2009年10月31日土曜日

彼は英雄ではなかった、彼は基督者であった(上)


 1517年10月31日、マルチン・ルターはヴイッテンベルク城教会の門扉に一枚の紙を貼り出した。「95ケ条の論題」である。この日を記念して今日10月31日を宗教改革記念日という。多くの日本人にとっては500年ほど昔のことであり、外国のこととて馴染みはないかもしれない。

 当時、日本は中世から近世への転換時期にあたり、領国経営をなそうとする戦国大名が覇を競い始め、その拠点である城下町がそろそろ出現する頃であろう。ルター(1483~1546)はそのような覇者の中で最初に天下統一に乗り出した信長(1534~82)より一世代ないし二世代前の人であった。

 しかし、この人物は信長以上の影響を世界史に与えた。なぜなら時のヨーロッパ全土を支配する法王に敢然と立ち向かっていったからである。このことについて記す文献は多い。以下に示すのは、Kさんのご両親が所持しておられた畔上賢造著作集によるものである。(実は昨日お話した遺品『聖書之研究』は二年前に譲っていただいたのだが、先頃この著作集全巻をKさんから譲っていただき、今は私の手許にある。やや文体が古風なので今の方には馴染まないが、できるだけ転写して紹介したい。)

 彼は決して天性の英雄ではなかった。また強剛不屈の偉男児でもなかった。彼はむしろその天性においては、弱き人であった。やさしき人であった。柔和と愛憐と謙遜とは、彼の特色であった。憂鬱の発作は時々彼を襲った。「思慮深き温和と鋭敏繊細に過ぐる愛情」とが彼にあった。

ルーテルは浅き観察者には、臆病惰弱な男子と見えたであろう。謙卑と内気らしき温柔が、彼の主たる特色であった 

 とトマス・カアライルの言うたのに、虚構(いつわり)のあろうはずがない。ゆえに法律を学びし彼は鋭敏なる感受性の強うるままに、この世の希望をすてて、修道院の隠棲を選ぶに至った。父母の大失望も大反対も、彼を活動世界に引きもどす力はなかった。彼は修道院の奉仕(つとめ)において、煩瑣と過労とを厭わずして、小心翌々として努むる底の人であった。彼はそのまま隠れたる生涯を営むをもって、何ら憾(うら)むところなしとした。

 27歳にしてローマの本山に使いした時、法王とその周囲の腐敗は、敏感なる彼の眼を逃るることを得なかったのは事実である。さりながら、彼一個微力の寒僧、いかで偉権並びなき法王庁に叛逆の弓をひき得ようや。夢にだに彼はかかることを思い得なかった。彼は黙して自己の小なる仕事にいそしだ。そして心霊的安心の域に達して、独り恵み深き法悦に住んで足れりとした。

 法王庁の赦罪券販売に、敢然ひとり起って抗せしは事実であった。しかしそれすら、予め計画して本山改革の戦を開始したというわけではない。もし販売人テッツェルが彼の受持ち区へ入り込まなかったならば、彼は反抗の火矢を放つ要はなかったのである。しかしながら彼はウィッテンブルヒの牧師として、或はその教会員の中に赦罪券を購いて罪業の消滅に得々たる者あるを発見し、或は赦罪券購買の可否如何を質問する者あるに会して、自己の職分に忠ならんとして、また天よりの声を斥けざらんとして、遂におのれを偽ることは出来なかった。

 牧師たる職分を遺憾なく行なわんために、彼は遂に赦罪券販売に反対せざるを得ざるに至った。宗教改革者として彼は起ったのではなかった。彼は己に託せられたる少数の霊魂を切愛したのであった。彼は英雄ではなかった。彼は基督者であった。そして理想の牧者であった。されば偏に神に忠実ならんとして、彼は遂にこの世の大勢力と戦う結果を惹き起こしたのである。この世の英雄豪傑という呼称の外にある彼は、我らの近くに立つものである。

 謙遜なる彼も、神の声に促されて立つ時は、真勇の人たらざるを得ない。彼の如き忠誠摯実な心に霊火が燃え立つ時において、そは遂に天を焦(こが)さずしてはやまぬ。さりながら彼は英雄ではない。計画者ではない。ただ教会の弊害駆除に努めたのみであった。従って法王の権威を否認せんとは、ゆめにも思わなかった。ましてやローマ本山の支配を脱して、新教を創設せんとの野心をや。彼はただ教会の弊害だに改まれば、満足したのであった。この意味において、彼は実に温和なる改革者であった。

ルーテルの切なる願いは、弊害の改められんことであった。教会内に分争を惹き起こすことや、基督教界の父たる法王に背くことなどは、彼の夢にも思わなかったところである。

 とカアライルの喝破せし通りであった。

 その法王を反基督と断じて大反抗の旌旗を翻したのは、ライプチッヒに法王庁の大学者ヂョン・エックと論争せし後のことであった。この時彼は、博学精緻なる論敵の追及する虜となって、遂に己が法王否認の大原理に立つものなることを自認せしめられたのである。法王に忠実なることの、彼の立場として到底不可能なることを、彼自ら知らずして、敵にこれを指示されたのである。

 以後、温和にして不徹底なる改革者は、激烈にして根本的なる改革者となった。これ彼のみづからの求めしところにあらずして、彼を罠に陥れんとせし敵のなせしところであった。敵が遂に彼をこの最後のところに遂い込んだのである。事の成り行きが遂に彼をしてここに出づる外なからしめたのである。神の声と自己の職分に忠実ならんため、遂に起ちて小改革の旗をあげたる彼は、敵に強いられて遂に大改革の戦士とならざるを得ないこととなった。彼はどこまでも英雄ではなかった。ただ神の声に聴従する基督者であった。(続く)

(引用は『畔上賢造著作集』第7巻53頁「改革者ルーテル」より。今日の写真はいつも通る東武線の線路際に咲いている可憐な花。名前がわからないが、もうかれこれ二ヶ月余り咲いている。あっちこっち見るがこの花には今のところどこでもお目にかかれない。)

おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(旧約聖書 1サムエル17・45)

2009年10月30日金曜日

Kさんのお父様の遺品


 もうかれこれ二年経つのだろうか。記憶が定かでなくなっているのだが、ある日上荻のKさん宅へMさんご夫妻、それに別のMさんと私の四人でお訪ねしたことがあった。その時はすでに戦死されたお父様の遺されたお手紙をお引き受けして転写し始めていたように思う。

  Kさんは私たちにお父様の遺品(主に書籍類)をお見せくださり、「父の遺品です。記念に持ち帰ってください」と言われた。私は余りにももったいない思いがしてその時、一冊の古色蒼然とした本を譲っていただいた。それがこの9月初めに紹介(※)させていただいた『聖書之研究』(1923年270-281)という内村鑑三主筆の合本であった。

 1923年と言うと1911年(明治44年)生まれのお父様がまだ12,3歳の時である。従って長ずるに及んでこの合本を古本として手にされたように思う。合本に記されていた赤のサイドラインをお父様の引かれたものと9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の項目では言ってしまったが、最初の持ち主が引かれたのかもしれない。それが時を隔てて今私の手許にある。

 これらの合本には畔上賢造氏はじめ内村とともに無教会の形成に加わった方々の貴重な論考が並んでいる。(ルターの卓上小話も畔上氏の訳で掲載されており、内村のマダガスカルの宣教の歴史を述べる記事もあり以前ブログで述べたことに補充が必要なことも知った。)三谷隆正氏のデビュー作「カントの有神論」も載っている記念すべき号だ。

 ところが9月中旬にお父様が先生と仰いでおられた藤本正高氏の著作集を古本で見つけ思い切って購入することにした。その本を通して藤本正高氏が最初教会の牧師であったがその後、無教会の群れに移られた方であることを知った。それとともに藤本正高氏の転機になった一つにこの1923年の『聖書之研究』があったことを知った。

 それは、どういうことであったか。9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の記事紹介の折、震災より有島事件がどれほど人間の霊性を駄目にした事件かわからない旨のことを内村が吐露している文章を紹介したが、この内村の指摘が若き藤本正高氏の曖昧なキリスト信仰を叩きのめしたものであったのだ。

 藤本氏は当時旧制中学の5年生であった。すでに主イエス・キリストを信じていたが、一方有島武郎の作品の愛読者でもあり、当時の新聞や雑誌が有島氏が情死したことに同情的であった中で、内村の『聖書之研究』277号の記事および前回引用させていただいた279号を通して大いに悔い改めさせられたということであった。

 この藤本正高氏がKさんのお父様お母様の結婚式の司式を行なわれた方である。私はお父様がお母様に宛てられたものを中心とする57通の手紙(1938年~1944年まで)を転写する中で、しばしばこの人のきよい信仰はどこから流れてくるのだろうかと思わされていた。それは言うまでもなく師であり兄弟である藤本氏たちの主イエス・キリストを愛する人々の交わりの中から生まれてきたものであった。

 二年がかりになってしまったこのお父様のお手紙の転写も先頃やっと終わった。これからその内容をよく理解して読み直そうとしていた。その矢先にこの著作集に出会った。不思議な導きを覚えた。

※詳細は「泉あるところ」http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る・・・(新約聖書ローマ11・33、36)

(写真は拙宅玄関前の野菊。正確には「野紺菊」。「主愛す 野菊のごとき 生遺し」 。)

2009年10月29日木曜日

「悠々自適」と私


 「悠々自適」という言葉がある。世事から離れた人の心境を言うらしい。手元の広辞苑には「俗世を離れ、何ものにも、束縛されず、おのが欲するままに心静かに生活すること」とある。リタイアの生活に入った者なら誰しも、あの入り組んだわずらわしい人間関係から解放されてほっとする時があるかもしれない。

 しかし、自らを顧みるとき、ふっと「悠々自適」とは程遠いと思わざるを得ない。第一俗世を離れることなどできようもない。むしろ、ヨブが言った言葉の方が実感がこもる。「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。」(旧約聖書 ヨブ記14・1)

 昨日は国会内で初めて野党側の代表質問とそれに対する首相の答弁がなされた。各新聞とも一様に討論が論戦となっていないことを指摘している。予算編成まで固唾を飲んで成り行きを見守るわれわれ国民にとっても、とても心の休まる暇はない。

 かつてフランス首相に「トランジスターのセールスマン」と揶揄された池田首相が所得倍増を打ち出し、政治の前面に「寛容と忍耐」を打ち出した時、私は高校生だったが、政治に斬新さを感じた記憶がある。その後確かに経済的に豊かになり、老後の年金生活で大いに余生を楽しもうとされる老人を目の当たりにしてその生活に憧れたこともある。

 あれから半世紀、冷戦こそ終了したが、世界各国の不況、全地球的な環境の悪化、よほどおめでたい人でない限り、悠々自適の余生を送れるなんて言えなくなった。加えて倫理道徳の腐敗はとどまることを知らない。各種の猟奇事件はそれと無関係ではないのでないか。

 副田氏の本を読んだ後、今度は澤村五郎氏(故人)の「大いなる救」(1968年刊行)を読んでいる。明治20年生まれで昭和52年に亡くなっている氏の論調に、何も知らず過してしまった私の中学・高校時代の世相(それはあの『太陽の季節』が話題を呼んだ時代だった)が断罪されているのを見て驚いた。

あるおかあさんが訴えておりました。娘がたびたび映画に行く、というので、いいのがある時は行かしてあげるから、きょうはやめなさいというと、子どもは、「おかあさん、今は民主主義の時代ですよ。私の自由を束縛しないでください」と言います。どうしたらいいのでしょうと。忠とか孝とかいうことは、封建思想だとして退ける。何もかも自分の意志を通そうとするような者として、子どもは育てられる。(同書18頁)

 私など当時ここで言われている娘さんと同じであった。長ずるに及んで学校教育の現場に立ち、また家庭では子どもたちの養育に携わった。途中から教育の羅針盤として聖書をいただいたが、振り返ると徹底的でなかったと思う。子どもの両親に対する絶対服従の聖書の原則に対して、自らのうちにある自由思想でもって肯(がえん)じない所が曖昧に残っていたからである。罪の根源にメスが入っていなかったのだ。

 頑なな「自己主張、自己満足の追及、自分の願いだけを突き通していこう、是が非でも自分のものを得ようとする自己中心」(19頁)性が罪と言われるものの本体だが、私自身主イエス様を信じていてもこの自らの姿に気づいていなかった。ところが、この本の後の方で救世軍の創立者ウィリアム・ブース氏の士官学校での卒業式辞が次のように紹介されている。

「私は三年間も貴重な時を教養のために費やすようななまぬるいことをしたくない。できることならその代わりに、三日間地獄に送りたい。そうしたら諸君は、その悲しい苦悶から人々を救い出すため、火の玉となって救霊のために働く者となるであろう」(180頁)

 これほど激しいことばはないのではないか。地獄とは、主イエス様に救いを求めず神様に自己主張を続け不服従を貫く罪人が陥るところである。聖書中の使徒パウロは言う。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。(新約聖書 1コリント9・26~27)

 これはまた何たる「悠々自適」と縁遠い生き方であろうか。そもそも主イエス・キリストの十字架上の死は、私たち罪人(自己中の人間)のいる俗世に下りて受けられた罰であった。そのみわざを受け入れるものが永遠のいのちにあずかれると聖書は約束している。パウロは自らの罪から絶えず離れ、主イエス・キリストを目当てとして歩みつつ人々に福音を紹介し続けた。

罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新約聖書 ローマ6・23)

(写真は知人のKさんがくださった盆栽。「岩沙参」<イワシャジン>と言い、アルプス原産の高山植物でキキョウ科の多年草であるそうだ。 「立ちてあり 岩沙参に 朝日射す」 「桔梗の アルプス産の りりしさよ」)

2009年10月25日日曜日

神を忘れるな クララ 


 「神を忘れるな!」(申命記6・12参照)

 春の静かな野辺を行く時、神がともに在すと無風状態を楽しみつつ足どりは軽い。しかし野分きの風が吹きまくる日、紅葉は風に乗って散り飛ぶ日、空のかなたから「神なき者となるなかれ」と厳粛な声が響いて来る。

 申命記において、モーセは懇ろに、主こそ神にいましほかに神のない事・・・そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得ると、約束されています。しかるに木枯しが身をさく冬の夜、あるいは激論に話がもつれる時「神なき者となるなかれ」と力強いみ声が響いて来ます。なんと厳かでしょう。外見神なきがごとき感情の嵐、激論の怒涛の中にある時も、「神なき者となるなかれ」と響くのです。これは人世への神の恵みです。

 心の王座も転倒するような時、静かに神を待て。激情が泡立つ日に愚かにも、危険にも神をその中から除き去って私情にまける私たちは、しばしばかくして神なき姿となり、ハッとする時、聖なる声は「神なき者となるなかれ」と後辺に語られるのです。歴史を通して後辺に語り給う愛のみ父よ、わが仕える万軍の主は生きて在す。混乱の中を一歩退き、真実なる神はいと近く在す。「神なき者となるなかれ」おぞましき嵐の中をぬけ出でよ。

 歴史に輝く人々は、神と共に歩みし人、エノクは雑然たる大家族のうちにあって、神なき者となるなかれの実行者、また成功者でした。個人としてヨセフがあらゆる出来事の中に、神と共に在って後日の栄えある職掌のために準備されたのです。ダビデの変転たる生涯、羊飼いをふり出しに、猛獣におそわれ、ゴリアテを征服し、王の婿となり、王となり、王の敵とねらわれ、奇異変転を通過した時、神なき者とは決してならない。この世の何れをも間違いなく計る一定の羅針盤で、行く道をはかった。すなわち「神なき者となるなかれ」と言う事、これに聞き従うことであって、己が身をかばうことをしなかった。世の中に何が哀れだと言って、神なき姿ほどあわれなものはありません。

 昔キング・アルフレッドが森の道を散策し、遊んでいた子供たちを呼びよせ、ご自分のポケットから数種類のものを取り出し「子供たちよ、このメダルは何の王国に属していますか当ててごらんなさい」と言われました。すると一人のボーイが「それは金属の王国に属しています」と答えました。王は満足げにそれでよいと答え、次に小さい花を取って、これは?と聞かれると、一人がそれは植物の王国に属しますと答え、王に喜ばれました。さて最後に王はご自分を指して「私は何の王国に属すか」と言われた時一人の可愛い少女が「あなたは天の王国に属します」と答え、王の言い方ないご満足を得たとの話があります。私たちもまた天の王国の民として方向を間違わず、神を忘れる事のないように・・・神なき者となるなかれ、信仰を大切に、どんな小さな不信仰もさけましょう。

 かくて神の王国の民でありますように!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著302頁からの引用。写真は西南ドイツ・フィリンゲンVillingen近くの小川 2005年10月23日撮影。)

2009年10月24日土曜日

『死者に語る』(副田義也著 ちくま新書 2003年10月刊行)

 この本を読もうと思ったのは言うまでもなく、『あしなが運動と玉井義臣』という本を書き上げた副田氏に関心を持ったからである。しかし、一方この本の副題である「弔辞の社会学」は私に読むのをためらわせるものがあった。弔辞は不要と考える私の考えがあったからである。

  つい数週間前に前橋で葬儀に携わらせていただいた。亡くなった方は私の存じ上げていない方だったが、奥様が私と同じキリスト者であった。ただ奥様は信仰を持たれてまだ数年のことで、聖書にもとづく葬儀(無宗教による)については何もご存知でないお方だった。葬儀に至るまで何日か間があったこともあり、その間奥様から色々なご相談を持ちかけられた。ご自分で判断しながら、最終的にはどうなのでしょうかという私への問いかけが多かった。その中に最後の方で持ち上がってきたのは、ご主人の友人が弔辞を読みたいと言っているが、それはいいのでしょうかという問い合わせであった。私は少し迷ったがご友人の思いを尊重して、弔辞をしていただくことに同意した。

  私は当日聖書からのメッセージにたずさわり、ご主人の霊は天の御国に凱旋されているものと思う、と話した。式の最後の方でご友人が弔辞を読み上げられた。私のように故人と全く交流のなかった者と違い、さすがに大学時代から行を共にされたお方であり、情のこもった弔辞であった。それは故人の霊に語られる形のものであった。

  実はこの本の第一章で弔辞が対会衆型か対故人型か、弔辞を述べるその人の死生観をもとに分析がなされ、著者自身の死生観が少し序章的に紹介される。続く四章で、政治家の弔辞、社葬における弔辞、キリスト教知識人の弔辞、文学者の弔辞がそれぞれ丁寧に分析される。しかも弔辞を受ける人が、岸信介、浅沼稲次郎、松下幸之助、矢内原忠雄、田中耕太郎、原民喜である。一方弔辞をなした人々は、中曽根康弘、江田三郎、谷井昭雄、南原繁、近代文学同人である。この人選、順序は用意周到に配置されている。

  この中では私が実際目撃した身近のものもあった。17歳の時、同じ17歳の少年が立会演説会で浅沼氏を暗殺したあとの弔辞である。それは安保闘争により国論が二分された時代の折のもので、私はテレビ中継で暗殺の場面をたまたま見てしまったし、それゆえにこの折の弔辞は国会での政敵であった池田勇人氏のものを耳で覚えている。その名文が一部採録されている。その他のものでは南原繁氏が矢内原忠雄氏に対してなされた弔辞は一度ならず、文章を通して読んだ記憶があるが、それ以外は初見であった。特に原民喜氏のことについてはここに書いてあることすらよく理解していず、未知の領域と言っていい内容であった。

  順を追ってこれら四章を読むときに戦前から、戦後へ、そして冷戦後の今日、あるいは高度成長経済から今日の脱産業化の時代への動きが著者の解説とともになされ、深く時代を振り返ることが出来る仕組みになっている。一般に本は最初から読み始めて、途中で諦め投げ出してしまう例があるのでなかろうか。この私はそうであった。しかし齢を重ねるにつれ、忍耐強く最後まで読み進めることを学ばされるようになった。若い時にこれだけの忍耐心があったらと悔やまれてならない。特にこの本の醍醐味、圧巻は第五章と終章にあった。

  第五章で明らかにされる広島原爆の被爆者であった原民喜氏のことを述べているところはとても考えさせられた。先頃、核なき世界の演説でオバマ氏がノーベル平和賞を受賞するニュースが飛び込んできたが、著者がこの章で指摘している問題をどれだけ多くの日本人が理解しているか心もとなく思わされた。それは「東アジアのなかの日本」(同書210頁)に登場してくる中国の方励之氏の指摘である。所収は中央公論の1987年の8月号であるとのことである。全文を読んでみる必要があると思った。著者自身が愕き呻いたと言われるものだ。そのさわりの部分を著者は引用する。

 「広島は、明治以後次第に戦争基地に変わっていった。そこには瀬戸内海最大の軍港と軍艦製造廠があり、そこはまた日本海軍の司令基地のひとつだった。しかも最初の海軍司令部を東京から広島に移したのは中日甲午(日清戦争)の海戦を準備するためだった。ここは戦場に近いがゆえに、前進基地と呼ばれた。戦争の名義で人殺しをする、とくに中国人を殺すことは、他でもなく、この地からスタートしたのである。これが1945年8月6日以前の広島の一面の歴史である。だから、広島の壊滅は、仏教用語を使うならば、悪に悪報あり(悪事を働けば悪い報いがある)なのだ」。(同書213頁)

  私は自分自身の不明を恥じる。そして原民喜の存在を改めて考え直したいと思わされた。このような歴史総括の中で、著者は最終章でもう一度それでは弔辞とは何かと読者に問いかける。そしてそこに著者自身の自分史が書きとめられるのである。

  それは著者の育ったクリスチャンホームの姿と同時に優秀な学徒を失った一人の人物に対する彼自身がささげた弔辞の吐露である。その人物は吉田恭爾である。私は昨日まで読んでいた彼の労作『あしなが運動と玉井義臣』の調査研究者の中にこの人物がいるのに気づいていた。しかしその人物が彼の学問の後継者としてまた同僚として期待していた人物だとは知らなかった。著者はこの本の最後で次のように締めくくる。

  この小著を私の思い出の中の吉田恭爾にささげる。君に出会ったことは私のこの上ない幸運であり、君に先立たれたことは私のこの上ない悲運であった。逆縁の辛さは老いてますますつよく感じられるのだが、われわれがともに激しく生きた日々をくわしく述べるのは、20年前の君への弔辞に記したように、私が引退したあとの仕事になるだろう。だから、その回想を君に贈るのはいま少し先のことになる。(同書234頁)

  言い知れぬ感動に襲われながら、著者が牧師さん家族のご家庭に育たれながら、ご自分の霊がどこに行くかを、必ずしも聖書のメッセージ通りに考えておられないようにお見受けした。悲しみを覚えざるを得なかった。しかし著者が様々な論考を精力的に行なっておられることを今回、この二著を通じて教えていただいた。心から感謝し、今後はその著作を読み続けてみたいと思うものである。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのないない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(新約聖書 1テサロニケ4・13~14)

(写真は日立Fさん宅のアマリリス 2009年5月)

2009年10月23日金曜日

『あしなが運動と玉井義臣』(副田義也著 岩波書店 2003年3月刊行)

 「玉井義臣」の名前を知ったのは私にとって比較的早い時期にあたる。ちょうど40年前の1969年の3月12日に私は交通事故にあったが、その時、相手の加害者の方と示談の必要性が生じた時だった。書店で『示談』という同氏の著書を買い求めた。偶然ではあったが、同氏は大学の同窓生であることを、その時知った。その後、同氏の存在・活動振りは新聞などで知っていたが、それ以上詳しくは知ろうとしなかった。

  6年前にこの本が出たときも図書館で借り出して少し眺めたが、余りにも大部な本(437頁)で丁寧に読み進める勇気を持たなかった。ところが3、4日前、同窓会誌が送られてきて、巻頭の特別対談に同氏が登場しておられた。A4版の4段組の100頁足らずの機関紙の4頁ほどの構成だったが同氏の活動が端的にわかる、いい対談であった。玉井氏はインタビューを受けた後の感想を次のように語っていた。

普段あまり考えもしない、学生時代から現在までの50余年を総括する難しいけれど楽しい機会でした。『彦根は遊んでいただけ』と思っていましたが、今の仕事も彦根なしには考えられないとわかったのは、鉛のように重い学生生活から、いま黄金の日々につながっているということで、それはインタビューを受けたことによる新たな、〝発見〟でした。

  この素晴らしい成果を上げている先輩が学生時代をそのように振り返ったことは、私にとって新鮮な驚きと感動であった。私もどちらかというとこの鉛のような重い鬱屈した学生時代をそこで経験したからである。再び市立図書館で借り出して読み始めたが、次々に展開される叙述に今回は巻を措く能わずとの思いを深くさせられた。

  副田氏はこの本の副題として「歴史社会学的考察」と銘打っておられる。それは何よりも「あしなが運動」という高度成長経済から現在の低成長時代、かつ冷戦後世界に対峙する日本社会の根底にある動きを描写したかったからであろう。副田氏は社会学の研究者である。しかしその作業は玉井義臣氏の存在を抜きにして語れないのである。ここにこの本の題名の拠って来る意味がある。

  1963年12月23日にお母さんの交通事故・34日後の死に直面された玉井氏は、被害者としての怒り(「象徴的敵討ち」本書6頁以下の著者の造語)からスタートされた。年若くして日本で最初の交通評論家となられたが、時代が彼を必要としたのだ。その後40年におよぶ玉井氏を中心とする社会運動は、当初はモータリゼーションの進展という時代に対する抗議運動として始められたが、日本社会の変貌とともに交通遺児以外の遺児にも視野は拡大し進められてゆく。その社会的救済を求める中で行政や産業界とも対決しなければならなくなる。 

  著者はその玉井氏に協力を依頼されて何度も何度も交通遺児を手始めとする様々な実態調査を依頼され今日に至っており、ある意味で研究者ではあるが玉井氏にとって欠かせない同伴者・相談相手でもなかったのでなかろうか。だからこそこれだけ肉薄した叙述が可能だったと思う。と同時にこの調査を通して社会学の手法も深化していったのではなかろうか。そういう意味では副田氏の研究者としての歩みにおいて、逆に運動家である玉井氏もまた研究のよき同伴者と言える。

  つい先日も駅頭で遺児の募金活動が高校生により行なわれていた。私はそれを尻目にその前を立ち去った。学生時代の呪縛―そんなことはしても無駄だ、社会の変革をせねば駄目だという呪縛―に今も縛られている自分を思わずにはいられなかった。玉井氏が進めていった交通遺児支援運動が当時の全共闘運動やまた他の旧来の左翼運動がなしえなかった成果を実地に達成している点に当時少しでも耳を傾けていたらと、この本を読んで自分の愚かな行為を恥じずにはおられなかった。

  それだけに様々な紆余曲折を経ながら長年にかけて彼が育て上げていった交通遺児育英会の専務理事の役職を1994年に追われる件の叙述は悲しい。たまたま私の所持する同窓会名簿は1993年のものだから、彼の専務理事の肩書きが載る最後のものだろう。同じ学年の隣頁には久木義雄氏が同会の常任理事との肩書きも見える。それもそのはず、久木氏は玉井氏の大学時代の同窓の誼で、すでに商社勤務であったのに、育英会の仕事に引っ張り込まれて協力させられ、同士の間柄であったからである。(同書164~165頁)

  しかし、1994年両者は袂を分かち、久木氏は交通遺児育英会に残り、事務局長、専務理事事務取り扱いの役職を得る。その後の叙述が次のように描かれている。

玉井が久木に交通遺児育英会の新体制にかんして批判めいたことを言ったとき、久木は玉井に、交通遺児育英会への復活は考えず、あしなが育英会に専念するべきだとすすめた。そのおりの久木の科白は、「江戸城にもどるのは無理だ。小さいが彦根城を大事にしろよ」であった。彦根城は、かれらが卒業した滋賀大学のちかくにある城である。久木はだれが江戸城の主になったと考えたのだろうか。(同書374頁)

  しかしその後、久木氏が江戸城と言った交通遺児育英会は創設者玉井が辞めさせられた結果様々な問題を抱え込む事態に至る。一方久木氏によって彦根城と揶揄されたあしなが育英会は再び玉井氏の本領が生かされる場となり、遺児は交通遺児だけでなく、様々な理由で遺児にならざるを得ず経済的貧困の中に置き去りにされる若者たちの救済、さらには海外の貧困者にまで視野を拡大してゆく運動体として成長してゆく。

  折りしも1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生した。彼はスタッフを派遣し、震災当時どの組織もつかめなかった震災遺児504人の氏名・住所の確認をし、本格的な支援活動を開始するのだ。(同書389頁)そして今までの経済的支援のほかに、震災で犠牲になった悲惨な肉親の死に直面し、そのトラウマから解放されにくい遺児たちの心のケアーをふくむ施設「虹の家」を神戸に建設するに至る。

  もちろんこの本は玉井氏の評伝を書くのが狙いではない。「社会運動家」(同書413頁)という社会学では未定義の概念を創造し、著者が玉井氏をはじめとするその周辺に集まってくる人材を中心に、日本社会の暗部を彼らがどのように作り変えて行くことが出来たか、また出来ていないか、時の政官財とどのように闘い、勝利をしまた敗れて行ったかを克明に跡づけている問題提起の本でもある。

  冒頭述べたインタビュー記事の中で玉井氏は最後に教育機関としての大学に望むことはありませんか、という司会者の質問に答えて次のように言っている。

大きな夢、野心、目標をもたせるような、教科書に載っていない、世のため人のため貧しい人のために役立つ心をもたせて卒業させてほしいと思います。日本が衰退して小さくなり、モラルハザードと拝金主義の社会になっても、出世競争に敗れても人間の尊厳を失わずに、地域社会で心豊かに生きてゆく考え方、行動の仕方を学ばせてやってほしいと心から思っています。在学生の皆さん、人生は長い。悠々と我が道を行ってください。21世紀、リーマンショックで世界の最貧困地帯のアフリカの極貧層はさらに貧しくなり増加しました。私たちは世界の心ある人と連帯して、世界中からあしながさんを掘りおこし、アフリカ青年を大学進学させたい。アフリカの貧困の削減は教育にかかっています。私とこの運動を共に行なう若者はいませんか。歴史を変えてゆきましょう。志ある同窓人、後輩学生を待っています。教育が世界を変革していくと信じます。

  彼のこの言は、功なり名を遂げた人としての言でない。彼が一生涯運動の最前線にいることがわかることばだ。と同時に彼が自分より遥かに若い者を運動に引き込む力を今も持つ現役の「社会運動家」であることを実証することばでないだろうか。

  民主党政権下、官僚との闘いがいかに熾烈を極めるかは私たちは今毎日のように知らされている。約15年ほど前に交通遺児育英会を追われる玉井氏の背後に実は財団法人に対する監督官庁の天下りを実現させようとする画策があったことも少し記されている。だから6年前のこの本は今読んでも新しさを失わない本だと思う。それは政治とはどうあるべきかをヴィヴィッドに感じさせる本ではないかと思うからである。多くの心ある方がこの本を読んでいただけるようにと心から願っている。

  しかしこの長い叙述を読み終わって、なぜか私には次の聖書の言葉が迫ってきた。それは社会運動には消長があることを認めざるを得なかったからである。人は自己の栄誉にしがみつこうとする。しかし歴史は容赦なくそのような人間の思いを剥奪してゆく。あしなが運動もまたその例外ではないだろう。虚心に時代とともに歩む人間のことばにならない悩み苦しみを、つねに聞くものでありたい。 

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのはかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。・・・わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(旧約聖書 イザヤ45・5、7) 

 (写真は彦根城内堀に泳ぐ白鳥。今年2月撮影。)

2009年10月22日木曜日

単調の中の殉教者(下) カウマン夫人


 私たちはモーセを記憶しています。偉大な解放者、律法の賦与者、預言者、指導者であるモーセを記憶しています。しかし、彼の兄であり、パロの前で彼の代弁者として奉仕したアロンを忘れています。

 私たちはヨセフを記憶しています。美しい髪をした夢みる者、パロに重んぜられて名声と財産を得、ききんに苦しむ家族を救ったヨセフを記憶しています。しかし、その父の世話をし、イスラエルの全家を顧みて、彼らを安全にエジプトに導いたルベンやユダ、その他の兄弟たちを忘れています。

 私たちは、新しい信仰の勇敢な創設者アブラハムを記憶しています。しかし、彼の伴侶であり、協力者であり、彼とともに犠牲を払い苦しみを味わったサラを忘れています。

 私たちはルツを記憶しています。しかしナオミを忘れています。ダビデを記憶していますがヨナタンを忘れています。

 そうです。非凡な者、めざましいことをし、魅惑的なことをやってのける者が、必然的にこの世の賞賛と歓呼の頂点に立つのです。しかし私たちは、その下にあって奴隷のようにこつこつと働いている人々にいつまでも変わることのない感謝をささげることを、決して忘れてはなりません。単調で平凡に見える日々の仕事に従事している人々の献身的なたのもしい労苦なしには、めざましいことは何一つとして成就されなかったということを思い起こすのは、よいことです。

 私たちの時代における最も驚くべき業績―原子核分裂―は、ほんの少数の科学者たちによって成し遂げられたものではありません。そうではなく、幾千という陰にある普通の男女が、最終のゴールがなんであるかを少しも知らず、いささかの報酬も期待することなしに、働いて働いて働き通した結果なのです。

 数年前のことですが、ある集会が終わった時、ひとりの婦人が私たちのところにやって来て言いました。

 「神さまが私を宣教師として召して下さっていればよかったのにと思いますわ。私は無益なたいくつな生活をしているのですもの。役にたたない平凡な仕事をして日々を送っているだけなのです」。 

 更によく話し合ってみると、彼女は教会の忠実な働き人であり、周囲の多くの人々によい感化を与え、彼らを豊かな生活、実り多い奉仕に導いているという事実がわかりました。

 人生は、美しいものであるためには大いなるものである必要はありません。小さな草花にも、堂々とした大木にまさるとも劣らない美しさがあり、小さな宝石も大きな宝石と同様に美しいのです。この上なく麗しい生活も、この世の人々から見れば目だたないものであるかもしれません。美しい生涯とは、この世における使命を全うする生涯です。すなわち、この世において神のみこころを行なうことです。ありふれた賜物しか持っていない人々は、美しい生活をすることができないのではないか、この世に祝福をもたらすことができないのではないか、と考える危険があります。しかし、神から与えられた使命を十分に果たしているつつましい生涯は、りっぱな賜物を与えられながら与えられた使命を果たしていない生涯よりも、神の目から見ればはるかにまさって麗しい生涯なのです。

 与えられたその場所で
 神に向かって素朴な歌をうたうだけ
 ただのつまらぬ小鳥です。
 でもそれは
 栄光を汚す歌をうたったセラフより
 あの堕落したセラフより
 どんなにすばらしいことでしょう。

(文章は『一握りの穂』より引用。写真の花は昨日散歩途中で見かけた草花。家人によると「かたばみ」と言い、どこにでもある花だということだが・・・。)

 カウマン夫人は『荒野の泉』の著者として多くのキリスト者に知られていますが、『一握りの穂』は1955年に書かれたもので小冊子です。このような珠玉の文章を全部で16編書き連ねています。それが10年後に翻訳され出版社から100円で出ていたのです。時は東京オリンピックの年でした。この本もいつの間にか人々の記憶の中から忘れ去られたのでしょうか。書棚に埃をかぶってあなたに読まれるのを待っているかもしれませんね。

時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。(旧約聖書 箴言25・11、12)

2009年10月21日水曜日

単調の中の殉教者(中) カウマン夫人


 私は長年にわたって伝道に従事してきましたが、船で何度も大洋を横断したことは、私にとって特権でした。今日では、大きな遠洋定期船は、あらしの時でもなぎの時でも、非常な速度で、確実に針路をはずれることなく航行することができます。航海中、エンジンルームに降りて行き、巨大なエンジンが昼となく夜となく、目ざす港に着くまでは片時も休むことなく活動しているのを見守ることは、最も感動的なことの一つです。喫水線のはるか下にあるエンジン・ルームには、機関員たちがいます。この献身的な船員たちは、何時間もエンジンやボイラーのかたわらに立ち続けているのです。彼らの夜を徹しての働きの唯一の報酬は、強力なエンジンの着実な律動的な活動です。それは実に船の生命であり、船の進行に欠くことのできないものです。

 これらの働き人たちは、航海の初めから終わりまで、人の見ていない所で刻苦し、ごく普通の目立たない自分の仕事に従事しています。彼らは大洋のまん中で、「私たちの仕事はあまりにも単調すぎる。こんなおもしろくない仕事はやめてしまおうではないか」とは言わないでしょう。あえてそのようなことをほのめかす者はひとりもいないのです。こうした忠実な働き人たちは、船長や他の船員にとって、欠くことのできない存在です。彼らの奉仕がなかったら、航海を成し遂げることはとうていできません。

 幾日か過ぎて目ざす陸地が見えてきた時、船長と甲板にいる高級船員だけが、「私たちが船を安全に港まで運転してきたのだ」と言うことができるでしょうか。いいえ、そんなことはありません。そのためには目に見えない所で労している船員たちの隠れた奉仕が必要です。船を安全に入港させるためには、船長と全船員の働きが必要なのです。

 今日、私たちは、はなばなしいことばかり求めています。新聞紙上で重大なニュースだけに目を留めます。魅惑的なものだけを賞賛し、一般の人々のごく普通の活動をほとんど忘れています。陸軍の専門技術家たちによる驚異的な偉業、数えきれないほど多くの人々の内外の政治家たちの巧妙な駆け引き、天才的な科学者の奇跡的な発見、実業界の大物による多額の寄付などに拍手かっさいします。しかし、その背後にあって、静かなしかし有効な働きをし、いわゆる脇役を演じながら、その実人生のドラマに欠くことのできない重要な役割を果たしている個々人およびその業績を賞賛することを忘れています。

(昨日に続いて『一握りの穂』の文章よりの引用である。政権が変わり、華々しい大臣たちの悪戦苦闘ぶりがうかがわれる。しかし、一方、一まとめに悪者呼ばわりされることの多い官僚たちの中にも地味な働きを通して仕えている人たちがあることを忘れてはならない。写真は東京聖路加病院構内のモニュメント。)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。新約聖書 コロサイ3・23~24

2009年10月20日火曜日

単調の中の殉教者(上) カウマン夫人


 アメリカ中西部のある大学の小さな礼拝堂に、小さな絵が掲げられています。祈りのために上げられた二つの手を描いたものです。ちょっと見たところ、それは平凡な絵にすぎませんが、その絵には、1490年の昔にさかのぼる感動的な物語が秘められているのです。

 フランスで、ふたりの若い木彫りの見習い工が、絵を習いたいと話し合っていました。しかし、そのためには多額の費用がかかります。ハンスもアルブレヒトも非常に貧しい状態にあったのです。とうとうふたりはある解決策を思いつきました。ひとりが働いてお金をもうけ、もうひとりを勉学させる、その人が勉学を終わり、金持ちになり、有名になったら、今度は交替して他を助けるようにすればよい、というのです。

 アルブレヒトがベニスに行っている間、ハンスは鉄工として、汗水たらして働きました。彼は賃金を受け取るとすぐ、それを友のもとに送りました。数週が数ヶ月となり、何年かが過ぎました。そしてついにアルブレヒトは、名匠として、富裕な名の知れた画家として、故郷の地に帰って来ました。今度は彼がハンスを助ける番です。ふたりは再会を喜び合いました。しかしアルブレヒトは友を見た時、目に涙があふれてきました。彼はハンスがどんなに犠牲を払ったかを見たのです。何年もの重労働の結果、その繊細な手は堅くなり、傷だらけになっていました。その指で絵筆を握ることは、もう決してできないでしょう。

 有名な画家アルブレヒト・デューラーは、深い感謝の念をこめて、労働のために荒れ果てたその手―彼の才能を伸ばすためにこつこつと働いたその手―をかきました。彼は「イエスはその手を彼らにお見せになった」(ルカ24・40 英訳)というみことばの深い意義を悟ったのでした。

 タルムードには、ある小作人が富裕な主人の娘と恋に陥った物語がしるされています。娘は父の激しい反対にもかかわらず、その小作人と結婚しました。彼女は、夫が向学心に燃えていることを知って、エルサレムにある大きなラビの学校に行くことを熱心に勧めました。彼は12年間そこで学びました。その間、彼女は、家族からは勘当され、貧しさと孤独の中に生活していたのです。夫はもっと学び続けたいと熱望していましたが、家に帰りました。家の戸口に着いた時、彼は妻が隣人にこう語っているのを立ち聞きしました。

「別れていることは、耐えられないほど苦しいのですけれど、私は、夫が更に学問をするために学校に帰ることを願い、そのために祈っておりますの」。

 彼はだれにもひとことも語らず、学校に帰り、更に12年間学びました。そしてもう一度、決然とした歩みを生まれ故郷の村に向けました。しかし今度は、その時代の最もすばらしい、最も博学な人物が帰って来るというので、パレスチナじゅうが彼をほめたたえて沸き返っています。市場にはいると彼は、接待委員の人々に迎えられました。人々が周囲に押し迫ってくる中に、彼は、ひとりの婦人―背は曲がり、顔はしわだらけでした―が、必死に群衆をかき分け、彼の方へ来ようとしているのを認めました。

 突然彼は、この早老の婦人が、群衆が無視し押し戻そうとしているこの婦人が、愛する妻であることを悟ったのです。彼は叫びました。

「妻のために道をあけて下さい。名誉を受けるべき者は、私ではなく妻なのです。妻は私が学んでいる間犠牲になっていました。妻が進んで働き、待ち、奉仕し、苦しみを忍んでくれなかったら、私は今日ラビのアケバではなく、小作人であったことでしょう」。

(文章は『一握りの穂』L.B.カウマン著 松代幸太郎訳 信仰良書選18 いのちのことば社 1964年刊行より引用。写真は自宅玄関で見かけた蜜を吸う蝶と花々。)