神よ、どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。(詩篇139・19)
第四段は19節から24節までで、悪しき人々に対する憤慨を現わしております。
神よなんぢはかならず悪しき者をころしたまはん
されば血をながすものよ
我をはなれされ
かれらはあしき企図(くはだて)をもて
汝にさからひて言ふ
なんぢの仇はみだりに聖名をとなふるなり(19、20)
神の全知全能を讃美してきたこの詩篇の作者は、翻って現実社会を眺め、神に背けるものの如何に多きかを今更に思い、彼らに対する憤怒がこみ上げてくるのであります。
エホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや
なんぢに逆らひておこりたつものを厭うにあらずや
われ甚(いた)くかれらをにくみてわが仇とす
神よねがはくは我をさぐりてわが心をしり
我をこころみてわがもろもろの思念(おもひ)をしりたまへ
ねがはくは我によこしまなる途のありやなしやを見て
われを永遠(とこしへ)のみちに導きたまへ(21〜24)
神を愛する者が、神に背く者を敵として憎むことは当然であります。されどこれは個人的な憎しみではありません。義憤であります。圧え難き義憤をかく力強く神に訴えているのであります。「私は罪人で御座います」を常套語とする今日のお上品なクリスチャンは、この最後の句をみて、自己を正しとする傲慢だと言うかもしれませんが、朴直なる詩篇作者は、この世の神に背いている輩と、全く別の世界に住むことを強く言い現さんとして、かく言わざるを得なかったのであります。
さて全篇を今一度ふりかえってみると、何という麗しい信頼にみちた詩でしょうか。この信頼のあるところに真の平安があるのであります。
明日ロンドンに発つ小林さんとは、もう六年位もこの集会を共にしました。私共の集会は人数が少ないだけ極く親しくして来ました。その少数の中の一人が、今夜を最後として遠き地にゆく事は、何とも言えぬ寂しさであります。キリストが自分の言を聴いている周囲の人々を見廻して「見よ、これは我が母、わが兄弟なり」と言われたことがありますが、私共も信仰を同じくする友を、何よりも親しく思うものであります。けれども私共の集会は、私共の交わりのための集りではありません。神の栄光が現われることが第一の願いであります。小林君は今「あけぼのの翼をかりて海のはて」に行こうとしておられます。しかし、其処にて神は同君を守り導き、働かせて下さるのです。
東京とロンドン、この世界の二大中心地にあって、心を合わせて世界のために祈ることは、又意義深いことであります。たとい所を異にしていても、常に交わることが出来、たとい地上で再び会う機会がなくとも、必ず又遭う時のある我等は幸いであります。
(『藤本正高著作集第3巻282〜284頁より引用。80年前、このような詩篇139篇の講解に励まされて、小林さんは未知の地であり、すでに日本とは交戦国関係になろうとしていたイギリス・ロンドンへと三井物産の社命を受けて旅立ったのだ。)
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