私はあなたがその苦痛より救い出されるようには祈りません。しかし私は神が善しと見られる間はあなたがその苦痛に耐えられるよう、力と忍耐が与えられるように熱心に祈っています。神があなたを十字架にしっかり結びつけてくださるのですから、神に信頼して自らを慰めてください。神はふさわしい時にあなたを解放してくださるでしょう。(中略)
私たちが健康な時よりも、病気である時に神はある意味で一層近くいらっしゃり、一層明確に御臨在を私たちに示してくださることをあなたが経験なさるように切望しております。他のお医者さんに頼りなさいますな。私の考えによれば神は懇ろにあなたをお癒しになるご計画です。だからあなたは神に全く信頼しなさい。間もなくその結果は顕われて全快となるでしょう。私たちは神よりも医学に大いなる信頼を置くために回復を遅らせることがあります。どんな治療法を用いても神がお許しになる範囲を越えて成功することはありません。苦痛が神より出ている場合には、ただ神だけが癒すことができます。神は魂の病を癒すために、しばしば肉体の病をお与えになります。あなたの霊肉をともに癒してくださる神に頼って自らを慰めなさい。(略)
神があなたを置かれている状態に満足しなさい。あなたは私を幸福な人だとお思いなさるかも知れませんが、私はあなたを羨ましく思います。私は私の信ずる神とともに苦しむのであれば、その痛み、苦しみは私にとってパラダイスとなります。 もし私が神を離れているのなら、最大の快楽も私にとっては地獄となるでしょう。私の一切の慰めは主のために苦痛を忍ぶことです。
私は間もなく神のもとに往かねばなりません。この世において私を慰めるところのものは、私が今信仰によって主をご拝見できるということです。だから言うならば、「私はもう信じているのでなく、主をまのあたりに見させていただいている」という様です。私は信仰というものが、私たちに教えることを体験しています。私はこの確信を持ち、この信仰を働かせて神とともに生き、神とともに死ぬ決心です。
ですから、あなたもつねに神とともにいるようにしてください。これがあなたの苦痛の中で、あなたを支え、あなたを慰める唯一つの道です。私は主があなたとともにいてくださるように切に祈っています。
1690年11月17日 あなたのしもべであるロレンス
(上述の文章はブラザー・ロレンスのもの。彼の『敬虔の生涯』は明治年間から昭和40年代ごろまでは、何度か訳されて見かけたが現在ではあまり見かけない。手持ちの笹尾鉄三郎と西条弥市郎の訳を参考に現代風にアレンジした。笹尾鉄三郎によるとフランスのロルレーン州に貧しくも無学な青年がおり、18歳で救われ、一時は陸軍の歩兵だったが、1666年パリのカルメライツ教会に出席し、それからブラザー・ロレンスと呼ばれるようになったと言う。数十年間卑しい料理人として働き、神を知り神を愛することが深く、いつも主の御前に出て80歳で天に召された。笹尾の訳は以下のサイトでも読むことができる。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824082笹尾は内村が一目置いていた人物で、愛嬢ルツ子が病に瀕したときその神癒を笹尾に頼んだという。しかし笹尾は神癒を祈らず、復活の主を示し、ルツ子さんはそれを信じ喜んで天に召されたという。笹尾全集第5巻にその記述がある。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。ローマ14・8)
2014年3月31日月曜日
2014年3月29日土曜日
「ひとり旅」より
先日、国会図書館で小林儀八郎さんがお世話になられた長谷川周治さんの資料を検索中「ひとり旅」という館内限定閲覧資料を見た。その内容は戦時中日本から米国に留学したご子息が祖国の家族に送られた手紙の集成であった。たくさんある手紙を全部見たわけではないが、その中で眼に留まったものを下に写す。この時、ご子息は25歳である。
その後お変わりありませんでしょうか。この間お父さんとお母さんと静ちゃんから長い手紙をいただいてから、二週間になると思います。皆丈夫でおられることを知り神様の御摂理を感謝しております。堀の内の家に御恩恵の豊かにあらんことを祈っております。家の人が皆神様に用いられ、友人や隣人に親切にかつ福音を知らせるよう祈っております。何人の信仰といえども私たち一人一人を救い、新たに生まれ変わらせることはできません。イエス様ご自身のみ私たちを救い得るのです。内村先生の遺墨帖を通して、内村先生を救い用いたまうたナザレのイエス様の十字架上で死なれ給うたことを、宣べ伝えられるよう祈ってやみません。 日本のキリスト教はあまりに倫理的のようです。イエス様ご自身による救いをのべ伝えないと、力がなくなってしまいます。
このあとアメリカでのこの人の仕事(聖書を販売する)が今どんなふうになされているかが書かれている。そして
今日は日曜で近所の教会に行きました。立派な説教でしたが、イエス様の十字架による救いを強調しなかったので非常に残念に思いました。私たちは恐ろしい罪人なのです。私たちおよび他の人たちの一番必要なのはイエス様によって新たに生まれ変わり、イエス様に毎日生きることです。イエス様は生きておられて、我々信者の救い主として、友人として、主人として、父が子供をそだてるように信者のこの世における日常の生活—霊的、物質的の世話をして下さるのです。イエス様にまさる友はなく、イエス様にすべてをおまかせして私たちは百パーセント安全であり、真の平和を得られるのです。
これから先、どのようなことが起こるかわかりません。明日にもこの世の終わりが来るかも知れません。明日にも世界の万物が滅びてしまうかもわかりません。しかしイエス様の再臨を待つ者は幸福です。千代経し磐に身を任せおる者は心安しです。
僕は、これから田舎の方に奥深く、聖書を売りに行くつもりです。日本がドイツやイタリーなどの仲間入りをしているゆえ、日本人たる僕が他の人々に疑惑の眼をもって見られ、あるいは面倒なことになるかも知れません。こちらに四年半おりますが僕の英語はやはり外国人の英語に過ぎず、この英語という外国語を用いてこの国の人に、聖書の色々な特長や用い方、勉強の方法など説明せねばならぬのです。人一倍はづかしがりやの僕が、このようなことをすることになったのは神様の御導きと信じております。どうか祈って下さい。この夏は今までの中で一番むづかしい仕事をすることになったのですゆえ。
これまでの夏は筋肉労働をしましたが、今年の夏は頭と精神の労働をせねばならぬのです。しかしこれは僕の将来のために、非常に有益な経験となることと信じております。そればかりでなく、多くの霊的に飢え渇いている人に、聖書の勉強方法を知らせることは、非常に有益な、何物にも勝る善い仕事と信じております。
多くの信者は10年、20年、30年、と信者になっておっても、彼らの聖書知識は驚くほど、ほとんど進歩を見ないのです。私たちの霊的成長は、聖書の知識の進歩と伴います。(聖書学者でも霊的成長しない人はあります。新たに生まれ変わらぬゆえです。しかし霊的に成長し神様に用いられた人で、聖書の勉強を怠り、おろそかにした人はありません。)信者のうちほんの僅かの人のみ聖書それ自身の勉強をします。僕たちの売る聖書はこの国で、多分世界中で一番聖書そのものの知識をひろめ、かつ一般の人たちにも容易に用いられ得るようにできている聖書でしょう。・・・・
1941年5月25日
(『ひとり旅』742〜744頁より引用。 あの対日関係が悪化する前夜、米国でこのような若人のキリスト者が祖国日本と米国の人々の救いと成長のために祈りながら働いていたとは想像もしなかった。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」1ペテロ2・2)
その後お変わりありませんでしょうか。この間お父さんとお母さんと静ちゃんから長い手紙をいただいてから、二週間になると思います。皆丈夫でおられることを知り神様の御摂理を感謝しております。堀の内の家に御恩恵の豊かにあらんことを祈っております。家の人が皆神様に用いられ、友人や隣人に親切にかつ福音を知らせるよう祈っております。何人の信仰といえども私たち一人一人を救い、新たに生まれ変わらせることはできません。イエス様ご自身のみ私たちを救い得るのです。内村先生の遺墨帖を通して、内村先生を救い用いたまうたナザレのイエス様の十字架上で死なれ給うたことを、宣べ伝えられるよう祈ってやみません。 日本のキリスト教はあまりに倫理的のようです。イエス様ご自身による救いをのべ伝えないと、力がなくなってしまいます。
このあとアメリカでのこの人の仕事(聖書を販売する)が今どんなふうになされているかが書かれている。そして
今日は日曜で近所の教会に行きました。立派な説教でしたが、イエス様の十字架による救いを強調しなかったので非常に残念に思いました。私たちは恐ろしい罪人なのです。私たちおよび他の人たちの一番必要なのはイエス様によって新たに生まれ変わり、イエス様に毎日生きることです。イエス様は生きておられて、我々信者の救い主として、友人として、主人として、父が子供をそだてるように信者のこの世における日常の生活—霊的、物質的の世話をして下さるのです。イエス様にまさる友はなく、イエス様にすべてをおまかせして私たちは百パーセント安全であり、真の平和を得られるのです。
これから先、どのようなことが起こるかわかりません。明日にもこの世の終わりが来るかも知れません。明日にも世界の万物が滅びてしまうかもわかりません。しかしイエス様の再臨を待つ者は幸福です。千代経し磐に身を任せおる者は心安しです。
僕は、これから田舎の方に奥深く、聖書を売りに行くつもりです。日本がドイツやイタリーなどの仲間入りをしているゆえ、日本人たる僕が他の人々に疑惑の眼をもって見られ、あるいは面倒なことになるかも知れません。こちらに四年半おりますが僕の英語はやはり外国人の英語に過ぎず、この英語という外国語を用いてこの国の人に、聖書の色々な特長や用い方、勉強の方法など説明せねばならぬのです。人一倍はづかしがりやの僕が、このようなことをすることになったのは神様の御導きと信じております。どうか祈って下さい。この夏は今までの中で一番むづかしい仕事をすることになったのですゆえ。
これまでの夏は筋肉労働をしましたが、今年の夏は頭と精神の労働をせねばならぬのです。しかしこれは僕の将来のために、非常に有益な経験となることと信じております。そればかりでなく、多くの霊的に飢え渇いている人に、聖書の勉強方法を知らせることは、非常に有益な、何物にも勝る善い仕事と信じております。
多くの信者は10年、20年、30年、と信者になっておっても、彼らの聖書知識は驚くほど、ほとんど進歩を見ないのです。私たちの霊的成長は、聖書の知識の進歩と伴います。(聖書学者でも霊的成長しない人はあります。新たに生まれ変わらぬゆえです。しかし霊的に成長し神様に用いられた人で、聖書の勉強を怠り、おろそかにした人はありません。)信者のうちほんの僅かの人のみ聖書それ自身の勉強をします。僕たちの売る聖書はこの国で、多分世界中で一番聖書そのものの知識をひろめ、かつ一般の人たちにも容易に用いられ得るようにできている聖書でしょう。・・・・
1941年5月25日
(『ひとり旅』742〜744頁より引用。 あの対日関係が悪化する前夜、米国でこのような若人のキリスト者が祖国日本と米国の人々の救いと成長のために祈りながら働いていたとは想像もしなかった。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」1ペテロ2・2)
2014年3月28日金曜日
リビングストンの生涯(完)
| ビクトリア瀑布? 有島本挿絵 |
4月の始めにおいて、病んでいた腸より出血した。その量は多く、彼の衰弱は増し、憐な状態となった。しかしなお彼は彼の働きの完成に努力せんとした。かかる状態にあっても、なお博物の研究をつづけ、日曜の集いも休まなかった。
4月21日容態が改まった。彼は震える手で「驢馬に乗らんと試みた。しかし倒れ落ちた。従者は私を村に連れ帰った。全く力を失ってしまった。」と書いている。担架が彼を運ぶために作られた。それは実に心配な仕事であって、彼の痛みは加わり、衰弱は増すのみであった。4月27日彼は衰弱の極みにあって、最後の筆をもって日誌を書いた。「全く打倒された。留まる=元気が出る。乳ある山羊を買うために人を遣わした。我等はモリラモ川の堤にいる。」(※)
4月29日は彼の旅行の最後の日である。朝、彼はスシに小屋の一方を壊すことを命じた。担架が戸口から入らないので、そこより入れて乗るためである。彼は全く歩むことが出来なかった。かくて川や沼や水たまりの中を進んだ。やっと一行が乾いた平地に来ると、彼は度々地上に下ろさして休んだ。遂に一行はイララのチタンボの村に彼を運んだ。そこで彼は彼らが小屋を建てるまで雨がビショビショ降るので、家の軒下に置かれた。
小屋が出来ると彼らはその中の粗末な寝台に彼を運び、リビングストンはそこで世を明かした。翌日は静かに休んだ。彼は二、三のとりとめもない質問をなし、従者たちはもはや最期の遠くないことを知った。夜の始めのころは別に変わったこともなかったが、朝の4時になって戸の所に寝んでいた少年が、驚きの声をもってスシを呼び、主人は召されたのではないでしょうかと言った。蝋燭はなお燃えていた。彼は床の中におらず、その側に跪き、枕の上に組み合わせた手の中に頭を埋めていた。これは彼が常になす祈りの姿である。一同しばらく無言のまま佇んでいたが、起き上がる様もないので、従者の一人が静かに近寄って額に手を当ててみると、すでに冷たくなっていた。彼は召されたのである。
一人の従者をも従えずして、最も遠い旅へと旅立ったのである。しかし彼は最も敬虔なる祈りの態度において召された。その祈りは彼の霊を、愛する凡てのものと共に主の御手に託するために、またアフリカを—彼自身の愛するアフリカを—彼女の悲しみも罪も誤りも凡て共に、圧するものの報い主、失われたものの贖い主に委ねん、と祈りつつ召されたのである。
| ライオンに襲われる1844年のこと |
リビングストンの永眠の地を示す黒き墓石には次の如く刻まれている。
海山を忠実なる手に運ばれし
デビッド・リビングストン ここに眠る
伝道者、探検家、博愛家、
1813年3月19日、ランナックシャイヤーのブランタイヤーに生まれ、
1873年5月4日、イララのチタンボの村に瞑す。
30年間の彼の生涯は、土人に福音を伝うるために、未開の秘密を開くために、中央アフリカの奴隷売買を禁止するために、屈せざる努力をもって費やされた。その最後に記したる言葉は次の如くである。
「余が天外の孤客として言い得る凡ては、世界の開かれたる傷を癒さんと助力する、アメリカ人、英国人、トルコ人の一人一人の上に天来の祝福豊かならんことを。」
墓石の右側にはラテン語で
「余は他の何物にもまさりて真理を憧憬す。多年秘密に包まれし河源の探索の如き、これに比すれば価値少し。」とあり左側に次の聖句が刻まれている。
「我にはまたこの檻のものならぬ他の羊あり、これをも導かざるを得ず、彼らは我が声を聞かん。」
(『リビングストンの生涯』298〜305頁より抜粋引用。※有島・森本の共著になる『リビングストン』には以下の記述がある。「この条理なき一文こそ、実にこれ彼の絶筆なりき、彼は今やその感慨を記し得ぬまでに、衰弱せしなり、この文を読み来る者、誰か一滴同情の涙なからんや、彼は当日全く食糧に欠如したりければ、乳牛を買わしめんとせしも、遂に得ざりき、28日の如きは人を四方に派して、食物を求めしが皆手を空しうして帰りぬ。」(同書214頁)私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。ローマ14・7〜9)
2014年3月27日木曜日
リビングストンの生涯(9)
| 明治34年版表紙絵 |
彼は十二歳の頃、自己の罪人の姿を反省し、心の中に真理を受け入れることによって、充ち溢れる精神状態の実感を熱望するようになったと言っている。しかし彼は聖霊による超自然的の働きが、彼の中に起こる時までそんな大いなる恵みを受くる価値なしとの考えに妨げられて、福音において恩恵の無制限に提供されるという信仰を抱き得なかった。聖霊によりて打ち貫かれる時を待つべきだとは思いつつも、なお希望の根拠を内に見出さんと焦って、罪人の唯一の望み、キリストにおいて完成された業を認め得なかった。そうして彼の確信は消え、知覚は鈍って来た。しかもなお彼の心には平安がなく、如何なるものによっても充たされることの出来ない渇きが残された。
かかる状態にあった時、彼はディックの「未来王国の哲学」を読んだ。この書は彼の誤りを正して真理を示した。「私はキリストの救いを直ちに受けるという義務と、量り得ざる特権を知った。大いなる憐れみと恵みを通してこの救いを受けることができると謙遜に信じ、今なお堕落して偽っている心に、この信仰の体験を幾らか感じさしていただいた。私の生涯を主の御事業に捧げ、私のために死に給いし主の目的に対する私の愛慕を示すことが私の願いである。」※
ここにおいてデビッド・リビングストンの霊は疑いもなく、その内に注ぎ込まれた新しき生命によりて徹底的に打ち貫かれた。彼は単純に真理を理解したのでなく、真理が彼を捉えたのである。聖パウロもアウガスティンや、その他かくの如き人々に溢れた聖なる恩寵が、彼の心にも溢れたのである。この世的な欲望や願いはなくなった。彼はその著書において「神の制限なき恩寵が、血をもって贖い給いし神に対する愛と深き責任感とを起こさしめる。今までは自分自身の愛によって行動していたのであるが、今こそはこんな者を通して最も尊い神の愛の現われることを知った」と言っている。
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| 1901年日本の江湖に登場 |
最初彼は伝道者になろうとは考えなかった。「人の救いは各々クリスチャンの主な願望と目的に因る」と考え「彼の生活に必要なものより以上の金を得て、伝道のために捧げようと決心した。」その彼が自分自身を捧げようと決心したのは、グッヅラフ氏が支那のために英国と米国の教会に訴えた書を読んでからである。それは「幾百万の同胞が求めている。しかるに適当なる伝道者少なくして手不足を感じている」と言うのであった。これが彼にこの任務につかんとの熱望を起こさしめたのである。この時から—それはちょうど二十一歳の時であったが—彼の「努力は常にこの目的に集中されて少しも変わらなかった。」
工場において数年間単調なる労働に従事したことを、リビングストンは決して後悔しなかった。むしろ反対にこの時の経験を重要なる訓練の時期と考えている。そしてもし出来得るならば「再び同様な低い階級の生活をなし同様な困難を通ってゆきたい」と願った。彼が得た少年労働者に対する同僚愛はスコットランドにおいて、あるいはアフリカにおいて、同じ階級の人々を感化するに量りがたく尊いものであった。前にも言った如く、彼は本性的に平民であった。しかし決して高い階級を嫌ったのではない。晩年に彼は、人生の善いことを楽しんでいる平安と隙のある人をみるのもよい、しかし重荷を負える大衆に最も同情が起きる、と言っている。彼は生涯のすべての労苦と試練の中にあって、プランタイヤーでの少年時代の訓練が善かったことを感謝している。
2000人の人口を有するプランタイヤーの村には、奉仕的に少年たちに信仰の重要性を伝える立派な人たちがいた。特にトマス・ブルクとデビッド・ホッグは人々から尊敬されていた。リビングストンもこの二人より多くの感化を受けたが、特にデビッド・ホッグから大いなるものを受けた。彼は臨終において「少年よ信仰を君の生涯の日々の務めとせよ、一時的の熱心では駄目である。この信仰によって誘惑や他の困難も反って君をより善くなすであろう」と教えた。
リビングストンの最も好まなかった人は、言葉のみ多くて実行の伴わない人である。これに対する憎悪は年進むとともに増して、信仰告白とか形式的な信仰箇条を軽んじ、主のみことば「その実によりて彼らを知るべし」との信仰を益々強く抱くようになった。
(『リビングストンの生涯』第1章少年時代10〜13頁より引用。※1原文は"I saw the duty and inestimable privilege immediately to accept salvation by Christ. Humbly believing that through sovereign mercy and grace I have been enabled so to do, and having felt in some measure its effects on my still depraved and deceitful heart, it is my desire to show my attachment to the cause of Him who died for me by devoting my life to his service."である。http://www.gutenberg.org/files/13262/13262-h/13262-h.htm#CHAPTER_I.明治34年1901年刊行の『リビングストン』有島武郎・森本厚吉共著警声社版では同じ箇所が次のように訳されていた。「余はキリストによりて、直ちに救済を受くるの義務と、無限の特権あるを知れり。余は虔みて、主の恩恵を享くるによりて、救わるるを感じ、そして罪に汚れたる余の心も、なお救わるるべきを感じて、全生涯を余のために死せし主に献じ、クリストの跡に従うの希望を得たり」※2)
2014年3月26日水曜日
リビングストンの生涯(8)
リビングストンの家族に対する愛情がいかに深いかを今まで見てきたが、彼の家族外の人々に対する愛を思うとき、その愛がどこから来るのかわかる思いがする。次の文章はそのことを雄弁に語っている。このような愛は決して博愛主義者が持つ愛では断じてないと私は思う。
リビングストン博士は、最高の賜物を与えられている人に属する、驚くべき能力を持っていて、しかもそれは、一つの主題より主題へと移るのでなく、一つの気分あるいは調子から全く異なったものに瞬間的に変化してゆくのである。このころ彼の家庭に出した手紙に、よくこの特徴が表われている。
紙の一面に、熱病で死去した若き従者に対する、優しきクリスチャン愛の爆発と悲しみが書かれており、他の面にはバクハトラの地図が、山や川まで入れて、極めて地理的詳細に書かれている。その上部には幾分感傷的に、また半ば滑稽な詩が記されている。しかしそのために如何なる理知的な人も、彼の悲しみが浮薄で真面目さを欠いていると想像することは出来ない。我々が静かにそれを読むと、それは彼のこの黒人に対する愛の深さと優しさとを表明し、しかもその愛は永遠の世界に対する生ける見解と、唯一の救い主としてのキリストに対する信仰によって強められた、卓絶せるクリスチャン愛であることを証しする。また同時にこの可憐なる土人が彼に対して、如何なる愛をもって報いたかを示している。またこの若者の霊のためになさねばならぬ事をもなし得なかったと言うが如き、彼の自己詮索の真剣さと、自己批判の厳粛さが彼の伝道の義務に対する強き良心とともに表われている。
「可憐なるセハミよ、汝は今どこにいるか。汝の霊は今宵どこに宿れるか。かつて苦難の中に徘徊せる時、私が汝に語った言葉を思い出しているか。私は出来得るならば、今如何なることでも汝のために為さんとする。私は汝の霊のために泣く、しかし今如何なることをか為し得よう。汝の運命は定まった。ああ可憐なる愛するセハミよ、私はお前の霊に罪を犯したのではなかろうか。もしそうならば私は如何にして審きの日に汝に見(まみ)えんや。しかし私は汝に救い主について語った。お前はその救い主を覚えたであろうか。そして主は汝を暗黒の谷をも導き給うたであろうか。主は主のみなし得給う慰めを、汝に与え給うたであろうか。ああ主よ、願わくば私をして人々に忠実ならしめ給え。私が多くの霊に罪を犯すことなきように導きを垂れ給え。この可憐なる青年は一行の指導者であった。彼はよく他を導き特に私に対して忠実であった。私の欲するものは言わざる先に察してこれを整えた。夜は枕元に水瓶(みずがめ)を用意し、私が目覚むれば直ちに水を与えてくれた。肉を煮れば善き所を私に与え、夜眠るには善き場所を備え、何にても一番よいものを私にくれた。ああその彼は今何処に居るや。」
(『リビングストンの生涯』46〜47頁より引用。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」エゼキエル33・7〜9)
リビングストン博士は、最高の賜物を与えられている人に属する、驚くべき能力を持っていて、しかもそれは、一つの主題より主題へと移るのでなく、一つの気分あるいは調子から全く異なったものに瞬間的に変化してゆくのである。このころ彼の家庭に出した手紙に、よくこの特徴が表われている。
紙の一面に、熱病で死去した若き従者に対する、優しきクリスチャン愛の爆発と悲しみが書かれており、他の面にはバクハトラの地図が、山や川まで入れて、極めて地理的詳細に書かれている。その上部には幾分感傷的に、また半ば滑稽な詩が記されている。しかしそのために如何なる理知的な人も、彼の悲しみが浮薄で真面目さを欠いていると想像することは出来ない。我々が静かにそれを読むと、それは彼のこの黒人に対する愛の深さと優しさとを表明し、しかもその愛は永遠の世界に対する生ける見解と、唯一の救い主としてのキリストに対する信仰によって強められた、卓絶せるクリスチャン愛であることを証しする。また同時にこの可憐なる土人が彼に対して、如何なる愛をもって報いたかを示している。またこの若者の霊のためになさねばならぬ事をもなし得なかったと言うが如き、彼の自己詮索の真剣さと、自己批判の厳粛さが彼の伝道の義務に対する強き良心とともに表われている。
「可憐なるセハミよ、汝は今どこにいるか。汝の霊は今宵どこに宿れるか。かつて苦難の中に徘徊せる時、私が汝に語った言葉を思い出しているか。私は出来得るならば、今如何なることでも汝のために為さんとする。私は汝の霊のために泣く、しかし今如何なることをか為し得よう。汝の運命は定まった。ああ可憐なる愛するセハミよ、私はお前の霊に罪を犯したのではなかろうか。もしそうならば私は如何にして審きの日に汝に見(まみ)えんや。しかし私は汝に救い主について語った。お前はその救い主を覚えたであろうか。そして主は汝を暗黒の谷をも導き給うたであろうか。主は主のみなし得給う慰めを、汝に与え給うたであろうか。ああ主よ、願わくば私をして人々に忠実ならしめ給え。私が多くの霊に罪を犯すことなきように導きを垂れ給え。この可憐なる青年は一行の指導者であった。彼はよく他を導き特に私に対して忠実であった。私の欲するものは言わざる先に察してこれを整えた。夜は枕元に水瓶(みずがめ)を用意し、私が目覚むれば直ちに水を与えてくれた。肉を煮れば善き所を私に与え、夜眠るには善き場所を備え、何にても一番よいものを私にくれた。ああその彼は今何処に居るや。」
(『リビングストンの生涯』46〜47頁より引用。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」エゼキエル33・7〜9)
2014年3月23日日曜日
リビングストンの生涯(7)
昨日は妻の死がどのようなものであったか、リビングストンの書いたものを見た。アフリカ宣教は様々な戦いがあったが、その一つに現地における熱帯病との果てしない戦いがあった。したがって抵抗力のない子どもの同行はままならず、家族一緒に暮らすことは出来ず、それぞれ夫妻で英国とアフリカに離れて別々に暮らさねばならない時もあった。以下の記述はそのような折りに妻マリーが夫リビングストンへ寄せた思いを明らかにした箇所である。彼女の死の6年前のことであるが、余りにも預言めいている記事の思いがする。
リビングストン博士がケープタウンにおいて、愛する妻に別れを告げてより過ぎ去りし年月は、夫人にとっては実に悩み多き日々であった。二人の間に交わされた書信の多くは途中で紛失し、手に落ちるものは稀であった。住み慣れぬ英国において家もなく、健康は損われ四人の子どもに対する心遣いもあり、その上夫よりの消息は長らく途絶えがちであって、心配と不安より来る悩みは、時には彼女の信仰には余りに大き過ぎて彼女を非常に疲れさした。アフリカにおいて「牛者の女王」と言われた時や、彼女の全生涯において、精神力に充実した夫人を知っている人は、この英国における夫人を同人とは思い得ないほどであった。リビングストンが長い間彼女より消息を聞かなかった時には、彼女もまた深い悩みに沈んでいた。しかし祈りによりては心の平和を取り返すのが常であった(※)。彼女は夫をサウザンプトンに待っていたが、タニス湾における出来事のため彼はドーバーに上陸した。されど彼は彼女が再び別れまいとの希望を歌った歓迎の歌を読みながら、間もなく逢うことが出来た。
百千の歓迎、我がうちに溢(あふ)る、
遠い遠い異国(とつくに)より帰ります我が夫よ、君の故郷に、君の家庭に。
思えば君去りてより、如何に長らく別れしことぞ。
その年月、夢見ざる夜なく、思い悩まざる日なかりき。
憂いをもて君に近づかんとは、君かつて思いしや。
されば我が悩みを去り、再びここに君と見(まみ)えん。
我がうちにただ喜びと愛とのみ、すべては消え去りぬ。
そして再び君と別れじとの望み、楽しく、力強く、我が心に充つ。
百千の歓迎、我がうちに迸(ほとばし)り出づ、
愛と喜びと驚きをもて、再び君の顔を見ん。
君在(いま)さざる、長き長き年月、如何に悲しく過ごししことよ。
再び君と別るるは、殺さるるが如き思いす。
君よ再び私より去り給うな、君の目にはその約束あり。
私は生くる限り君を守り、君は私の死を護り給え。
されど死が優しく私を、いと高き祝福の家に導きなば、
百千の歓迎をもて、御国に君を待たん。
マリー
(『リビングストンの生涯』145〜147頁より引用。※推測するに、恐らく次のみことばも彼女のその時の心情にぴったりなものの一つだろう。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4・6〜7 それにしても、昭和8年に、このブレーキーの本を狭い家屋に住む藤本氏が子どもたちが寝静まった夜半、これらの訳文を読み上げ、幼子を抱える妻がそれを清書したとすると、このマリーの夫に対する賛歌をどのような思いで書き連ねたことだろうか、言わずもがなの思いがする。そしてこの讃歌にはいかなる困難にも動ずることのない天の御国に凱旋する幸せが全編をおおっており、それをこのような格調高い文語体に定着した藤本氏に感謝したい。)
リビングストン博士がケープタウンにおいて、愛する妻に別れを告げてより過ぎ去りし年月は、夫人にとっては実に悩み多き日々であった。二人の間に交わされた書信の多くは途中で紛失し、手に落ちるものは稀であった。住み慣れぬ英国において家もなく、健康は損われ四人の子どもに対する心遣いもあり、その上夫よりの消息は長らく途絶えがちであって、心配と不安より来る悩みは、時には彼女の信仰には余りに大き過ぎて彼女を非常に疲れさした。アフリカにおいて「牛者の女王」と言われた時や、彼女の全生涯において、精神力に充実した夫人を知っている人は、この英国における夫人を同人とは思い得ないほどであった。リビングストンが長い間彼女より消息を聞かなかった時には、彼女もまた深い悩みに沈んでいた。しかし祈りによりては心の平和を取り返すのが常であった(※)。彼女は夫をサウザンプトンに待っていたが、タニス湾における出来事のため彼はドーバーに上陸した。されど彼は彼女が再び別れまいとの希望を歌った歓迎の歌を読みながら、間もなく逢うことが出来た。
百千の歓迎、我がうちに溢(あふ)る、
遠い遠い異国(とつくに)より帰ります我が夫よ、君の故郷に、君の家庭に。
思えば君去りてより、如何に長らく別れしことぞ。
その年月、夢見ざる夜なく、思い悩まざる日なかりき。
憂いをもて君に近づかんとは、君かつて思いしや。
されば我が悩みを去り、再びここに君と見(まみ)えん。
我がうちにただ喜びと愛とのみ、すべては消え去りぬ。
そして再び君と別れじとの望み、楽しく、力強く、我が心に充つ。
百千の歓迎、我がうちに迸(ほとばし)り出づ、
愛と喜びと驚きをもて、再び君の顔を見ん。
君在(いま)さざる、長き長き年月、如何に悲しく過ごししことよ。
再び君と別るるは、殺さるるが如き思いす。
君よ再び私より去り給うな、君の目にはその約束あり。
私は生くる限り君を守り、君は私の死を護り給え。
されど死が優しく私を、いと高き祝福の家に導きなば、
百千の歓迎をもて、御国に君を待たん。
マリー
(『リビングストンの生涯』145〜147頁より引用。※推測するに、恐らく次のみことばも彼女のその時の心情にぴったりなものの一つだろう。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4・6〜7 それにしても、昭和8年に、このブレーキーの本を狭い家屋に住む藤本氏が子どもたちが寝静まった夜半、これらの訳文を読み上げ、幼子を抱える妻がそれを清書したとすると、このマリーの夫に対する賛歌をどのような思いで書き連ねたことだろうか、言わずもがなの思いがする。そしてこの讃歌にはいかなる困難にも動ずることのない天の御国に凱旋する幸せが全編をおおっており、それをこのような格調高い文語体に定着した藤本氏に感謝したい。)
2014年3月22日土曜日
リビングストンの生涯(6)
話が前後するが、リビングストンはすでに1861年、彼の48歳の時に妻を亡くしている。その当たりの記述を今日は見てみよう。
4月21日、リビングストン夫人は病気にかかった。25日には注意を要する容態となり、嘔吐は15分おきくらいに続いて薬は一つも胃に残らないのであった。26日にはさらに悪く譫言(うわごと)を言った。27日の日曜の夜、スティワート博士はリビングストンより、臨終が近づいた旨の報せを受けた。
「彼は箱で造った粗末なベッドの側に跪いていた。ベッドの上には軟らかい褥(しとね)が将に死せんとする夫人を覆うていた。彼女はすべての意識を失って深い昏睡状態にあった。その昏睡より醒すためのあらゆる努力は無効に終わった。強い薬の働きも、夫の声も、そこにまだいる霊に達する力がなかった。その霊は今は眠りの深みに、暗黒に、そして死へと沈み行くのであった。容顔はすでに固定し、呼吸の苦しく重いのは最後の近づいたのを明らかに示していた。多くの人の死に接し、多くの危険を冒して来た勇者も、今は全く子供のごとく泣き崩れた。」
リビングストン博士は、スティワート博士に彼女の霊を神の御手にささげるために祈ることを願った。側にいたキルク博士と共に、彼らは彼女の側に跪いて祈った。それから一時間もたたない内に、彼女の霊は神のみもとに帰った。それより三十分の後スティワート博士は、彼女の姿がその父モファット博士(※1)に似ているのに驚いた。彼はそれを話し出して一層リビングストンを痛めしめぬかと心配したが、ついに「容貌の変わったことに気づきますか」と言った。彼は彼女の顔から目を離さないで「そうです、その容貌表情が父そのままです」と答えた。
「ザンベジー河とその支流」において、リビングストン博士が妻の死に対して平静であるのに誰でも驚かされる。しかしこの書物は国民に対して彼の職務を報告するために書いたもので、彼の個人的気持ちに触れることは出来ない。彼の日誌あるいは手紙の数カ所の引用は彼の心の状態をよりよく示すであろう。
「これは私の遭った悲しみの中、最も酷い打撃である。私の力を全く奪ってしまった。私の多くの涙を受くるに足る彼女のために私は泣いた。私は彼女と結婚する時に愛し、共にいること久しきに従ってますます彼女を愛した。神よ彼女に深く懐いていた子供たちを憐れみ給え。私は私の一部と思っていた彼女を失って、この世界に一人残った。私は神の憐れみによりて、御国を我が家となし、彼女はただ一足先にその旅に出たのであることを知るべく導かれることを望む。ああ私のマリーよ、私のマリーよ、御身と私とコロンベにおいて漂浪しはじめてより、如何に度々静かなる家庭を持たんことを願ったであろうか。たしかに、我等の願いを熟知せられし優しき父なる神は、御身を今や永遠の御国の最もよき家庭に召してその願いに報い給うたのである。
祈りが彼女の紙片に書かれている。『主よ、私をありのままにて受け入れ給え、そうして御心に適うごとく私をなし給え』と。この祈りを彼女に教え給うた主は救いの事業を完成せずにはおき給わない。また彼女は手紙に『他の者をして恩賞を求めしめよ。私は金なくしても富むことができると友人に書いた。利害関係なき動機より、私はこの世界に貢献せんと願う。私は百の恩賞にも代え難き動機を、私自身の行為の中に持っている』と書いている。」
「彼女をシュパンガにおいて、60フィートの周囲を有する大きなバオバブの樹下に埋めた。従者は墓を建てるまでその地を守ることを願った。我等は古い廃屋より煉瓦を掘って来て墓をつくった。」
「5月11日コンゴネにて。私の愛するマリーは今宵で14夜を天国に過ごす—肉体を離れて主の御前に。今日汝は我とともにパラダイスにあるべし。天使は彼女をアブラハムの懐に運んで行った。—キリストとともにあるははるかにまさることなり。アダムより七代目のエノクは「見よ主は一万の聖徒とともに来る」と預言している。汝も主とともに栄光の中に現われるであろう。主は彼とともに来たり給う。ゆえに彼らは今主とともにある。我は汝らのためにところを備えに行く。神の栄光を見るべく、我がいる所に汝らもいるべし。Moses and Elias talked of the decease He should accomplish at Jerusalem; then they know what is going on here on certain occasions. They had bodily organs to hear and speak. 私の生涯において死することを願ったのはこれが初めてである。」(※2)
(『リビングストンの生涯』209〜212頁より引用。※1リビングストンは26歳のとき、モファット博士Robert Moffat (missionary)の南アフリカ伝道の話を聞き、それが彼のアフリカ伝道のきっかけになった。後年彼はその博士の娘と結婚したのであった。※2実に崇高な箇所である。ほぼ赤字で示したのが聖書本文である。その合間に愛する妻マリーが天の御国にいる確信と喜びが語られており、どこからどこまでがリビングストンのことばでまた神のことばであるか分からない。それだけリビングストン自身の心は聖書と一体であったことが分かる。訳者である藤本さんはなぜかブレーキーの原文の英字部分は訳しておられない。煩雑と思われたのかもしれないが、読者はルカ9・30〜36をひもとかれたし。英文はその箇所を指していると思われる。)
4月21日、リビングストン夫人は病気にかかった。25日には注意を要する容態となり、嘔吐は15分おきくらいに続いて薬は一つも胃に残らないのであった。26日にはさらに悪く譫言(うわごと)を言った。27日の日曜の夜、スティワート博士はリビングストンより、臨終が近づいた旨の報せを受けた。
「彼は箱で造った粗末なベッドの側に跪いていた。ベッドの上には軟らかい褥(しとね)が将に死せんとする夫人を覆うていた。彼女はすべての意識を失って深い昏睡状態にあった。その昏睡より醒すためのあらゆる努力は無効に終わった。強い薬の働きも、夫の声も、そこにまだいる霊に達する力がなかった。その霊は今は眠りの深みに、暗黒に、そして死へと沈み行くのであった。容顔はすでに固定し、呼吸の苦しく重いのは最後の近づいたのを明らかに示していた。多くの人の死に接し、多くの危険を冒して来た勇者も、今は全く子供のごとく泣き崩れた。」
リビングストン博士は、スティワート博士に彼女の霊を神の御手にささげるために祈ることを願った。側にいたキルク博士と共に、彼らは彼女の側に跪いて祈った。それから一時間もたたない内に、彼女の霊は神のみもとに帰った。それより三十分の後スティワート博士は、彼女の姿がその父モファット博士(※1)に似ているのに驚いた。彼はそれを話し出して一層リビングストンを痛めしめぬかと心配したが、ついに「容貌の変わったことに気づきますか」と言った。彼は彼女の顔から目を離さないで「そうです、その容貌表情が父そのままです」と答えた。
「ザンベジー河とその支流」において、リビングストン博士が妻の死に対して平静であるのに誰でも驚かされる。しかしこの書物は国民に対して彼の職務を報告するために書いたもので、彼の個人的気持ちに触れることは出来ない。彼の日誌あるいは手紙の数カ所の引用は彼の心の状態をよりよく示すであろう。
「これは私の遭った悲しみの中、最も酷い打撃である。私の力を全く奪ってしまった。私の多くの涙を受くるに足る彼女のために私は泣いた。私は彼女と結婚する時に愛し、共にいること久しきに従ってますます彼女を愛した。神よ彼女に深く懐いていた子供たちを憐れみ給え。私は私の一部と思っていた彼女を失って、この世界に一人残った。私は神の憐れみによりて、御国を我が家となし、彼女はただ一足先にその旅に出たのであることを知るべく導かれることを望む。ああ私のマリーよ、私のマリーよ、御身と私とコロンベにおいて漂浪しはじめてより、如何に度々静かなる家庭を持たんことを願ったであろうか。たしかに、我等の願いを熟知せられし優しき父なる神は、御身を今や永遠の御国の最もよき家庭に召してその願いに報い給うたのである。
祈りが彼女の紙片に書かれている。『主よ、私をありのままにて受け入れ給え、そうして御心に適うごとく私をなし給え』と。この祈りを彼女に教え給うた主は救いの事業を完成せずにはおき給わない。また彼女は手紙に『他の者をして恩賞を求めしめよ。私は金なくしても富むことができると友人に書いた。利害関係なき動機より、私はこの世界に貢献せんと願う。私は百の恩賞にも代え難き動機を、私自身の行為の中に持っている』と書いている。」
「彼女をシュパンガにおいて、60フィートの周囲を有する大きなバオバブの樹下に埋めた。従者は墓を建てるまでその地を守ることを願った。我等は古い廃屋より煉瓦を掘って来て墓をつくった。」
「5月11日コンゴネにて。私の愛するマリーは今宵で14夜を天国に過ごす—肉体を離れて主の御前に。今日汝は我とともにパラダイスにあるべし。天使は彼女をアブラハムの懐に運んで行った。—キリストとともにあるははるかにまさることなり。アダムより七代目のエノクは「見よ主は一万の聖徒とともに来る」と預言している。汝も主とともに栄光の中に現われるであろう。主は彼とともに来たり給う。ゆえに彼らは今主とともにある。我は汝らのためにところを備えに行く。神の栄光を見るべく、我がいる所に汝らもいるべし。Moses and Elias talked of the decease He should accomplish at Jerusalem; then they know what is going on here on certain occasions. They had bodily organs to hear and speak. 私の生涯において死することを願ったのはこれが初めてである。」(※2)
(『リビングストンの生涯』209〜212頁より引用。※1リビングストンは26歳のとき、モファット博士Robert Moffat (missionary)の南アフリカ伝道の話を聞き、それが彼のアフリカ伝道のきっかけになった。後年彼はその博士の娘と結婚したのであった。※2実に崇高な箇所である。ほぼ赤字で示したのが聖書本文である。その合間に愛する妻マリーが天の御国にいる確信と喜びが語られており、どこからどこまでがリビングストンのことばでまた神のことばであるか分からない。それだけリビングストン自身の心は聖書と一体であったことが分かる。訳者である藤本さんはなぜかブレーキーの原文の英字部分は訳しておられない。煩雑と思われたのかもしれないが、読者はルカ9・30〜36をひもとかれたし。英文はその箇所を指していると思われる。)
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