2013年7月18日木曜日

天に愛の目あり


怠慢のため聖句書けず※
月曜日は暑かった。水曜日に開かれる家庭集会のことが思いやられた。ところが火曜日、水曜日となぜか気温は低下し、しのぎやすくなった。家庭集会当日は涼しく、冷房もそれほど要らない天気となった。ところが今日はまたしても暑くなって来た。いったい火曜、水曜のあの涼しさは何だったのかと思い、我田引水的だけれど、そうだ、主なる神様があわれんでくださったのだと思い至った。準備の火曜日も当日の水曜日も、すなわち私たちが行動しやすい天気を与えてくださったからだ。

集会の朝、夢を見ていた。一人の男性の方が家庭集会に来て挨拶をなさっている。その方は療養中なのにすっかり元気になって、私たちを励ましにやってきてくださったのだ。風の便りに聞いていたその人とは打って違い、その人は元気であった。なぜか、私たち夫婦は隅の方に引っ込んでいた。その姿こそ今の私にふさわしいありようであった。気分が塞ぎ、滅入り、自らの信仰が死んでいるかのようであるからである。そのうちその方が大きな声で「○○○さん」「○○○さん」と呼ぶ。○○○とはその方と同じ病で闘病中の家のお嫁さんの名前であった。彼女がどこにいるかわからない、だからその方は何度も「○○○さん」と呼ぶ。最後の一声で階下から家内が名前を呼んでいるように思えたのでハッと目が覚めた。明け方寒く寝られなかったので、ふとんをかけやっと熟睡の域に達したのだが、夢はその間の夢であった。目ざめたのは8時近かったので慌てて階下に降りた。

階下に降りると家内が、今日の家庭集会のメッセンジャーの方が急病で来れなくなった旨7時半ごろ電話があったと伝えた。道理でと思った。家内が大慌てで階下から私の名を呼んだのだ、さてはその呼び声だったのだなと話すと、家内は全然呼ばなかったと言う。むしろ、ぐっすり寝込んでいるので可愛そうなので起こさなかったと言う。してみると、あの呼び声は何なのだ、主が私を目覚めさすために起こされたのかと一瞬思った。今更代わりのメッセンジャーを頼むわけに行かない。ここは自家発電しか仕方がない。私は何も話せないよとこればかりは変な確信を持っていたのに。約二時間弱猶予はあるにはある。時間は主がくださる賜物である。何とか語るべきみことばを瞑想する。

かくして家庭集会は始まった。遠来から来られるメッセンジャーを想定して新来者の方も来られる、またはるばる東京、宇都宮、柏、上尾からも皆さん来てくださっていた。この日は証もお願いしていた。80歳の高齢の方だから、私はむしろこの方の健康を案じていた。しかしこの方は元気に来てくださった。二人でそれぞれみことばとお証を伝えて無事に集会は終わった。とくに二人とも気負うこともなく、淡々と語った。家庭集会の良さである。みなさんもそれぞれ三々五々ゆっくり交わって帰られた。あとで「今日の集会も感謝と喜びに満たされ清らかな空気の中に居させてくださり有難うございました」とわざわざメールを寄越してくださった方もおられた。

家庭集会を開かせていただいて23年目になる。よくも今日まで続けられたと思う。主イエス様のあわれみと背後のみなさんの祈りとご奉仕があってこそだと思う。この日証してくださった方は次のみことばを結びの聖句として紹介してくださった。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです)。ピリピ2・3〜5

最愛の奥様を膵臓癌で13年前なくされ、その後男やもめとして数年病気がちであり不運をかこっておられたかのようにお見受けしたが、最近元気になられ、青年のように目ざめられ私たちとともに礼拝をしておられる方である。この方がこのみことばを読んでくださったことは何よりも嬉しかった。一方メッセージを終えた私に録音CD作成の方が今日の題を教えて下さいと言われた。しばし考え、「わたしはあなたを愛している」とつけた。わたしと言われるのは主イエス様ご自身である。下記の主題聖句からそのまま引用したものである。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ(イザヤ43・4)

「わたしはあなたを愛している」たとえ前途に希望が見出せなくなったとしてもこの方の愛は変わらない。めげないで、困難な中、主イエス様を頼りに歩みたい。叱咤激励してくださる主の愛をこれからも○○○の闘病とともに家族一同経験して行きたい。あわただしかった一日を終え夜になり、来られるはずであったメッセンジャーの奥様にお電話した。幸い大事にはいたらなかったことをお聞きし一安心した。

(※いつも書いてある聖句が書いてないため心を痛められた方もあったようだ。でも主イエス様が一番心を痛められたことであろう。ごめんなさい。次回は9月11日(水)午後二時半からである。)

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