「春」吉岡賢一作 |
亀井勝一郎のことについて書いてみたい。そもそも亀井勝一郎のことを思い出したのは、栃木県の足利にいる友人がJR彦根駅から一枚のはがきを寄越した奇縁によるものだった。駅頭は私の好む場所の一つである。なぜかと言えば、そこで思わぬ人と出会うことができるからである。ましてその友人が降り立ったその日、私も故郷の彦根駅を乗り降りしていたからである。別々の計画をもって、関東くんだりから彦根駅にたどりついた二人が出会ったとしたらこれ以上の奇遇はなかったであろう。しかしそうはならなかったのはまさしく天の配剤であった。天の配剤は友人がそのあと、大阪フィルのショスタコーヴィチの演奏会に無事に出席することであり、私にとっては一人降りたった友人を想い、遠い昔高校時代に駅頭に佇んでいた亀井勝一郎氏の存在を思い出させることにあったのだ。
それが何年のいつごろか、定かではなかった。しかし、春ではなかった。コートを着ておられた長身の同氏の印象からすると、晩秋から初冬にかけてではないかと思っていた。しかし確たる自信はなかった。むしろ幻想ではないかという思いもなきにしもあらずだった。このことを思い出して以来、自分でも本当なのか確かめてみたくなり、県立図書館から亀井勝一郎全集補巻三を取り寄せていた。果たせるかな、次の記録を見つけることができた。
昭和35年(1960) 53歳
11月、彦根、多治見、木曽福島などで講演。「続歴史の旅」(人物往来社)を監修。この年、「安保批判の会」世話人となり、安保反対運動にも参加するなど多忙をきわめた。
彦根駅の上りホームで見かけたのは、私の高校三年の11月であったことがこれではっきりした。しかも下りホームでなく上りホームと言うのも、多治見、木曽福島というコースと一致している。幻想でなく、まさしく事実であった。それと同時に意外な事実も新たに知った。それは彼が安保反対運動に熱心だったことだ。してみると、彼の精神は高揚していたはずだ。しかし私の印象は静謐そのものだったことは「天の配剤」(11/29のブログ)で書いた通りである。それを裏付けるかのような記述があった。桶谷秀昭の評だ。
亀井勝一郎ほど不良少年になる可能性の少ない人間は、昭和の文士の中でもあまりいないのではあるまいか。あの端正な風貌は、優等生の冷たさはないが、身を持ち崩すという可能性を想像する余地はない。ただあの温和な端正な風貌に一つ感じられるのは、身の置きどころのないような含羞の翳であり、自分のもって生まれた長所にきわめて鋭敏につまずく人の困惑の表情である。(『日本人の自伝』18巻平凡社473頁より)
さらに年譜を見ると、函館生まれだと言うことも初めて知った。
母の先夫は函館商業の出身であり、私は幼い時からその先夫のアルバムを見て育っていた。函館の近くの森町は、滋賀県に家を持ちながら、その地でも米屋という商売をしていた近江商人の端くれとしての生家の土地でもあった。先夫の残した書物は内地に引き上げた母が持ち帰り、高校時代の私の好奇心を満たすに十分な数冊の思想書であった。母は私に先夫は軍に殺されたと言っていた(実際は戦死であったが)。
一方、私にとって亀井勝一郎は青春のほろ苦い思い出(「運動」から意識的に離れた時期)と連動している。彼の『我が精神の遍歴』は私にとって気になる著書であったからである。今回、時代錯誤を覚悟の上、その本を読んでみた。
そして意外なことを発見した。彼における左翼思想との出会いは自らが裕福であるという罪障が出発点であり、その根本問題はいかにしてその後生じた諸々の罪障を解決するかという「信仰」がテーマであったからである。最終的には親鸞の歎異抄が彼の拠り所であることには変わりないが、それに並行して聖書の伝えるイエス・キリストの存在は絶えず意識され、無関心でいられないということにあった。残念ながら、亀井氏は十字架の死を受けとめても、三日後の復活を受け入れるまでにはいたっておられないのではないかと思った。
けれども、そういう信仰上のこともさることながら、私が更に大変興味を覚えたのは、戦中から、敗戦を経て戦後の世界に入る中で、いかに人々が偽善の世界に足をすくわれたかが、自身の文士の生活をふくめ、ジャーナリズムの罪として描かれている点であった。題して「偽態の悲劇」の中で次のように語る一節がある。
人間を傀儡化する近代の有力な手段はジャーナリズムである。強権の圧迫というが、圧迫を加える独裁者自身も、自己の投じた言葉の無限大に拡大された反作用によって傀儡となる。近代戦は宣伝戦なりと言われたことのうちには、笑えない喜劇があるのだ。宣伝は言葉を阿片と化す。宣伝したものは、無数の活字と電波の交叉との反射によって、逆に宣伝され、自己疎外の状態のもとに途方もない幻影をみ、妄想を抱くに至るのである。故に、更に中毒性のある言葉をはかざるをえなくなる。宣伝は非人間的な呪文と化す。古代人に甚だ近似した魔術にかかった人間、これが戦時中鮮明になった「文明」日本人のすがたではなかったろうか。指導者とはその誇張された演劇的現象に他ならない。(『日本人の自伝』362頁より引用)
この文章が本になってあらわれたのは昭和25年(1950)であるから、今から65年前の文章である。しかし昨今の官邸とジャーナリズムのあり方を考えるとうそ寒いものを感じさせられた。
とまれ、年譜によると、彼の終焉の土地は昭和14年に移り住んだ吉祥寺のようであるし、昭和23年の6月15日の太宰入水自殺のおりは翌日から亀井宅が記者団の共同待合所となると記してあった。最初は今更亀井勝一郎もないものだ、大変な時代錯誤だとばかり思っていたが、『遍歴』を読み終えて、今の時代、一向に変っていない日本社会を思うて、彼の考えたことをもう一度問うてみるのも意義があるのではないかと思うようになった。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15・3〜8)
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