区別されている。後に宣教師を海外に派遣するようになった時には、その伝道地を、他の教団の手をつけぬ最も困難な地方、西インド、グリーンランド、ラプラドル、北米土人、南ア、ヒマラヤなどを選んだ。また伯爵自身西インドまで伝道視察に赴かれた記録をも見出されるのである。

 伯爵はまた教会のためにその領土中半径三マイルの一円の山地を与え、永くミッション事業を継続せしめた。従来その収入をもって伝道事業上に多くの便宜を得ていたが、大戦以後はサクソン州庁に貸与しているその土地から得るところは極めて少なく、ために事業上頗る困難を感じているという。それにしてもかかる篤信の領主の下に、一団の特殊な信仰団体が発展し来たって、全世界の伝道を企てつつあるのみならず、その感化はアングロ・サクソンの伝道熱心に点火し、殊にウェスレーを通じて全世界一千万の会員を有するメソジスト教会の運動を巻き起こさしめたことは驚くべき感化力と言わねばならぬ。

※ 以上、「モラビアン・ミッションの起源」と題する海老澤氏の論考でした。なお、同書は国会図書館内でデジタル化されています。全文は74頁の小冊子ですので、すぐ読めると思います。興味のある方はそちらの方もご覧になられてみてはいかがでしょうか。参考のためにサイトを記入しておきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000646738

彼(ノア)は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。(旧約聖書 創世記8章8〜12節) 

2024年1月5日金曜日

ツィンツェンドルフ伯(下)

鴨の群れ 同方向に 泳ぐ冬(※1)  24.1.4

 さて、新しく発見したもう一つのことですが、それは、海老澤亮さんの本『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』と一緒に、他の20数冊の本やノート(※2)と一緒に無造作にしまいこんでいた『主の山上の説教』という三冊本とノートにまつわることです。

 この本も、随分以前にいつか必要な時が来れば、読もうと思ってはいたが、結局読まず、今や捨て本近い扱いを受けて、ホコリをかぶっていたものです。ただ『主の山上の説教』という本の著者がジョン・ウエスレーであることは絶えず念頭にありました。

 ところが、海老澤さんの昭和10年(1935年)に刊行された例の本を、さらに読み進んでゆくうちに、次のような記述がありました。(同書13〜16頁)

メソジスト運動への影響

 ジョン・ウエスレー は、1738年5月24日、ロンドン・アルダースゲート街のモラビアン兄弟団の集会において「その心不思議に熱せられ」ライン地方を旅してマリエンボルンでツィンツェンドルフ伯を訪ね、それからヘルンフートへ来て、数週間滞在して兄弟団の信仰生活にひたり、同年の八月英国へ帰った。次の手紙は彼が帰英後に書いたものであるが、それはヘルンフート文庫に保存されてある。斯くてモラビアン運動がメソジスト運動の原動力を成したことは、特に記憶せらるべきところであって、次の手紙はその当時の事情を偲ばしむるよい資料である。

ツィンツェンドルフ伯宛(アムステルダムに於ける)

 その小さき一人の者に為された凡てのことを、ご自身のためにせられたものと数え給う我らの恵みふかき主は、貴下を始め伯爵夫人及び凡ての兄弟たちが、私のために尽くされた多くの親切に対し、それを七倍にして酬い給うことを祈る、もし私が、かくも互いに相愛する兄弟たちともっと長く過ごし得たならば、どれほどの満足であったでしょうか、けれどもそれは許されませんでした、主はその葡萄園の他の部分で働くように私を呼びかえし給うたからであります。否私はもっと早く戻らねばならなかったのでした。何となれば、一面門戸は開かれ大いなる効果も見られますが、反対者はまたその前に多くの躓きの石を置き、ために弱い者は日々道を離れつつあったからであります。数え難いほどの誤解が起こり、そのために真理の道は多く瀆(けが)され、そして憤怒、騒擾、過酷、罵詈、猜疑、闘争、嘲弄、邪推などが続発しました。そして敵はその機会を利用して小さき群を傷つけ、他の者はこれに加わらなくなりました。

 されど我らの恵みある主は、大部分これらの妨げの岩を取り除き給いました、主のみことばは伝えられ且つ崇められ、その聖業(みわざ)は進み且つ栄えております。至る所に大衆が覚醒して叫び出しました。「我ら救われんために何をなすべきか」と。彼らの多数は、天下に救われるべき唯一の聖名(みな)があることを知ります、それを呼び求むる者は益々加わりその聖名(みな)によって救いを見出しました。彼らの信仰は彼らを全くならしめます、そして彼らは一つ心、一つの魂になりました。彼らは互いに相愛し、その召命による同じ信仰と希望とにおいて一つの霊、一つのからだに結び合わされております。

 オランダおよびドイツ、ことにヘルンフートにおける兄弟たちの愛と熱心とは、我らの間の多くの者を激励しました、彼らもまた、神もし許し給わば、貴下にお目にかかり、その大いなる尊い約束に預かることを望み、ただ私が愛の果(み)を彼らにわけ与えるだけでは、その心に慰めを得ないでありましょう。

 些細なことについて率直に申し上げれば、私の賛成しかねることもありましたが、それは多分私が充分貴下を理解し得ないためでありましょう。

 恩寵(めぐみ)豊かなる主は、すべてのことにおいて公正なる判断を貴下に与え給うように祈ります。そして益々謙譲と柔和と、純情と質素と、真剣さと細心の注意とに富ましめ給わんことを祈ります。一言もってこれを覆えば、信仰と愛とに富ませ給い、ことに信仰のない者に対して、天に在す貴下の父の恵みふかき如く、貴下も恵みに富まれんことを祈る者であります。

 私は貴下の不断の篤き御祈りを希う、斯くて神はその同じ聖霊(みたま)の一部をわけ与え給うように・・・

 貴下に負うところ多く、深い愛情をもてる、
 けれども又価値のないキリストにおける兄弟   ジョン・ウエスレー 

             ロンドン 1738年10月30日

 言うまでもなく、これはジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙です。

 ジョン・ウエスレー の1738年5月24日の霊的覚醒の出来事は人口に膾炙(かいしゃ)されている余りにも有名な出来事なのですが、私はかつてオズワルド・チェンバーズのやはり霊的覚醒を語ったランベルトによる評伝を読んだことがありますが、そこにはジョン・ウエスレー の経験を引用しながら、次のように書かれていました。

 ラッテンベリー博士は、ジョン・ウエスレー の回心の経験を書き記して「炎がよく用意されていた炭火の上に落ちた」と言いました。エッツワース牧師館での訓練の年月、信仰篤い母親の愛、秩序あるオックスフォードでのホーリー・クラブ(の生活)、それに神にささげられた生活ーーこれらが準備された炭火を整えて、アルジャスゲート通りの上の部屋で、永続的な影響をもつ神の炎が点火されたのです。チェンバーズにも彼を神の炎に燃やされた預言者にする恐ろしいまでの打ちのめす経験がおよそ30年という準備の背景にあったのです。(『Oswald Chambers』David W. Lambert著23頁より私訳)

 このようなことが私の知っているすべてでした。ところが今回、私が手に取った海老澤亮さんが昭和10年(1935年)に著された本の中に、ジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙が紹介されていたのです。これはまさに私にとって初耳で、それも私の捨て本の中の20数冊の本の中に、仲良くホコリにまみれながらも、私が目を通すまで、私の無関心・黙殺をよそに、まるで互いに隣人同士で語り合っていたかのように、私がその本を開いて読むように、2024年の冒頭に至るまで存在し続けてきたことに深い驚きを感じたのです。そして改めてツィンツェンドルフ伯を通して働かれた主のご摂理を覚えたのであります。(これを機会に今まで敬遠してきた、ジョン・ウエスレー のその本も読んでみたいと思っています)

 そして、端なくも私たちの良き導き手であったベック兄・宣教師もドイツのアイドリンゲン姉妹会、ドイツの各集会、イギリスのオースティン・スパークスのHonor Oakに集う人々など、ヘルンフートを根城としたモラビアン兄弟団に相当する兄弟姉妹の祈りに支えられて日本人の救いのために来日し、日本に骨を埋められたことを思うことができました。

 そして、新年早々私にメールでツィンツェンドルフ伯の言葉などを送ってくださった方は、まさにそのような働きの中で救われ、今日までその信仰生活を歩んでいらっしゃるご夫妻だったのです。だから、私がタイムリーにそのご夫妻から受けたメールをどうして喜んだか少しでもお分かり願えたのではないでしょうか。もちろん、これらは小さなこと(些事)に過ぎません。しかし、今年、私はどんな小さなことでも大切にしたいと思わされております。これが、新年早々私が主からいただいた大きな恵みのことです。

※1 鴨は数えてみると全部で80数羽に達した。全部撮影した写真とも考えたが、鴨の姿が少しでも見えるものが良いと思い、上掲の写真を採用した。鴨は不思議と同一方向を目指すかのようであった。私にはその目当てとするものが、主であるように思えた。そして同時に悲しくも能登半島震災の死者は現在84名と報道が知らせていることも覚えた。東京新聞は賢くも、このために「助け合い、しのぎ 生きてる」と今朝の朝刊に大見出しを掲げた。そう願わざるを得ない。

※2 ノートは母が1961年5月22日44歳で、亡くなる二ヶ月ほど前に書き記した日記であったが、このノートの存在などすっかり忘れていた。海老澤さんなどの本とまた別の意味でホコリをかぶったまま数年放置したままであったが、元旦は、急いでそのノートを繰らせる日になった。

3/29
帰り早々下痢は止まらんかもしれんとガクッと来る。昨夕から何とか努力してもう一度起ちなおりたいと思っていた時だけに眼の前が真っ暗になりそう。何とか温かい励ましの言葉がもらえないものかしら?死を覚悟しているとは言え。
浩万利へ7時頃泊まりに行く。

3/30
来年の栄冠を獲得した時、去年の失敗があったればこそと喜んでくれたら、どんなにか嬉しいことだろうともうそれだけで満足。医者に捨てられても生きなければならないとそればかり。

3/31
腹がはるので浣腸するがどうもすっきりせず不快。昨日よりは力が出るが、丸い鏡掛けに映った顔、眼くぼみ、頬こけ、死の一歩前を思わせるようでギョッとする。

4/1
青木さん名工大へ入学。浩浪人になった事再び確認する。来年は頑張ってやらねばと身引きしまる。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13〜14節)

2024年1月4日木曜日

ツィンツェンドルフ伯(中)

ツィンツェンドルフ伯
 大変な惨事をよそに、このようなブログを投稿していることをお詫び申し上げます。かつて、東日本大震災を目の当たりにして、その当時投稿していたブログ記事3/11日を思わず断念し、その代わりに一日先の3/12日に下記のブログを書いたたことを思い出しました。 https://stryasheep.blogspot.com/2011/03/blog-post_12.html 

被災地で苦難に遭われているご家族の上に、一時も早い復興とお慰めが主から与えられますようにと、お祈り申し上げます。

 さて、昨日、お知らせしましたもう一つの新しい発見についてお書きしたいのですが、その前に次のことを是非触れねばなりません。それはツィンツェンドルフ伯爵の領地であったヘルンフートという町の実態についてであります。海老沢さんは、昭和十年(1935年)即ち今からおよそ百年近い前になりますが、「教会中心の町」(同書16頁からの引用)と題して語っています。(※)

教会中心の町

さて、最初の家が建てられてから町の設計に従って次の十年間に、ヘルンフートの町は建設された。(ヘルンフートという語には二つの意味があって、一つは「主の護り」を意味し他は「主の番兵」のような意味をもって用いられた。従ってそれは、常に主のお護りの下にあり、また人は常に主の番兵として警戒しているべきであるという意味合いをもって、ヘルンフートと名づけられたようである)

先ず会堂の建てられた広場を中心として、道路は四方に設けられた。それは全く文字通りに教会中心の町であった。現在でも町の人々の職業は、ミッション博物館、出版社、病院など、ほとんど皆伝道に関係を持っている。伝道事業を離れてこの町の人々の生活はないと言ってよい。普通のドイツ人でさえ知らぬほどの、人口わずか千六百の小さい町が、過去二百年間に男女三千人以上の宣教師を海外伝道に派遣し、現在なお二百六十人が海外に伝道している。従って町内の各戸は、ほとんど皆、宣教師と縁故のない家はないくらいであって、二十ヶ国の言葉がこの町で話されると言われている。そのはずである、この町にある伝道学校には二十数名の男女青年が、海外伝道に赴く準備をしているが、彼らは皆世界各国の宣教師の子女である、私は一夕彼らの会に招かれて懇談したが、彼らの生国を聞いて、皆世界の各方面より来ていることに驚いたのであった。

東南ドイツの片田舎、ヘルンフートの町外れ、チエツコスロバキヤの国境をめぐる山脈を遥か彼方に眺めて、今は広々と開拓せられた高原がある。その中央の小さな丘の上に望楼が立てられている、それが即ちフートベルグである。ここに昇って四方を見渡せば、これが世界教化の一大運動を巻き起こした一円の地、彼方には右にツィンツェンドルフ伯が祖母の下に育てられていたヘンネルスドルフの城址を眺め、やや左にツィンツェンドルフ伯の住まれた屋敷もほの見える。丘の裾にあたっては、モラビアン・ミッション一団の者の永久の憩いを示す墓地があって、ツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドの墓標は、昔の美しい信仰生活を偲ばしめている。その墓地まで家族別でなく男女別であること、その墓石は政治家のも平民のも全く同型であることをもっても、この一団の心の態度が読まれるであろう。

 ヘルンフートという小さなドイツの町は、相互扶助の精神をもって町が形成されたのですが、それはツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドなどが、主から与えられた志に従って形成された町であることがわかるのでないでしょうか。

 元日の午後起った能登半島地震は、またもや地震の恐ろしさを私たちに訴えてやまないものがあります。そんな被害にどう対処して行けば良いか漠然と考えていましたが、今朝の東京新聞の『本音のコラム』欄で、三木義一さんが「何の予兆か、お正月」と題して書かれていたことにハッとさせられました。それは地震の予知は難しいが、「被災された能登の人々は明日の我々でもあるのだ。能登の人々が、一刻も早く平凡な日常を取り戻せるように公的援助を惜しんではならない。そのために、僕らは税金を国や自治体に預けているのだから!」と書いておられました。いつもは必ずと言っていいほど、最後は駄洒落で閉じながら、やんわりと日本社会に警告を与えられる、元青学の学長さんが、租税法の専門家であるだけに、その提言には首肯せざるを得ないものがありました。本来「ヘルンフート」とは何の関係もない、三百年前の異国ドイツの話ですが、敢えて付け加えさせていただきました。

※私はこの海老澤さんの著書はちょうど日本が「いくさごろ(1935、6年)」というふうに侵略戦争に向かっていく時に、この本を書かれたのは、せめてものの抵抗の働きの一つではなかったかと思いました。その本の冒頭で海外進出は「戦争」「貿易」「海外宣教」と三つあるが、その中で最初の二つと海外宣教の違いに言及して「全く利害の問題をはなれ、利権獲得の企てなしに、与えるは受けるより幸いであるとして、神を与えキリストを与え、価なしに福音を与え、最後に自己を与えようというのが、海外伝道の精神であった」と書いておられました。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(新約聖書 マルコの福音書16章15〜16節)

2024年1月3日水曜日

ツィンツェンドルフ伯(上)

 新年おめでとうございます。
新年早々嬉しいことがありました。実に小さなことなのですが、私はなぜか「ツィンツェンドルフ伯」のことが気がかりになっていたのです。

 そうしたら新年に入り、ご夫妻からLINEを通して、一通のメールが送られて来ました。そのメールにはみことばと併せて、ツィンツェンドルフ伯のことばが紹介されていたのです。それがその方のご許可を得て、今日上記のように転載させていただいたものです。ただここにはN.L.チンゼンドルフと書かれていました。ひょっとして私が知っているツィンツェンドルフ伯のことでないかも知れない。そして、私にはこんなに平易なことばで語られるのがツィンツェンドルフ伯なら、是非もっとそのことも確かめてみたいと思わされたのです。

 もう30年以上前でしょうか、教会に出席していた頃、古本で一冊の本を見つけました。その内容はツィンツェンドルフ伯の住んでいたヘルンフートの美しい村のならわしを記したものだったと記憶します。そのならわしとは夜回りが、「今は夜の何時か」と聞いて回るという内容だったと思います。「夜回り」と言えば、冬の寒い夜空を仰ぎながら、拍子木を叩いて「火の用心、御用心。戸締り用心、御用心。」と各家々を尋ね回ることしか経験していなかったのですが、この村では、キリスト者がいつも主の「再臨」を待ち焦がれていて、「今は夜の何時か」と問うて参るという、いかにも簡素な中にも、質朴な人々の日々の生業(なりわい)が記されていて大変好ましかったのを覚えているのです。その本は今日まで私の手元にあっては、その癖いつも何処かへ潜り込んで見えなくなってしまう不思議な本で、つい数日前にも確かこの目で見たものでした。

 それが年の初めの話として出て来たので大変びっくりし、第一、「チンゼンドルフ」なのか「ツィンツェンドルフ」なのか、はたして同一人物か知るためにもその本(実は児童向きの本ですが)がどうしても見たくなって、探すのですが、見つからないのです。雲隠れした状態でした。もう何回となく、書棚を隅から隅まで探すのですが、見つかりません。普段、そのような本を置く場所でないところまで探しても一向に埒(らち)が明かないのです。

 ところが意外なところに、その本ではないが、その児童書では物足りない、もっと詳しく書いた本が欲しいと思って、これは多分教会を出て集会に移ってから数年後、今から10数年前にやはり古本で見つけた『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』(海老澤亮著 基督教出版社刊行 昭和10年)が全く埃(ホコリ)を被(かぶ)った状態で出て来たのです。私ははやる心を抑えながら、その本を読み進めていき、また同時にネットでツィンツェンドルフ伯の姓名を詳しく調べたところ、まさに、Nicolaus Ludwig von ZinzendorfでN.L.チンゼンドルフは私が呼び慣れている「ツィンツェンドルフ伯」その人であることがわかりました。

 それだけでなく、不思議なことに二つの新しいことを気づかされたのです。今朝はそのうちの一つをご紹介したいと思います。私には尊敬するひと回り上の最年長のいとこで、今も健在で元気に過ごしている人がいます。ある意味で私の人生は、これは少しオーバーな表現になりますが、このいとこの姿を見て進路設計をして来たと言っても過言でありません。そのいとこが、私がキリストを信じたおり、そのお宅でたまたまそのことが話題になり、彼は私の狭量な信仰熱心の姿を戒める思いだったのでしょう。「キリスト教の宣教は下心があってのもので、そこへ行くと、仏教は何でも受け入れる、キリスト教より仏教の方がいいのじゃないか」と言われたのです。爾来、私は彼の言う「下心」説に納得できないまま、今日に至りました。

 ところが、この出て来た海老澤亮著の『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』の本をまだ頁を繰ることも間もないところに次のように記されていたのです。(同書3〜4頁)

当時はまだ海外伝道に志す者が極めて少なかった。新教において殊にそうであった。
羅馬教では既にその企てがあった。コロンバスはスペインから出て西巡で印度に往こうとし、バスコ・ダ・ガマという人はポルトガルから出て、東巡りで彼処に往こうとした。そして法王は彼らの発見したほどの土地は、みなその支配権のうちにあるものと考えた。

当時彼らの良心はそれらの土地がその所の住民のものであると考えるほどに鋭敏ではなかった。唯その住民が野蛮であるから、之を文化に導かねばならないとは考えた。それで法王は(今でもバチカン宮殿に残って居るといわれるが)一つの地図に、北極から南極まで、大西洋を境に直線を引いて、その西をスペインに、その東をポルトガルに与えると宣言した。唯条件はその発見する国々の住民に福音を伝えることであった。

これは随分乱暴な伝道方針であった。従って福音の使者が、度々侵略主義の手先と解されたのも無理はない。そしてそのような印象がつい最近まで世界の各国に言い伝えられたのは、真の宗教の使者にとって大変な迷惑であった。

 ここまでお読みいただければ、このくだりを読んだ私が心の中で快哉を叫んだ気持ちを分かっていただくのではないだろうか。年長のいとこが私の狭量な信仰を諭すために、私に痛打を浴びせかけたかに見える言葉は決していとこの誤解でなく、羅馬教、すなわちローマ・カトリック教のそのような伝道姿勢にあったのだと分かったからです。年長のいとこはローマ・カトリック教のことを言っていたのであって、それは私が信じた聖書に基づく信仰を理解してくれなかったことに起因するとは言え、あながちいとこの説は暴論ではないと思うことができたからです。積年のいとこに対する誤解が解けた思いで、いい新年を迎えられたなあーという思いでした。そしてそれだけでなく、私は年末、そのいとこのお嬢さん方(お顔も知らない間柄なのですが)と昨年の私のブログ『半可通の「柏木義円」紹介』が機縁で手紙をやり取りすることになりました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/06/blog-post_13.html 
それだけでなく、昨年末のクリスマスの折り、このお嬢さんお二人が既に受洗しているキリスト者であることを初めて知ったのです。あれやこれやで意外な事実、しかも喜ばしい出来事に私は新年早々付き合わされております。

 明日はツィンツェンドルフ伯に関する、もう一つの大切な新しく発見したことをお伝えしたいです。

セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」(旧約聖書 イザヤ書21章11〜12節)

夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(新約聖書 ローマ人への手紙13章12節)