2015年1月22日木曜日

これで十分だ(I'm convinced!)

今冬も 椿優雅に 初開き

 一週間前の今日、老婦人の送別の交わりを持たせていただいた。その日は生憎雨が降り、今日のように肌寒い日であった。集まったのは私だけが男で、あとは女性ばかりで都合六名であった。しかし、私たちの心はそんなこともものかは、楽しく交わりの時を持たせていただくことができた。その折り、短く話させていただいたことを思い出しながら書きとめてみる。

 ここにご主人が召される一日前にベックさんがお撮りになった写真があります。ご主人がこの時、酸素マスクを外され一枚の紙を手にされたお写真であります。その紙には「これで十分だ」とご主人の字で書かれていました。ベックさんから罪の赦しの福音メッセージをお聞きした直後に震える手で書きとめられたものです。

 その福音メッセージはどのようなものかと申しますと、すでに耳の遠くなっておられたご主人に分かるように、ベック兄が語られたことばを私が書いて差し上げたのですが、それは「イエス様。ごめん。これで十分だ」という簡単なものでした。肺がんの末期で翌日には召されたのですから、緊急を要する時でした。でもそんな折り、酸素マスクをかなぐり捨ててご主人がそれに答えて精魂込めて書かれた文字の一つが「これで十分だ」でした。

 創世記45章には、ヤコブが死ぬ前に、折り悪しければ、一挙に二人の子どもを失いかねない最大の危機に、長年死んだとばかり諦めていた息子のヨセフが生きていることを知り、元気を回復する記事があります。

彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」(創世記45・26〜28)

このわずか三節の間にヤコブがそれまでの絶望寸前の状態からいかにして元気になったかが描写されています。それをあらわすことばは「それで十分だ。」と書かれていました。念のため、英文では  I'm convinced! でした。

 罪の赦しを得た者が天国に入ることができます。天国とは地上でイエス様の十字架上での人間の罪の贖いの死を自分自身の身代わりだったと心の中で知った者が行くところです。私たちは天国に行くために、すなわち私たちの罪滅ぼしをするために、善行を積んだり、献金を必要としたりしているのではありません。主が用意してくださった救いの道を信頼して歩むだけでいいのです。

 ヤコブは子どもたちの言葉を聞き、息子ヨセフから差し向けられた「車」を見て、元気づき、「これで十分だ」と確信したのです。ご主人が今際(いまわ)の際(きわ)に書かれた「それで十分だ」と確信されたのも、このヤコブの経験と瓜二つではないでしょうか。この主を信ずる喜び、天国で主イエス様とともに過ごす喜びを、私たちは主なる神様によって、互いの心の板に書き記していただきたいものです。

わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。(箴言3・1〜3)

 バプテスマのヨハネは主イエス様を紹介する者でした。しかし彼はさらに主イエス様を友人として次のように語っています。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(ヨハネ3・29)

花婿とはイエス様です。このイエス様の花嫁・友人としてその声を聞き喜んで生きられる幸いをバプテスマのヨハネは感謝しています。私たちも日々、主イエス様の御声(みことば)に耳を傾け、このように喜ぶ者でありたいものです。

2015年1月20日火曜日

主との交わりのすばらしさ(下)

2014年度二科展 吉岡賢一さんの作品

 五旬節の時から彼らは本当の交わりを持つようになりました。ペテロが立ち上がった時、みんなも、他の11人もともに立ち上がったと聖書は言っています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったのですけれど、これは前もってそのように相談していたわけではありません。自発的に、自然に、そうなったのです。12人の人はもはや12人のひとりびとりではなく、12人がひとつのからだをなしたのです。

 五旬節の日の立役者は確かにペテロでした。しかし、聖書を見ると、ペテロだけが目立ったわけではなかったのです。人々はみなを見て驚いた、と書いてあります。ペテロだけじゃない。五旬節はいわゆるイエス様のからだなる教会の誕生日でした。このまことの教会とはもちろん一つの宗教団体でもないし、一つの組織でもありません。有機体です。この時から信者はもはやひとりびとりバラバラでなく、イエス様を頭(かしら)とする肢体に結び合わされたのです。ペテロと他の弟子たちは、本当にもう一つでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちと互に喧嘩し、お互いに恐れるといったことは見受けられませんでした。彼らは本当の意味で一つでした。

 五旬節の前までは、このような交わりは、天の父なる神と主イエスとの間にしかなかったんですけれど、この日から、五旬節から多くの人々もこの交わりに入ることになりました。3000人の人々がこの交わりにあずかったと記されています。これらの人々は「使徒の教え」を守り、「信徒の交わり」をなしたと聖書は言っています。彼らはイエス様のみこころを自分の生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに「信徒の交わり」にあずかっているという確信を持っていました。この交わりは外から来るのではなくて、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれたのです。ちょっと一ヵ所見てみましょうか。エペソ書の4章4節。344頁になります。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 これらは、彼らの一つになった親しい交わりの源でした。交わりとはすべてのものを共有にすると言うことです。初代教会の兄弟姉妹はそうしていました。前に読みました、使徒行伝の2章44節

信者となった者たちはみな(大部分じゃない、みな)いっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

とあります。誰も自分の持ち物を主張する者もなく、日々心を一つにしていた、と聖書は言っています。彼らは霊において一つであったばかりでなく、考えも、願いも、心も、一つでした。これこそ信徒の交わりであり、イエス様のからだとしてあるべき姿です。私たちの一人一人も、「使徒たちの教え」を守り、「信徒の交わり」をなしたと言える状態になったら本当に幸いと思います。

 使徒たちはイエス様とともに過ごした三年半の間、このまことの交わりを知らなかったのです。これは交わりに入る準備の三年半だったでしょう。この三年半の間、実りのない時のように見えますけれど、この三年半の年月の間、彼らの古い性質は少しずつ出てきました。また取り除かれたのです。もし弟子たちがイエス様に従わず、自分の職を持っていたなら彼らは信心深い人としてみんなから尊敬された人々だったでしょう。けれどもイエス様とともに歩んでいた彼らは自らの姿を教えられ、イエス様の身許で本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗いところはだんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。彼らの心に隠された思いがあらわれたのです。もちろん弟子たちは他の人々より、悪い人々ではなかったけれども、イエス様の光に照らされた時、絶望的な、自らの真相を教えられました。イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全くもう絶望してしまったのです。その時彼らはバラバラになって、みな逃げてしまったのです。

 聖書を通して提供されている交わりの秘密とは何でしょうか。「もし、主なる神が光の中におられるように私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪からわれわれをきよめる」とあります。けれども、私たちが今持っている悩みは光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、われわれの生まれながらのものは徹底的に駄目である、全く役に立たないもの、汚れたものであることがわかります。

 もしイエス様との交わりを正しくするとお互いの横の交わりは正しくなります。御霊はわれわれの上に注がれ、私たちは一つのからだとなるように。これこそ主の導きの目的です。この交わりとはどういう交わりでしょう。

光の交わりです。

いのちの交わりです。

愛の交わりです。

 もし、この交わりがわれわれの中に起きると、主ご自身がそこにおられると呼ばれるほど主の御栄えをあらわす、われわれとなることができます。

 神の家とは生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎です。私たちもこのような教会になりたいものなのではないでしょうか。われわれを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れて下さったイエス様に心からなる感謝をささげましょう。

(写真は昨年の二科展に出展された絵である。少年、少女の視線のかなたにあるものは何だろうか。光の交わり、いのちの交わり、愛の交わりを求めての眼差しではないだろうか。「清純な 視線のかなた 主います」)

2015年1月19日月曜日

主との交わりのすばらしさ(中)


  使徒行伝に出て来る信者たちは格別に特別な信者の人々ではなかったのです。使徒たちも同じく特別な人々でありませんでした。しかし使徒はいかに造られたのでしょうか。使徒はイエス様に選ばれ、特に召された人々でした。マルコ伝の3章を見ると次のように書かれています。63頁になります。マルコ伝3章の13節と14節をお読み致します。


さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ(るためであった)、

イエス様はこれを見るとわかりますように、使徒たちをまず第一にご自分の身許に置くために、それからあとで次に遣わすために召されたのです。

 スイスの大きな神学校があって、玄関に入ると目の前に世界地図があるんです。左側に「お出で!」と書いています、もちろんドイツ語ですけれど。そして右側に「出て行け!」と書いてあります。 「お出で、お出で、出て行け」。イエス様はそういうお方です。イエス様の身許に行った人はもう黙ることが出来ない、イエス様を紹介せざるを得なくなる。救われていない人々に対する祈りがなければ、その人の信仰は非常に疑わしいのではないのではないでしょうか。救われるために救われたのじゃないよ。まだ救われていない人々もイエス様を知ってもらいたい。

 イエス様はまず第一にご自分の身許に置くために弟子たちを召された。そしてそのあとで、第二に遣わすために召されたのです。イエス様はご自分が永遠の昔から持っておられた父との交わりに、弟子たちを、信徒たちも入ることが願われました。そして、イエス様は今日も全く当時と同じようにこの交わりにわれわれがあずかることを願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることができるとは、何(なあーん)という特権でありましょう。この交わりを喜ばずしてほかのもので満足することがあっては残念です。

 私たちはイエス様に仕えることが一番大切であると考えますと、もちろん主のお考えはちがいます。イエス様にとっては、まずご自分との交わりを持つようにわれわれに求めておられます。人々は熱心な働き人ならば良い働き人だと(人は)考えます。主の思っているのは全く違う。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々が残念ですけど、たくさんいる。これはあわれなことなのではないでしょうか。

 われわれは弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、そればかりではない。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるべく召された者です。信徒の交わりは父ならびに御子、主イエス様との交わりであり、今話したようにいのちの交わりです。イエス様のからだなる交わり、すなわち信徒の交わりは、いのちの交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに私たち一人一人も召されているのです。けれども、問題はどうしたらこの交わりに、全き信頼に入ることができるかということです。

 弟子たちは最初はイエス様と親しい交わりを持っていなかったんです。確かに三年半、一緒に生活しました。けれども本当の意味での交わりはなかったのです。最初はただイエス様と関わり合いがある、と言った程度でした。イエス様は弟子たちを召し、彼らは三年半の間、イエス様と一緒に生活しました。この間イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちと親しい交わりに入ろうとなさいました。イエス様は彼らを父ならびに神との交わりに導こうとなさいましたが、彼らは駄目でした。全然理解できなかったのです。イエス様は弟子たちと少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったのですが、いざイエス様が御心を示そうとなさった時、弟子たちは全然駄目でした。イエス様のこと誤解してしまったのです。弟子たちはそれだけでなく、お互いの間にも深い交わりを持てなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度に過ぎなかったのです。弟子たちの間には交わりがなかったばかりでなく、時々喧嘩しなければならないといった有様でした。

 12人の弟子はユダを除いて心からイエス様を愛していたのです。そのために喜んで自発的にすべてを捨てて、イエス様に従うようになりました。それにもかかわらず、彼らの間には本当の交わりがなかったのです。お互いに妬み、誤解し、争いました。二人の弟子、ヤコブとヨハネが、自分が一番偉くなりたいと願ったのです。他の人々を除け者にして相談しました。ちょっと一ヵ所見てみましょうか、マルコ伝の10章。80頁になります。マルコによる福音書10章35節から読みましょうか。

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

怒っちゃったね。このように弟子たちの間には本当の意味での交わりがありませんでした。しかし五旬節が来た時、弟子たちは完全に変わりました。

(写真は昨日に引き続き、小さな交わりのデザートのひととき。老婦人が用意された贈り物が並べられている。一方テーブルの左隅に「人間は神の目から見て・・・・」と書き記した小冊子が覘いている。この小冊子に関連するブログは過去に掲載した。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2013/10/blog-post_31.html )

2015年1月18日日曜日

主との交わりのすばらしさ(上)

 
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――  私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1・1〜4、7)

 現在一番はやっている悩みの種、一番はやっている病気は、癌じゃない。孤独病。癌になっても別に。風邪か癌か関係ない。けれども、孤独病になると大変です。したがって、孤独になった人々にとって、どうしても必要なのは「交わり」を持つことです。

 今読んでもらいました箇所の中で、「私たちと交わりを持つようになるため」という言葉が出ています。また「私たちの喜びが全きものとなるためです」と。悩んでいる人々をどういうふうに励ましたら、どうしましょうか。私はよく、「もうちょっと」と言います。聖書はよく「もうちょっと」と言わないけれど、同じ言葉を明らかにするために「もうしばらくすると」とあります。ヘブル書の著者は当時のいろいろなことで悩んでいた兄弟姉妹を励ますために書いたのです。ヘブル書の9章28節です。399頁になりますが、次のように書いています。

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

10章の37節

もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

と、あります。結局、「もうちょっと」ということです。イエス様を知るようになった人々は、輝く素晴らしい将来を持つ者です。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちそのものです。イエス様なしの将来は確かに真っ暗闇です。けれども、イエス様を知るようになった者は安心して前向きに生活することができ、喜ぶことができます。なぜなら、彼らははっきりとした確信を持っているからです。すなわち、「もうちょっと」イエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると、嬉しくなります。 どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、われわれは希望を持って将来に向かうことができます。ですから、「もうしばらくすると、主は来られる」と絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。確かに、まだ天国じゃない、だから人間はみな悩みます。重荷を負っている者です。けれども、今話したように孤独からの解放するために「交わり」をもつことこそが大切です。

 初代教会とはどういう教会であったかと言いますと、交わっていた教会でした。ひとつになった教会でした。ちょっと見てみましょうか。初代教会の様子について、使徒行伝の2章、211頁になります。使徒行伝に出て来る、主の恵みによって救われた人々の交わりのような、まことの交わりとはいったいどういう交わりだったでしょうか。2章の42節から読みます。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

と、あります。ここに出て来る信徒たちは、あの五旬節の時、救われた人々ですけれど、ここで彼らは使徒たちの教えを守った、と書かれています。この「使徒の教え」とはいったい何でしょうか。使徒が伝えたのはもちろんイエス様の教えでした。イエス様の教えよりも、イエス様ご自身でした。われわれは一つの教えを宣べ伝えるべきじゃなくて、イエス様だけを紹介しなければなりません。

 終わりの時代に生きているわれわれにどうしても必要なのは、この「使徒の教え 」にとどまることです。けれども、私たちはそれとともに信徒の交わりとはいかなるものであるかを知るべきではないでしょうか。「使徒の教え」がイエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりを意味しているのです。聖書を見ると、聖書はただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子主イエス様との交わりであります。もう一ヵ所、ちょっと読んでみましょうか。コリント第一の手紙1章の9節です。290頁になります。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

 この御子、主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。私たちはほんとうに父ならびに御子イエス様との交わりを知っているのでしょうか。言うまでもなく、この交わりとは議論によって生まれるものではない。教理を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果を通して生まれるというものではありません。この交わりはいのちと霊の交わりです。この交わりの間には少しの暗いところも陰もあってはなりません。

 父ならびに御子イエス様との交わりには確かに完全な信頼がなければなりません。もちろんそうだったのです。父は主イエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること、考えていること、自分のご計画を全部イエス様に教えて下さり、またすべてをイエス様にゆだねられたのです。全部の計画を少しの不安もなくゆだねることができたのです。

 反対にイエス様の父に対する態度も全く同じでした。イエス様は父なる神に完全に依り頼み、少しも疑わず父の御心をうかがわれました。あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれた時も、イエス様は少しも疑いませんでした。全き信頼を父に置いておられたのです。自分の思いではなく、御心だけがなるように、これこそがイエス様の変わらない態度でした。イエス様と父なる神はお互にそんなに信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。そのお互いの信頼が聖書は交わりであると言っています。

 この父と御子主イエス様のすばらしい交わりに、人、人間も加わることができるとは驚くべきことではないでしょうか。主は何ゆえにわれわれをもこの交わりに召してくださったのでしょうか。ただひとつわかることは量り知れない主のご愛のゆえであるということです。イエス様はこの交わりに人間ひとりひとりを招いてくださるためにこの世に来てくださいました。イエス様が地上におられた時に願っておられたことは、第一に弟子たちがこの交わりに入ることができるようになることだったのです。

 われわれも救われるために救われたのではなく、このすばらしい交わりにあずかるために救われました。私たちは良心のとがめが消され、救いの確信を得るために召されただけでなく、この交わりに入るために、この交わりにあずかるために召されたのです。もし人が父ならびに主イエス様との交わりに入りますと、使徒行伝にある信徒の交わりに入ったことになるのです。

(先週水曜日に持たれた昼間の家庭集会でベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。写真は端なくもその翌日持たれた老婦人を送別する小さな交わりの一場面である。「それぞれに 愛する思い テーブルに 満ちあふれたり 主にある友」

2015年1月9日金曜日

「わたしに求めよ」と主は言われる。


 一ヵ月半ぶりにKさんを訪ねた。Kさんとは昨年の5月以来、お交りを持たせていただいている。今や親友と言っても過言ではない。ともに年齢も同じ、互いに退職しているが、かつて同業であった誼みがある。ただ私と違ってKさんは受験生相手に長年苦闘され、それなりの成果をあげられたと、本人からでなく、他の人から聞いたことがある。分野は彼が数学で、私は社会科であるという違いもある。そのKさんはここ数年軽い脳梗塞に始まって一二の病気にかかられ、今も決して五体満足と言うわけにはいかない。

 そんなKさんを私が訪問するのはもっぱらイエス様を紹介したいという願いだけである。これまで何回となく訪れたが、Kさんの興味を持たれるような題材がないかとその都度考えさせられる時が多い。ある時は、知里幸恵さんの『日記』をご一緒に読んだりしたこともあるし、『ダニエルマン』という死刑囚が刑期執行を待つわずか三週間の間にキリスト者の訪問を受け、救われて天の御国に召された内容を記したものを持参した時もあった。

 大体においてこれと言って定まったものはなく、毎回行き当たりばったりで何を話して良いか戸惑うことが殆どだが、終わって帰り道、考えることは、今日も主イエス様は祝福してくださったという感謝の思いに満たされることだ。

 今日は初めて互いに聖書を輪読して祈った。Kさんが交わりの最中、ふと病室にある聖書を指して、「これはあなたのものでないか(あなたが忘れていったものでないか)」と問われるので、「いえ、あなたにプレゼントされたものですよ、(だから大いに使ってください)」と申し上げた。その時、彼は私にどんなリハビリが今必要としているか訊ねられて、体は大丈夫だ、頭脳のリハビリが必要なのだと言った。それならと、私の方から聖書の輪読(1節ずつ交互に読む)を提案した。

 詩篇2篇の輪読にしたが、あとで、しまった、Kさんには理解しづらいかもわからないと悔やんだ。でも、その中に次の聖句があった。

あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。(詩篇2・7〜8)

 「わたしに求めよ。」と主なる神が語ってくださっているというのが、聖書の輪読に入る前の私の話の要点であった。新年、私は個人的に聖書通読を始めたが、たまたま昨日読んだところはマタイ6・25〜7・14で私は主が招こうとしていてくださる門はいかなるものよりも小さく、また道はいかなるものよりも狭い。そんな神様のところに近づくには人間がいかにへりくだらなければならないかを改めて教えられ、その意味で主なる神様に対して求める人間の側の気持ちがいかに大切かを教えられたばかりであった。そのことをKさんにも話したつもりであった。

 Kさんは私の話と聖書輪読に素直に従い、耳を傾けてくださった。わかるか、わからないかという問題でなく、その全存在で受けとめてくださっているのでないだろうか。祈りのあと、私と一緒にアーメンと声を合わせてくださった。もしKさんが有能な教師として病気でない状態で、私と出会っておられたら、私の拙い意味不明の話にそんなに真剣に耳を傾けられることもなかったのでないかと思うと、Kさんには悪いかも知れないが、病気になられ弱くされたことは良かったと思った。

 帰り道、二羽のひよどりが自転車の私の前を左右に別れながら追いつ抜かれつ飛んで行く。恐らくつがいであるのだろう。自然界の摂理に従って鳥たちはその飛行を続けている。Kさんの心の思いもまたその精神の底で、今や主イエス・キリストを罪からの贖い主として送られた天の父なる神様の摂理に、無心にしたがっておられるのでなかろうかと思うことができた。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7・9〜11)

ひよどりの 喜びあふる 鳴き声に  友と語らう ひととき(一時)想う

(写真は帰り道に通りかかった川の欄干にたむろしていたシラコバト)