2014年度二科展 吉岡賢一さんの作品 |
五旬節の時から彼らは本当の交わりを持つようになりました。ペテロが立ち上がった時、みんなも、他の11人もともに立ち上がったと聖書は言っています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったのですけれど、これは前もってそのように相談していたわけではありません。自発的に、自然に、そうなったのです。12人の人はもはや12人のひとりびとりではなく、12人がひとつのからだをなしたのです。
五旬節の日の立役者は確かにペテロでした。しかし、聖書を見ると、ペテロだけが目立ったわけではなかったのです。人々はみなを見て驚いた、と書いてあります。ペテロだけじゃない。五旬節はいわゆるイエス様のからだなる教会の誕生日でした。このまことの教会とはもちろん一つの宗教団体でもないし、一つの組織でもありません。有機体です。この時から信者はもはやひとりびとりバラバラでなく、イエス様を頭(かしら)とする肢体に結び合わされたのです。ペテロと他の弟子たちは、本当にもう一つでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちと互に喧嘩し、お互いに恐れるといったことは見受けられませんでした。彼らは本当の意味で一つでした。
五旬節の前までは、このような交わりは、天の父なる神と主イエスとの間にしかなかったんですけれど、この日から、五旬節から多くの人々もこの交わりに入ることになりました。3000人の人々がこの交わりにあずかったと記されています。これらの人々は「使徒の教え」を守り、「信徒の交わり」をなしたと聖書は言っています。彼らはイエス様のみこころを自分の生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに「信徒の交わり」にあずかっているという確信を持っていました。この交わりは外から来るのではなくて、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれたのです。ちょっと一ヵ所見てみましょうか。エペソ書の4章4節。344頁になります。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
これらは、彼らの一つになった親しい交わりの源でした。交わりとはすべてのものを共有にすると言うことです。初代教会の兄弟姉妹はそうしていました。前に読みました、使徒行伝の2章44節
信者となった者たちはみな(大部分じゃない、みな)いっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
とあります。誰も自分の持ち物を主張する者もなく、日々心を一つにしていた、と聖書は言っています。彼らは霊において一つであったばかりでなく、考えも、願いも、心も、一つでした。これこそ信徒の交わりであり、イエス様のからだとしてあるべき姿です。私たちの一人一人も、「使徒たちの教え」を守り、「信徒の交わり」をなしたと言える状態になったら本当に幸いと思います。
使徒たちはイエス様とともに過ごした三年半の間、このまことの交わりを知らなかったのです。これは交わりに入る準備の三年半だったでしょう。この三年半の間、実りのない時のように見えますけれど、この三年半の年月の間、彼らの古い性質は少しずつ出てきました。また取り除かれたのです。もし弟子たちがイエス様に従わず、自分の職を持っていたなら彼らは信心深い人としてみんなから尊敬された人々だったでしょう。けれどもイエス様とともに歩んでいた彼らは自らの姿を教えられ、イエス様の身許で本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗いところはだんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。彼らの心に隠された思いがあらわれたのです。もちろん弟子たちは他の人々より、悪い人々ではなかったけれども、イエス様の光に照らされた時、絶望的な、自らの真相を教えられました。イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全くもう絶望してしまったのです。その時彼らはバラバラになって、みな逃げてしまったのです。
聖書を通して提供されている交わりの秘密とは何でしょうか。「もし、主なる神が光の中におられるように私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪からわれわれをきよめる」とあります。けれども、私たちが今持っている悩みは光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、われわれの生まれながらのものは徹底的に駄目である、全く役に立たないもの、汚れたものであることがわかります。
もしイエス様との交わりを正しくするとお互いの横の交わりは正しくなります。御霊はわれわれの上に注がれ、私たちは一つのからだとなるように。これこそ主の導きの目的です。この交わりとはどういう交わりでしょう。
光の交わりです。
いのちの交わりです。
愛の交わりです。
もし、この交わりがわれわれの中に起きると、主ご自身がそこにおられると呼ばれるほど主の御栄えをあらわす、われわれとなることができます。
神の家とは生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎です。私たちもこのような教会になりたいものなのではないでしょうか。われわれを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れて下さったイエス様に心からなる感謝をささげましょう。
(写真は昨年の二科展に出展された絵である。少年、少女の視線のかなたにあるものは何だろうか。光の交わり、いのちの交わり、愛の交わりを求めての眼差しではないだろうか。「清純な 視線のかなた 主います」)
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