2019年2月8日金曜日

集会のありかた(3)

水鳥の 群れなし草食む 陸(おか)の上

あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です。(マタイ5・13、14)

 以上のことだけでは教会の目的の一割にも満たない。

 ある人にとっては教会とは壮大な建物の中で一定の儀式にひたることにより一層神に近づき得るものと思い、おもにそうすることを目的とする。ある人は種々の社会奉仕ができるから教会につどう。またある人は家庭的な環境、雰囲気を求めて(なのかもしれない)(しかし)このいずれも私たちは教会に何かを求めてやってくるのではないか。自分の弱さを強めるため・・・たしかにこれも大切である。しかし集会の目的は、私たちが自分の欠けている何かを求めてそれを満たすためにやってくるのが目的ではなく、むしろ集会は私たちが何かを与えるためである。

 すなわち、教会は福音を広め、主イエス・キリストをとおして他の人が救いにあずかるよう、私たちも主イエス様の御働きを助けることである。自分の信仰を強め、あかしの力を加え、人々に救いを宣べ伝えることである。聖書の教えるとおりキリスト者の神から与えられている責任は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ・・・」である。

 私たちがかつて死と罪と絶望の世界(に住んでいたところ)より、光と歓喜、いのちの世界へ導き入れられたこの喜びを、この唯一の救いの道を、ひとりでも多くの魂に与えることである。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたが たは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1・8)

 イエスご自身がご自分の目的は(神から地上につかわされたのは)滅びゆく魂を導いて救いを得させる。失われた羊を捜す(と言われた)。

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハネ10・16)

 また福音を伝えるのはただ単に言葉や知識でなくして、必ずそこには愛と犠牲とがともなうことである。それは主イエスご自身がお示しになられた(ことからわかる)。(ご自身の御からだを裂かれて)人々にまことの道を示すのは(気づかせるのは)愛と犠牲の方法をとおして(であった)。愛の犠牲の道は人々の心をめざめさせ、私たちの与えられていることの喜び、真理をつぶさに相手に伝えることができるのである。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8・17)

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5・16)

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10・42)

 (要するに)私たちはイエス・キリストの福音をたずさえて世の光、地の塩となることだ。

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