2009年10月23日金曜日

『あしなが運動と玉井義臣』(副田義也著 岩波書店 2003年3月刊行)

 「玉井義臣」の名前を知ったのは私にとって比較的早い時期にあたる。ちょうど40年前の1969年の3月12日に私は交通事故にあったが、その時、相手の加害者の方と示談の必要性が生じた時だった。書店で『示談』という同氏の著書を買い求めた。偶然ではあったが、同氏は大学の同窓生であることを、その時知った。その後、同氏の存在・活動振りは新聞などで知っていたが、それ以上詳しくは知ろうとしなかった。

  6年前にこの本が出たときも図書館で借り出して少し眺めたが、余りにも大部な本(437頁)で丁寧に読み進める勇気を持たなかった。ところが3、4日前、同窓会誌が送られてきて、巻頭の特別対談に同氏が登場しておられた。A4版の4段組の100頁足らずの機関紙の4頁ほどの構成だったが同氏の活動が端的にわかる、いい対談であった。玉井氏はインタビューを受けた後の感想を次のように語っていた。

普段あまり考えもしない、学生時代から現在までの50余年を総括する難しいけれど楽しい機会でした。『彦根は遊んでいただけ』と思っていましたが、今の仕事も彦根なしには考えられないとわかったのは、鉛のように重い学生生活から、いま黄金の日々につながっているということで、それはインタビューを受けたことによる新たな、〝発見〟でした。

  この素晴らしい成果を上げている先輩が学生時代をそのように振り返ったことは、私にとって新鮮な驚きと感動であった。私もどちらかというとこの鉛のような重い鬱屈した学生時代をそこで経験したからである。再び市立図書館で借り出して読み始めたが、次々に展開される叙述に今回は巻を措く能わずとの思いを深くさせられた。

  副田氏はこの本の副題として「歴史社会学的考察」と銘打っておられる。それは何よりも「あしなが運動」という高度成長経済から現在の低成長時代、かつ冷戦後世界に対峙する日本社会の根底にある動きを描写したかったからであろう。副田氏は社会学の研究者である。しかしその作業は玉井義臣氏の存在を抜きにして語れないのである。ここにこの本の題名の拠って来る意味がある。

  1963年12月23日にお母さんの交通事故・34日後の死に直面された玉井氏は、被害者としての怒り(「象徴的敵討ち」本書6頁以下の著者の造語)からスタートされた。年若くして日本で最初の交通評論家となられたが、時代が彼を必要としたのだ。その後40年におよぶ玉井氏を中心とする社会運動は、当初はモータリゼーションの進展という時代に対する抗議運動として始められたが、日本社会の変貌とともに交通遺児以外の遺児にも視野は拡大し進められてゆく。その社会的救済を求める中で行政や産業界とも対決しなければならなくなる。 

  著者はその玉井氏に協力を依頼されて何度も何度も交通遺児を手始めとする様々な実態調査を依頼され今日に至っており、ある意味で研究者ではあるが玉井氏にとって欠かせない同伴者・相談相手でもなかったのでなかろうか。だからこそこれだけ肉薄した叙述が可能だったと思う。と同時にこの調査を通して社会学の手法も深化していったのではなかろうか。そういう意味では副田氏の研究者としての歩みにおいて、逆に運動家である玉井氏もまた研究のよき同伴者と言える。

  つい先日も駅頭で遺児の募金活動が高校生により行なわれていた。私はそれを尻目にその前を立ち去った。学生時代の呪縛―そんなことはしても無駄だ、社会の変革をせねば駄目だという呪縛―に今も縛られている自分を思わずにはいられなかった。玉井氏が進めていった交通遺児支援運動が当時の全共闘運動やまた他の旧来の左翼運動がなしえなかった成果を実地に達成している点に当時少しでも耳を傾けていたらと、この本を読んで自分の愚かな行為を恥じずにはおられなかった。

  それだけに様々な紆余曲折を経ながら長年にかけて彼が育て上げていった交通遺児育英会の専務理事の役職を1994年に追われる件の叙述は悲しい。たまたま私の所持する同窓会名簿は1993年のものだから、彼の専務理事の肩書きが載る最後のものだろう。同じ学年の隣頁には久木義雄氏が同会の常任理事との肩書きも見える。それもそのはず、久木氏は玉井氏の大学時代の同窓の誼で、すでに商社勤務であったのに、育英会の仕事に引っ張り込まれて協力させられ、同士の間柄であったからである。(同書164~165頁)

  しかし、1994年両者は袂を分かち、久木氏は交通遺児育英会に残り、事務局長、専務理事事務取り扱いの役職を得る。その後の叙述が次のように描かれている。

玉井が久木に交通遺児育英会の新体制にかんして批判めいたことを言ったとき、久木は玉井に、交通遺児育英会への復活は考えず、あしなが育英会に専念するべきだとすすめた。そのおりの久木の科白は、「江戸城にもどるのは無理だ。小さいが彦根城を大事にしろよ」であった。彦根城は、かれらが卒業した滋賀大学のちかくにある城である。久木はだれが江戸城の主になったと考えたのだろうか。(同書374頁)

  しかしその後、久木氏が江戸城と言った交通遺児育英会は創設者玉井が辞めさせられた結果様々な問題を抱え込む事態に至る。一方久木氏によって彦根城と揶揄されたあしなが育英会は再び玉井氏の本領が生かされる場となり、遺児は交通遺児だけでなく、様々な理由で遺児にならざるを得ず経済的貧困の中に置き去りにされる若者たちの救済、さらには海外の貧困者にまで視野を拡大してゆく運動体として成長してゆく。

  折りしも1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生した。彼はスタッフを派遣し、震災当時どの組織もつかめなかった震災遺児504人の氏名・住所の確認をし、本格的な支援活動を開始するのだ。(同書389頁)そして今までの経済的支援のほかに、震災で犠牲になった悲惨な肉親の死に直面し、そのトラウマから解放されにくい遺児たちの心のケアーをふくむ施設「虹の家」を神戸に建設するに至る。

  もちろんこの本は玉井氏の評伝を書くのが狙いではない。「社会運動家」(同書413頁)という社会学では未定義の概念を創造し、著者が玉井氏をはじめとするその周辺に集まってくる人材を中心に、日本社会の暗部を彼らがどのように作り変えて行くことが出来たか、また出来ていないか、時の政官財とどのように闘い、勝利をしまた敗れて行ったかを克明に跡づけている問題提起の本でもある。

  冒頭述べたインタビュー記事の中で玉井氏は最後に教育機関としての大学に望むことはありませんか、という司会者の質問に答えて次のように言っている。

大きな夢、野心、目標をもたせるような、教科書に載っていない、世のため人のため貧しい人のために役立つ心をもたせて卒業させてほしいと思います。日本が衰退して小さくなり、モラルハザードと拝金主義の社会になっても、出世競争に敗れても人間の尊厳を失わずに、地域社会で心豊かに生きてゆく考え方、行動の仕方を学ばせてやってほしいと心から思っています。在学生の皆さん、人生は長い。悠々と我が道を行ってください。21世紀、リーマンショックで世界の最貧困地帯のアフリカの極貧層はさらに貧しくなり増加しました。私たちは世界の心ある人と連帯して、世界中からあしながさんを掘りおこし、アフリカ青年を大学進学させたい。アフリカの貧困の削減は教育にかかっています。私とこの運動を共に行なう若者はいませんか。歴史を変えてゆきましょう。志ある同窓人、後輩学生を待っています。教育が世界を変革していくと信じます。

  彼のこの言は、功なり名を遂げた人としての言でない。彼が一生涯運動の最前線にいることがわかることばだ。と同時に彼が自分より遥かに若い者を運動に引き込む力を今も持つ現役の「社会運動家」であることを実証することばでないだろうか。

  民主党政権下、官僚との闘いがいかに熾烈を極めるかは私たちは今毎日のように知らされている。約15年ほど前に交通遺児育英会を追われる玉井氏の背後に実は財団法人に対する監督官庁の天下りを実現させようとする画策があったことも少し記されている。だから6年前のこの本は今読んでも新しさを失わない本だと思う。それは政治とはどうあるべきかをヴィヴィッドに感じさせる本ではないかと思うからである。多くの心ある方がこの本を読んでいただけるようにと心から願っている。

  しかしこの長い叙述を読み終わって、なぜか私には次の聖書の言葉が迫ってきた。それは社会運動には消長があることを認めざるを得なかったからである。人は自己の栄誉にしがみつこうとする。しかし歴史は容赦なくそのような人間の思いを剥奪してゆく。あしなが運動もまたその例外ではないだろう。虚心に時代とともに歩む人間のことばにならない悩み苦しみを、つねに聞くものでありたい。 

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのはかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。・・・わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(旧約聖書 イザヤ45・5、7) 

 (写真は彦根城内堀に泳ぐ白鳥。今年2月撮影。)

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