浅間山 2012.11.18 |
わたしたちは生まれつきプライドを持っていますが、それは人間に本来備わっている自己愛から自然に出てくるものです。そのためにキリスト信仰は、新しく生まれること、あるいは新しい霊を受けることと呼ばれることが多いのです。福音の歴史は、キリストがこの世の自己中心的な精神にどのようにして打ち勝ってくださるかという歴史です。そして本当のキリスト者とは、キリストの霊にしたがって、この世の霊と相反する生き方をする人のことと言っていいでしょう。
「・・・キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8・9)
「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(コロサイ3・2〜3)。
これが新約聖書全体の中に流れている考え方です。キリスト信仰の特徴です。わたしたちは(この世の霊に対して)死ぬ者となり、イエス・キリストの霊によって新しいいのちに生きる者となります。しかしこのような教えが聖書の中に明瞭に示されているにもかかわらず、多くのキリスト者はこの世の習慣の奴隷として生き、また死んでいるのではないでしょうか。
ではこの世に対するわたしたちの勝利はどこにあるのでしょうか。それは十字架においてはっきりと描かれています。キリスト信仰とは、十字架上の犠牲において示されたキリストの御心に徹底的にしたがうことにほかなりません。
パウロがガラテヤ人への手紙6章14節で情熱をこめて語ったのは、まさにこのキリストの精神でした。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」けれどもなぜパウロは「十字架」を「誇り」としたのでしょうか。キリストが彼の代わりに苦しみを受けてくださったので、もう自分は苦しまなくてもよくなったからでしょうか。とんでもありません。それは、パウロがキリストを信じることを告白したとき、そのとき同時にキリストと共に苦しむという栄誉へ召されたからなのです。そしてキリストが十字架の上で死なれたように、彼もまたこの世から非難を受け、世に対して死ぬという栄誉を受けたからです。ですからパウロはそのあとに続けてこう言います。「・・・この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
そういうわけでキリストの十字架は、パウロの時代のキリスト者にとっては栄光のしるしでした。十字架につけられた主を喜んで受け入れるということを示しただけではありませんでした。十字架の教えに完全にしたがうという、そういう種類の信仰を彼らが誇りとしたということです。キリストが十字架の上で示されたのと同じ自己犠牲、同じ柔和と謙遜、キリストと同じように非難に耐えること、同じようにこの世の幸せに死ぬこと、などを十字架は彼らに呼びかけたのです。
キリスト信仰がどういうものであるかを正しく知るためには、キリストがわたしたちの代わりに苦しみに会われたとだけ考えるなら十分ではありません。わたしたちの苦しみがキリストの苦しみと結び合わされるとき、それが神に受け入れられるものとなるということが、キリストの特別な恵みなのです。もしキリストの犠牲がなければ、わたしたちの自己犠牲は神にふさわしいものではあり得ないでしょう。そしてその反対のことも同様に言うことができます。わたしたちがキリストと共に十字架につけられ、共によみがえらされるのでなければ、キリストの十字架と復活はわたしたちにとって何の役にも立ちません。
新約聖書全体の流れは、このキリストとわたしたちとの結びつきを指し示しています。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(2テモテ2・12)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた・・・」(ローマ6・ 6)「・・・もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」(2テモテ2・11)「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3・1)したがってすべてにおいて、わたしたちの「いのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」(コロサイ3・3)ことになります。こうして、人の救いというものはキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされることと言わなければならないのは明らかです。
この世の霊がわたしたちの主を十字架に釘づけにしました。ですからキリストの霊を持つ者—つまりキリストと同じようにこの世に反対する者—はだれでも、いろいろな意味で、十字架につけられることになるでしょう。結局のところキリスト者は、イエスを十字架につけたその同じ世界に今も生きているのですから。
「あなたがたは世のものでは」ないと主は言われま した。「それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15・19)。わたしたちがこのことばの意味を見失いがちなのは、これはただあの初代の弟子たちのためだけに言われたのだと考えてしまうからです。けれどもイエスは、やがていつか世は弟子たちを憎むことをやめるだろう、などと言って慰めようとはなさいませんでした。
それにしてもキリストのことばは今日のわたしたちにはあてはまらないのではないか、と疑問に思う人がいるかも知れません。この世がキリスト教を受け入れるようになり、いわゆる”キリスト教国”に住んでいる人たちがたくさんいるから、というわけです。けれどもそのキリスト教国にいる人たちがみなキリストの霊を持っているとはとうてい言えないでしょう。また世がキリスト教を受け入れたということは、むしろ以前よりも危険な敵になったということでもあるのです。この世から好意を受けること、この世の富を得ること、この世の楽しみにふけることのために、迫害によるよりもはるかにたくさんのキリスト者が信仰から離れてしまっています。世がもはや敵に見えないために、より多くのキリスト者は世に支配されながら満足しています。
ある罪を、教会が全くとがめ立てないというただそれだけの理由から、どんなにしばしば良心の声が妨げられてきたことでしょう。キリスト教国が行なっていることだからというので、どんなにたくさんの人が新約聖書の教えを無視していることでしょう。教会の中のほかの人たちもみな自分と同じ生き方をしているという弁解がもしなかったならば、わたしたちのうち何人が初代教会とこれほど相反する生き方をすることができたでしょう。 いわゆる”キリスト教世界”の権威ほど、キリスト者が常に警戒しなければならないものはほかに何もありません。
(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』74〜78頁より引用。翻訳文では「キリスト教信仰」とあるところを引用者が「キリスト信仰 」と置き換えた。)
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