サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会内の食堂壁画(ミラノ) |
人は私の名を何と呼んでいる
聖ヨハネだって?
否とよ
『イエス・キリストに愛せられた者』と書いてくれ
そして『子供らを愛する者』と
私を横にしてくれ
今一度寝床の上に
東の窓を開けてくれ
視(み)よ、光がさし込んでくる
光がーー
パトモスのあの荒凉たる孤島で
ガブリエルが来て私の肩に触ったとき
あの夕方に私のたましいに差し込んだのと同じ光が
視(み)よ、次第に明るさが増してくるではないか
主が真珠の門に昇り行き給うた時のように
私は道を知っている
一度踏んだことのある道だ
聞け、贖われた者の唱う小羊の栄光の歌を
雄大な声ではないか
殊にあの記録を禁ぜられた歌はーー
私のたましいは今それに列(つらな)ることができるように思う
あの輝く道から来る一群は誰だろう
ああ歓喜!十一人だ
ペテロが先頭だ、熱心にこちらを見ている
ヤコブの顔に微笑が輝いている
私が最後だ
過越の小羊の食卓はこれで揃った
私の席は主のすぐそば
おお、私の主よ、私の主よ
まあ、何と輝いていたまうことよ
でもガリラヤの昔と同じ愛の主だ
この幸福を味わう瞬間は
百年の価値にまさる
愛する主よ、汝の懐に私を引き上げ給え
私はいつまでもいつまでもそこに『居り』ます
「私も主イエスをかように慕いつつこの世を去りたいと思います。」と語った青木澄十郎氏は、続いて次のように語っています。
この詩中に『あの記録を禁ぜられた歌は・・・』の句がありますが、あれは黙示録10章4節を指すのでしょう。大体この詩には黙示録を書いた思い出が流れているようです。『私は道を知っている一度踏んだことのある道だ』との句は黙示録4章1節を指すのでしょうし、ヨハネの寝台の側で泣いている人々に向かって『泣いているのか海の波の音か』と言ったのもパトモスの島で波の音ばかり聞いていたところから来た錯覚を描いたものでしょう。最後の句に『私はいつまでもいつまでもそこに居るのだ』と結んでいますが、この『居る』の語はヨハネ伝15章を思わせます。
と、結んでおられます。まことにイエス様が次のように言われたみことばは至言です。これすべてヨハネが私たちに伝えたものであります。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネ15:4)
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