2023年6月5日月曜日

『森鴎外、自分を探す』を読んで

 のっけから、とんでもない夢の話で恐縮だが、話してみる。私がドイツ首相と話をしている、電話で。とは言え、話し相手はショルツ首相でなく、フランス大統領マクロンである。ドイツ語でなく、英語で。なぜ私に話して来られらたのか、わからないが、その話の中で、SADAYOSHIという私も知っている方の名前が出てきたので、大変親しみを覚える。もっと話をしたいのだが、生憎こちらが理解できないし、第一先方は忙しい方だから、ごめんなさい、と言おうとして文章を考えている。I'm sorry to say about nothingと言い、この文章では伝わらないな、と思っているうちに目が覚めた。

 なぜこんな夢を見たんだろうと考えていたら、その前に見ていた濃厚な(夢の)場面も思い出した。それは高校の文化祭で各クラスがそれぞれ趣向を凝らして、展示をしている。ある女性担任のクラスは男女とも熱心に取り組んでいて、極めて精度の高い事柄を集まってきた人々にきちんと説明している。しかし、十分説明し切れているわけではないことをその生徒が私に言う。一方、わがクラスはどうかと行ってみると、女子生徒が数名集まって何やらやっている。男子生徒は遊びに出て行ってしまっているようだ。しょうがないな、いつものこった(事だ)と思いながらも、ひと渡り全クラスの出し物を見てまわっている。

 この文化祭云々の映像(?)はまさしく実際私が経験していることに近いが、結論が違った。私の実体験は、このような場面では必ず我がクラスの不甲斐なさに腹が立ち、落ち込むのだ。そして一生懸命クラス全体を取り組ませることに成功している女性担任に羨望をさえ抱くのだ。ところが、今朝の夢では、そう言う評価はしていない。我がクラスを含め、それぞれのクラスが一生懸命取り組んでいる。確かにそこに優劣の濃淡はある。しかし、ともに同じテーマを巡って展示をしているのだ。その追求するものが同じなら、学校全体として喜ばしいことではないかと自分で評価しているのだ。

 夢の中で、英文を考えたり、このような評価をしている自分を知って、どうしてこんな夢をいまだに観させられるのか、不思議に思うが、教師時代の禍根が今も自分を支配しているのかとは思うが、最後に、述べたように、自己卑下するのでなく、正当な評価をするようになった自分に少し「救い」を覚えた。でも一体全体どうしてこんな夢を見たのだろうかと思って振り返ってみたら、昨日寝る前に読んだ、『森鴎外、自分を探す』(出口智之著岩波ジュニア新書)のせいではないかと思った。この小著はジュニア新書と言うだけであって、小中生徒を対象に筆者は書いておられると言うことだが、80歳の私にはちょうどいい文章である。逆に鴎外の作品の文語混じりの表現の紹介には戸惑う面もある。しかしそのほうが心にすとんと入ってくる面もある。不思議なことだ。

 著者は1981年生まれだと言うから、父が召され、娘が誕生した年を思い出すし、その娘からこの話を聞かせられているのだと意識しながら読み続けた。全く鴎外については改めて何も知らないことを教えられ、漱石オンリーであった我が読書歴を軌道修正したい思いにさせられた。なぜか鴎外については年初に岩波新書の『森鴎外 学芸の散歩者』(中島国彦著)も読んで、いたく感銘を受けていたのだから、この思いは今に始まったのではないが・・・。鴎外の遺言はあまりにも有名だが、その意味を考えると彼の生涯が一つの信念に貫かれていたことを改めて知る。

死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何なる官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ 宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ・・・

 友人に林太郎と言われる方がいる。その友人にあなたの名前はひょっとしてお父さんが森鴎外を意識されていたのではないですかとお聞きしたらまさしくそうだった。なお今回参考文献に上がっているものを見ていたら、もう7、8年ほど前になるが、ご高齢の知人から紹介された隣に住んでおられる方の、鴎外の作品『舞姫』に登場するエリーゼに関する論考も紹介されており、その折り、もっと丁寧に取り組んでいたらと思わされた。

 鴎外は私の拙い見立てでは作品『かのように』で窺えるように、ドイツ留学時に流行っていた新神学(ハルナック)の影響をもろに受けたのでないかと思っている。すなわち文献批評学という聖書本文をそのまま神のみことばと考えない立場に立っていると思う。それはともかく彼の遺言には地上の権威を恐れず、自由であろうとする精神が漲っているように思う。このような偉人にして、なおイエス様の次のみことばを受け入れるには躊躇せざるを得なかったのだろうか。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(旧約聖書 詩篇49篇17節、20節)

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(旧約聖書 詩篇49篇15節)

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました(すなわち十字架上で)。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章20〜21節)

0 件のコメント:

コメントを投稿