われわれの人生の中に偶然と言うものは何一つありません。すべての背後に主なる神が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて適切な導きをなしておられます。すべてが益となる。このことを私たちはつねに新たに覚えるべきなのではないでしょうか。良いことやもっとも良きことは私たちが造り変えられることなのではないでしょうか。
造り変えられること、主の御手によって練られることは確かに面白くない、痛みをともなうことでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしにはあり得ないことだからです。人はその時、失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。このようなことは自分の思いどおりにならないとき、目先のことしか考えない時に起こる事柄です。29節はほんとうに大切な絶えず覚えるべき箇所でしょうね。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
主は御子の姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。主があらかじめ目指しておられるご目的は何というすばらしいものでしょうか。この目的からつねに目を離さないことは非常に大切なのではないかと思います。主はご自分に属しておられる者を限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ教育なさるのです。主の教育は私たちが主の聖さにあずかるように、ご自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。 私たちの主は完全であり、言うまでもなく、主の導きも完全です。おそらく私たちはすべてを理解することができず、挫折してしまう危険に直面し、また自分自身に同情してしまうというような場合も多くあるのではないでしょうか。
どうして私はこんなことを経験しなくてはならないの、どうして次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私はこんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル12・11)
と、聖書はハッキリ言っているのです。ここで大切なことはそのときは一時的に悲しく思われるものですけれども、しかし後になると、それが結果的に幸いになるということです。
次に私たちは次のことを覚えましょう。すなわち、私たちはけっして主のための実験用モルモットなのではない。主がつねに最善のみを考えておられる、最愛の子であるということです。たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練やいわゆる懲らしめこそ愛されている証拠です。私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを必ず主に感謝し礼拝することでしょう。
ダビデは次のように告白したことがあります。一番長い詩篇ですけれども、詩篇119篇の67節、945頁です。詩篇119篇67節を見ると次のように書かれています。一つの告白でもあります。
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
結局、苦しんだのは良かった、とダビデは言えたのです。
なぜか、あるいは何のためかという問いについて今考えてまいりました。すなわち、答えは三つです。今まで二つのことについて考えました。第一番目の答えは支配したもう主なる神は人が救われるために、まことの救いを自分のものにするために、罪の赦しを得るためにそれらの多くの事柄を起こるがままにさせておかれる。二番目の答えは支配したもう主なる神は信ずる者が変えられるために、それらの多くの事柄を起こるがままにさせておられるということです。三番目の答えは支配したもう主なる神は救われた人々がほんとうに主に仕える者として用いられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされるのです。
多くの信者は実を結ばない木のようなものじゃないでしょうか。主は彼らを用いることができない。その原因は何でしょうか。彼らはイエス様なしでも、何とかやれると思い、自分自身の力と自分自身の知恵により頼んでいる。確かに多くの信ずる者は、主のために何かをやりたい、主のために一生懸命に何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいと主に願ったりするのです。しかし結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいために主を利用しようとしてしまっているのです。しかし実際は主が信者をお用いになりたいと思っておられるのであり、ご自分の器として信者を用いたく思っておられます。永遠の残る実を結ぶご奉仕は主のためのわれわれの努力ではない。われわれをとおして主がなさるみわざでなければならない。これこそ多くのものがわれわれに逆らっているように思われたり、主が私たちを厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。
そこで簡単に二つの例をちょっと考えてみましょうか。まずイエス様の一人の弟子ペテロ。ペテロというイエス様の弟子とは自信と独立心が彼の特徴でした。彼は自分自身の能力に自信をもっていました。一ヵ所見てみましょうか。ルカ伝の22章、149頁になります。ルカによる福音書の22章の31節から34節までお読み致します。イエス様の言われたことばです。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました(わたしはOKと言った、反対しなかった)。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(すごい、自信ですね。ひどい思い込み)しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう(何時間あと)鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけられることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。それはまことに厳しく辛いことでしょうが、あなたが破産してほんとうに自分自身に絶望するためにはどうしても必要なことなんです。
ここで注意していただきたいことは色々な人格の順番あるいは順序ですね。ここの聖句によると、悪魔、それから「わたし」すなわちイエス様、そしてあなたすなわちシモン・ペテロ。主はペテロを通して彼の兄弟たちを強めようと思われましたけれど、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けれどもこの時も主は絶えずペテロ
のために祈ってくださいました。したがって悪魔は自分がしたいことを何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しているのです。それですから主は悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。
(一週間前、私は自ら今回の経験していることの根底の意味を主に問うていた。その時、自らが神のみこころを求める思いに支配されていないのでは何も始まらないことを自覚した。このメッセージのポイントの一つに「支配したもう主なる神」をあなたはほんとうに経験していますかという問いがあることに気づく。ちなみに私に与えられたみことばはコロサイ1・9の後半であった。)
2013年7月7日日曜日
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