西軽井沢国際福音センター 2012.11.18 |
いわば神が見るような見方で地上の光景を見たとすれば、そのときあなたはどのように感じることでしょうか。たまに思い出したようにしか祈らない人が、規則正しく祈る人たちと同じ恵みを受けられると本当に信じることができるでしょうか。この二種類の人のうちどちらが、自分を神のしもべまた奴隷として見ていると言うことができるでしょうか。
聖書は祈ることを勧めますけれども、それとほとんど同じくらい強く、祈り続けること、いつも祈っていることを勧めています。よく祈る人は祈りの真の祝福を受けているとはっきりいうことができます。さらに、よく祈ることはあなたの人生に徳を加えるのに最も効果的な道です。たとえば物欲にとらえられた男が、自分の中にある物質主義の傾向について毎日祈るとしましょう。彼は誘惑が襲う度に祈ります。そしてその誘惑に打ち勝つように神の助けを求めます。祈り続けるうちに彼の良心が呼び覚まされます。そしてこれ以上自分自身の生活を変えることをしないで祈り続けることはむずかしいと思うようになるのです。
もしどの徳をまず先に祈り求めたらいいのかとあなたが考えているのであれば、何よりも謙遜を求めることを勧めたいと思います。それはキリスト者の間であまり求められることのない徳かも知れません。けれどもあらゆる良い考えや行ないは人を傲慢に導きやすいわけですから、特にほかの徳において優れている人はまさに謙遜の点で実際に一番劣っているかも知れないのです。
謙遜であるとは事実ありのままの姿よりも低く自分を見なければならない、ということではありません。そうではなく自分の弱さと罪を正しく理解するということです。わたしたちはあまりにも弱く、自分自身では何ごとも行なうことができません。存在することさえできません。わたしたちが何かをすることができるようにしてくれるのは神の力です。神に近づくようにわたしたちを導いてくれるのも神の力です。そうとすれば、傲慢は盗みと同じです。傲慢な人は神の栄光を盗んで自分のものにしてしまっていることになります。
黙想の中で個人的な謙遜を身につけるために、自分の生活を単純に反省してみましょう。あなたが心の中で考えていることが、突然まわりの人たちに何もかも明らかにされてしまったと考えてみてください。あなたの最も立派な行ないでさえも、その影にどんな隠れた動機があるか、それがどんなにみにくいものかが、みんなにわかってしまったとします。そうすればあなたは、自分の善を尊敬されたいなどとは、もはや決して考えないことでしょう。
罪がどんなに恥ずべき性質のものであるか、そしてその罪を潔めるためにどんなに大きな贖いが必要であったかを考えてください。神の御子の苦しみと死がそのために求められたのです。わたしたちがそのような罪びとであることを思い知らされるとき、自分を誇りに思うなどという余裕がはたしてあり得るでしょうか。
わたしたちはある意味でみな謙遜を愛し、傲慢を憎んでいます。ただしそれはほかの人の謙遜と、傲慢です。
目を天に向けて、自分が天使とはどんなに違うかを考えてください。天使は自分がどれほど完全な存在であるかなどと考えたりしません。けれどもみな同じ喜びにあふれています。あの天使セラフィムが神のみに栄光を帰しているときに、人間のような罪びとが天使と同じ尊敬をかち得ようとするのはなんと愚かなことでしょうか。自分自身に満足している人は、両手を広げて十字架に釘づけられたわたしたちの愛する主を思いみるべきです。そしてあの柔和な十字架の救い主と自分とを比べてみたらいいのです。
(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』棚瀬訳71〜73頁より引用。ウィリアム・ローはギボン家の家庭教師であった。その子どもが『ローマ帝国衰亡史』を著した。)
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