ふくよかに 愛らしいひと したがえて※ |
また言われた。「あかりを持って来るのは、桝の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4・21〜22)
弟子たちは、種蒔きのたとえ話の説明を受けていた。彼らにとって、そのことは、神の国の秘義を知りうる祝福された特権であった。しかし、多く恵まれることは、それだけ責任が大きいことである。このことは、他の人々のためにその賜物を用いることを意味している。それゆえに主は、その彼らに、あかりのたとえを語られたのである。彼らはみな、このようなあかりをそれぞれの家に持っていたし、何のためにそれがあるかも知っていた。彼らはこのあかりを、桝や寝台の下に隠そうなどとは思ってもいない。燭台はそのためにこそあるではないか。そこで主は、彼らが受け取った光を隠してはならず、希望といのちの輝きを、他の人々の暗い心の中に投げかけるようにすべきだとされた。このことが、いかに大切なことであるかを思うと、主の、そのみことばに心を向け、それをさとるようにとの警告を加えられたのは別に不思議なことではない。
彼らが多く人々に与えるなら、それだけ多く受けるだろう。知っていることを伝えることは、自分自身の理解を増すことを意味する。祈りに満ちた心づかいと心をこめた聖書の研究は、空しく終わることはありえない。このような理解をもっているものは更に多く受けるだろうし、そうでないものは、少ししか持っていないものまでも失うであろう。わたしたちは、自分の知っていることを他の人にわけることによって得つつあるだろうか。それともそれを隠し持って使わないことによって、持っているほんの少しのものまで失おうとしているのだろうか。あなたの信仰とその人の信仰について、あなたはもうその人に最後の語りかけをいつ終わったというのか。自分自身をまず教えることをしない教師は、他人に多くを教えることはできない。
祈り
主よ、あなたのみことばの力を疑うことはなく、あなたを大胆に告白できるよう、わたしたちの信仰を強くして下さい。あなたの御国へのゆるぎない信頼とあなたの御手の中にあるわたしたちを傷つけるものは何もないという確信をお与え下さい。アーメン
(以上の文章は、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』73頁から引用。題名は引用者が便宜的につけた。年初から載せさせていただいてきた『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著からの引用は本日は休んだ。※今日は整骨院四回目の治療であった。 玄関の飾り絵は変わっていた。夫と妻、それぞれの持ち味をとおして一つに結びつけられている。ウクライナではその家族が夫は国を守るために参戦し、妻はこどもを守るために地下壕でふるえている。こんなことがあっていいのか。くらやみを照らすみことばがいのちとなって輝きますように!)