2020年4月24日金曜日

人生の最大の苦しい経験(下)



 このように、死は、常にだれかに対して悲劇となっている。人生とは悲劇的なものである。死は、人生という悲劇的な糸の終わりに来る暗い二重の結び目のようにしか思われない。一日として、死がだれかの心をかき裂かないで過ぎてゆく日はない。どのようなすみにいても、時として落ちて来る死の涙のしたたり落ちる雨を防いで安全にいることはできない。
 家庭は破壊されてしまう。心のきずなも、灰塵に帰してしまう。親密な家庭のだんらんは、地上では再会の機会もなく、粉々にされてしまう。その生涯の習慣も、最も強い糸であっても、ぷつりと切れてしまう。計画も野望も、あざけりの風によって粉々に砕かれてしまう。ただ思い出だけが、傷ついた心とひどく乱された人生という、すべての通りと家の中とを、悲しみの弦をかき鳴らして行くのである。
 そのうえ、世界の戦争は恐るべき事を付け加えた。以前においても、それは全く悪い事であった。しかし、今は、政治家や法律家がおり、休戦や条約など、その他すべての事がなされているにもかかわらず、抑制することのできない悪魔のような紛争が広がっている。
 しかし、このような事以上に更に悲劇的なものが、なおまだ存在する。このような事から多くの精神と魂に生じてくる恐ろしい不安がある。不安(そこでは心もその不安に巻き込まれ、愛も不安な状態にある)は、もたらされうる最悪の苦痛となる。

 次のような質問が、日夜、手に負えないほど執拗に、隊を成して押し寄せて来て、息をつく暇もないほどである。すなわち、彼はまだ生きているのか、霊の世界はあるか、この世の向こうにはほんとうに何かがあるのか、彼はどこへ行ってしまったのか、彼は今どのようにして過ごしているのか、などと。
 世界じゅう至る所、東洋でも西洋でも、赤道の南でも北でも、野蛮人の部落でも、文化生活をしている家庭でも、いわゆる異教を信ずる国々の間でも、真理の照明が投げかけられた輝きの中でも、人々の魂から、あの人はどこへ行ってしまったのかという叫び声がほとばしり出る。悲しみは、すべての人種がひとしく持っているものである。争い、憎悪、偏見などは、すべての人に共通の悲しみの時には、沈んで見えなくなる。

 しかし、なお、明らかな光がある。このような疑問に対する一つの解答がある。不確実さの中にも確実さがある。手近な所に、確かに信頼することのできる知らせがある。それは、あらゆる黒雲に、黄金の色調を与えるに十分なものである。悲しみの交響曲の中にも、短調のしらべを圧倒するような、もう一つの小さな音楽がある。そして、これらは、新しい楽しそうなリズムに、いっそう快い調子を合わせてゆくのである。
 さて、この確実さについて、もう少し話したいと思う。喜びが悲しみを和らげているような、複雑な交響曲の基調音を見つけ出し、再会の日を待つ間に、あなたの心を歌とし、高めたいと願うのである。

   海は激しく荒れ、
   夜は暗かった。
   櫓(ろ)はひたすら漕(こ)がれ、
   白波はほのかに光った。
   水夫は恐れに身を震わせた。
   危険が迫ったのだ。
   ーーその時、まことの神は言われた、
   「安かれ! わたしである」と。

   山の峰のような波よ、
   おまえの大波を静かにせよ。
   ユーラクリドンの悲しげな風音よ
   おまえは、安らかにしていなさい。
   悲しみは決して来ないし、
   やみは必ず飛び去って行くのだ。
   ーーその時、まことの光は言われた。
   「安かれ! わたしである」と。

   この世の海を渡る時、
   救い主イエスよ、
   私のところに来て下さい、
   私の船路を平安なものにして下さい。
   死のあらしが
   すさまじく鳴りどよむ時に、
   おお! まことの真理はささやかれる。
   「安かれ! わたしである」と。

(『人は死んだらどうなるか』14〜17頁より引用。人の死については、今人々は身近に感じつつある。S.D.ゴードンはもともと、引用した文章の表題として『ありふれたもの、しかし常に神聖なもの』とつけている。死について考える時、忘れてはならない視点である。なぜなら、「死」は生命の創造主である主なる神様のみわざであるからだ。)

2020年4月23日木曜日

人生の最大の苦しい経験(中)



 新しい柔らかな光が、その古い言葉の上に、またその言葉の中から、照り輝いていた。落ち着いた安らかさが、こっそりと忍び込んできた。新しい平安は、これまでにないような、快い、より真実なものであった。そして、その平安が、ほとんど彼をおおい、彼を圧倒した。
 しかしながら、彼の心は、その平安にひたりながらも、大きな孤独感にとらえられていた。彼はどれほどの時間、そこにすわっていたであろうか。自分にもわからなかった。やがて彼はゆっくりと丘を下り、歩きなれた道、ふたりで手を取り合って歩いた道を戻って行った。
 彼は、いつもと変わらない家、また人々の中に戻って行った。しかし、生活は変わってしまった。もはや決して、これまでと同じ生活ではない。それはありえないのだ。人生の最大の苦しい経験にはいってしまったのである。それ以来、彼は決してこの事を忘れてはいない。その記憶は、あたかもついきのうの事のようにあざやかに残っている。

  土くれのやかたの中で
  すべての灯は消えた。
  そこに住む人が去ってしまったので
  カーテンは引かれた。
  夜のうちに、門口を通って、
  彼女はそっと忍び出たのだ、
  光の都の中に
  自分のすみかをととのえるために。

 しかもそれは、なんとありふれた事であろうか。そうだ、平凡で、ひんぱんに見られる、ありふれた事、全く当然の事なのだ。しかし、決してそうではない。決してありふれた事ではない、たとい毎日、毎時間、だれかのむすこか娘に起こっている事であるとしても、それは、孤独と悲嘆のうちになされる、きわめて神聖な、また厳粛な事なのである。

 人生において、死というものは、最もありふれたものである。その影は決して去らない。郵便配達人は私たちの手の中に、それを暗示するようなものを届けて行く、友人の手紙も、同じような感じのものを持っている。半旗、教会堂の告別の鐘、教会の窓から流れ出る低い哀歌、のろのろと動く行列ーこうした事は、毎日起こっている事である。
 商業団体は、国内の通信機関をせいぜい五分ほど停止して、死者に敬意を表わし、そしてたちまち、再びすさまじい速度で仕事を開始する。トロリー・バスやその他のバスは、いったん停車をする。白い石碑には黒い布が掛けられる。公共的な建物は、悲しみを表わす布でおおわれるーこのような事は、果てしない同様な物語を告げている。

 昔ながらのあの書物ー聖書ーを開くと、直ちに、エバがかたくなって身を横たえているわが子のためにすすり泣いている場面にぶつかる。そのすぐあとに、「そして彼は死んだ」と単調な調子で述べている哀歌のあの驚くべき章(創世記五章)が続く。
 大洪水の中に流れ去った人々の絶望的な叫びと、エジプト全家の悲嘆に沈んだ人々が長子の死をいたむ泣き声とが、私たちの感じやすい耳をとらえる。
 更に急いで読んでゆくと、再び、あの愛するイスラエルの詩人が、姿は美しいがわがままで横暴なむすこの死を嘆き悲しんでいるさまを見るのである。
 更に読んでゆくと、丘の間にある小さなベツレヘムの町で、悲しみに沈む母親たちの泣き声を聞く。悲しみの交響曲は、決して終局に至らないように思われる。

「ラマから声が聞こえる。苦しみの叫びと、大きな泣き声が。ラケルが子どもたちのために泣いている。だれも彼女を慰めることができない。子どもたちは死んでしまったのだから。」(マタイ2:18 リビングバイブル訳)

(『人は死んだらどうなるか』11〜14頁より引用。昨日は西ドイツ映画「朝な夕なに」をYouTubeで観た。高校時代に映画館で観た。それ以来六十余年ぶりだった。https://www.youtube.com/watch?v=cwWg0xHt9b4 悲しい思いをする人々がたくさんおられる。)

2020年4月22日水曜日

人生の最大の苦しい経験(上)


イエスは、目の前でマリヤが泣き伏し、ユダヤ人たちもいっしょに嘆き悲しんでいるのに強く心を動かされ、「ラザロはどこですか」とお聞きになりました。「来て、ごらんください。」イエスの目に涙があふれました。(ヨハネ11:33〜35リビングバイブル訳)

 九月のある朝の四時ごろのことであった。
 たくましそうなひとりの青年が、大西洋沿岸のある町の、人通りのない道路を、ゆっくり歩いていた。
 東の空がはっきりと白みかけてきた。新しい一日が、去ってゆく夜の暗さを押しのけようとしている。しかし、彼はほとんどそれに気づかなかった。彼の心は、もう一つの光とやみとの戦いに、すっかりとらえられていたのである。
 彼はうなだれ、のろのろとした足取りで歩いていた。暗い思いが彼を激しくとらえていた。彼は、新しいもの、そうだ、彼にとっては新しい事柄に、我を忘れたようにぼう然としていた。彼の家は、有名な公園からほど遠くない所にある。そこには小さな美しい小川が静かに流れている。
 彼は、町の貯水池のある緑におおわれた丘へと登って行った。そこからは、はるかにその小川を見おろすことができる。また更に近くには、こずえのしんと静まり返った緑の波が見える。彼はポケットから、小さな、表紙のよごれた本を取り出した。そして、腰をおろして、緑を見、小川をながめ、また、その本を読み、青空を見上げたりした。
 二、三時間前に、一つの生命が、彼のいだいた腕から消え去ってしまったのである。彼は夢中ですがりついた。けれども、彼女の霊は、静かに、ゆっくりと、しかし断固として、消え去って行った。彼は驚きと悲しみのあまり、ぼう然となった。彼女が死ぬなどとということは、夢にも考えられない事であった。彼は、愛の手で堅くすがりついていたが、今は、すがりつくものは何も残されていなかった。彼女はすでに去ってしまったのだ。ただ、貴重な肉体の、息を失った一片が残されただけであった。

 ふたりの心は、かつてなかったほど深く結び合わされていた。しかし、いまや、彼女は去ってしまった。呼び戻すことができないほど遠くに去ってしまったのである。それはあまりに明白な事であった。彼は一見、非常に冷静で、しなければならない事に携わっていた。しかし、心の中ではあえいでいた。まるで呼吸ができないかのように思われた。人生は全く変わってしまった。この世界は全く違った所となってしまった。彼女は去ってしまったのだ。我を忘れたようにぼう然とした状態が、彼の上に重くのしかかっていた。それは感覚を失った状態ではない。それどころか、彼の心は、今まで以上に鋭く、感じやすく、油断のないものとなっていた。
 今、彼はじっとすわっている。彼女は今どこにいるのだろうかという疑問が起こってきた。その肉体の貴重な一片は、優しくたいせつに取り扱われてそこにあった。しかし、彼女はどこにいるのだろうか。そこではない。どこかほかの所なのだ。ではどこなのか。
 その小さな本(小型聖書)は、ヨハネ、愛する老ヨハネによるイエスの物語のところが、自然に開かれたかのように思われた。そして、あの忘れることのできないベタニヤでのできごとの個所(十一章)が、備えて開かれたかのようであった。

(『人は死んだらどうなるか』S.D.ゴードン著山田和明訳9〜11頁より引用。私ならず、多くの人がこの死別の経験をされている事だろう。私のその時は母との死別の18歳の時であった。今から振り返ると、「母の死」は頭をハンマーでなぐられた衝撃だった。しかし、その時、私の手元には小さな本はなかった。『真夜中のブルース』の録音テープを繰り返し繰り返し、一室に閉じこもり、狂ったように流していた。それは西ドイツ映画の「朝な夕なに」の中で演奏された曲であった。そうでもしなければ気持ちがおさまらなかったのだ。https://www.youtube.com/watch?v=gikaziCeS-A

2020年4月21日火曜日

いのちの尊さ


エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。(出エジプト12:30)
 
 昨年末から、今日に至るまで、ブログに投稿できなかった。それは三つのできごとが陸続として起きたからである。第一の出来事は昨年の12月30日から始まり、2月3日に終わった出来事。そして第二は2月5日に始まり、2月16日に終わった出来事である。そして第三は言うまでもなく、今日私たちを覆っている「コロナ禍」である。

 未だ解決を見いだせないコロナウイルスの圧倒的な力の前になす術もなく、日々過ごしている。STAY HOME!と要路の貴人は宣っている。しかし、この時は、主なる神様が私たちに心を静かにして、主のみこころを知りなさいと明らかにおっしゃっている時にちがいない。

 第一の出来事は若干40数歳にして二児を残しいのちを亡くされた出来事であった。第二の出来事は逆に95歳の生命を全うされた一人の老婦人の死であった。振り返ってみれば、昨年の12月30日、人工呼吸器に支えられ懸命の蘇生がなされていたICUの病室に招き入れられ、奥様と祈りをともにしていた。今日では人々の全てがお茶の間のテレビを通して熟知するまでに至っている、あの人工呼吸器である。

 これらの出来事を忘れないために、今日からこの間、考えて来たことを少しずつ書き進めることにする。

 冒頭の写真は、筆者の先祖の写真である。いつ、どこで、撮影されたのかわからない写真である。しかし、私はこの写真を見るたびに繰り返し哀しみを覚えるのだ。そこには肝心の主(あるじ)がいないと思うからである。左の少年がこの家の跡取りであるが、その少年の父母が不在であるからである。

 そして、その原因はこの少年の父が1919年4月に28歳で亡くなっているからである。少年3歳の時である。まさにそれは100年前のスペイン風邪がこの家庭を襲った時であった。そして少年が、祖祖母と祖父母、叔母とその養女と一緒に写っている4代にわたる一家の写真である。果たして、私が「哀しみ」と表現するのは私の単なる思い過ごしにすぎないのであろうか。

 同時に冒頭のみことばに関連して次のS.D.ゴードンの『人は死んだらどうなるか』の序文のことばを紹介する。

現在の私たちの時代は、古代エジプト時代に似ているーほとんど「死人のない家がなかった」。時にはそれ以上である。そうした中で、勇敢な者は、日常生活を、忠実に、勇気をもって続けてゆくが、人間の感情的な性質に対する牽引力は強力である。しかし、大多数の人々に対して、質問ー大昔からあった古い質問ーが、夜も昼も迫り続ける。あの人はどこにいるのか。死後のいのちはあるか。あるとすれば、どこにあるのか。それはどのようなものか。この死という頑迷な鉄のさくを越えて、そのいのちを得ることができるだろうか。たとえできるとしても、私たちはそうすべきだろうかーなどと。

 S.D.ゴードンについては以下のブログでも紹介している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/05/quiet-talks-on-life-after-death.html