2013年7月8日月曜日

すべて益になる(結)ゴットホルド・ベック

ペテロはほんとうにすべて失敗してしまいました。 彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや一条の希望の光も射し込まず、すべての望みが消え失せた全く絶望的な状態が支配しました。けれどもこの訓練はどうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力により頼むことができなくなってしまいました。そこからはじめて主はペテロをお用いになることができたのです。その良い例が五旬節ですが、その時にペテロをとおして何時間かの間に3000人以上の人々が救われたのです。

ペテロだけではなく、パウロも似ていることを経験しました。ちょっとパウロについて考えてみることにしましょうか。パウロもペテロと同じように深みを通って来ました。すなわち三日間暗闇の中にいたのです(使徒9・9)。そのことをあとになってパウロは次のように証しました。今度はコリント第二の手紙の中で次のことばが出て来ます。318頁です。コリント第二の手紙3章の5節と6節。

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

私たちはみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち自分自身を否定して自分に対して死ぬことです。ヨハネ伝の12章。皆暗記していることばですけれども、ヨハネ伝12章24節を見るとイエス様は次のように「実を結ぶ」秘訣について語ってくださいました。ヨハネ伝12章24節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道も見出さず絶望的な状態になっている人がいます。どうして私はこんなにたくさんの困難を経験しなくっちゃならないの、どうして私は失敗してしまうのでしょうか。恐らくそれはまだはっきりとした救いの確信をもたず、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものということができないからではないでしょうか。もしかするとそれはあなたの救い主があなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。大切なのは救われることだけじゃない。聖められることです。あるいはそれはあなたが今までに主を利用しようとしていたけれど、今や主があなたを主の御手の中でご自分の器としてお用いになろうとしているからではないでしょうか。もう一ヵ所、旧約聖書から読みます。292頁です。いわゆる申命記8章の15節です。

燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(る主、とあります)

道をふさぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や私たちが甘受しなければならない心痛、すなわち心の痛み、それらのものから主は水を湧かせようとしておられるのです。このような経験を通して私たちは主のみもとに行くのであり、このような経験をとおして祝福され得るために祝され、またいのちを与えられるのです。生ける水は川となってわれらより出(いず)るべしと書いてあります(※)。旧約時代に主はご自身の民に向かって次のように言わなければならなかったんです。今度はエレミヤ記の2章、1137頁になります。エレミヤ記の2章13節。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

エレミヤ記17章の13節

イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民は、二つの罪を犯す。一つは「湧き水の泉であるわたしを」捨てたこと。第二は「水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」。このようにして主は悔い改めて立ち返ることを呼ばわれました。

イエス様を知らない人々は悔い改めて主のみもとに立ち返らなければなりません。救われるため。そしてイエス様を知るようになった人々はイエス様のうちにとどまるため、また用いられる器・道具となるために悔い改めて立ち返らなければなりません。

イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通り良き管となることによってイエス様はご自身を現わすことがおできになります。今のこの時の試練はまさに死後の世界に至るための準備期間のものに他ならない。主はなにものも御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。暗闇の時にも困難の涙の時にも主の御手はわれわれを守ってくださいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜなら主はとこしえに主であられるお方です。そして主は決してあやまちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主はわれわれにとっても最も益となることを考えていてくださるのです。ロマ書8章の、前に28節を読みました。今度は8章18節です。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

もう一ヵ所、最後に(読みます)。コリント第二の手紙。初代教会の一つの証ですネ。319頁になりますが、コリント第二の手紙4章の8節から

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

16節

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 

( ※「我を信ずる者は、聖書に言えるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出ずべし」ヨハネ7・38とある。この一人のドイツ人宣教師は私たちがとっくの昔に捨てて顧みない文語体の聖書のこの箇所を記憶にとどめておられる。何と有難いことでしょうか。)

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