2023年6月13日火曜日

半可通の『柏木義円』紹介(1)


  昨日、私は一つのことに集中していると書いた。それは「たいせつなこと」も思い出さないほどだと大袈裟に書いてしまったが、実はこの一週間ばかり、私は日が暮れても明けても、『柏木義円(1860〜1932)』と言う人物の存在に刮目されているのだ。と同時に、私のこれまでの人生がいかに『半可通(はんかつう)』の人生であったかを思い知らされていると言った方が正確かもしれない。

 父だったか、先生だったか、誰だったか忘れたが、まだ幼少年の頃、「生半可なことは言うじゃない」と厳しくたしなめられたことがある。要するに、俗な言葉で言うなら「知ったかぶりをするな」と言うことだ。この思いにさせられたのは、今回すでに『森鴎外(1862〜1922)』について書いた頃から始まっていた。

 図書館で『森鴎外、自分を探す』を返却した序でに、今度は『柏木義円ーー徹底して弱さの上に立つ』(片野真佐子著 ミネルヴァ書房2023年1月刊行)を借りた。すでに一月ほど前からこの本の存在に気がついており、過去四週間借りはしたが、読むことができず、そのまま返却していた本であった。「鴎外」を読んだばかりであったが、「義円」という名前や「徹底して弱さの上に立つ」という副題に興味を覚えていたからである。

 そして、総ページ数260頁ほどの書物を読むうちに、次から次へと私にとって驚くべきことが書かれていて、一頁たりともおろそかに読めない、巻措く能わずという思いにさせられた。そして、この人物についてもっと知りたいと思わされ、図書館の蔵書をさらに探ってみたら、同じ著者の『孤憤のひと柏木義円(天皇制とキリスト教)』(新教出版社1993年6月10日刊行)があることを知り、さっそくこれも借りてみた。

 もちろん二著とは言え、両者はダブル記述があるし、ちょうど今から30年前に刊行された本は著者の博士論文となった本のようで、より叙述が綿密になされている(これは国会図書館のデジタルライブラリーで確かめて知ったのだが・・・)私としてはこの結果を報告したいのだが、今日は、二点だけ紹介しておく。その前に、私と「義円」との関係について説明する。

 私はこの三十三年間、信越線を利用して御代田まで年間2、3回としても、都合50回程度は出かけている勘定になる。その信越線の高崎ーー横川間に「安中」駅がある。その安中駅には未だ一度も降りたことがない。実は柏木義円はその安中教会で40年近く牧会をした牧師だったのだ。その上、この後者の本を通して知ったのだが、その先祖は彦根井伊家から出ている安中藩に召し抱えられたもとは武士であった。しかも、彼が生まれたのは、桜田門外で井伊直弼が横死した6日後だったと言う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_9.html

 さて、先ず一点は柏木義円が回心したとき、新島襄から義円に差し出された書簡が示している事柄である。1884年(明治17年)義円の受洗を知って新島が柏木に出した書簡である。(新島42歳、柏木24歳であろう)

 新年目出たく賀し奉り候。
 陳ば御来書に依れば、貴君にも今回は前非を悔い、主基督の聖名により、受洗成され候云々。実に、喜欣措く所なし。偏に天父の鴻恩を感謝候なり。今日にして、真に新年も目出度く御迎え成され、且つ盡きせぬ春は、君の前途にあれば、君は直ちに万福慶賀すべき身となられたるなり。前非は再び口より吐露するに及ばず。主これを知り、又これを許すべし。君にして、再び罪を犯すなくば、君は乃ち主の群羊中の一なり。主必ず、これを守り、これを愛し、且つ無限の命を賜はらん。君は向来面識の人と称すべからず。乃ち主に於ける一体・一家族・兄弟と言わざるべからず。
 君、勉めよ、天国の途、花の山の如し。苦辛何ぞ恐れん。難嶮何ぞ憂ふるに足らん。勉めよや君。
 怱卒の間一書を認め、祝辞とす。貴答。
 一月二十日
 柏木義円君
                  新島 襄

 あと一点は、片野さんが紹介している、柏木の安中教会の牧師としての特徴である。(『孤憤のひと柏木義円』115頁より引用)

 新島創立の教会の人となった柏木は、聖書の言葉にあるように、師の蒔いた種の豊かに実らんことを願った。安中教会は、正統主義の信仰を志す。柏木は、教会形成について、「何の教えでも世の人を善に導きさえすれば可なり、基督教の文明国の教えにて内地雑居後社会改良のために必要なる可れば、我らもその教えに入り社会の風教のために尽くす可しなど、恰も倶楽部や協会に入るが如き心地にて来る人が如何に多くあるとも、此等に由て教会を建つるは基督の御意ではありますまい」マタイ伝の第16章16節が示すように、「基督は此等の大衆の上に其王国を打立つることを肯し玉はず」「実に一人にても二人にても、基督を活ける神の子なりと信じ、最上の敬と愛と全き信任とを払う信仰の上に其の教会を建て玉ふのであり升」と説き、イエスを信じる者の敬虔な信仰の上に堅固な教会を形成すべきことを主張した。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(新約聖書 マタイの福音書 16章15節〜18節)

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