北風に 記念トレイン 暖運ぶ |
乗ってみて驚いた。車内には、かつての東武電車の車体などが、霊験あらたかの如く、写真となって、いつもは広告板と利用されているところに、所狭しと何枚も一斉に展示されていたからだ。左に掲げたのは、その意義を述べた文章の一つである。乗車時間は春日部・岩槻間のわずか10分足らずだったが、その電車はメモリアルトレインで後尾車両のお尻に当たるところに「東武鉄道杯少年野球大会」と銘打っていた。始めて昨年、人々が写真を撮りに集まって来る理由がわかった。東武鉄道が、車両開発を記念して、いつもはその路線では走っていない車両をこうして走らせているのだ、と。
こうして着いた岩槻駅駅前のワッツコミセンのお借りしている多目的ルームで、今年初の礼拝を持った。いつもどおり、賛美と聖書の朗読と祈りを、示された者がするという自由なスタイルである。事前の打ち合わせは一切ない。一年52週、愚直に各人が御霊に示されたまま参加している。牧師のいない私たちの集会は、まさにここ数日連載したモラビアン兄弟団が志向した「ユニクス・フラトルム(兄弟の教会)」である。
その最後にささげられた、聖書朗読の箇所と祈りには嬉しくさせられ、主の御名を崇めざるを得なかった。それは昨晩、家庭で輪読し、そのことについて書かれているF.B.マイヤーの「きょうの力」を読んだ以下の霊想に通ずるものがあったからである。
私たちが神によりたのまないのは、神を知らないからです。もしも、神の神たることを知ったならば、どうして神によりたのまないことがありましょうか。人はよく自分の信仰の小さいことを嘆きます。その原因は神を知ることの少なさにあります。あるいは私たちは神については知っているかもしれません。けれども、神ご自身を知らないのではありませんか。人々が神について語っていることは多く聞きます。けれども、自分自身で、直接に、人格的に、神ご自身を知らないのです。
神を知る材料は至る所にあります。自然にも、聖書にも、また諸聖徒の模範にも。そして、何よりも、「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう」という、主ご自身の論理を突きつめて考えてください(マタイ7・9、10)。ちょっと知っただけでは、友人を知ることはできません。神はなおさらです。もっとゆっくり、もっと深く、もっと親しく、顔をあわせて、神ご自身を知りましょう。
このようにF.B.マイヤーが書き記した(『きょうの力』328頁)のは、下段にお示しする聖句だった。そして、先ほどの最後の方というのは、お年を召してから、主の救いにあずかられた元国鉄マンであったが、その方が読まれたのも同じ聖句をふくんだものであった。顧みると、礼拝に参加するために、寒風の中「暖を運ぶトレイン」に乗車した私は、礼拝においては、その元国鉄マンの方の祈りに励まされ、心の中に「暖」をいただいたと言える。記念にその聖句を記す。
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね呼び求める者をお見捨てになりませんでした。(旧約聖書 詩篇9篇10節)
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