2015年12月25日金曜日

クリスマスの意味(上)

  クリスマスカードその1(版画 ルカ1:38.46.  K.Yoshioka) 
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2・8〜11)

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――(ゼカリヤ2・10)

 このことば(ゼカリヤ2・10)は同時にクリスマスのメッセージではないでしょうか。三つの事柄について考えたいと思います。まず第一にどのような状況におかれても、そうたやすくできないことをする、すなわち喜び歌い楽しむということに対する「提案」ではなく、「命令」がなされているということです。二番目、このみことばの中で、上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかに示されているということです。すなわち、「見よ。わたしは来る」。結局「わたし」を見なさい(で、あります)。三番目に、主のみ旨を知ることが、それに他ならない。「わたし」はあなたのそのただ中に住みたい、とあります。

 主が喜び歌い、楽しめと命じておられ、かつそのような勧めがなされているということは誰でも理解することができます。誤解することは先ずない。主なる神の言わるることは悲しみ・落胆・敗北感は禁じられています。主はわれわれが喜び歌うべきであると強く言っておられます。このような主の命令に対して不従順な態度を取ることは「罪」です。

 確かに多くの人は言うでしょう。そう言うことは、言うのは簡単ですが、実際にその通り喜ぶことができない、無理だよ。確かに、私たちは自分自身の状態、また状況を見ると本当に喜ぶことができないような場合が数多くあるのではないでしょうか。パウロは主の恵みによって救われたあとで、言ったんです。私は何というみじめな人間なのだろうか。これは決して喜びの叫びではない。私たちが自分自身の内側を見る時、そこには喜ぶべき根拠が何一つないことを認めざるを得ません。
 
 ところがその当時、主はゼカリヤを通して、イスラエルの民に、喜び歌え、楽しめと命じ言われましたが、今日も主はわれわれ一人一人に向かって全く同じように命令しておられるのではないでしょうか。現代人にとって、私たちにとって、もっとも大切なことは静まることです。主の愛を新しく体験することです。

 私たちは色々なことを考えたり心配したりします。またどうしてもしなければならないことが余りにも多いので、どうしたらいいかさっぱりわかりません。けれども大切なのは今話したように静まることです。主によって愛されているとつかむこと、新しく知ることこそ大切です。主に愛されているとは、確かに理性でもってつかめない事実です。けれども、もっとも素晴らしい「奇跡」です。

 旧約聖書のイザヤ書、大体クリスマスの時引用される個所です。イザヤ書9章6節、1045頁です。6節。「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。パウロはこの素晴らしい事実について言ったのであります。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(2コリント9・15)

 礼拝のないクリスマスはほんとうはあり得ない。もう一回前に読んでもらいました個所を読みますか。ルカ伝2章。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(期待された救いの神である、メサイアです。)「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 パウロもこの想像出来ない事実について書いたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」とあります。また、パウロは愛弟子であるテモテにも書いたのです。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』(1テモテ3・16)

 パウロはまとめて喜んで書いたのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8・32)

 イエス様御自身が最もすばらしい贈り物であり、主なる神の愛のあらわれそのものです。この救いの神を経験した者の証とは次のようなものです。

  ダビデは「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」(詩篇118・14)と告白したのであります。イザヤは「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(イザヤ12・2)とあります。マリヤの告白も素晴らしい告白です。ルカ伝1章ですね。1章45節。「『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』マリヤは言った。 『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』」

(今週火曜日吉祥寺でなされたベック兄のメッセージの聞き書きである。)

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