2009年10月31日土曜日
彼は英雄ではなかった、彼は基督者であった(上)
1517年10月31日、マルチン・ルターはヴイッテンベルク城教会の門扉に一枚の紙を貼り出した。「95ケ条の論題」である。この日を記念して今日10月31日を宗教改革記念日という。多くの日本人にとっては500年ほど昔のことであり、外国のこととて馴染みはないかもしれない。
当時、日本は中世から近世への転換時期にあたり、領国経営をなそうとする戦国大名が覇を競い始め、その拠点である城下町がそろそろ出現する頃であろう。ルター(1483~1546)はそのような覇者の中で最初に天下統一に乗り出した信長(1534~82)より一世代ないし二世代前の人であった。
しかし、この人物は信長以上の影響を世界史に与えた。なぜなら時のヨーロッパ全土を支配する法王に敢然と立ち向かっていったからである。このことについて記す文献は多い。以下に示すのは、Kさんのご両親が所持しておられた畔上賢造著作集によるものである。(実は昨日お話した遺品『聖書之研究』は二年前に譲っていただいたのだが、先頃この著作集全巻をKさんから譲っていただき、今は私の手許にある。やや文体が古風なので今の方には馴染まないが、できるだけ転写して紹介したい。)
彼は決して天性の英雄ではなかった。また強剛不屈の偉男児でもなかった。彼はむしろその天性においては、弱き人であった。やさしき人であった。柔和と愛憐と謙遜とは、彼の特色であった。憂鬱の発作は時々彼を襲った。「思慮深き温和と鋭敏繊細に過ぐる愛情」とが彼にあった。
ルーテルは浅き観察者には、臆病惰弱な男子と見えたであろう。謙卑と内気らしき温柔が、彼の主たる特色であった
とトマス・カアライルの言うたのに、虚構(いつわり)のあろうはずがない。ゆえに法律を学びし彼は鋭敏なる感受性の強うるままに、この世の希望をすてて、修道院の隠棲を選ぶに至った。父母の大失望も大反対も、彼を活動世界に引きもどす力はなかった。彼は修道院の奉仕(つとめ)において、煩瑣と過労とを厭わずして、小心翌々として努むる底の人であった。彼はそのまま隠れたる生涯を営むをもって、何ら憾(うら)むところなしとした。
27歳にしてローマの本山に使いした時、法王とその周囲の腐敗は、敏感なる彼の眼を逃るることを得なかったのは事実である。さりながら、彼一個微力の寒僧、いかで偉権並びなき法王庁に叛逆の弓をひき得ようや。夢にだに彼はかかることを思い得なかった。彼は黙して自己の小なる仕事にいそしだ。そして心霊的安心の域に達して、独り恵み深き法悦に住んで足れりとした。
法王庁の赦罪券販売に、敢然ひとり起って抗せしは事実であった。しかしそれすら、予め計画して本山改革の戦を開始したというわけではない。もし販売人テッツェルが彼の受持ち区へ入り込まなかったならば、彼は反抗の火矢を放つ要はなかったのである。しかしながら彼はウィッテンブルヒの牧師として、或はその教会員の中に赦罪券を購いて罪業の消滅に得々たる者あるを発見し、或は赦罪券購買の可否如何を質問する者あるに会して、自己の職分に忠ならんとして、また天よりの声を斥けざらんとして、遂におのれを偽ることは出来なかった。
牧師たる職分を遺憾なく行なわんために、彼は遂に赦罪券販売に反対せざるを得ざるに至った。宗教改革者として彼は起ったのではなかった。彼は己に託せられたる少数の霊魂を切愛したのであった。彼は英雄ではなかった。彼は基督者であった。そして理想の牧者であった。されば偏に神に忠実ならんとして、彼は遂にこの世の大勢力と戦う結果を惹き起こしたのである。この世の英雄豪傑という呼称の外にある彼は、我らの近くに立つものである。
謙遜なる彼も、神の声に促されて立つ時は、真勇の人たらざるを得ない。彼の如き忠誠摯実な心に霊火が燃え立つ時において、そは遂に天を焦(こが)さずしてはやまぬ。さりながら彼は英雄ではない。計画者ではない。ただ教会の弊害駆除に努めたのみであった。従って法王の権威を否認せんとは、ゆめにも思わなかった。ましてやローマ本山の支配を脱して、新教を創設せんとの野心をや。彼はただ教会の弊害だに改まれば、満足したのであった。この意味において、彼は実に温和なる改革者であった。
ルーテルの切なる願いは、弊害の改められんことであった。教会内に分争を惹き起こすことや、基督教界の父たる法王に背くことなどは、彼の夢にも思わなかったところである。
とカアライルの喝破せし通りであった。
その法王を反基督と断じて大反抗の旌旗を翻したのは、ライプチッヒに法王庁の大学者ヂョン・エックと論争せし後のことであった。この時彼は、博学精緻なる論敵の追及する虜となって、遂に己が法王否認の大原理に立つものなることを自認せしめられたのである。法王に忠実なることの、彼の立場として到底不可能なることを、彼自ら知らずして、敵にこれを指示されたのである。
以後、温和にして不徹底なる改革者は、激烈にして根本的なる改革者となった。これ彼のみづからの求めしところにあらずして、彼を罠に陥れんとせし敵のなせしところであった。敵が遂に彼をこの最後のところに遂い込んだのである。事の成り行きが遂に彼をしてここに出づる外なからしめたのである。神の声と自己の職分に忠実ならんため、遂に起ちて小改革の旗をあげたる彼は、敵に強いられて遂に大改革の戦士とならざるを得ないこととなった。彼はどこまでも英雄ではなかった。ただ神の声に聴従する基督者であった。(続く)
(引用は『畔上賢造著作集』第7巻53頁「改革者ルーテル」より。今日の写真はいつも通る東武線の線路際に咲いている可憐な花。名前がわからないが、もうかれこれ二ヶ月余り咲いている。あっちこっち見るがこの花には今のところどこでもお目にかかれない。)
おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(旧約聖書 1サムエル17・45)
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