こあかげら 枯れ木つついて 脇目なし |
なりは小さいが、木ばかりつついている。あとで知ったのだが、キツツキの一種だった。そしてその実際を目の当たりにできたのは幸いだった。そう言えば、二年ほど前に「ルリビタキ」をやはり岸辺の繁みのうちに望見できたことがあった。この時は、その余りにもの羽毛の美しさを目のあたりにして、儲け物をした思いがした。それ以来だ。
日々厳しい寒さの中で川のうちにある豊かな糧を求めて小鳥たちは今日も餌を求めて集まってきては、飛び交い、あるいは泳いでいる。その上、川内には気づかないだけで、これまたたくさんの魚が餌を求めて泳いでいるのだ。左の写真は、川内にいる「ゆりかもめ」を撮影しようとして近づいたところ、岸辺にたむろしていた鴨が慌てて一斉に飛び散って行ったところである。
まさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるはなし。」だ。悠久な自然界はかくしてとうとうと流れ来る。
それにしても、震災のため集落全体が移動しなければ生活できないという今の能登半島の人々の実態は、小鳥たちの生態から見たらどのように映るのだろうか。大きな自然界の一コマと言っていていいのだろうか。人間には鳥と違って、それを解決する手段が神様からゆだねられている。
年初来、東京新聞の『本音のコラム』の有識者の諸氏の言葉はそのような言葉で満ちている。「人間が起こす戦争は人間が防ぐこともできる。防げる戦争への準備でなく、防げない天災への対策にこそ税金は使うべきなのだ」(前川喜平1/7)「最低限の随行人数で現地の悲鳴を最大限受け止めてきてよね、首相なら。」(斎藤美奈子1/10)「防災を国政の柱の一つにする政府がほしい」(三木義一1/11)そして、『時代を読む』欄(1/7)では宇野重規氏が当番論者で最後に「人の命の重みと安全、そして人と人とが支え合うべきことを痛感させられた念頭に当たって、闇を突き進む決意をしたい」と述べている。それぞれ含蓄のある言葉だ。
週刊新潮1/18号の『夏裘冬扇』で片山杜秀氏が過去の日本歴史における大地震の年代とその間隔、またその時代における被害とそれに対応した王朝の態度を振り返りながら、「もしも似たペースなら、南海トラフのX年も占える。北陸の現実を見よ!国土強靭化とは何だったのでしょう。」と無策であってはいけないと憂慮を示していた。
空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ書8章7節)
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