2015年1月9日金曜日
「わたしに求めよ」と主は言われる。
一ヵ月半ぶりにKさんを訪ねた。Kさんとは昨年の5月以来、お交りを持たせていただいている。今や親友と言っても過言ではない。ともに年齢も同じ、互いに退職しているが、かつて同業であった誼みがある。ただ私と違ってKさんは受験生相手に長年苦闘され、それなりの成果をあげられたと、本人からでなく、他の人から聞いたことがある。分野は彼が数学で、私は社会科であるという違いもある。そのKさんはここ数年軽い脳梗塞に始まって一二の病気にかかられ、今も決して五体満足と言うわけにはいかない。
そんなKさんを私が訪問するのはもっぱらイエス様を紹介したいという願いだけである。これまで何回となく訪れたが、Kさんの興味を持たれるような題材がないかとその都度考えさせられる時が多い。ある時は、知里幸恵さんの『日記』をご一緒に読んだりしたこともあるし、『ダニエルマン』という死刑囚が刑期執行を待つわずか三週間の間にキリスト者の訪問を受け、救われて天の御国に召された内容を記したものを持参した時もあった。
大体においてこれと言って定まったものはなく、毎回行き当たりばったりで何を話して良いか戸惑うことが殆どだが、終わって帰り道、考えることは、今日も主イエス様は祝福してくださったという感謝の思いに満たされることだ。
今日は初めて互いに聖書を輪読して祈った。Kさんが交わりの最中、ふと病室にある聖書を指して、「これはあなたのものでないか(あなたが忘れていったものでないか)」と問われるので、「いえ、あなたにプレゼントされたものですよ、(だから大いに使ってください)」と申し上げた。その時、彼は私にどんなリハビリが今必要としているか訊ねられて、体は大丈夫だ、頭脳のリハビリが必要なのだと言った。それならと、私の方から聖書の輪読(1節ずつ交互に読む)を提案した。
詩篇2篇の輪読にしたが、あとで、しまった、Kさんには理解しづらいかもわからないと悔やんだ。でも、その中に次の聖句があった。
あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。(詩篇2・7〜8)
「わたしに求めよ。」と主なる神が語ってくださっているというのが、聖書の輪読に入る前の私の話の要点であった。新年、私は個人的に聖書通読を始めたが、たまたま昨日読んだところはマタイ6・25〜7・14で私は主が招こうとしていてくださる門はいかなるものよりも小さく、また道はいかなるものよりも狭い。そんな神様のところに近づくには人間がいかにへりくだらなければならないかを改めて教えられ、その意味で主なる神様に対して求める人間の側の気持ちがいかに大切かを教えられたばかりであった。そのことをKさんにも話したつもりであった。
Kさんは私の話と聖書輪読に素直に従い、耳を傾けてくださった。わかるか、わからないかという問題でなく、その全存在で受けとめてくださっているのでないだろうか。祈りのあと、私と一緒にアーメンと声を合わせてくださった。もしKさんが有能な教師として病気でない状態で、私と出会っておられたら、私の拙い意味不明の話にそんなに真剣に耳を傾けられることもなかったのでないかと思うと、Kさんには悪いかも知れないが、病気になられ弱くされたことは良かったと思った。
帰り道、二羽のひよどりが自転車の私の前を左右に別れながら追いつ抜かれつ飛んで行く。恐らくつがいであるのだろう。自然界の摂理に従って鳥たちはその飛行を続けている。Kさんの心の思いもまたその精神の底で、今や主イエス・キリストを罪からの贖い主として送られた天の父なる神様の摂理に、無心にしたがっておられるのでなかろうかと思うことができた。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7・9〜11)
ひよどりの 喜びあふる 鳴き声に 友と語らう ひととき(一時)想う
(写真は帰り道に通りかかった川の欄干にたむろしていたシラコバト)
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