2020年6月14日日曜日

「作曲家・指揮者」エドトン

サカツラガン 2020.6.14  (春日部大池親水公園)

 四月に始まった朝ドラ「エール」を毎朝家内と楽しみに見ていることはこの前話題にしたばかりだが、最近、一日に一回昼間に『詩篇の研究』(青木澄十郎著)をひもとく新しい習慣が生じた。そして、この岩槻生まれの方の香り高い文章をこのブログに転写してみたいという衝動に駆られる。しかし、いつも今一つ実行に至らない。著者がすでに故人であり、奥付きを見ると昭和34年が第一刷とあるが、恐らくは、それ以前の大正年間に著者が書き記したものに違いなく、もはや今の読者には読み難い文体となっているからである。

 それで、今日は思い切って著者が伝えようとしていることを、私なりに読み込んで、文章化してみた。直接の対象は詩篇39篇である。この詩篇の頭書に「指揮者エドトンのために、ダビデの賛歌」とあるが、このエドトンに言及する頭書を持つ詩篇はこれだけでなく、62篇にも、77篇にもある。

 指揮者エドトンとはどういう人だろうか。賛美の音楽の天分が豊かであったことからダビデの信任も厚く、それだけでなく「王の先見者」(2歴代35:15)と言われている(この点、このブログの読者にはお馴染みのハヴァガルと共通する)。青木氏によると、それは神の啓示を受ける人でもあったようだ。神の音楽を司るにふさわしい人であった。それでは「神の音楽」とは何だろうか。具体的に叙述しているのが、旧約聖書第一歴代誌16章4節の次の箇所である。

ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。・・・それから、・・・ある者たちを、主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。            

 すなわち、「神の音楽」の種類は三つ、覚える、感謝する、ほめたたえるである。HOLY BYBLEは、この点、明確である。to record, and to thank and praiseと区分しているからだ。したがって「祈願、感謝、賛美」の三つにわかれ、最後の賛美は「ハレルヤ」とも言い、神の音楽のうちもっとも明るいものでその指揮者の一人がエドトンであった。それは24班からなる総勢4000人のオーケストラで、楽器は立琴、十弦の琴、シンバルありラッパもあり、ソプラノ、バスの人声もある壮大なものだった。(2歴代25章、23:5)

 さて、問題はダビデはなぜその「賛美・ハレルヤ」と明るい面を受け持つエドトンに詩篇39篇の作曲を命じたのかわからぬと青木氏は言う。以下はその青木氏の文章である。

本篇は少しも明るくない。多分アブサロム事件の時の作だろう。不平満々たるものがあり、人生無常の嘆きがあり、仇人の陰謀もある。

 青木氏の言を補足するなら、2節、9節と相次いでダビデは沈黙を貫く覚悟を言う。そしてそれは一見、仇が沈黙させたように見えるが、帰するところ全能の主から来ることだとその心を示す。人は神の前に誇るべき何ものもないと悟ることは「明るさ」の前段階に是が非でも必要なことである。ここに一見暗さばかりが目立つ詩篇39篇を、指揮者エドトンに託したダビデの心があるのではないか。なぜなら、朝ドラで「エール」の主人公は作曲家古関裕而を模しているが、作詞と作曲は表裏一体であることがよくわかるからである。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_5.html

 青木氏は、6節は実によく現代人を描写している。だから互いに「頂門の一針」にしようと呼びかけている。

(ご覧ください。あなたは
私の日を手幅ほどにされました。
私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、
全くむなしいものです。)
まことに、人は幻のように歩き回り、
まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。
人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。

 国語辞書に「頂門の一針」とは、「頭の上に一本の針をさすように、痛い所をつく教訓」とあった。しかし、己が人生のはかなさをほんとうに痛みをもって知った者だけが、次節7節の

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。
私の望み、それはあなたです。

との告白に導かれるのではないだろうか。してみると「明るさ」を指揮するエドトンを作曲者として選んだダビデの心はこの7節にあったのではないか。折角の青木氏の注釈だが、私は勝手にそう読み込んだ。聖書は古くして新しい。「エール」を鑑賞しながら、ダビデ作詞エドトン作曲に思いを馳せるのもなかなか乙なものでないか。

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