2017年1月6日金曜日

反射か拒絶か

今日しも  恋の鞘当て 鴨数羽

主は、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4) 
その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。――神である主の御告げ。――(エゼキエル16:14)

 草の葉先に弱々しげに吊り下がっている、可哀想な小さな無色の水滴をごらんなさい。それは全然美しくありません。なぜあなたはそれを見るのをやめるのですか。太陽が昇り、すっかり新しくなるまで待っていなさい。水滴はダイヤモンドのようにキラキラ輝きます。そして、もしもあなたが別の側から眺めるなら、それはルビーのように光を放ち、エメラルドのように今しもキラリと光るでしょう。こうしてあわれな小さな水滴は今まであなたが見たものの中でもっとも輝ける愛らしいものの一つとなりました。

 けれどもそれは水滴自身の輝き、美しさでしょうか。とんでもありません。もし水滴が一旦地面に落ちて日の光のらち外に出ようものなら、もはやあわれな汚い水滴に過ぎないからです。そのようにもし義の太陽であるお方、栄光あふれ愛する救い主があなたを照らされるなら、主ご自身の輝きと麗しさの小さな光線があなたの上に見られるのです。

 時々私たちは太陽なるお方がそこに射し込んでいるのを人の顔にあらわれた幸福な光によって見ることができます。しかし、もし太陽なるお方が本当に照らし出されているなら、聖潔、愛、喜び、平和、親切、善意、信仰、謙遜、すなわち生活を、あなたの生活でさえも大変愛らしく彩る美しい光線の何本かがあるのは確かなことであります。
 
イエス様 主様 私は あなたのところに 参ります
あなたは かつて そうしなさいと おっしゃってくださいましたね
私に 私の生活がどんなものであったらよいか 話してください
私の罪を 取り去ってください

イエス様 主様 私は あなたを あなたの神々しい みことばのうちに
学びます そこに あらゆる お約束が あります
その約束は 私のものと 呼んで いいのですね
 
Jesus, Lord, I come to Thee, Thou hast said I may;
Tell me what my life should be, take my sins away.
Jesus, Lord, I learn of Thee, in Thy Word divine;
Every promise there I see, may I call it mine!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-6-reflecting-or-rejecting/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97170です。

※Godhold Bck(137)

『聖書とは何か』第五部[6]

 もしも旧約聖書の霊感を否定するなら、パウロの書いたロマ書はいっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ロマ書の半分は旧約聖書からの引用だからです。ちょっとロマ書から何ヵ所かお読みしたいと思います。1章2節
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 御子に関することです。

3章2節に
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

9節
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3章21節
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

4章3節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

4章17節
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

9章13節
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

9章17節
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 また、パウロは他の手紙においても同じように旧約聖書のみことばを用いて書いています。コリント第一の手紙1章18節19節です。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

また、コリント第一の手紙2章9節です。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

と、書いてあります。3章19節には
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

14章の21節
律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」

15章45節
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

54節
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

と、あります。またコリント第二の手紙6章2節
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

16節から18節まで
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

と、あります。また9章の9節です。
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

テモテ第一の手紙5章18節に
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

と。ガラテヤ書3章8節
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

と、あります。そして16節
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

と、書いてあります。それからガラテヤ書4章の22節
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

27節
すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

と、あります。

引用者註:みことばの引用が余りにも多く読者の中には辟易される方もおられるでしょうが、これらがいずれも旧約聖書の引用であることを注意していただきたいと思います。)

2017年1月5日木曜日

捨てるか用いるか

あなたの手にあるそれは何か。(出エジプト記4:2)

 それが主が神の栄光のために用いることができるものであるかないかどうかを正直に調べてみましょう。もしそうでないならそれを捨てることをすぐに躊躇しないでいましょう。それは私たちが手放したくないものであるかも知れません。しかし「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります(2歴代誌25:9)。」 そして、キリスト・イエスすなわち私たちの主を知るすぐれた知識を先ず一瞥すれば、私たちにとって得であったものを損とみなすことができるでしょう。

 けれども、もしそれが主が用いることのできるものであるなら、主は以前よりもはるかに私たちにそれを用いさせなさるでしょう。モーセは主が自分の手にある杖を用いさせようとなさっていることを少しも考えていませんでした。彼が杖を役立てなければならなかった最初の事柄はそれを地に投げ出し、それが驚くべき変化を経る様を見ることでした。

 この後、モーセはそれを取り上げるように命令されましたが、すでにそうすることは難しく恐ろしいことでした。しかし、それが再び彼の手の中で杖になった時、それはもはや以前の砂漠の羊飼いとしてあちらこちらを彷徨った単なる杖ではなくなっていました。その時以来、その杖は 「手にある神の杖(出エジプト記4:20)」となり、しるしとなり、神ご自身はそれによって奇しいことを行われるようになりました(詩篇78:12)。

主は命令された 「何か食べる物を上げなさい(マタイ14:16)」
五つのパンと二匹の小さな魚 飢えた群衆を養うそれがすべての 貯えでした
主は弟子たちが それ以上何も持っていないことを ご存知でした
そして 主は 彼らを 何もない退避所に 集められました
弟子たちは 主が 一切れ一切れ 与えられるたびに それを 与えました  
そこには 緑の草の上に 大きい者も 小さい者も
誰も彼もが 満たされるまで
弟子たちのものは 全然何もありませんでした
あるのは 主のもの 次々増し加わる栄光のみでした

主よ 私には あなたに十分お仕えする 力はありません
私ができるのは全部で 「半日の働き」です
けれども あなたが その増やされる力で 触れてくださり
私でさえも 不思議に 新しくしてください
五つのことばで 五千人を養わせ
あなたの力を 弱い一時間に帰す いのちにまで 及ぼしてください


※Godhold Beck(136)

『聖書とは何か』第五部[5]

 使徒行伝に書かれた福音は何と力強いものでありましょうか。このことは全世界に短期間のうちにイエス・キリストの福音として広まりました。彼らの語った福音の力はいかなるものだったのでしょう。五旬節におけるペテロの説教は3000人の魂を主に導いたのですが、このことを学んで見て分かることは、語られたみことばの半分は旧約聖書からの引用であったということです。

 ペテロの奉仕の土台は旧約聖書でした。使徒行伝3章21節に
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

と、あります。そして、ペテロの書いた手紙を見ると旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。ペテロ第一の手紙1章12節
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

16節
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

2章6節
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

3章10節から12節まで
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

と、あります。それからペテロ第二の手紙1章21節に
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と、あります。

 使徒たちの働いた実、すなわち効果を自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を伝えなければならないのです。初代教会全体の証しもまた同様に旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。使徒行伝4章25節に
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

と、あります。

 今まで、私たちはマタイとヨハネ、そしてペテロについて考えて参りましたが、次にパウロについてちょっと考えてみたいと思います。パウロは旧約聖書の霊感を文字どおり信じたのでしょうか。パウロは旧約聖書に精通した学者であり、旧約聖書のもっとも深い事情を洞察した人でもありました。私たちは透徹した理性と徹底的な論理を持った人に、すなわちパウロに対して、彼が旧約聖書からのみことばをもって深く考えずに福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるでしょうか。決してそうではありません。パウロにとっては旧約聖書のどのみことばもほんとうに神のみことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台でした。使徒行伝24章の14節に
しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

28章23節
そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

と、あります。

引用者註:使徒たちがいかに旧約聖書を土台として福音を語ったか、私たちはこれらのベック兄のメッセージをとおして知らされます。私はかつて聖書の中に『聖書』が登場して来るのに面食らった覚えがあります。しかしその『聖書』とは『旧約聖書』のことでした。余りにも自明なことで、自らの不明を恥じますが、知らされて感謝なことです。)

2017年1月4日水曜日

主はなさる

強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。(歴代誌19:13) 

 ここでヨアブは「彼の前とうしろに戦いの前面に(19:10)」二つの軍隊があるのを知ります。彼は考えられる限りのもっとも賢い取り組みをし、兄弟を元気づけ、次のように言います。「主はみこころにかなうことをされる(19:13)」そして主がなさったことは彼に驚くべき勝利をお与えになることでした。彼が戦ったり蒙らなければならなかった損害は少しもないようにみえます。アラム人もアモン人も彼の前から逃走するばかりでした(15節16節)

 「 アモン人はアラムが逃げるのを見て、彼らもまた、ヨアブの兄弟アブシャイの前から逃げて、町にはいり込んだ。そこでヨアブはエルサレムに帰った。アラムは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、使いを送り、川向こうのアラムを連れ出した(19:15〜16)。」こういうことは私たちの見本にするために彼らに起こったのでなかったでしょうか。もし型やベールの薄明であったいにしえの日々にあったヨアブがイスラエルの神様をそれほどまでに信頼していたのなら、イエス・キリストの御顔にある神様の栄光の知識の光を得ている私たちがどうして同じく従順な確信の表明をするのに躊躇していていいでしょうか。

あなたが なさりたいことを なさってください
そうです ただあなたが良いと思われることを なさってください
あなたは まことに愛なるお方です 知恵に富み 真理なるお方です
私にとって そのことは 最善です
あなたの なさりたいことを 寄越してください 
打ちつける大雨 やさしい露 それとも 輝くばかりの日射し
静けき時にあっても 嵐の時にあっても 同様に
私の主であるあなたのご意志は なされます 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-4-let-the-lord-do/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97168です。

※Godhold Beck(135)

『聖書とは何か』第五部[4]

 マタイの福音書の中では旧約聖書の27回以上のものからみことばが引用されています。しかし、マタイだけではなくヨハネもまたマタイと全く同じ態度を取ったことがわかります。すなわち、ヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証しています。イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。

ヨハネ伝5章39節に
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

と、イエス様ははっきり言われたのです。そして、モーセによって書かれたものは神の権威によって書かれたものであると言っています。同じくヨハネ伝5章46節47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

と、あります。ヨハネは証明する時に議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片付けています。そしてヨハネは主イエス様が聖書すなわち旧約聖書をお教えになったと私たちに語っています。特にイエス様の受難の歴史においては旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しています。ヨハネ12章14節です。
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

と、ありますし、38節に次のように書いています。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

そしてヨハネ伝19章24節に
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

と、ありますし、28節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

36、37節に
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

と、書いてあります。そしてまたヨハネは証しを回顧しつつまとめ、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等に権威ある信仰の土台であると言っています。ヨハネ伝2章22節です。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

弟子たちは「聖書とすなわち旧約聖書とイエスが言われたことばとを信じた」とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致しています。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは彼らにとって重味のあるものであり、純金とみなされ用いられます。

引用者註:この1970年代ころだと思われるベック兄のメッセージをお聞きすると、何と多くのことばが今日本語から消えて行っているような気がしてなりません。たとえば、「たいとうに」とか「じゅんきん」です。まがいもので満足している生活の中で、貴金属業者はそうではないでしょうが、日頃「じゅんきん」の価値は果たして今も存在しているのでしょうか、ふっとそんなことを考えさせられました。) 

2017年1月3日火曜日

あなたの心はどちらに向いていますか

かまぼこの飾り切り 中々むつかしい

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)

 2歴代誌31:21で、私たちはヒゼキヤが始めたすべてのわざにおいて彼が心を尽くし目的をはたしたことを読みます。万事輝き活気があるのは単にはるかに楽しいことであるだけでなく、実際に主ご自身のみことばに書かれている神の命令の一つであります。私はこれは人によってより容易であることを知っています。恐らくあなたにとっては心からすべてのことをなすのは自然にできるでしょう。しかし、そのことすら十分ではないのです。他に何が必要なのでしょうか。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3:23)。」とある通りです。 

 主はあなたが主を喜ばすことを求めているのか、それともすっかり主が忘れられていて、他の人々の賞賛だけを考えているかどうかをご存知であります。けれども、恐らくあなたが心からそのことをなすのは難しいでしょう。

 時間をかけ、それゆえぐずぐずして、だらだらしたやり方で、特にやりたくないことをなすのをより好むのです。これは正しいでしょうか。あなたがなすことはどんなことでも、心をこめてやりなさい。他のどんな命令を破るよりも神様に従わないのは正しくないですか。主の御前でやましくないですか。多分あなたはこんなふうには決して思わなかったでしょうが、みことばはそうは言っていないので、あなたも私もそれらを変えることはできません。願わくは、この主のおことばに従えるように力をいただきましょう。その時にヒゼキヤに関する最後のことばは私たちにも真実になりましょう。すなわち、私たちは「目的を果たす」のです。

イエス様 主よ 
あなたは お用いになられるのですか
何よりも あなたのものである 人を

あなたが してくださいますように
私は 選びたくありません

ただ 私に あなたの声を 聞かせてください

イエス様 いつも
あなたに お仕えして
喜んで 自由でいられるように してください 


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-3-is-your-heart-in-it/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97167です。今日の詩の訳も好い加減である。読者の指導をお願いしたい。

※Godhold Beck(134)

『聖書とは何か』第五部[3]

 そして、第三番目はイエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方でした。主イエスご自身は初めからあったことばそのものでした。ヨハネ伝1章1節に
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と、書いてあります。預言者たちの中で語られた霊は主イエス様の霊だったのです。ペテロ第一の手紙1章10節に
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

と、あります。また、ヘブル書2章11節からお読み致します。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

 主イエスは旧約聖書全体は神の霊感によって書かれた神のみことばそのものであることを証明しておられたのです。

 今まで私たちは三つの点について考えて参りました。すなわち第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、そして第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証しだったのであります。

 今から第四番目の点、すなわち旧約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。主に、マタイ、ヨハネ、ペテロ、パウロとヘブル書の著者について考えてみたいと思います。使徒たちは自分たちの主に忠実に従いました。主イエスが高められたお方として、使徒たちに遣わしてくださった聖霊は使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威に基づいて聖書を用いて引用しました。私たちは聖霊が主イエス様と全く同じように教えて下さることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は同時にすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、主イエス様と全く同じように使徒たちも旧約聖書の霊感を信じ確信しました。

 先ず、マタイについて考えてみたいと思いますが、マタイは旧約聖書を引用し、用いる名人です。かつて取税人だったマタイは何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた何と適当なみことばをふさわしい時に引用し、用いることを知っていることでしょうか。マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにしてイエス・キリストにおいて成就されたかを私たちに証明しています。マタイの福音書の中には「書かれたことが成就されるために」という表現が何度も出てきます。マタイ伝1章22節に
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と、あります。生まれた時から死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。みことばが成就するためにこれらのことは起こらなければならなかったのです。

 ドイツの神学によるとイザヤ書の作者は一人ではなく二人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。すなわち、イザヤ書42章はドイツの神学によると、1章から40章までがイザヤの書いたもの、そして41章から66章までは別の人が書いたことになるのですが、そうだとしますとこの42章はイザヤではない、別の人が書いたことになってしまいます。しかし、マタイの書いたものによるとイザヤ書42章はイザヤ自身が書いたことになります。マタイ伝12章17節18節に
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。

と、あります。

引用者註: 鴎外に『かのように』という短編がある。これは主人公がベルリンに留学してドイツ新神学の影響を受けて帰ってくるという筋立てのように私は読んだ記憶がある。留学前も留学後も小説全篇には暗い雰囲気が満ちている。創作とは言え、鴎外のドイツ留学の一つの結果かもしれない。今日のベック兄によるドイツ神学批判はマタイの福音書の記述を通して具体的である。いのちはこうして信ずる者に満ち満ちて行く。ドイツ人であるベック兄をとおして福音の土台のしっかりした聖書読みが教えられる私たちは幸せである。そこには「暗さ」から解放された生きる希望があるからである。) 

2017年1月2日月曜日

目的のある苦難

あなたの手が私の上に激しく下って来ました。(詩篇38:2)

 あなたはかつて弦楽器の弦が技倆ある調律師のすぐれて繊細な手で、しかも固く押しつけられている様を見たことがないですか。調律師は音叉を決して変えないで、絶対的な和音をふるわせて、弦に完全に正しい音符を生み出すでしょう。実際的な手は鋭敏な耳と一体であり、その押えは抵抗に対してもっとも微妙な調整に耐えられるようにもたらされるのです。緊張が過度には決してなされず、決して弦は切られません。しかし、彼は何度も何度も音色が正しくなり、耳が満足し、筋肉がゆるみ押えがなくなるまで根気強く響きを確かめます。弦は非常に小さな音を生み出す小さな弱々しいものであるかもしれません。ところが、深い響きを一杯生み出すことのできる大きな低音のものとちょうど同じようにその場では求められているのです。

 調律師はちょうどそれと同じ苦労をし、弦自身の独自の音色を維持し絶対音に合わせ響く時満足します。その弦は自分で音を調整することはできませんでした。それをやりとげるどんな機械も今まで発明されませんでした。調律師の生きた手による確かで繊細な押えが音色をものにすることができるのです。あなたはあなたの調律師であるお方を信頼し、どんな圧迫があろうとも賛美の音色を始めたくはないですか。

おお 救い主様 痛みを押えてくださるのは 
あなたのやさしい手 とこしえに 釘あとに耐えられる手
そして 今やその影の下に あなたによって 隠されており
その苦難だけが 私に語りかけるのです
あなたは 私を 愛してくださると
 
'Tis Thy dear hand, O Savior, that presseth sore,
The hand that bears the nail-prints for evermore.
And now beneath its shadow, hidden by Thee,
The pressure only tells me, Thou lovest me!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-2-a-purposeful-pressure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97166です。

※Godhold Beck(133)

『聖書とは何か』第五部[2]

 主イエス様が弟子たちに旧約聖書を解き明かされた時、弟子たちの心は燃えたと記されていますが、これは何というすばらしいことだったでしょう。イエス様は復活のあと弟子たちに出会われた時、彼らのためにたった一つの福音だけをお伝えになりました。すなわち、すべてのことは成就されなければならない、ということでした。ルカ伝24章44節と47節までをお読み致します。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

と、あります。

 主イエス様は弟子たちに彼らの信仰の比類なき土台、すなわちモーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。主イエス様は旧約聖書の完全な霊感を信じておられなかったでしょうか。イエス様が旧約聖書の一語一語また一字一字をほんとうに神のことばとみなしておられたことは疑いの余地はありません。それはイエス様にとって揺るがざる確信でした。ヨハネ伝10章35節に
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。
 それですから、私たちは旧約聖書に対するイエス様の位置づけを主ご自身の証によってまとめることができます。マタイ伝5章18節に
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 

と。これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができます。マタイ伝24章35節に
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

と、イエス様は言われたのです。

 旧約聖書に対する主イエスの証しは何であったかをもう一度振り返って見ましょう。三つのことが言えます。第一番目は旧約聖書全体は神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証しておられます。もう一回読んでみましょうか。マタイ伝5章18節
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

ヨハネ伝10章35節
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。

 第二番目はイエス様はご自分こそ、旧約聖書の預言の成就であるとおっしゃいました。みことばはイエス様にとって、霊の糧でした。旧約聖書はご自分の生活と死と復活について預言しているだけではなく、預言通りになるということをイエス様はご存知であり確信したのであります。イエス様は預言通りナザレに住んでおられました。マタイ伝2章23節に
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

と、あります。そして、イエス様はみことばをもってサタンと戦ったと、マタイ伝4章1節から10節に書き記されています。イエス様はご自分こそまことの救い主であることを証明するために、みことばを引用しました。マタイ伝11章の2節から5節までお読み致します。
さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。

と。そして、ルカ伝4章の17節から21節までお読み致します。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

と。ご自分の苦しみについて主イエスはみことばが成就されるためであることを確信しておられました。 マタイ伝26章54節に
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と、あります。十字架上で主イエスの言われたことばは、主は詩篇のことばで祈られたことを私たちに示しています。たとえば、詩篇22篇1節
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

16節
犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

と、ありますし、詩篇31篇5節
私のたましいを御手にゆだねます。

と、あります。

引用者註:イエス様が聖書、旧約聖書に忠実であられたことは、私たちがもっともっと聖書全体に耳を傾ける必要を語っているのではないでしょうか。古い契約があっての、新しい契約があるのですが、古い契約を知らずして、どうして新しい契約のすばらしさが理解できるというのでしょうか。) 

2017年1月1日日曜日

あなたが信頼できる導き手

K氏宅のご家庭をお借りしての新年第一日の礼拝

あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:4)

 私たちはこの道を通ったことがないが、主イエス様は通られた。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブル4:15)。」その道は私たちにとってはすべて踏み慣れない、また知らない地であっても、主はその道をことごとく個人的な経験によって知っておられる。私たちの息をとめる急勾配の部分、足を大層痛めさす石だらけの部分、疲れを感じさせる、私たちが通過せねばならない早瀬、私たちの羊飼いなるお方は、私たちより前にそれを全部経験なさったのだ。

 いくつかでなく、全部多くの水は主を越えて行ったが、それらは主の愛を消すことはなかった。「あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました(詩篇42:7)。」「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません(雅歌8:7)。」主は苦しまれたことによって完全な導き手となられた。「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされ・・・完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル2:10、5:9)

 なぜなら、今や主はそのことについて全部知っておられ、私たちが耐えられ得る程度にしたがってやさしく導いてくださる。 「というのは、主は、私たちの成り立ちを知っておられる(詩篇103:14)」そして、主は絶えず思慮が足りないという身に覚えのあるその手の知識をご存知であるだけでなく私たちがちりだということを覚えておられる。「神は、彼らが肉にすぎないことを心に留めてくださった(詩篇78:39)。」

 主の導きのやさしさに疑問を持つように誘われるときそのことを考えなさい。主はすべての時を心に留めておられる。そして主はあなたの足が耐えられることを越えて一歩たりとも歩ませられないのだ。将来あるように見える歩みができないと考えるのなら、心配するな 。主はできるように強められるか、突然の停止を求められるので、あなたはその道を歩まなくてすむだろう。


主であるわたしは あなたと ともにある 恐れてはならない
わたしは あなたを 助け 強める 落胆してはならない
まことに わたしは あなたを 右の手で 支える
あなたは わたしの目の前で 立つように 召され 選ばれている
昼の子どもたちよ 前進せよ 恐れてはいけない
主のことばは 決して 決して 過ぎ去るものではないから  
前年の間 どんな豊かさが 供給されていることか
貧困者のためには 生計が 支えられる
悲しめる者 罪深き者には 主の恵みが 豊かになる
弱くされた者には 完全な強さが 見出される

For the year before us, oh, what rich supplies!
For the poor and needy living streams shall rise;
For the sad and sinful shall His grace abound;
For the faint and feeble perfect strength be found.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-1-a-leader-you-can-trust/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97165です。 新年早々時間足らずでいい加減な訳だ。のちに再点検することにする。この程度の訳でもハヴァガルが一年の始めに何を考えようとしていたかはおぼろげながらわかる。

※Godhold Beck(132)

『聖書とは何か』第五部[1]

 この間始まったテーマ、「旧約聖書についてのイエス・キリストの証し」とはいったいどういうものでしょうか、という点について、もう少し考えてみたいと思います。聖書が聖書にふくまれている一つ一つのみことばがほんとうに神のみことばであることを要求しているのでありましょうか。そして、また聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。

 私たちはこのことについて、イエス・キリストご自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエスこそ最高の権威なのです。主イエス様は神の権威を持って旧約聖書全体を「神のみことば」と言っておられます。神のみことばは誰一人改善したり補ったり変更したりすることの出来ない永遠なるみことばです。イエス様は旧約聖書を百%信じていました。

 主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエスは一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何度も保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりとおっしゃいました。ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを他の方法で証明する必要はありません。真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。

 主のことばはあらゆる人間のことばや人間の理解力にまさるものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは主イエスのお取りになられた態度でした。聖書はイエス様にとって力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、イエス様は信じて疑わなかったのです。もちろん、イエス様は旧約聖書の歴史的な出来事をも百%信じておられました。イエス様は創造の報告の完全な霊感をも信じており、イエス様はノアの洪水の報告も信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。またイエスは預言者ヨナについて書かれていることも文字どおり信じておられましたし、イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。イエス様は詩篇の一つ一つのことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。

 よみがえりのあと、すなわちイエス様がもはやしもべの形ではなく、再び神の栄光を全きお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。旧約聖書全体を完全に洞察なさったイエス様はよみがえられた時、エマオの途上で弟子たちに出会ってくださり、ご自身の確信しておられることをお伝えになられました。ルカ伝24章27節ですが
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と、書いてあります。

引用者註:「真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。」というこの論法は、ベックさんの全生活の土台でもあった。)

2016年12月31日土曜日

静けき親密感

大落古利根川の土手

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)
 
 通りがかりの人とか儀礼的に知り合った人とは、あなたは話をしなければならない義務を感じ、社交儀礼としてあなたは彼らを楽しませようと努力をするでしょう。その結果、疲れ果てるかも知れませんが、そんなことにはお構いなく一生懸命であらねばならないと思うことでしょう。

 ところが、あなたのそばに非常に親しい親密な友がいる時、その種のことは思いもしません。 なるほど、あなたはお互いに思いや共感を交わして、和らげられたり新たにせられたりして、ありとあらゆる親密性を注ぎ出して話すことができます。しかし、もしあなたが大変疲れてでもするなら、一言も話す必要がないことも分かっています。あなたは完全に理解されていて、そのことをあなたも知っています。あなたは友がいるということだけで楽しくなり、会話以上にそのことがもっといいことだと知っています。そのように一緒にいて気が合うので、どんなことばを交わすよりもあなたをくつろがせるのです。そして、あなたの友人はそのことを友情と親密な間柄であることの最高の証拠だと受け取り、おそらくこういう静かな時ほど生き生きと愛する時は決してないことを知っているでしょう。

 それでも、私たちは主の前で静かにしているほうが良いのです。なぜなら、主が私たちを愛し、しかも徹底的に理解してくださることを知っているからであります。 肉体的にか精神的にか、あるいはどちらも非常に弱くされている時、主を楽しませようと、言わば、発することばや整えた思いを何らか義務的に果たすように努めて、自らを鼓舞させる必要はないのです。

 主が私たちにとって一晩滞在するために立ち寄る徒歩旅行をする人だけであって、私たちとともに住み、つねにそこにいるために来られた愛される親切なお方でなかったとしたら、鼓舞させる必要があるかも知れません。もし、これが主と私たちとの間柄であるなら、普段たくさんの交わりについて心配はいりません。しかし、私たちが「大層疲れている」今は、主に話しかける代わりに、主の前で静かにしているほうが良いでしょう。

愛は 祝福の頂点にある 
愛が 白く 揺らぐことがなく 
恐れを消滅させる 輝きに 届く時
そして
愛が知るとおりに 知られることを 知るのは
心強いことばも また なだめる口吻も 必要ない
愛は 静けき親密感以外に 切望しない
言わば 憩うがごとく 音もなく 動きもない
聞かれずして 感じられる愛 長々と静かに
時が 永遠の大海原の上の 雪片を 溶かすまで

この静かな時は あなたの過ぎ去りし日に 星ちりばめたか
記憶を 栄光の出入りする所としたか
知力がたどることのできるあらゆる喜びを 教えたか 

影以外のさらに偉大な光の帯が投げかけられて
主なるあなたの神は あなたを 喜ばれるでしょう
さすれば あなたは 主の愛に 憩い
まことに 静けさを 体験するでしょう 

By greater light 'tie but a shadow cast—
So shall the Lord thy God rejoice o'er thee,
And in His love will rest, and silent be.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-31-silent-nearness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97530です。一年の終わりです。ハヴァガルはいったい何を伝えようとしたのでしょう。むつかしい英文の連続でしたので、大分意訳を試みました。ひょっとしてハヴァガルの文意を取り違えているかも知れません。今年の1月10日からおぼつかない足取りでしたが、拙い私訳を毎日掲載し続けました。読者、家人の背後の暖かいお祈りなくしてなし得ませんでした。ここに感謝の意を表させていただきます。新年度も最初の9日間は引き続いて訳業を続けさせていただきます。それで全訳となり私の試みも終了します。もちろん、多くの誤訳があると思います。新年度は思いも新たにハヴァガル訳の再点検の年とすると同時に何か別のものに挑戦したい思いもあります。引き続きお祈りをお願いします。

※Godhold Beck(131)

『聖書とは何か』第四部[完]

 みことばに頼らない者は悪魔の餌食になってしまうのです。イエス様は旧約聖書の歴史や出来事も100%信じていました。マタイ伝22章31節32節をお読み致します。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

29節
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

と。「あなたがたは読まなかったのですか」これはパリサイ人に対する驚いた主イエスの問いでした。そしてまたイエス様は創造主の報告の完全な霊感を信じておられました。マタイ伝19章の4節、5節をお読み致します。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

と。そしてまたイエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な報告をも信じておられたのです。そして主イエスは創世記がイエス様のことについて報告していることを文字どおり信じて理解しておられたのです。ルカ伝17章26節27節に
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

と、あります。それゆえ、主イエス様はモーセがほんとうにご自分について書き記したことを私たちに証明しておられます。ヨハネ伝5章46節、47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

モーセを信じない者は、主イエスを偽り者にします。またイエス様は詩篇の二ヵ所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを私たちに証しておられます。マタイ伝22章43節、44節で
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。

と。またイエス様は預言者ヨナについて書かれていることを文字通りに、信じておられました。マタイ伝12章40節
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

と、あります。ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのと、全く同じように確実に主イエス様は三日間墓の中におられました。もしも人がどちらか一方を疑うならば、もう一つの方も疑わしいものにならざるを得ません。主イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。主イエスは詩篇の一つ一つのみことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されることをご存知でした。それはヨハネ伝19章の28節です。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

よみがえりの後、主がもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

引用者註:最後に述べられている短いベック兄のことばですが、ルカの福音書24章25節以下のことを指すように思われます。このあとに聖歌532番「ひとびとはイエスのおしえを古しとて、見向かず、『あたらしきことをのべよ』とあざけり顔に言う。古びはせじ、とうときはイエスのおしえぞ、よし世はいかにあざけるとも、動かぬはげにこのおしえぞ。」と歌わしめておられます。)