2024年1月13日土曜日

生きんがためのたたかい

こあかげら 枯れ木つついて 脇目なし 
 今日は思わぬ拾い物をした。それにしても、寒さしきりのこの日、古利根川はさしずめ野鳥たちの天下の感がした。いつも居場所を占領している鴨やカイツブリの縄張りは、上流から飛来した「ゆりかもめ」の八羽ほどに川中にしっかりと場所を占められ、別の川縁へと移動していた。一方、堤上では鳩やむくどりや雀たちが餌採取に余念がなかった。人は、と見ると、寒さも寒しなのだろう、釣り人は四名を数えるのみであった。

 ところが、いつもの散歩コースも、終わりに差し掛かった時、同行者が目敏く、道端の潅木の枯れ木に留まって盛んに動いている一羽の鳥の存在に気づいた。最初、私はどうせ雀じゃないかと高を括っていた。同行者はそれでも執拗にそばに近寄って手招きするのだった。近づいてみると中々動きの早い、小鳥であった。私たちが近づいたからと言って、逃げるでもない。しかし、この鳥は枯れ木をただつつくばかりで、それも下から上へと、下がってはまた上へ上がるなど足繁くその運動を繰り返し、動きに余念がない。こちらはその姿態を、iPhoneでとらえるべく懸命に追った。その写真の中の一枚が冒頭の写真である。

 なりは小さいが、木ばかりつついている。あとで知ったのだが、キツツキの一種だった。そしてその実際を目の当たりにできたのは幸いだった。そう言えば、二年ほど前に「ルリビタキ」をやはり岸辺の繁みのうちに望見できたことがあった。この時は、その余りにもの羽毛の美しさを目のあたりにして、儲け物をした思いがした。それ以来だ。

 それにしても、家に帰って、その鳥を調べるに際して我が唇から「アカゲラ」と言う呼び名が勝手に出て来たのには驚いた。手許の『野鳥観察図鑑』の、何と「アカゲラ」の隣に「こあかげら」が載っていて、まさしくそうだったからだ。

 日々厳しい寒さの中で川のうちにある豊かな糧を求めて小鳥たちは今日も餌を求めて集まってきては、飛び交い、あるいは泳いでいる。その上、川内には気づかないだけで、これまたたくさんの魚が餌を求めて泳いでいるのだ。左の写真は、川内にいる「ゆりかもめ」を撮影しようとして近づいたところ、岸辺にたむろしていた鴨が慌てて一斉に飛び散って行ったところである。

 まさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるはなし。」だ。悠久な自然界はかくしてとうとうと流れ来る。

 それにしても、震災のため集落全体が移動しなければ生活できないという今の能登半島の人々の実態は、小鳥たちの生態から見たらどのように映るのだろうか。大きな自然界の一コマと言っていていいのだろうか。人間には鳥と違って、それを解決する手段が神様からゆだねられている。

 年初来、東京新聞の『本音のコラム』の有識者の諸氏の言葉はそのような言葉で満ちている。「人間が起こす戦争は人間が防ぐこともできる。防げる戦争への準備でなく、防げない天災への対策にこそ税金は使うべきなのだ」(前川喜平1/7)「最低限の随行人数で現地の悲鳴を最大限受け止めてきてよね、首相なら。」(斎藤美奈子1/10)「防災を国政の柱の一つにする政府がほしい」(三木義一1/11)そして、『時代を読む』欄(1/7)では宇野重規氏が当番論者で最後に「人の命の重みと安全、そして人と人とが支え合うべきことを痛感させられた念頭に当たって、闇を突き進む決意をしたい」と述べている。それぞれ含蓄のある言葉だ。

 週刊新潮1/18号の『夏裘冬扇』で片山杜秀氏が過去の日本歴史における大地震の年代とその間隔、またその時代における被害とそれに対応した王朝の態度を振り返りながら、「もしも似たペースなら、南海トラフのX年も占える。北陸の現実を見よ!国土強靭化とは何だったのでしょう。」と無策であってはいけないと憂慮を示していた。

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ書8章7節)

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