現在一番はやっている悩みの種、一番はやっている病気は、癌じゃない。孤独病。癌になっても別に。風邪か癌か関係ない。けれども、孤独病になると大変です。したがって、孤独になった人々にとって、どうしても必要なのは「交わり」を持つことです。
今読んでもらいました箇所の中で、「私たちと交わりを持つようになるため」という言葉が出ています。また「私たちの喜びが全きものとなるためです」と。悩んでいる人々をどういうふうに励ましたら、どうしましょうか。私はよく、「もうちょっと」と言います。聖書はよく「もうちょっと」と言わないけれど、同じ言葉を明らかにするために「もうしばらくすると」とあります。ヘブル書の著者は当時のいろいろなことで悩んでいた兄弟姉妹を励ますために書いたのです。ヘブル書の9章28節です。399頁になりますが、次のように書いています。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
10章の37節
もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
と、あります。結局、「もうちょっと」ということです。イエス様を知るようになった人々は、輝く素晴らしい将来を持つ者です。イエス様は彼らにとって道であり、真理であり、またいのちそのものです。イエス様なしの将来は確かに真っ暗闇です。けれども、イエス様を知るようになった者は安心して前向きに生活することができ、喜ぶことができます。なぜなら、彼らははっきりとした確信を持っているからです。すなわち、「もうちょっと」イエス様はお出でになります。そして今日かも知れないと考えると、嬉しくなります。 どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、われわれは希望を持って将来に向かうことができます。ですから、「もうしばらくすると、主は来られる」と絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。確かに、まだ天国じゃない、だから人間はみな悩みます。重荷を負っている者です。けれども、今話したように孤独からの解放するために「交わり」をもつことこそが大切です。
初代教会とはどういう教会であったかと言いますと、交わっていた教会でした。ひとつになった教会でした。ちょっと見てみましょうか。初代教会の様子について、使徒行伝の2章、211頁になります。使徒行伝に出て来る、主の恵みによって救われた人々の交わりのような、まことの交わりとはいったいどういう交わりだったでしょうか。2章の42節から読みます。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
と、あります。ここに出て来る信徒たちは、あの五旬節の時、救われた人々ですけれど、ここで彼らは使徒たちの教えを守った、と書かれています。この「使徒の教え」とはいったい何でしょうか。使徒が伝えたのはもちろんイエス様の教えでした。イエス様の教えよりも、イエス様ご自身でした。われわれは一つの教えを宣べ伝えるべきじゃなくて、イエス様だけを紹介しなければなりません。
終わりの時代に生きているわれわれにどうしても必要なのは、この「使徒の教え 」にとどまることです。けれども、私たちはそれとともに信徒の交わりとはいかなるものであるかを知るべきではないでしょうか。「使徒の教え」がイエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりを意味しているのです。聖書を見ると、聖書はただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子主イエス様との交わりであります。もう一ヵ所、ちょっと読んでみましょうか。コリント第一の手紙1章の9節です。290頁になります。
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
この御子、主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。私たちはほんとうに父ならびに御子イエス様との交わりを知っているのでしょうか。言うまでもなく、この交わりとは議論によって生まれるものではない。教理を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果を通して生まれるというものではありません。この交わりはいのちと霊の交わりです。この交わりの間には少しの暗いところも陰もあってはなりません。
父ならびに御子イエス様との交わりには確かに完全な信頼がなければなりません。もちろんそうだったのです。父は主イエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること、考えていること、自分のご計画を全部イエス様に教えて下さり、またすべてをイエス様にゆだねられたのです。全部の計画を少しの不安もなくゆだねることができたのです。
反対にイエス様の父に対する態度も全く同じでした。イエス様は父なる神に完全に依り頼み、少しも疑わず父の御心をうかがわれました。あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれた時も、イエス様は少しも疑いませんでした。全き信頼を父に置いておられたのです。自分の思いではなく、御心だけがなるように、これこそがイエス様の変わらない態度でした。イエス様と父なる神はお互にそんなに信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。そのお互いの信頼が聖書は交わりであると言っています。
この父と御子主イエス様のすばらしい交わりに、人、人間も加わることができるとは驚くべきことではないでしょうか。主は何ゆえにわれわれをもこの交わりに召してくださったのでしょうか。ただひとつわかることは量り知れない主のご愛のゆえであるということです。イエス様はこの交わりに人間ひとりひとりを招いてくださるためにこの世に来てくださいました。イエス様が地上におられた時に願っておられたことは、第一に弟子たちがこの交わりに入ることができるようになることだったのです。
われわれも救われるために救われたのではなく、このすばらしい交わりにあずかるために救われました。私たちは良心のとがめが消され、救いの確信を得るために召されただけでなく、この交わりに入るために、この交わりにあずかるために召されたのです。もし人が父ならびに主イエス様との交わりに入りますと、使徒行伝にある信徒の交わりに入ったことになるのです。
(先週水曜日に持たれた昼間の家庭集会でベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。写真は端なくもその翌日持たれた老婦人を送別する小さな交わりの一場面である。「それぞれに 愛する思い テーブルに 満ちあふれたり 主にある友」)
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