2013年7月5日金曜日

すべて益になる(起)ゴットホルド・ベック

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)

九十九パーセントだけじゃなくて、すべて。「すべて」は「すべて」です。すべてが益になる。ほんとうは考えられない。ほんとうかなと思う人もいっぱいいると思うけれども、聖書はそう言っているから、まちがいなく「すべて益になる」。生きている間にわからないかも知らない。けれども遅くとも永遠の世界に入ってきてから、主なる神は完全ですし、したがって主なる神の導きも完全です(とわかります)。

確かに人間は誰でもいろいろな問題、あるいは悩みや苦しみに出会う者です。そこで多くの場合、そのようないろいろな問題に直面した時に、私たちはいかなる答えをも見出すことができない場合があります。多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで悩んでいます。

ドイツの親しい人だったんですけれども、彼は自分から金持ちになろうとしたのではなく、財産に恵まれた境遇の中で、イエス様のご栄光のためにすべてをささげていました。けれどもある日突然、色々な出来事をとおして・・・。二つのデパートを持っていたんです。ちょっと考えられない。あの家で何回も泊まったことがありますし、家の中に大きなスウイミングプールがあって夜昼いつも同じ温度で泳ぎながらテレビを見たりして云々と。けれども、ある時彼は全部失くしちゃった。おもに自分の親戚、自分の子どもに裏切られてしまいました。つらかったけれど、彼はいつもほんとうのことを言ったんです。すなわち人間はみな必要なものを持つ。ほしいものは与えられないかも知れないけれど、必要なものを持つ。ですから、全財産失ったときも、彼は別にがっかりしなかったんです。必要だと思ったんです。この態度を取るとやっぱり楽になるし、安心して前向きに生活することができます。

確かに人間はしばしばいろいろな状況の前になすべき術を知らないで、またどうしたら逃れることができるのかその逃れ道を見つけることができません。絶望的な状態に陥ってしまうというようなことが実際にありはしないでしょうか。

旧約聖書の中の大切な人物の一人はそれを経験しました。すなわちヤコブという男です。創世記42章の中で、1節だけ読みますけれども、彼の気持ちをあらわす箇所があります。旧約聖書の72頁です。創世記42章の36節

父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

喜びの叫びではなかった。彼のそれまでの生涯においては、自分自身の意志、また力によって行なったことがたくさんありました。また彼は長い間、ずるがしこさ、また卑劣さでもってただ自分の利益ばっかりを考えたわけです。けれどもそのような、人を欺く者が欺かれました。主なる神は罪を見過ごしにされないお方です。これはヤコブが知らなかったけれど、学ばなければならなかったものでした。彼の場合のように、すべてが失敗に終わりそうに思える時、いったい何をなすべきか、どうしたらいいか、いかなる態度が取られるべきかなどとまったくわからない。

まず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということはただそのように見えるに過ぎないということです。ヤコブの場合もそうでした。 なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれども、いつかは必ず会える、シモンもまた確かに今ここにいないけれども、いつか必ず会うことができるということです。私たちは人間的な見方をする場合多くのものを正しく見ることができない。次のように言うでしょう。すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わる。けれども、ほんとうはその反対が真実です。すなわち、これらの事柄はわれわれに反対しているのではない。われわれのためにある、と言うことです。けれども、私たちは今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、「隠された祝福 」と言ってもいいものではないでしょうか。

なぜ私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。なぜこんなことが私に降りかかってくるのでしょうか。このように苦しみながら、悩みながらいくら自問自答しても何の解決も見出せないような事柄が実際には数えきれないほどたくさんあるのではないでしょうか。なぜか、あるいは何のためかという質問についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。答えは三つです。

第一番目、すべての背後に支配したもう主なる神は人を救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされておかれる、と言うことです。第二番目の答えは支配したもう主なる神は信ずる者が変えられるために多くの出来事を起こるがままにさせておられる、と言うことです。そして三番目の答えは支配したもう主なる神は救われた者がほんとうに主なる神に仕える者として、用いられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。

(昨晩浦和で行なわれた家庭集会でのメッセージの聞き書きである。「隠された祝福」とは何と恵みに満ちたことばではないでしょうか。)

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