2015年1月19日月曜日
主との交わりのすばらしさ(中)
使徒行伝に出て来る信者たちは格別に特別な信者の人々ではなかったのです。使徒たちも同じく特別な人々でありませんでした。しかし使徒はいかに造られたのでしょうか。使徒はイエス様に選ばれ、特に召された人々でした。マルコ伝の3章を見ると次のように書かれています。63頁になります。マルコ伝3章の13節と14節をお読み致します。
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ(るためであった)、
イエス様はこれを見るとわかりますように、使徒たちをまず第一にご自分の身許に置くために、それからあとで次に遣わすために召されたのです。
スイスの大きな神学校があって、玄関に入ると目の前に世界地図があるんです。左側に「お出で!」と書いています、もちろんドイツ語ですけれど。そして右側に「出て行け!」と書いてあります。 「お出で、お出で、出て行け」。イエス様はそういうお方です。イエス様の身許に行った人はもう黙ることが出来ない、イエス様を紹介せざるを得なくなる。救われていない人々に対する祈りがなければ、その人の信仰は非常に疑わしいのではないのではないでしょうか。救われるために救われたのじゃないよ。まだ救われていない人々もイエス様を知ってもらいたい。
イエス様はまず第一にご自分の身許に置くために弟子たちを召された。そしてそのあとで、第二に遣わすために召されたのです。イエス様はご自分が永遠の昔から持っておられた父との交わりに、弟子たちを、信徒たちも入ることが願われました。そして、イエス様は今日も全く当時と同じようにこの交わりにわれわれがあずかることを願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることができるとは、何(なあーん)という特権でありましょう。この交わりを喜ばずしてほかのもので満足することがあっては残念です。
私たちはイエス様に仕えることが一番大切であると考えますと、もちろん主のお考えはちがいます。イエス様にとっては、まずご自分との交わりを持つようにわれわれに求めておられます。人々は熱心な働き人ならば良い働き人だと(人は)考えます。主の思っているのは全く違う。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々が残念ですけど、たくさんいる。これはあわれなことなのではないでしょうか。
われわれは弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、そればかりではない。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるべく召された者です。信徒の交わりは父ならびに御子、主イエス様との交わりであり、今話したようにいのちの交わりです。イエス様のからだなる交わり、すなわち信徒の交わりは、いのちの交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに私たち一人一人も召されているのです。けれども、問題はどうしたらこの交わりに、全き信頼に入ることができるかということです。
弟子たちは最初はイエス様と親しい交わりを持っていなかったんです。確かに三年半、一緒に生活しました。けれども本当の意味での交わりはなかったのです。最初はただイエス様と関わり合いがある、と言った程度でした。イエス様は弟子たちを召し、彼らは三年半の間、イエス様と一緒に生活しました。この間イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちと親しい交わりに入ろうとなさいました。イエス様は彼らを父ならびに神との交わりに導こうとなさいましたが、彼らは駄目でした。全然理解できなかったのです。イエス様は弟子たちと少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったのですが、いざイエス様が御心を示そうとなさった時、弟子たちは全然駄目でした。イエス様のこと誤解してしまったのです。弟子たちはそれだけでなく、お互いの間にも深い交わりを持てなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度に過ぎなかったのです。弟子たちの間には交わりがなかったばかりでなく、時々喧嘩しなければならないといった有様でした。
12人の弟子はユダを除いて心からイエス様を愛していたのです。そのために喜んで自発的にすべてを捨てて、イエス様に従うようになりました。それにもかかわらず、彼らの間には本当の交わりがなかったのです。お互いに妬み、誤解し、争いました。二人の弟子、ヤコブとヨハネが、自分が一番偉くなりたいと願ったのです。他の人々を除け者にして相談しました。ちょっと一ヵ所見てみましょうか、マルコ伝の10章。80頁になります。マルコによる福音書10章35節から読みましょうか。
さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
怒っちゃったね。このように弟子たちの間には本当の意味での交わりがありませんでした。しかし五旬節が来た時、弟子たちは完全に変わりました。
(写真は昨日に引き続き、小さな交わりのデザートのひととき。老婦人が用意された贈り物が並べられている。一方テーブルの左隅に「人間は神の目から見て・・・・」と書き記した小冊子が覘いている。この小冊子に関連するブログは過去に掲載した。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2013/10/blog-post_31.html )
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