2022年2月28日月曜日

暗闇を照らす灯火

ふくよかに 愛らしいひと したがえて※

また言われた。「あかりを持って来るのは、桝の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4・21〜22) 

 弟子たちは、種蒔きのたとえ話の説明を受けていた。彼らにとって、そのことは、神の国の秘義を知りうる祝福された特権であった。しかし、多く恵まれることは、それだけ責任が大きいことである。このことは、他の人々のためにその賜物を用いることを意味している。それゆえに主は、その彼らに、あかりのたとえを語られたのである。彼らはみな、このようなあかりをそれぞれの家に持っていたし、何のためにそれがあるかも知っていた。彼らはこのあかりを、桝や寝台の下に隠そうなどとは思ってもいない。燭台はそのためにこそあるではないか。そこで主は、彼らが受け取った光を隠してはならず、希望といのちの輝きを、他の人々の暗い心の中に投げかけるようにすべきだとされた。このことが、いかに大切なことであるかを思うと、主の、そのみことばに心を向け、それをさとるようにとの警告を加えられたのは別に不思議なことではない。

 彼らが多く人々に与えるなら、それだけ多く受けるだろう。知っていることを伝えることは、自分自身の理解を増すことを意味する。祈りに満ちた心づかいと心をこめた聖書の研究は、空しく終わることはありえない。このような理解をもっているものは更に多く受けるだろうし、そうでないものは、少ししか持っていないものまでも失うであろう。わたしたちは、自分の知っていることを他の人にわけることによって得つつあるだろうか。それともそれを隠し持って使わないことによって、持っているほんの少しのものまで失おうとしているのだろうか。あなたの信仰とその人の信仰について、あなたはもうその人に最後の語りかけをいつ終わったというのか。自分自身をまず教えることをしない教師は、他人に多くを教えることはできない。

祈り

主よ、あなたのみことばの力を疑うことはなく、あなたを大胆に告白できるよう、わたしたちの信仰を強くして下さい。あなたの御国へのゆるぎない信頼とあなたの御手の中にあるわたしたちを傷つけるものは何もないという確信をお与え下さい。アーメン

(以上の文章は、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』73頁から引用。題名は引用者が便宜的につけた。年初から載せさせていただいてきた『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著からの引用は本日は休んだ。※今日は整骨院四回目の治療であった。 玄関の飾り絵は変わっていた。夫と妻、それぞれの持ち味をとおして一つに結びつけられている。ウクライナではその家族が夫は国を守るために参戦し、妻はこどもを守るために地下壕でふるえている。こんなことがあっていいのか。くらやみを照らすみことばがいのちとなって輝きますように!)

2022年2月27日日曜日

三十倍、六十倍、百倍の実

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4・20)

 蒔かれた種は一粒もそのままではいない。腐ってしまうかあるいは実を結ぶかである。実を結ばないで生きている種というものは、いったん蒔かれた以上はあり得ないのである。私たちの信仰がもし停頓しているとすれば、それは正しく土の中に入らず、まだ路上に横たわっているのに違いない。いつサタンの食物となってしまうかも知れない。

 少しずつでも生長して行くならば、農夫であり給う天の父は良き実を結ばせんために日や雨や草取りや肥料やそのほか種々の世話をして下さるのである。主イエスは農家のお生まれではなかったが、この結実の有様を『三十倍、六十倍、百倍』と言い給うたのを見ると麦の穂を手にとってその粒の数を数えて見られた経験があるにちがいない。

 麦は普通百粒が普通もっともよい結実である。『あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています』(マタイ10・30)とのみことばを思い出されて何となく嬉しい。

祈祷

主よ、実を結ぶこと少なき私をもあわれんでください。願わくは、あなたの蒔いてくださったこの成長の鈍い種をもあわれんでくださって雨を注ぎ日を照らして養い育てて下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著58頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下、昨日に引き続き、『受肉者イエス』から引用する。引用頁は同書363〜364頁からである。題して『善き地』

 第四は主が肥沃な土地に擬せらるる種類の聴衆である。『みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。』ここに注意すべきは、その優秀の土質に程度の相違のあることである。彼らは皆実を結んだけれども、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍であった。

 聖クリソストムは曰く『もし地は肥沃にして蒔く者にも種にも相違なくんば、何故にここに百倍、かしこに六十倍、またそこに三十倍を結べるか。その相違は地質によるものにして、肥沃の土地にもなおこの著しき階梯あり。非難を受くべきものは、種子にあらず、農夫にあらず、ただ地質のみ。さらに慈恵にあふるる著しきは、神は決して優秀なるもの一種のみを要求し給わざるにあり、第一を受納し、第二を拒絶せず、第三もまたゆるして収めらるるなり』と。

 信者はその力量において、天びんにおいて、ことごとく同一でない。しかもその才能のいかんにかかわらず、勤勉の腕と熱烈なる精神とをもって己にゆだねられた責任を忠実に尽くしつつ、己が天賦を発揮すべきである。天国においては聖ヨハネや、聖パウロの種類のみならず、その他隠れたる地位において主を愛してこれに奉仕する名もなき無数の人物のこれにあずかる余地があるのである。)


2022年2月26日土曜日

みことばを蒔く人

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。(マルコ4・14)

 『みことば』とは言うまでもなく神の国の福音である。主イエスは惜しみなくこれを蒔かれる。これを路傍に蒔き、礫地に蒔き、茨の中に蒔かれた。イエスの御口から出る尊いご真理がまことに安価にガリラヤの湖辺に蒔き散らされた。

 御唇から銀鈴のごとくに響き出る混じりなき天国の福音、神の国の奥義をそのままに聞くことができたなら生命も資産も少しも惜しくないと思う者は幾人あるかも知れまい。しかも主はこれを聞く人にも聞かぬ人にも惜し気なく施された。

 三千年間の種蒔きに『礫地』や『茨』の中に失われてしまったみことばの浪費を思うと実に不経済なように感ずる。が、実はこれこそ神の大愛の示すものであるまいか。正しからぬ者が不義を行うためにさえ、日を照らし雨を降らせ給うのと同じ寛容で主はサタンに食われるためにでも惜しみなく種を蒔き続け給うたのである。

祈祷

主イエスよ、あなたは私の心が礫地であるにもかかわらず、朝に種を蒔き夕べには水を注いでくださるのですね。茨(いばら)が育ってあなたに対する信仰をふさぐときもあなたは、御肉に血を流して私の心を切り開いて下さるのですね。あなたの恵みは大きく感謝します。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著57頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。今日の青木さんの霊解は引用者としてはいくつか疑問がある。「三千年間の種蒔きに」と述べられているが、創世記から新約聖書の書かれる年代を言っておられるのであろうか。一方で、イエスさまの種蒔きの趣旨を逸脱しておられるのでないかと、掲載を随分迷った。

 ところが、『受肉者イエス』というデービッド・スミスというスコットランド人の書かれた名著を大正11年に日高善一さんが訳された本がある。念のため、この本を調べたら以下のことが書いてあった。題して『伝道の結果よりの判断』(同書上巻364〜365頁より引用)

 この聴衆の例は人生より描写せられたるものであった。彼らは皆主の親しく実見せられたところより来たもので、事実のこのたとえは一ヶ年のガリラヤ伝道の結果より摘出せられたものに外ならぬ。皮層の観察をもってすれば、その成功は顕著であるように見えた。

 全国が騒ぎ立ったのであって、ただにガリラヤのみならず、ユダヤ否サイロビニケやベリヤの異教の地方の人民まで(マルコ3・7、8)イエスの不可思議な事業を目撃し、またその恩寵深きみことばを聞かんがために、カペナウムに殺到して来たけれど、イエスはこの熱狂の価値の極めて乏しきをくわしく知っておられた。その大多数は聞くがままに忘れ去る傍観的の聴衆であって、またその大多数はイエスをもってメシヤと認め、赫赫たる権威を握り、天下に号令せらるるも近きにありと望みつつこれに、随従し、その弟子と自ら名乗ったものであった。

 イエスは彼らが早晩その誤解を悟り、渇仰せる王位に非ずして十字架を見るに至るや、必ず離れ去るべきを知り、その熱狂的人望の真の価値を認めておられた。この群衆の喝采は日ならず罵言と変じ、使徒たちの信仰すらも、頼むに足らざる時期の到来すべきを予知せられた。その一ヶ年の労役の結果を計上して『夥しく蒔きて、僅少なる収穫』に過ぎずとの断案をくだされたのであった。しかもイエスは決して苦痛と思し召さないのであった。その労役は無益ではない。その自ら穫べきを穫られたのであって、満足せらるるところであった。)

2022年2月25日金曜日

あなたはイエスの教えを乞う者ですか

そこでイエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が知らされているが他の人たちにはすべてがたとえで言われるのです。それは『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」(マルコ4・11〜12)

 『他のひとたち』とイエスは言われた。かつて私が鹿児島に行ったとき、彼の地の人が私たちを『よそもん』と呼ぶのを聞いた。軽蔑した意味があったか否かは知らないが、たしかに理解を異にする人間との意味がふくまれていたように感じた。なるほど鹿児島人同志が話しているのを立ち聞きしても少しもわからない。自分は『よそもん』にちがいないと感じた。

 イエスは博愛のお方であって、世界人であるが霊の世界にはやはり『よそもん』があるということを教えられた。これは生まれがちがう『よそもん』ではない。心をかたくなにした『よそもん』である。彼らに神の国の言語のわからないのは『赦されることのないため』の刑罰である。理解ができないから信じられないのではなくて、信じない人には当然の罰として理解の力が与えられないのである。

祈祷

神よ、私はまだ天国の奥義を悟ることはできませんが、そのイロハを語ることはできますことを感謝申し上げます。願わくは、私に信仰を増し加えてしだいにあなたの言語を理解できる者としてください。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著56頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』68頁から引用する。

 主は・・・神の国に関して、・・・啓示されている事柄を知る幸いな特権を指摘された。わたしたちにとっても、このことについての知識は、人間の思索の結果ではなくて、神がイエスのことばをとおし、イエスを愛する者たちに、目がまだ見たこともなく、耳は聞いたことなく、心はいまだその中に入ってきたことのない事柄を啓示されたからだ、ということを心にとめておかねばならない。

 ある者たちは不信仰なユダヤ人のようであるだろう。このたとえは、そのような彼らを善しとしていない。人は、彼らがなぜ、彼らの目には明らかであることを理解せず、またわかりやすいことばで語られた事柄を聞けなかったのかと、いぶかるかもしれない。しかし、人が真理に対して心を固く閉じ続けている時には、彼らが信ずることも、救いにも至り得ない神のさばきとして、その真理は彼らにかかわってくるのである。

※ロシアによるウクライナ侵攻が現実化した。gloomyな一日の始まりであった。そんな今日、一人の方からうれしい電話があった。長年救いを祈っていた方が、イエスさまのみことばをすなおに信じて喜んでいるという知らせであった。86歳だそうだ。何歳であろうとイエスさまはいつもみことばに耳を傾け心を開くように聖霊をとおして働いていてくださり、その方がそれに応えられたということだ。新しいいのちの誕生だ。まことにおめでたい。それに反し、力づくで自己の思うように世界を動かそうとしている人間の存在をどうして認められようか。主の御名をあなどるなかれと言いたい。)

2022年2月24日木曜日

真理は真清水のごとく主から流れ出る

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。(マルコ4・10)

 何という美しい絵画であろう。騒がしく忙しかった一日も終わって、物珍しくイエスを見に来た群衆は去って往った。が、イエスにひきつけられて去りかねた少数の者は十二弟子とともにイエスの宿に着いて来てイエスのまわりに輪をつくって、奥深いたとえの意義を問うている。

 このたとえの説明がすむと続いて第21節に『寝台の下のあかり』のたとえを語られているところを見ると夜は次第にふけて、寝につくべき時が近づいたことが察せられる。イエスは今『良い地に落ちた種』である少数の弟子らと親しく神の国の奥義を語り給うのである。

 このようにして静かに教えられたペテロやヨハネがついに神の畑に大きな収穫をする人々となったのである。ああ私もこの一夜主とともに居りたかった。

祈祷

夜は更けぬ。主よ、今宵も私と共に宿り給え。夢の中にもあなたの御声をきかせ、静かに語り出で給う天国の奥義を私にもさとらせてください。アーメン

 (『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著55頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』68頁から引用する。

 マルコはつづいて、この後、主が十二弟子や、他の弟子たちとだけいた時のことについて語っている。弟子たちはこのたとえ話を特に心にとめていたにちがいない。彼らは、その主を正しく理解し、このたとえが教える意味を完全に知りたいと願っていた。私たちが聞いた説教や、読んだ聖書の箇所を思い返して、私たちがそれを聞いた時、読んだ時以上の深い意味をつかむことはすばらしいことである。) 

2022年2月23日水曜日

たとえの価値

イエスはたとえによって多くのことを教えられた。・・・「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔に出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。・・・また別の種が土の薄い岩地に落ちた。・・・」(マルコ・2〜5)

 ガリラヤ付近の土地は実にこのたとえソックリの土質である。礫地(れきち)があり、茨(いばら)がある。が、イエスはただ土地だけを眺めてたとえを語られたのではない。イエスの前にいる群衆の心が全くそれと同じであるのを見て、その共通点を指摘したのである。

 たとえにもいろいろあるが、イエスのたとえはイソップ物語や桃太郎の話のように、鳥がものを言ったり、木が歩いたりすするような架空(かくう)な話ではない。すなわち人間が自分の思想を無理に鳥や木に言わせるのではない。自然がおのづから語っていることをつかみ出して示し給うのである。だから真に迫ってくる。

 人の心の奥に徹する。つまり『聞く耳ある者』には聞き得る自然界の言語を翻訳して聞かせ給うのである。かくのごとく自然の声に聞けとの見本である。

祈祷

主イエスよ、私たちの霊の衷心(ちゅうしん)にあって語られる神秘な聖霊の声を静かに聴くと同時に、自然界や人事界の中にあって、昔のようにたとえをもって語ってくださるあなたの説話に耳を傾ける知恵をお与えください。

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著54頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』71頁から引用する。

 イエスのわかりやすいたとえ話も、主の敵たちにとっては、ただ神秘な言葉にしか聞こえなくなるほど、彼らが心をますます固く閉じてゆくにつれて、主はみことばを喜んで聞き、学ぼうとする彼の弟子たちに、より多く心をよせられたことは明白である。
 このことのために、主は、忙しい日の合間をぬって、さらに多くのたとえを語られていった。その中のいくつかが、幸いに、わたしたちのために書きとどめられている。

なお、『十二使徒の訓練』A.Bブルース著上巻91頁には「たとえ」について注目すべき文章があるので、あわせて紹介しておく。

 たとえを用いて教えることは特に新しいことではなかったが、イエスのたとえによって表明された真理は全く新しいものであった。それは神の国の永遠の真理であったが、イエスの時代まで知られずに隠されていた。
 地上のものは天上のものを象徴するのに適していた。しかし、偉大な教師〈イエス〉が現れるまで、誰も両者のつながりーー地上のものが天上のものの鏡となり、誰の目にもわかるように神の深い真理を示していることーーには考え及ばなかった。世界の創造からリンゴは地上に落ちていたが、アイザック・ニュートンがリンゴが落ちるのと天体の公転との結びつきを考えつくまで、誰もそのことに気づかなかったようなものである。) 

2022年2月22日火曜日

聞いて悟らせてください

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おびただしい数の群衆がみもとに集まった。・・・イエスはたとえによって多くのことを教えられた。・・・そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4・1、2、9)

 三種の人々が集まって来た。穴さがしを目的とするパリサイ人や学者たち、一時の人気で集まった軽薄な大衆および真に彼を信じようとする者とである。イエスは今この危機に際してこれら三種の人たちにそれぞれ適するように語らねばならなかった。

 揚げ足をとられて時至らぬうちに倒されては困る。軽薄な大衆は淘汰(とうた)せねばならぬ。信ずる者にヨリ深い真理を教えねばならぬ。そこでたとえを語り始められたのである。

 敵する心の者には意味がよくわからぬから揚げ足をとることができない。軽薄な人には同情が足らぬから意味がよく徹底しない。真の弟子となるべき人ならばたとえわからなくともさらにイエスに問うだけの真剣さを見出すことができる。すなわち『聞く耳のある者』だけに聞かせられたのである。主は今でも同じ方法で私どもにお語りになることが多い。

祈祷

主イエスよ、私にあなたの声を聞く耳を与えてください。もし理解できないとするときも、さらにあなたに問い祈り求める真剣さをお与えください。アーメン 

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著53頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、久しぶりにクレッツマンの黙想を『聖書の黙想』67頁から引用する。

 主は、人々にとってとりわけ何が必要かを知っておられた。群衆のすべてが主を見ることができるように、また、その話がよく聞けるように、岸から少し離れた小舟に座を占められた主は、彼らに教え始められ、多くのことを語られた。主がよく用いられた教えの方法は、たとえをもって、それを生かされることだった。人々の日常生活の中から引き出されたこれらのたとえ話は、永遠の諸真理を、人々の理解能力に応じてわかりやすく説いている。

※主にある兄弟に、昨日から治療していただいている。帰りがけに玄関先の絵手紙に気づき撮らせていただいた。母上が描かれたということだった。「さむさにたえてさいている」。勇気をいただいた。)

2022年2月21日月曜日

わたしの母、わたしの兄弟たち

すると、イエスは彼らに答えて言われた。・・・自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3・34〜35)

 まだイエスを十分知らなかった母や兄弟、イエスが『気が狂った』のではないかと思って呼び出しに来たのであろう。悪魔の恐るべき苦肉策である。

 聖母と称せられるマリヤでさえ悪魔はこれをうまく欺いて自分の手先に使おうとしたのである。この世の人情を利用して救世の事業を邪魔しようとしたのである。だからイエスのお答えもこれに相当している。決して肉親の者に冷淡であれと言われたのではない。むしろその正反対で、神を信ずることにおいて一致している者は四海皆同胞であると言われたのである。

 同胞主義を人種観念や国家観念の上に置かないで、信仰の上に置いたことは興味深く感ぜられる。しかもこの立場に立って再び兄弟や親戚を見る時に初めて依怙(えこ)ひいきに陥らず正しく彼らに対することができる。

祈祷

主イエスよ、願わくは私に隣人を愛する心をもって兄弟親戚を愛せしめ、兄弟を愛する心をもって隣人を愛することを得しめ、すべての愛をあなたの名によって実行することを得しめたまえ。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著52頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。かつて藤本正高さんが小林儀八郎さんを東京からロンドンに送る際に惜別の辞を述べられたことを本ブログで紹介したことがある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/02/blog-post_2.html)  今日のみことばの具体例であるが、青木氏がここで指摘することには今まで気づかなかった。つまりイエスさまは肉親の情を断ち切りなさいとのみ言っておられると受け取っていた。)

2022年2月20日日曜日

聖霊を汚すな

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3・28〜29)

 イエスがこれほど憤慨されたことは他に見ないようである。

 ご自身については盗賊バラバ以上の悪人として取り扱われても黙々として刑場に曳かれ給うたイエスであるけれども、眼前に聖霊の鮮やかなお働きを見て、その本心にはこれを知りながら、単なる嫉妬心から、これを瀆(けが)して悪霊の働きだと称する無良心の言動に対してはどうしてもこれを赦し給うことができなかった。

 かかる言動は聖霊の働きであるところの神の国建設の意識的否定であり、サタンの王国の逆宣伝である。いかにして許されるであろう。されば私たちの小さい生活においても、嫌いな人の善を見て、これを否定し、逆に悪く解釈するようなことはこの罪と同種類であるから慎まねばならない。

祈祷

神よ、静かなる沈黙をもって私たちの中に働き給う聖霊の働きを感謝申し上げます。私が好まない人の中にあなたの働きを見る時も、願わくは、私をして快くこれを賛美する心を与えて下さい。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著51頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。イエスが聖霊の働きにより、悪霊を追い出されているのに、その聖霊の御力を認めず、悪霊により悪霊を追い出すというあり得ない理義明白な真理に背く論戦を張ってきた律法学者の心の底にあるイエスさまに対する妬みに主はメスを入れ、最大級の警告を出されたのだ。主の警告はつねに首尾一貫している。『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている』ヨハネ3・18『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』ヨハネ20・27とは、改めて主の切なる願いであることを思う。と同時に青木氏が私たち人間同士の交わりの中で起こり得る、自己中心で自分を良しとし他者を排斥し高ぶる行動にメスを入れ、祈りとされていることに感銘を覚えた。)  

2022年2月19日土曜日

すべての支配と権威の武装を解除するお方

確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。(マルコ3・27)

 『強い人』とはサタンを指すのであることは言うまでもない。これを『縛り』得る者はただ一人すなわちイエスご自身を指すのであることも明白である。

 主は明らかにこの世はサタンの王国に属するものであって、主はこのサタンの王国を打倒して神の王国を建設せんがためにこの世に来たり給うたのであることを熱心に主張された。

 人はサタンの王国に属するか神の王国に属するか、二者の一つを選ばねばならぬ。灰色の中立は存在し得ない。神の王国を建設せんとするには必ず先ずサタンに一撃を加えねばならない。これはキリストの御力によるにあらずんば、私たちのなし得るところではない。

 現代の信者がサタンの人格的存在を認めないのは、神の国の建設に大いなる引け目である。

祈祷

主イエスよ。あなたは『私たちを悪い者からお救い下さい』と日々祈るようにお教えくださいました。どうか私どもは呑気な考えを捨て、『ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っている』悪魔との白兵戦の最中であることを認め、懸命に格闘をなすことができるように導いて下さい。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著49頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。昨日、私は生意気にも、青木氏の3・24〜25のみことばの解き明かしを、処世訓に堕していると、さも自らが何もかも知っているかのように感想を書いた。一晩、そのことを瞑想するうちに、イエスさまが私たちに仰っていることは理義明白な格言であり、処世訓であり、それに則って、青木氏は主に対して「争う」心の本質、罪からの解放を祈っておられることを遅まきながら知った。まことに自らのうちにある「高慢さ」は底知れず深いものだ。天国におられる青木氏に謝れるものなら、謝りたい。そして、青木氏を通してマルコの福音書を1節ずつ読ませていただく僥倖・恵みを感謝していることを報告したい。)  

2022年2月18日金曜日

理義明白なる格言

もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。(マルコ3・24〜25)

 争うことは一番いけないことである。サタンの国でさえお互いに争ったら立ち行かないというではないか。まして神の国に属する私どもが互いに争ったらどうなるか。自己を押し立てて行こうとすると知らぬままに争いが生ずる。

 意見の相違や、考え方の相違はなくてはならぬものである。これあるがために互いの短所を補うことができる。ただ自分というものを買いかぶることは多くの無用な争いの動機となる。自分と異なった点の多い人を見たら、先ずその人の中に自己の不足を補うものを見出すように心がけるべきであろう。無能と思ったりすることは双方のために益とはならない。

 すべての人を聖人賢人と見るというわけには行くまいけれど、とにかく自分と異なった性格思想の人を見たら、先ずその人から学ぶ心持ちでありたい。

祈祷 

神様、自分を押し立てて他を見下げ、自分と異なった人を悪く見やすい私をあわれんでください。どうか自分の知らない世界の持ち主として彼らを先ず尊敬することを教えて下さい。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著49頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。聖書の言葉はいかようにも説明できるのだと、青木氏のこの文章を読み、思わされる。このままでは処世訓に堕してしまう。この引用箇所は、そもそも、エルサレムからわざわざ降ってきた律法学者が、イエスさまのみわざを否定するために、『彼は、ベルゼベルにとりつかれている』『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言ったことに、イエスさまが反論されたことばの一部であることを覚えたい。『受肉者イエス上巻』デービッド・スミス著日高善一訳342頁の文章をそのまま抜粋引用する。

 奸策のその耳に入るや、イエスはたちまちこれを知って、その卑劣を憤りつつ、完膚なきまでに駁論を浴びせられた。先ず彼らのことばの荒唐無稽なるを叱責し、格言ほどに理義明白であって、不和は、国家にしても、都市にしても、家庭にしてもその滅亡の基にして、もし悪魔が悪魔を追いださば、自ら己を傷うもので、その国の立つ能わざるべきを論じ、彼らのことばをそのまま彼らに返却せられた。

 ユダヤの降魔の法は如何。『もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らは誰によって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。』さらにサタンと共同したとの推論が荒唐無稽なりとすればイエスの鬼を追い出されたのは神の霊にのみよらねばならないことになり、従って神の王国はすでに彼らの間に現れたこととなるのである。すなわちイエスはメシやでなければならぬ。)  

2022年2月17日木曜日

みなは食事する暇もなかった

イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まってきたので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。(マルコ3・20〜21)

 イエスというお方は何と使命に忠実なお方であろう。弟子らはイエスを見て、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』との句を思い出し、身内の者は彼を『気が狂ったのだ』と思ったほど一生懸命に働かれた。

 何事でも一生懸命にやる人を見ると何か神々しいものがある。子供が遊ぶのでも一生懸命にやっているのを見ると何だか良い感じがする。大した仕事でなくとも一生懸命にやりさえすれば何かの効果を挙げる。無能の者でも一生懸命になりさえすればついに天才をも凌ぐ。

 神は人間の中に神ご自身の力を貯蔵しておられる。一生懸命はこれを取り出すことの鍵である。イエスが『気が狂ったのだ』とか『悪霊にとりつかれている』と評されるほどに使命のために勤しみなさったのに私どもが怠けていて良いのであろうか。

祈祷

神よ、あなたはつとめ働く者を喜ばれます。10タラント与えられて10タラントを働かす者はさらに1タラントを増し加えなさいます。けれどもこれを地に埋める者はその1タラントさえ奪い去りなさいます。(※)願わくは、私をして小さい私の使命のために一生懸命になることができるようにして下さい。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著48頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。※引用者註:言うまでもないが、この祈りの中のタラントの話はマタイ25・1〜30のイエスさまの話が念頭にある。なお、文中の『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』の句は詩篇69・9、ヨハネ2・17にある。時あたかも冬季オリンピックの氷上における選手の一挙手一投足に釘付けにされている。果たして私たちはどれだけ「福音」の選手として働いているか、我が身を思うととても顔をあげられない!) 

2022年2月16日水曜日

イスカリオテ・ユダ

イスカリオテ・ユダ 、このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3・19)

 イエスはユダヤの生まれだけれども、ガリラヤに育ったからでもあろうが、他の十一人はことごとくガリラヤ人であり、ある者はイエスの親戚でもあった。このユダ一人だけが遠隔のユダヤの人でありながらイエスのお弟子となったのである。

 さればユダの心にはイエスにひきつけられた大きなものがあったに違いない。イエスからご覧になってもやはり『ご自身のお望みになる者』の一人であったのである。しかも大切な会計の任務をもっとも適任者であろうと思われるマタイに授けないで、このユダに与えられたほどに信用の厚かった人である。

 私はイエスがこの人を見損じたと言うのではない。しかしイエスが最初からご自分を売らせるために弟子に加えたとも考えられない。ユダには他の十一人にも見られないものがあったに違いない。まことに惜しい。が、誰でも悪魔に所を得させればかくも堕落し得るものであることだけは忘れたくない(※)。

祈祷

主イエスよ、あなたがかつて教えられたように、私たちをして日々『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください』と祈らせてください。

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著47頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。※この青木氏の文言は重い。現に使徒1・25には、「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きました」と欠けた十二弟子を埋めるべく人選が行われた場で祈られたことばの中に記されている。言うまでもなく、「救い」はいかなることがあろうとも自分のところでなく、主のところに行くことにある。なお、参考までに以下、クレッツマンの黙想を抜粋引用する。

 さて、主は、この群衆の熱狂をよそに、彼の受難と死の時が次第に近づきつつあることを悟っておられた。夜をこめての祈りの中で、天の父の力を乞われた主は、彼の伝道といやしの手助けになろうとして、ついて来たたくさんの者の中から、限られた数の弟子たち、すなわち十二弟子をお立てになった。ここに彼らの名前も残されているが、それらは、世界を、ゆり動かした「凡人」の名前とも言えよう。

 ペテロ〈岩の男〉というほまれある別名を持ったシモン、ゼべダイの二人の子ヤコブとヨハネ、彼らには「雷の子たち」という名もつけられた。ペテロの兄弟アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ〈レビ〉、トマス、アルパヨの子であるもう一人のヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに「地獄の子」といわれるあのあわれなイスカリオテのユダの名が終わりに記されている。マルコは他の福音書記者と同様に、彼については、イエスを裏切ったものとだけ書きそえている。裏切り者としてその名を記されるのは、何たる宿命だろうか。神よ、どうか、私たちの栄えある主、救い主に忠実なるものとして保って下さるように!)

2022年2月15日火曜日

雷の子ヤコブ

こうしてイエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。(マルコ3・16〜17)

 この三人は十二人の中でももっとも近くイエスのみそばに置かれた人たちである。その中でももっとも惜しい人はヤコブではなかったかと思う。多分ヨハネの兄であったからでもあろうが、四福音書においてはいつでもヨハネより先に書かれてあるところを見ると、ヤコブの生きていた間は弟のヨハネよりも頭角をあらわしていたに違いない。のみならず十二人の中で一番最初に殉教の死を遂げたのもこの人である。

 イエスの死後教会の中で最も目に立つ人であったから捕らえられたのであろう(使徒12・1、2)。(※)早くイエスに殉死したこのヤコブが無言の中に血をもって私たちに語るところは大きい。

祈祷

ああ、雷の子ヤコブよ、真っ先に主イエスの十字架に殉死せるゼベダイの子よ。あなたの一生は短くして、しかも大いなるかな。主よ願わくは私にも彼の心を与え給え。血をもって語る彼の声に耳を傾けさせてください。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著46頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。※この箇所には「ヤコブが殉教した心持ちを察しては、乃木大将の明治天皇に対するものと似通ったところがあるように感ぜられる」と青木さんは書いた。明治3年1870年生まれの青木さんの心情は理解しつつも、私はこの表現は適切でないと思う。そのために、バウム・ゲルトナー『十二使徒との出会い』に書かれている一文を抜粋ではあるが紹介する。

 ヤコブはイエスにはじめて出会ってから、17年経って、イエスの苦難にあずかる者となりました。そのころ、無言の弟子ヤコブは、教会の指導者となっていました。・・・やがて迫害の嵐はエルサレムの教会をおそい、ヘロデ・アグリッパ王が、人々を恐怖におとしいれるしめしとするために、クリスチャンを探し求めていたとき、ヤコブが選ばれ、ペテロさえも二番目にリストにあげられました。このにがい杯を飲みほし、血のバプテスマを受けたのはヤコブでした。

 無言の弟子、ヤコブは、ご自身の生涯の血をもって、自分のために天国の門を開いてくださった救い主、十字架の死をもって、自分のためにすべての喜びとすべての永遠のいのちの不思議とをかちとってくださった救い主を、否むことなく、静かに死につきました。

使徒12・1〜2、マルコ10・38〜39など参照のこと) 

2022年2月14日月曜日

みそばに侍り、力を得る

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3・14〜15)

 全世界を征服するの計画を立てられたイエスがこれを実行する方法としてガリラヤの漁夫を中心とした十二人ばかりを選ばれたというのはまことに心細いように感じられる。

 しかし、これよりよい方法が無かったから、主は最善の方法を取り給うたに違いない。今日でも、私たちの群れは小さく私たちの同志は少ない。天下は滔々として悪魔の配下に走って行くように思われる。けれども失望してはいけない。

 最初の主のご計画の通りに私たちは主の『身近に置か』れ倦(う)まず弛(たゆ)まずに『福音を宣べ』『悪霊を追い出す』ために働けばよいのである。この中でももっともたいせつなことは主の『身近に』いることであろう。いつでもみそばをさえ離れずにいるなら、ついに『悪霊を追い出す』力も与えられるであろう。

祈祷

主イエスよ、願わくは、私たちを召してつねに『みそばに』侍(はべ)らせ給え。願わくは、この世の恐るべき戦いのために心臆することなく、ただあなたを仰ぎ、あなたにすがって力を得、悪霊をさえ追い出すことができるようにさせてください。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著45頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。)

2022年2月13日日曜日

霊の交わりに招かれし十二弟子

さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。(マルコ3・13)

 主イエスご自身の御手に触れて肉体の病をいやされた人々が不思議にも十二弟子の中に見当たらない。女弟子の中にマグダラのマリアを見るだけである。御心にかない主のもとに来たって一生を主にささげた人たちはやはり始めから主の人格と主の教訓とに心をひかれた人たちであった。心と心との結合である。

 少なくとも主の御心の一部に触れた人でなければ、いくら主のお体に触れてその奇しい御力の出でくるのを感じても、そのことにより永久に主から離れないかと言うと、そういうわけではない。医者から見放され祈りによっていやされた人が今では信仰を失っている人を随所に見受ける。

 とうてい肉は肉であり、霊は霊である。しかし肉を階梯(かいてい:はしご)として霊の世界に進み、霊のまじわりにおいて主の御姿をながめて恍惚たる心境にまで達したいものである。

祈祷

主イエスよ、私たちは肉のことを思い、肉のことに支配されます。なにとぞ今少し霊の世界に生き、霊においてあなたとまじわり、御霊にかなうあなたの弟子の一人としてくださることをお祈り申し上げます。アーメン

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著44頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。)

2022年2月12日土曜日

主の御用をせし小舟

イエスは大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。(マルコ3・9、10)

 いつの時代にも肉体の苦痛から救われようとする熱心な人は多い。が、霊魂の救いを求める人は少ない。イエスほどのお方を眼前に見ても、その人格に触れようとする者はなくして、その肉体に触れようとする者は実に多かった。

 もちろん主は人間の肉体の悩みにも大いなる同情を持たれる。だから多くの人をいやされた。けれども肉は末であり、霊は本であることを忘れてはならぬ。押し迫る群衆から逃れて小舟に乗られたのは、舟の上から岸に立っている人々を教えるためであった。

 群衆はパンを求めて石を与えられ、生きた解決を求めて空しい理屈を聞かされると失望したかも知れない。今日の私たちもうっかりするとこれらの群衆と同じところに低回(うろうろ)する。

祈祷

主イエスよ、私たちがパンの問題を真実に解決できるために、先ずパンの問題から私たちを解放してください。私たちが肉の諸問題を解決できるために、肉の諸問題を超越させてください。先ず小舟に乗ってあなたに従わせてください。アーメン

(以上は青木澄十郎『マルコ伝霊解』からの引用である。青木氏は、この時主のお心がどこにあったかに的をしぼって考えられた。なお、クレッツマンの黙想は以下の通りで、マルコ3・7〜8を踏まえたものとなっている。併せて読みたいものだ。

 主が、その弟子たちとガリラヤの海辺に退かれた時、多くの群衆は、ガリラヤ近辺ばかりでなく、ユダヤ、エルサレム、また南に遠く離れたイドマヤや、ヨルダン東側の丘陵地や、北方のツロとシドンなどの大都会からでさえも、つき従って来たのである。彼の名は彼らをして、一大群衆と化せしめていた。

 海辺に立たれていた主は、もし彼が弟子たちに、いのちのことばを群衆全部が聞けるために、小舟を用意しておくようにと話されていなかったならば、海の中に押し入れられていたかも知れない。特にその中でも目立ったのは、主にいやされた人々の中で、けがれた霊になやまされていた人々が、あわれな体をもって彼が神の子であることを口走りながら、彼に迫って来ることだった。主はこのやたらな告白を、快く思われなかったので、それをとめねばならなかったのである。)

2022年2月11日金曜日

沈着冷静な主の愛

イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。(マルコ3・6〜7)

 イエスは人間の弱さを知っている。人は一時の腹立ちというような時にはどんなことをしでかすか知れぬものであり、しかも冷静に立ち返った時はこのことを悔いるものであることを知っておられる。パリサイ人に対して言うべきことは言い、教えるべきことは教える。

 しかし、彼らが平静にこれを受けないで反対の方向に進むのをご覧になった時、先ずその前を退かれた。これは臆したためではなく、彼らに反省の機会を与えるためであったろう。ついには来るべき大衝突をご存知ではあったろうが、できるだけこれを避け給うところに主の大きな愛が見えるではないか。主はパリサイ人といえども、これを救わんとして細心の注意を払い給うたのではないかと思われてゆかしい。

祈祷

主イエスよ、願わくは、私にも『湖のほうに退く』ことができる寛弘な心を与えてください。私を怒る者の前からしばらく退いて静かに彼のために祈る静けさを私に与えてください。アーメン

(「イエスが湖の方へと退かれた」のを青木氏は上述のようにイエスの愛のあらわれと見られたが、別の見方もあるようだ。『聖書註解』KGKは「危険が差し迫っていたので、イエスは弟子たちとガリラヤ湖へ退かれた。彼は決してご自身を不必要に危険にさらすことはされなかった。彼の任務に照らして、それは正しく当然であった」と言っている。このような沈着冷静な愛ある人イエスは今なお、私たちの内側に働いて事をなさしめられるお方である。
 その一つの証とも言うべきものが、たまたま2月9日の朝日ニュースメールで紹介されていた。「裁判長から受刑者への遺言 いつかこの腕時計を・・・」という『あさま山荘事件』50年を記念する題名の記事がそれだ。その冒頭を飾っていた写真は一冊の聖書と腕時計であった。そしてその開かれた聖書の表紙扉には次のように裁判長の石丸氏の筆跡で墨書されていた。

1997年10月25日
          石丸俊彦
愛することのない者は神を知りません。
神は愛だからです。
 ヨハネの手紙1 4の8

吉野雅邦学兄

 朝日の記事によると、吉野受刑者は、無期懲役を言い渡した故石丸裁判官から、このような聖書を受け取るだけでなく愛用の品を託され、その遺品を身につける「約束の日」を待ち続けており、その品が石丸氏愛用の腕時計であるということだった。この「約束の日」とは「仮釈放」の日だ。今もそれを求めて奔走しておられる別の方々が同時に紹介されていた。一方、同日の毎日ニュースメールは「『家族にも言うなよ』死刑執行に立ち会った元刑務官の証言」と全く別の話だが、刑執行にまつわる話が載っていた。これも考えさせられる内容であった。私自身もかつて「人の救いとバイブル」という題名で本ブログに投稿したことがある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/02/blog-post_19.html

2022年2月10日木曜日

憎しみの果てに残るもの

彼は手を伸ばした。すると、その手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。(マルコ3・5、6)

 人の心というものは不思議にもさまざまに働くものである。これほどの力を見、これほどの人格を目の前に見ながら、イエスを敬う心も起さず、かえって葬り去ろうと謀るとは実に思いも寄らぬ考え方であるように私どもには感ぜられる。

 憎む心と高ぶる心とは実に恐ろしいものである。これらは心の目を曇らせる。判断の力を奪ってしまう。憎いと思うと何もかも悪く見える。心を低く持ちさえすれば憎む心は起こらない。もちろん、悪をば憎むけれども人を憎む心は起こらない。

 パリサイ人たちは自分たちはエライ人であり、イエスは田舎者であるとの高ぶりからイエスに対する憎しみが生じ、この憎しみが彼らの判断を誤らせ、安息日を犯すようなイエスを葬り去るのは正当なことだと考えるようになった。私どもも自分の好まぬ人、嫌いな人、性格の異なった人、意見の違った人などに対しては特別謙遜な心で同情の眼をもって見なければ誤解しやすいことを忘れてはならない。

祈祷

主よ、願わくは私に人を尊く見る眼を与えてください。自分と異なる人、理解し難い人を見るとき、謙遜と同情の眼をもって見ることができるようにしてください。アーメン

(以上はこれまでとおり青木『マルコ伝霊解』からの引用であるが、『聖書註解』KGKはこの節に対して次のような注釈を加えている。「この男のいやしがイエスと宗教指導者たちの間の決定的なみぞとなった。道の分かれ目であった。この対立は非常に激しく、熱烈な民族主義者パリサイ人は、その宿敵、一種の売国奴だったヘロデ党の者と組んでまで、イエスを葬り去ろうと考えた。」「憎しみ」から発展する「殺意」が人を滅ぼす。昨今の新聞紙上を騒がせている、陰惨な殺人事件、はたまたウクライナ情勢もまた、その心の暴走に歯止めがきかない今も続く人間にとって最大の問題である「罪」のなせるわざだ。その人間の罪をご自身が一身に負い、十字架上へと進まれるのがイエスだ。)

2022年2月9日水曜日

従順な信仰とかたくなさ

昼下がり 手づくりのケキ 誕生 想い味わう 日の心地よさ

イエスは・・・その(手のなえた)人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。(マルコ3・5)

 イエスの御力と信仰の働きとの合致を如実に示している。主のみことばを聞いたこの人の心に直ちに『手を伸ばし』てみようとの心が起こったのがすなわち信仰である。いくら『手を伸ばしなさい。』との声が耳に入っても、その人の心に『手を伸ばしてみよう』との心が起こらなければ癒されない。

 もちろんイエスのみことばがその耳に入るや否や動かなかった手に何らかの力を感じたには相違なかろうが、とにかくイエスの御力はこの人の意志を通して働いたのは事実である。

 私どもも単純で従順な心持ちでイエスの御声を聞きそのままに行なってみるならば、そこに意外な力の流れを実験するであろう。『彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。』の語は『彼はするとその手が元どおりになった。手を伸ばした。』と書かれるよりもはるかに興味深い。

祈祷

主イエスよ、信仰の薄い私を棄てないでください。手を伸ばしなさいとの御声を聞きつつも手を伸ばすことができないと感じる弱い私をあわれんで、御声に答えてこのなえたる手を伸ばす信仰をお与えください。アーメン

(聖書をどのように読むかは私たちにゆだねられている。青木氏が上記の聖書の中で『・・・』と省略した箇所がある。そこには『怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら』とあり、イエスさまがパリサイ人に向けた『怒り』がはっきりと記録されている。マルコの福音書はその時の主の様子を目撃したペテロの証言を受けて書かれており、並行記事であるマタイの福音書、ルカの福音書が触れなかったイエスの人間的感情に触れている。何に怒られたかと言うと、パリサイ人たちが安息日の遵守という宗教化した形式に支配され、目の前にいる片手のなえた人を救おうとされるいのちの与え主イエスさまのみわざを受け入れようとしなかったからである。その怒りはもちろん個人的な憎しみではなく、彼らの心のかたくなさを悲しむ怒りだったに違いない。『聖書註解』KGK825頁参照。)

2022年2月8日火曜日

また会堂に入られたイエス

イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。(マルコ3・1) 

青木澄十郎氏の霊解(『マルコ伝霊解』39頁)

 イエスはよく会堂に入り給うお方であった。ラビたちがいかに化石化していても、パリサイ人たちがいかに偽善化していても、そこにいかに恐るべき罠がかけられてあると知っていても、イエスはやはり会堂に入り給うお方であった。

 私は教会主義には反対であるが、教会無用説に与(くみ)したくもない、多くの人とともに神を礼拝することは好ましいことである。しからば、何らかの方法をもってこれを経営していく必要も認めざるを得ない。

 もとより、腐敗し俗化した教会はこれを憎まなければならない。これが革正(かくせい)を計らなければならない。けれども全く孤立した信仰生活を送るのは危険が多くて私のような弱い者にはできない。イエス当時の会堂にも、今の教会にも実に恐ろしいことは多いには相違ないが、イエスはよく会堂に入った。

祈祷

天の父よ、私は弱くして、独立独行は私がなし得るところではありません。願わくは私に良き信仰の友を与え、良き祈りの友を与えて、この世の旅路を安らかに歩むことを得させて下さい。アーメン

(青木氏がどういう信仰の持ち主かはわからないまま、見切り発車の形で同氏の手引きによってマルコの福音書をともに読ませていただいて多くの恵みをいただいているが、今日の箇所はブログ子としては前回〈2月6日http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/02/blog-post_6.html〉に続いて納得できないところがある。それは中段の文章である。特に「何らかの方法をもってこれを経営していく必要も認めざるを得ない。」と断じておられるところである。教会の主はイエスさまであり、主を信ずる者はその肢体で、御霊なる神様が支配権を持たれ、そこに主にあっての教会が形成されるのである。「教会」は決して何らかの方法をもって「経営」できる代物ではなく、主によって形成される、言うならば「有機体」である。そのことを青木氏が否定しておられるとは思えないが、もし、そうだとすれば、なぜ人間による経営という言葉が前面に出てくるのか、その点がブログ子としてはにわかには承服できないところである。)

2022年2月7日月曜日

麦畑歩む人の子、などて文句つけるか

ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(マルコ2・23)

 餓えた者が、畑にある麦を摘んで食しても、盗賊とならないのは、さすがモーセの作った美しい法律である(※)。しかるにパリサイ人がこれを見て安息日を犯すものとして咎めたのは如何に聖書の文字を知って精神を解せぬ人たちであるかを証している。

 同情の心なき宗教はいくら聖書の文字に通じていても、その精神を去ることいよいよ遠い。それはとにかくとして、イエスはお弟子らがその伝道旅行において度々餓えたり渇いたりなさったことが窺われてまことにすまない心地がする。弟子たちもまたこの貧しい先生の跡に従順について歩いたのは誠に美しいものがあると思う。

 主イエスは無知でなした弟子らの自然の行動を弁護し、かつこの機会において安息日に関する新解釈を与えて『安息日は人間のために設けられたのです』と喝破して新しい意義を古い形式の中に吹き込まれたのもまた実に嬉しい事実である。

祈祷

主よ。安息日にもせよ安息日にならざるにもせよあなたはつねに『人間のために』働いてくださることを感謝申し上げます。あなたは日夜私たちのために良い賜物を与えようと、あるいは餓えあるいは渇いてくださることを感謝申し上げます。アーメン

(※引用者註:申命記23:25「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」とある。クレッツマンの黙想も素晴らしいものがあるが、ほぼ青木氏と同じなので、かえって煩雑になるので今回は見送った。それにしてもパリサイ人のイエスさまへの言いがかりは尽きることがない。しかし、イエスさまがこれに対して返す刀で何と答えられたか、二つのことを明らかにされている。詳しくはマルコ2・25〜28を参照いただきたい。)

2022年2月6日日曜日

会食と断食(3)

だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。(マルコ2・22)

 この箇所の青木さんの霊解はブログ子にはやや納得がいかないところがあるので(理由は末尾に記す)、能う限り、様々な方々の注釈を調べたが、以下のものがもっともふさわしいのではないかと考え転記する。(『聖書注解』キリスト者学生会発行1959年版 825頁)

 福音の新局面に古いユダヤ教の慣習をあてはめることは、真新しい布ぎれを古い着物についだり、新しいぶどう酒を古くて固い、弾力性のない皮袋に入れるように不適当であり、結果において不幸である。これはまさに後のユダヤ教教師の誤りであった。パウロのガラテヤ書の論争はそこに向けられている。(例ガラテヤ4・9〜10)

 これに対し。青木氏の霊解(『一日一文マルコ伝霊解』37頁)は以下のものである。

 主はご自身の教えの新しくしてパリサイ人の思想の古いことを攻撃されたのだとのみ見るのは少し狭い見方であろう。もちろんそうにはちがいないが、たとえイエスの新しい教えを信ずる者でも2000年も過ぎた今日はまた古い思想だとの誹(そし)りを受けまいものでもない。私は思う。これはキリストを信ずる者の思想はつねに新鮮なものでなければならないことを主張したのであろう。

 形式にとらわれる者は停滞するがゆえにつねに古い。心から湧き出でてくるものは、たといその形は古くともその質はつねに新しい。その質の新しいものは形式にとらわれない。むしろいつも新しい形を創造していく。キリストを信ずる者は神より賜る恵みがその心から日々湧き出てくるゆえに一日として陳套(ちんとう)の日はないというのであろう。

祈祷

一日として古きマナを貯えるのを許し賜わざる天の父よ。願わくはややもすれば陳套ならんとする私をあわれみくださって、日々あなたの新しい恵みを味わい、日々新しい世界を発見し、日々新しいいのちに歩ませてください。アーメン

 以上が青木氏の霊解であるが、ブログ子が不満を覚えたのは、下線部の叙述は折角の青木氏の主のみことばに対する絶対的な信頼が、それを疑わせる表現になっていないかと恐れたところにある。もっとも祈祷のことばを読めば、そう目くじらを立てる必要もないのかもしれない。

2022年2月5日土曜日

会食と断食(2)

手折れても よみがえりたり 紅梅の いのち鮮やか 色香ただよう

イエスは彼らに言われた。。「花婿が自分たちといっしょにいる間、・・・断食できるでしょうか。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。(マルコ2・19〜20)

青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』36頁)

 断食と言ったような行為は心の中から湧いて出づべきものである。弟子たちは今イエスとともにあって歓喜に酔うている。花婿を見出したような歓喜を味わっている。

 しかしペテロにせよ、ヨハネにせよ主が十字架につき給うた後は精神的にも肉体的にも普通の断食以上のさまざまの断食に身を苦しめた。

 私たちには主イエスとともにあることによって彼らのように大きな歓喜もなければ、主を見出し得ない時に彼らのような苦痛もない。私たちの宗教生活には婚宴の歓喜もなければ断食の苦しみもないのである。彼らにとってはキリストが生活のすべてであったから、キリストによる歓喜も苦痛も大きかったが、私たちの生活にとってキリストは九牛の一毛にすぎないのではあるまいか。反省したい。

祈祷

主イエスよ、私はあなたがおられない世界にあっても、多くの損失を感じないまでに落ちぶれた生活を続けております。願わくは、あなたにあって私が花婿を見出すことができるように私の心の目を開いてください。アーメン 

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』51頁)

 わたしたちのキリスト教は喜びの信仰であって、ゆううつの信仰ではありえない。そして主は彼らにその花婿が彼らから取り去られて、悲しみの時がやがてやってくるのだと話される。その時、彼らは、再び主を見る日まで嘆き、悲しむにちがいない。

2022年2月4日金曜日

会食と断食(1)

ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(マルコ2・18)

青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』35頁)

 古来真剣な宗教家はいずれの宗教を問わず難行苦行をする。ひとりキリスト教のみ安逸の宗教であろうか。私は今日のクリスチャンがあまりにラクすぎると思う。一週一回教会堂に出席するだけの人が多いようである。これはパリサイ人にも劣ったずるけ方である。

 パリサイ人は形式だけにしろ一週間に二度も断食して肉体を苦しめた※。もちろんそれは神の前にでなく人の前の断食であったであろう。イザヤが『あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない』(イザヤ58・4)と嘆息した通りである。

 しかし私どもは『いと高き所に届く断食』をする必要はないか。肉体は神の宮であるから大切にせねばならぬ。けれども、時には肉体を苦しめ肉体に打ち勝つ修行をしないと、宗教もその剛健さを失う。

祈祷

主よ、あなたは日々己に克って十字架を負えと命じなさいましたが、私たちは肉に負け、いたずらに安逸をむさぼり、十字架を負うことを嫌います。願わくは、私に己が肉体を撃ってこれを服従させる勇気をお与えください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)

 これらのことがら(引用者註:イエスさまが『罪人を招くために来た』と言われ、パリサイ人の偽善をあばかれたこと)は、他の言いがかりを惹き起こした。その敵たちは、実際には彼らは、バプテスマのヨハネの悔い改めの叫びに耳を貸していなかったにもかかわらず、唐突に自分たちがヨハネの弟子たちと少しばかり似ている点に気づくのである。

 すなわちそれは、人間の手になった断食の規則をきびしく守りつつ、悲しみつつ生きる者となるという、きよさに対する誤った熱心さである。しかし長く待ち望まれた花婿としてのメシヤが、今ここに、彼らの中にいるということは、むしろ祝いの時であり、喜びのみなもとではなかろうか。

(※引用者註:この青木さんの文章は、ルカ18・12を念頭においての表現だろう。このようにイエスさまがたとえで用いられたようにそれが当時のパリサイ人の実際であった。それにくらべて弟子たちの態度は全く異なる。青木さんの文章より、クレッツマンの文章を味わいたい。)

2022年2月3日木曜日

罪人を招いてくださる主イエスさま

「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて彼らにこう言われた 。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・16〜17)

 有名なみことばである。これほど私どもにとってありがたい言葉はあるまい。マタイ伝にもマルコ伝にも単に「罪人を招くために来た」とあるが、ルカ伝には「罪人を招いて、悔い改めさすために来た」とある。

 この席に列したペテロ系のマルコ伝、同じく列席者のレビから出たマタイ伝の方が、パウロ系のルカ伝よりもこの記事は正確と見てよかろう。ルカは少しく後の人であるから「悔改」の二字を入れて誤解のないように注意したのであろうが、私には主が無条件に「招き給う」ことが一層ありがたく感じられる。

 しかも招いて教誨するようなこともなく、招いて先ず食を共にされたことが誠にありがたい。この寛大な愛こそ私の如きひねくれた者もついには悔い改めずにはいられないようにさせるのである※。

祈祷

罪人を招こうとして来てくださった主よ、あなたは実に私をもそのまま招いてくださることを感謝申し上げます。願わくは、私を招いて先ずあなたと共に食することを学ばせてください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)

 律法学者やパリサイ人たちは、・・・さげすみをもって弟子たちに話しかける。どうしてこんなことがあってよいだろうか。人はその友によってはかられる。罪人たちの友ならば、彼自身一人の罪人にちがいないと。

 しかし、主はすぐさまそれに答えられる。パリサイ人たちは、そのイエスを好まない。彼らの自己満足は、自分たちは健康で、丈夫で聖なる者だと思わせている。しかし、病める者、罪ある者、悲しむ者は、主がそれらの魂にもたらされる癒しの愛の祝福からはずされることはないのである。主が実際に罪人たちの真の友であることは、あなたやわたしにとって何と素晴らしい祝福だろうか。

(※ある時、イエスさまを友人にご紹介しようとされた方が、冒頭のみことばの類似個所のうち、ルカ伝を紹介しようとも思われたが、やはり『悔い改め』の言葉がその友人のつまずきとならないだろうかと考え、マルコ伝のこの言葉を送ったと言われた。『主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。』詩篇130・3〜4。ルカ伝が間違っているわけではない。聖書のみことばの適用はそれぞれにその時と場合があるのだろう。)

2022年2月2日水曜日

いっしょに食卓に

群れなして 餌求め鴨 急ぎ来る 

それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や 罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。(マルコ2・15)

 いづれの国でも大抵上中下の三階級から成り立っているが、その他に第四階級とでも言うべき捨てられた階級がある。徳川時代にいわゆる非人とか穢多とか呼ばれ社会の埒外に置かれ普通の人間として取り扱われなかったものがあった。『取税人や 罪人』とはそんな階級を指すのだと思えば大した間違いはない。

 福音書に見える『罪人』を前科者と考えたりまたは特別の悪人と考えたりしては誤る。もちろんかかる階級の人は道徳の標準も低く、社会に対する反抗心も多いから、従って一般の社会から見てヨリ悪い人のように見える。

 イエスはこれらの人に対しても少しの城壁も設けられなかったのである。レビがマタイとなって十二弟子の中に加えられたとき、他の十一人が苦情を持ち出さなかったのは全くイエスの大なる人格が一視同仁、何人も包含する偉大なる力あることを示すものである。

祈祷

主イエスよ。あなたは親しいお弟子たちの中にレビをお加えなさったことを感謝申し上げます。いかなる社会のすたれ者もあなたの手によって救われないことはないのを感謝申し上げます。

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49頁)

 やがてレビの家は。多くの者がむらがり集まる場所となる。多分、この時の部屋は、レビや彼の仲間である、罪人たちの集まり場所であったのだろう。彼の友だちは今や、レビが彼らとは違った他の客、すなわち別の階級に属する有名なラビ、ナザレのイエスを迎えているのを見て、驚いたことに違いない。彼らがイエスと、またイエスが彼らと何の関わりがあるというのだろうか。主の弟子たちでさえも、心おだやかならぬものがあったかも知れない。

 しかし、見よ、今彼らの仲間の一人の心を癒したこの偉大で聖なる人の中には、何らの尊大さも、己れひとり高しとする態度も見受けられない。彼は打ち解けた友となって、彼らと飲み食いを共にする。レビがそれまでに接したどの友人よりも優れているこのかたとともにある生活が、どんな金造りや、乱痴気騒ぎよりも、はるかに素晴らしいものだということを、彼らも悟ることができただろう。

2022年2月1日火曜日

わたしについて来なさい

イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって 、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。(マルコ2・14)

 イエスとレビとは個人として全く未知の人であったか、幾分知り合いであったかは不明であるが、群衆の一人としてのレビはイエスを知っていたものに相違ない。呼ばれたときに直ぐついて行ったところを見ると、イエスの教えを度々聞いてその心を動かされていたものと思われる。

 『「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。』とは実に率直なレビの態度をそのまま現しているように思う。現在の収益多い職業に少しも恋着した様子がない。従いたかったけれども自分の軽蔑せられている地位を考えて遠慮していたように思える。

 私の信仰生活に最も深い印象となっているのは私がまだ十歳くらいの時、東京芝区の日曜学校に出席していたが※、ミス・ヤングマンと言う宣教師が本国へ帰るお別れの言葉として『わたしについて来なさい。』との語を大声で暗唱させられたことである。イエスに従うほど大切なことは他にない。

祈祷

主イエスよ。願わくは、私にレビのような従順さをお与えください。あなたがお呼びになるとき、一切万事を忘れて、飛び立つ歓喜をもってあなたに従う心をお与えください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49ページより)

 道を行かれるイエスは、のちにマタイと呼ばれる卑しめられていた取税人レビが、収税所に座っているのに目をとめられた。そこを通る商人や、他の人々は道に陣取っている収税所に、ローマ政府のための、呪わしい税金を払わねばならなかったのである。

 主のみことばの『わたしについて来なさい。』は、この男をして、その利得の多い職業を、困難でしかも自己犠牲的な生活のためになげうたしめるに十分であった。しかも、この選択をなした者は誰一人としてそのことを後悔しはしないのである。

(※このように、青木さんはしばしば、幼い頃の日曜学校の思い出を語る。それは単なる思い出でなく、今も、すなわち老境に入った青木さんを動かしている主の愛・摂理に対する感謝であることがわかる。まさしくクレッツマンが指摘する通りである。私自身はやはり10歳ごろ、宣教師が中仙道https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/06/blog-post_9236.htmlを「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰もみな救われん」と歌いながら、行進され、そのあとを遊び仲間と一緒に、半ば興味本位ではあったが、ゾロゾロついて行ったことを懐かしく思い出す。考えてみれば、その時が私の耳に直接入って来た最初の福音であった。その福音の意味を知るのはその後17年を経た27歳になってからだった。)