2020.5.15 |
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、主を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。(詩篇34:9〜10)
「何一つ欠けることはない」とは安価な楽観ではない。ダビデはこの当時、すべての良いものに全く欠けていたのである。ところが、信仰によってこのように叫んだのである。神は今や倒れんとする刹那まで助け給わないことがたびたびある。これは信仰の試練、忍耐の鍛錬である。私たちが見捨てられたと感じる時こそ「彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」と信じ、この「若獅子」の句を思い出すべきである。
来なさい。子たちよ。私に来なさい。
主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、
日数の多いのを愛する人は、だれか。(詩篇34:11〜12)
しかし、一転して「来なさい。子たちよ。私に来なさい。」とある。神の語と見るか、詩人の語と見るか。いづれとも解釈できる。「いのちを喜びとし、日数の多いのを愛する」の語は「不老長寿」の意味である。「いのち」は溌剌たる生命を言い、「日数」は長寿を指す。詩人はわれわれに不老長寿の秘訣を教えようと言うのである。それは「主を恐れる」ことである。
すなわち、虚偽の言を去り、悪の行為を捨て、善をなし、人との平和を追い求めるのである。旧約聖書に永遠の生命の語は見出せないがこの句などはそれに近いものである。神を恐れる心は発芽して健康長寿となり「しあわせを見る」手段ともなる。「しあわせ」の延長完成が新約で言う天国であるとも言える。
あなたの舌に悪口を言わせず、
くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行なえ。
平和を求め、それを追い求めよ。(詩篇34:13〜14)
神を恐れる心より生ずる倫理的言行は心身保全の本道である。いかに完全な機械でもこれを悪用濫用すればすぐに破損する。法にしたがって用いれば永く存する。舌やくちびるは正直に語るべく造られたものだが、人を欺くために用いれば、脳の中枢に無理が生ずる。霊魂と肉欲との間に闘争が生ずる。頭脳も心臓も過労に陥る。人を欺く時に心臓の動悸が昂る。
近来は電波で犯罪者の虚言を調べ、心臓の鼓動の変調でわかると言う。虚言の辻褄を合わせる脳髄の浪費、実に多大の健康妨害である。怒ることの心臓に及ぼす害は誰でも知っている。憤怒のあまりに死ぬ場合さえもある。人が老いるにしたがって童顔を失うのは肉体を罪で逆使するからである。「平和を求め、それを追い求めよ」とあるように「平和」は心身の良薬である。何をおいても求むべきである。
加えるに「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに」いつも傾けられている。と同時に「悪をなす者を・・・地から消される」のだから、自ら傷つける不養生は倍加して生命を脅かす。人間の健康も寿命もこのようにしてすみやかに消耗する。
主の目は正しい者に向き、
その耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の御顔は悪をなす者からそむけられ、
彼らの記憶を地から消される。(詩篇34:15〜16)
(『詩篇の研究』青木澄十郎著93頁から引用。引用に当たって少しことばを現代風に改めたところがある。)
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