2019年2月19日火曜日

人の救いと「バイブル」

日輪の 朱く染めたり 冬枯れよ

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14・6)

 「あっ」と驚いた。テレビ画面いっぱいに大写しに一人の男が両腕をつかまえられて今しも連行されていく場面であった。それは、テロップを通してであったか、その名前を知った瞬間の驚愕だった。そして、瞬時に彼我のちがいはどこにあるのかという思いにとらわれた。今から47年前、1972年の2月のことである。

 この人物は森恒夫氏であった。その時を遡ること、8年前の1964年、私は大学生協の組織部の一員として、京都に出て一泊二日の日程で、文部省が国立大学に出した水道・光熱費の受益者負担を撤廃させろという指示、学習会に出席していた。理不尽な指示だと思いながらも、国家独占資本主義打倒と豪語する塩見・森氏らの指導下にあった。私は自己の信条とこの理不尽な指令の板挟みになり、下山するなり発病し運動から退いた。

 しかし、その蹉跌は私にとり、深い心の傷となった。運動体から離れるのは自らのわがままに過ぎない、そんなことが許されるのかという思いだった。幸い、私の大学は小さな大学であったので、この私個人の内面の葛藤はともかく、それまでどおり生協運営は続行されていた。

 にもかかわらず、「裏切った」という罪責感が自己を支配した。しかし、それは私自身の矜恃に過ぎなかった。私は自身の問題がもっと根本的なところにあることに気づかずに、故郷を離れ、私の当時のバイブルとも称すべき『経済学批判』(マルクス著)を引っさげて、北関東での教師稼業に勤しむ道を選んだ。

 そうして、わずかその5年後にテレビ画面を通してではあったが再会したのが、そのあわれな森恒夫氏の姿であった。この時すでに私は本当のバイブル、『聖書』に出会っていた。救われて三年経っていた。だから、いても立ってもいられなかった。私はすぐ刑務所に聖書を差し入れたいと思った。牧師も勧めてくれた。だが、結果的に実行に移さなかった。私の優柔不断と愛のなさのせいであった。そのうちに彼は自殺した。1973年の元旦の日だった。

 数週間前に池上彰の報道番組でこの浅間山荘事件の意味が問われていた。番組ではその事件に関与した植垣氏がこの事件で逮捕された経緯と現在静岡かどこかでスナック経営をされている同氏にインタビューがなされて、当時を振り返りながら、個人個人が時代への関わり方をどうすればいいのかを考えさせる内容であった。しかも故人とは言え、森恒夫氏の事件への関わりが再三再四取り上げられていた。今更ながら、人生の厳粛さを知らされずにはおられなかった。森恒夫氏のインターネット情報によると「逮捕されてからはキリスト教に関心を示していた」「葬儀はキリスト教会で行なわれた」とある。

 それが本当に森氏の救いになったか、永遠のいのちにあずかったのかはわからない。けれども彼が自己を振り返り、悔い改め、主イエス様のみもとに馳せ参じておられるならば救いは間違いなしだ。

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