2024年1月6日土曜日

ツィンツェンドルフ伯爵(補遺編)

白鳩と 小春日和を 分かち合う
「ツィンツェンドルフ伯」と題して過去三日間、長々と書いてきましたが、モラビアン・ミッションの成り立ちについて、海老澤氏がそのヘルンフートの故地を訪ねて、帰国後書かれたレポートをこの機会に転写します。(『海外伝道物語』5〜12頁より※。)

神の国のために

 今しもデンマークの国中、歓喜にあふれて、会堂の鐘は鳴り響くのであった。

 それは若いスエーデンの王チャールズ第十二世の凶暴な手より逃れ、彼の軍隊はデンマークから撤退して平和が回復されたからである。

 デ・デアムの聖歌の声はすべての会堂から洩れてくる。この日デンマーク王フレデリック第四世は、深い感激をもって会堂から出てきた。彼の心の中に、不思議にも、神の恵みを、この本国の臣民ばかりでなく、海外の属領、そこには白人を牧する牧者もなく、ましてや異邦人の魂に心を用うる何者もまだおらない所の海外に、福音の伝うべき責任のあることを、ささやいてやまぬものがあった。彼はすぐに宮廷牧師を召してその心中を打ち明けた。

 先ず最初に宣教師をインドへ送らなければならぬ。「それはデンマーク国家のための事業でなくして、神の国のためであらねばならぬ」と彼は言い、宮廷牧師にその宣教師の推薦を命ぜられた。

 宮廷牧師は考えてもみたが、どうもデンマーク人中にその適任者の心当たりがなかった。それで当時ドイツにおいて、キリストのために特殊な献身の覚悟をなした一団の者を率いて、ドイツルーテル教会に新生命をそそぎつつあったスピネルという人に手紙を認めたのであった。

 その一団とは世に「敬虔派」と呼ばるるところのものであり、敬虔派とは、神の聖言(みことば)を研究し、そのごとく生活せんとする主意によって結成された一団であった。そこでスピネルはその一団の中から、特に青年チーゲンバルグを選んで、海外伝道の準備のために、彼をハレ大学へ送った。

 当時ハレ大学にはオーガスト・ヘルマン・フランケがおった。彼は教授であると共に、一大孤児院の創立者であり、貴族の子弟を収容する学校の校長であり、その大学、その町で、有数な人物であった。彼は海外伝道の熱心家であって、その頃支那伝道のことをしきりに考えていたのである。

 前途有望の青年チーゲンバルグは、フランケ教授の下に、異邦人の使徒となるべき準備をなした。

 そしてその親友ブルツチャツと二人は、1705年10月に、コペンハーゲンへ往って、フレデリック第四世に謁見した。その後インドへ出かけて往き、この王および英国の友人らの後援の下に、インドに新教のミッションを開設したのである。

 これは、我がモラビアン教派の運動の先駆と言ってよい、これからツィンツェンドルフ伯爵の活躍する舞台が展開してくるからである。
           ☆
 10年の後、休養のため、インドの宣教師チーゲンバルグがドイツに帰国した。彼はインド人の信者二人を同伴して帰った。そしてその一人は将来伝道する目的で、教育を受くることとなった。

 ハレにおけるフランケ教授の家で、この珍しい宣教師に逢い、その話を聞いた者の中に、熱信な青年貴族、我がツィンツェンドルフ伯爵がおったのである。伯爵は当時同大学に学び、その学生間に、すでに「芥種(からしだね)の会」というのを組織していた。その会の目的はユダヤ人を始めすべての異邦人を教化するというのにあった。そのような心がけで、今海外から戻った宣教師の話を聞きその生きた証し人たるインド人を見て、伯爵はどのように激励されたであろうか。若い貴族の信仰の血は燃えた。

 そして伯爵はその親友の一人、フレデリック・ホン・ワッテビルと契って、何れの時か、神様が選び給う宣教師を用いて、他の何人も伝道しない地方に、福音を伝えるミッションを開始しようと決心していた。少年は成人した。神は時至って彼らにその働き手を与え給うのであった。

兄弟教会の人々

 三十年戦争によって打撃を受けて離散したユニクス・フラトルム(兄弟の教会)の残党が、その頃まだ、モラビヤの地方に彷徨(さまよ)うて、その信仰と実行を継続していた、彼方此方にその尊い信仰と伝統とを持っている家々があったが、次から次とこれを訪ねまわっていた一人の篤志家があった。その名をクリスチャン・ダビッドと呼ぶ。

 彼はかつてローマ・カトリック教の熱心家で、ほとんど狂熱的であったが、のち漸くその良心に不安を覚え、信仰の自由を求めて彼方此方を流浪していた。ローマ・カトリック教会の圧制の下に、聖書を読もうとしても、秘密にして持っていなければならず、その上、信仰上の光を求めても誰一人導いてくれる者のない当時において、ダビッドは自身の宗教経験から、かかる人々の助け手となっていた。彼らの間には、何とかして自由の天地に信仰を楽しみ、良心の満足する宗教生活をしてみたいという熱望が、自然に湧いてきたのも無理のないことである。

ツィンツェンドルフ伯爵の保護

 「ツィンツェンドルフ伯爵の領地内にその安住の地が求められよう」というニュースは、彼ら同信の友には、実に神様からの恵みの音づれと響いた。当時ツィンツェンドルフ伯爵はすでに二十二歳の青年で漸く丁年に達して、伯爵と同様に神の国の事業に熱心な美しい夫人と、結婚するばかりになっていた頃であった。斯くてモラビアンの一小団、大人五人小児五人の一行が、身に一物も持たずに、夜陰に乗じて、住み慣れた今のチエコスロバキヤの地方を逃れ出て、ダビッドに導かれつつ、約束の地を目ざし、寂しい森の中を辿って、旅を続けた。ただ信仰自由の境地が、南ドイツの彼方に見出されるであろうという望みをもって・・・

 彼らは、斯くてサクソニーの一小邑ヘンネルスドルフへ辿り着いた。そこには伯爵の祖母の住み家があって、伯爵の幼年時代を過ごした村である。そこで伯爵の家庭教師はこの亡命客の一行を熱心に親切に世話してくれたのであった。 

 彼は、一行に、今のラバウとチッタウとの間の道路に沿った地をあてがった。それは一行の中の二人が鍛冶屋の経験をもっているので、この地方の道路が悪いために、車の輪が多く破損するから、この辺に落ちついたならば、仕事にありつき得るであろうという予想からであったという。

 彼はまた一行が木を伐って家を建つべき地点までも指し示してくれた。そこでダビッドはその斧を木の根に打ち込みながら、感謝と感激とにあふれて
   「まことや雀はやどりを得
        燕(つばくらめ)はその雛(ひな)を入るる巣を得たり」
と歌いつつ、働いたということである。それは1722年の6月17日のことであったと、その地点に建てられた記念碑に刻まれてある。

 ツィンツェンドルフ伯爵の教師は、この森の中に、泉を中心として、一つの広場を設け、市街を建設すべき考案を描いていた。けれどもそうするうちに冬が来て、ただ漸く淋しい森の中の路傍に、最初の一軒ができただけであった(この最初の家はその後火を失して半ば焼けたが、残された材木をもって、ツィンツェンドルフ伯爵の肖像を納める額縁が造られ、私も記念のためにその小さいのを一つ求めて帰った)。

 ある日のたそがれ時であった。若い夫人と馬車を駆って、その家路についたツィンツェンドルフ伯爵は、森の木立の間から、洩れ来る光に目をとめた。馭者に聞いて見ると、あれが信仰のために遁れて来た人たちの家であるという、伯爵は馬車から下りてその家を訪づれ、親しく歓迎の意を表せられた。伯爵がまことに愛と信仰とに満ちた好個のキリスト者であったことは、こうしたことによっても窺われる。

 彼の領地に定住することとなったのであるから、事実上彼の家臣である。けれども伯爵が彼らと共に跪(ひざまず)いて、彼らとその家とを祝福するよう神に祈られた時、主従の関係などというものは少しも感ぜられなかった、これがヘルンフートの小邑の始めであり、モラビアン・ミッションの起源をなす出来事であった。

ツィンツェンドルフ伯爵の指導

 その後もツィンツェンドルフ伯爵は、ただに保護者であったばかりでなく、その信仰、人格において終わりまで一団の指導者であった。彼は自ら毎回司会をして多くの歌を歌わせ、礼拝を守る習慣をつくった。また最初より兄弟主義をもって一団を律し、単純質朴をもって教会の風とした。今もなお婦人は教会に出席する時は、必ずレースの白頭巾をかぶり男女席を別にしている。昔は婦人たちが皆同じ質素な制服を着ていたというが、今は服装は色々である、そしてそのキャップを結ぶリボンの色によって、寡婦は白、夫人は緑、娘はピンク、少女は紅というように区別されている。後に宣教師を海外に派遣するようになった時には、その伝道地を、他の教団の手をつけぬ最も困難な地方、西インド、グリーンランド、ラプラドル、北米土人、南ア、ヒマラヤなどを選んだ。また伯爵自身西インドまで伝道視察に赴かれた記録をも見出されるのである。

 伯爵はまた教会のためにその領土中半径三マイルの一円の山地を与え、永くミッション事業を継続せしめた。従来その収入をもって伝道事業上に多くの便宜を得ていたが、大戦以後はサクソン州庁に貸与しているその土地から得るところは極めて少なく、ために事業上頗る困難を感じているという。それにしてもかかる篤信の領主の下に、一団の特殊な信仰団体が発展し来たって、全世界の伝道を企てつつあるのみならず、その感化はアングロ・サクソンの伝道熱心に点火し、殊にウェスレーを通じて全世界一千万の会員を有するメソジスト教会の運動を巻き起こさしめたことは驚くべき感化力と言わねばならぬ。

※ 以上、「モラビアン・ミッションの起源」と題する海老澤氏の論考でした。なお、同書は国会図書館内でデジタル化されています。全文は74頁の小冊子ですので、すぐ読めると思います。興味のある方はそちらの方もご覧になられてみてはいかがでしょうか。参考のためにサイトを記入しておきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000646738

彼(ノア)は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。(旧約聖書 創世記8章8〜12節) 

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