今冬も 椿優雅に 初開き |
一週間前の今日、老婦人の送別の交わりを持たせていただいた。その日は生憎雨が降り、今日のように肌寒い日であった。集まったのは私だけが男で、あとは女性ばかりで都合六名であった。しかし、私たちの心はそんなこともものかは、楽しく交わりの時を持たせていただくことができた。その折り、短く話させていただいたことを思い出しながら書きとめてみる。
ここにご主人が召される一日前にベックさんがお撮りになった写真があります。ご主人がこの時、酸素マスクを外され一枚の紙を手にされたお写真であります。その紙には「これで十分だ」とご主人の字で書かれていました。ベックさんから罪の赦しの福音メッセージをお聞きした直後に震える手で書きとめられたものです。
その福音メッセージはどのようなものかと申しますと、すでに耳の遠くなっておられたご主人に分かるように、ベック兄が語られたことばを私が書いて差し上げたのですが、それは「イエス様。ごめん。これで十分だ」という簡単なものでした。肺がんの末期で翌日には召されたのですから、緊急を要する時でした。でもそんな折り、酸素マスクをかなぐり捨ててご主人がそれに答えて精魂込めて書かれた文字の一つが「これで十分だ」でした。
創世記45章には、ヤコブが死ぬ前に、折り悪しければ、一挙に二人の子どもを失いかねない最大の危機に、長年死んだとばかり諦めていた息子のヨセフが生きていることを知り、元気を回復する記事があります。
彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」(創世記45・26〜28)
このわずか三節の間にヤコブがそれまでの絶望寸前の状態からいかにして元気になったかが描写されています。それをあらわすことばは「それで十分だ。」と書かれていました。念のため、英文では I'm convinced! でした。
罪の赦しを得た者が天国に入ることができます。天国とは地上でイエス様の十字架上での人間の罪の贖いの死を自分自身の身代わりだったと心の中で知った者が行くところです。私たちは天国に行くために、すなわち私たちの罪滅ぼしをするために、善行を積んだり、献金を必要としたりしているのではありません。主が用意してくださった救いの道を信頼して歩むだけでいいのです。
ヤコブは子どもたちの言葉を聞き、息子ヨセフから差し向けられた「車」を見て、元気づき、「これで十分だ」と確信したのです。ご主人が今際(いまわ)の際(きわ)に書かれた「それで十分だ」と確信されたのも、このヤコブの経験と瓜二つではないでしょうか。この主を信ずる喜び、天国で主イエス様とともに過ごす喜びを、私たちは主なる神様によって、互いの心の板に書き記していただきたいものです。
わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。(箴言3・1〜3)
バプテスマのヨハネは主イエス様を紹介する者でした。しかし彼はさらに主イエス様を友人として次のように語っています。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(ヨハネ3・29)
花婿とはイエス様です。このイエス様の花嫁・友人としてその声を聞き喜んで生きられる幸いをバプテスマのヨハネは感謝しています。私たちも日々、主イエス様の御声(みことば)に耳を傾け、このように喜ぶ者でありたいものです。