チベット自治区(※) |
さて、今回第三回目としては「転」として、ヘルンフート村から実際に海外宣教という働きがどのように展開していったかその実際を見たい。それはまさに第一回の「挿絵」として紹介させていただいた、『地の極の開拓者(海外伝道物語)』の表表紙・裏表紙として示されていた世界地図が示すとおりである。つまり、ヘルンフート(村建設の場面)→西インド諸島(手を伸ばし救いを求めている人)がその最初である。時は1732年であった。
その後、グリーンランド(1733年)、北米インディアン(1735年)、サリナム(1735年)、ホッテントット(1737年)、アフリカの心臓部(1854年)、ラプラドル(1752年)、チベット(1853年)、ニカラグア(1849年)とその宣教はヘルンフートに居を構えるモラヴイアンの人たちによって進んで行った、このような相次ぐ『地の極の開拓者』の働きがこの本では10話ほどに分けて詳しく紹介されている。その中のほんの少しの部分であるが「辛苦の伝道旅行」と題するチベット伝道に関するエピソードを以下に紹介したい(『宣教物語(地の極の開拓者)』山崎鷲夫著137頁〜142頁の引用)
ここに一人の何かを商うらしい人物がある。彼はチベット特有の服装をしていて、広い鍔のある帽子をかむり、えび茶色の手織りの長上着を着ている。手には杖を持ち、辛抱強げな馬のそばを静かに歩いている。行手は岩石重畳の道である。一方は稜線の鋭い険しい岩山であり、一方ははるか下方の流れまで切り落としたような断崖である。したがって馬の足取りが絶えず確かであるように不断の注意が必要であった。そうでなければつまずいたら最後、川の中に転落するばかりでなく、荷物もろとも大損害を被らねばならない。
彼はどう見ても商人にしか見えぬ、彼の馬にはあらゆる品物が振り分けに積んである。小さな天幕のように見える大袋、折りたたんだ寝床の包み、馬糧のまぐさ、それに湯沸かしと鍋である。だからして季節的旅行者のように見える。しかし彼は商人ではない。羊毛やホウ砂や杏の買い出し人でもない。すなわち彼は神の国の業務に携わっているのである。彼は他の人々に語るべき何物かを持っており、そのために家を捨て、故郷を離れたといって過言ではない。彼はまた家族をも犠牲にしている。しかもなお彼は歩みつつ歌っているではないか。
彼の心には神の恩寵が溢れていた。彼はキリストの中に救いを見出したのでその心には思念と理解以上の平和が保たれていた。このキリストを信じた平凡なチベット人は荷を積んだ馬を引っ張りながら放浪者のごとく福音を運搬している。彼は西の国の書物を持っているゆえに度々蔑視される。その書物は我らのものと型が全く異なっていて、非常に細長く、ルーズリーフの様式であり、とぢ金は赤と黄の木製のネジである。いかにもチベット人に喜ばれる書物の形であるが、その内容は福音、すなわちチベット語の聖書であった。
この放浪者は道端で簡素な食事を料理し、大麦のパンや干し杏をかじり、乳油の茶を飲んだりする。道すがらどこかの村に入ると、先づ子供を道端に集め、その中に座り込んで絵巻物の一束を取り出すという段取りである。その中にはわずかなものしかないが、聴衆にとっては全く珍しいものばかり、九十九匹の羊を野に置いて一匹を尋ねにゆく善き牧羊者の話や、十字架上で死に給うた世の救い主の話など。そして罪深き世人を救うために死に給うた神の子の物語と生涯とがこの書物の中に記されているとて、やおらその袋を開いて聖書を見せるわけである。時に聴衆の中の誰かが「もっとその救い主について知りたいのですが、一つその本を下さい」と言う。こうして村から村へと巡回し、折よく通り合わせた旅人と話したりする。やがて袋は軽くなり、荷物がきれいさっぱりになると、身軽になって帰途につくのである。
道すがら渡りたくとも狭くてろくろく横木もないような橋や、全然橋がなくなって徒渉せねばならぬ河、石がなだれ落ちるような断崖があった。また昼は炎熱灼くがごとく、夜は寒気肌を刺すような気候の激変があった。行く先々でも、伝道者が歓迎されない村があり、彼もその書物も排斥された。それでも彼はできるだけ忍耐して、単純な信頼の歌を唄いながら進んだ。そしてただ主の御命令を実行し、同胞の間に出るだけ忠実に証をなし得たことを意識しつつ家に帰り着いたのであった。
チベットの国境からほど遠からぬレーの村に、小さな病院があった。人々は診療を求めて集まって来る。大抵は裸足の巡礼者で旅行病にかかっていた。ある者は盲目で、白内障を癒す道があると聞いて遠くからやって来たのである。これはモラヴィアンの病院である。受信者たちは必ずしも聖書の話を聞くことを無理強いされてはおらない。しかしチベット人の伝道者が待合室にいて、誰でも耳傾ける人のために話してやる準備がなされていた。
ここには婦人の医者が働いているが、彼女の父親もかつてこの同じ病院の医師として在任していた。父を失った少女は一旦英国に帰ったが、学校や大学を終えると再びチベットに来て国境でその父の業を継いでいるのである。これこそモラヴィアンの伝統でなくて何であろう。宣教地への召命はその血の中に通っているのである。この若き婦人の医者は種々な企画に満ちていて、近くの村にも支部とも言うべき診療所を設けている。そして他の多くの同僚たちと共に、信仰と忍耐をもってやがてこのチベットの大秘境が福音に対して扉を開くに至ることを待っているのである。
山を越え、谷に沿うて曲りくねって行く川道に、諸君は岩石の上に彫刻された仏教の聖語を見出すであろう。またそれと同じ言葉が、門柱や祈祷用輪軸や、風にはためく旗の上から諸君に挨拶するのを見るであろう。宣教師はかかる岩石でさえも、ブッダに対する無言の証を立てることが出来るのであるから、同様に主イエス・キリストをも証するであろうと言うことを考えてみた。そこで彼は岩石に福音の言葉を書くことを決意した。そして海抜3000メートルのキエラングの村外れで働きが始まったのである。平らな岩の上に型紙を置いてペンキや刷毛で文字を記すことは大して難しいことではない。
巡礼者たちは苦しげに歩きながら、岩の上に刻まれた仏教の聖語と共に、『神は愛なり』あるいは『それ神はその生み給える独り子を賜うほどに世を愛し給えり』などの言葉を見、何を意味するかを考えて不思議に思うのである。よし彼らはこれを了解せずとも、また彼らに読むことが出来ずして単に文字や彫刻が珍しいものであるにしても、彼らは宣教師のところに尋ねに行くということである。
※この写真は、『秘境探訪(中国少数民族地帯を行く』と題して藍健二郎さんが写真集として出版されているものを、友人からいただいて、使わせていただいた。このところは見開き二頁にわたる写真で、どうしても折り目に当たる部分が邪魔になってきちんと反映されていず、作者には申し訳ない思いがする。この場所は下部に金沙江(チンシャー川)が流れており、その対岸がまさしく「西蔵」と赤字で岩石に書き記されているとおり、チベットであることがわかる。21世紀の今日においても秘境であるチベットに19世紀、閉ざされた扉を開けるかのようにモラヴィアンの人たちは福音を伝えに入っている。この時、モラヴィアンの人たちは西側から入っている。それに対して写真集を著された藍さんは東側から入っておられる。だから拝借させていただいた写真は上記本文に示されたチベットを反映したものではないことをご了承いただきたい。しかし、私には本文が示す最後の数行が心に響いた。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受けるものは、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(新約聖書 マルコの福音書16章15〜16節)
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