川央に 白鷺歩む 冬景色 |
真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4・23)
次にこの教会につどう私たちはどのような目的を神から与えられているか(考えたい)。人間は自分の行動を起こす際、必ず目的を持つ。私たちが今日こうしてこの集会に集っているのも各々目的があるから(だ)。
1、教会(集会)においてはわれわれは礼拝をとおし神の御栄光をあらわす。
教会とは単に説教を聞く場所ではなく、神に礼拝をささげ、讃美をささげるところ。霊とまことをもって。教会におけるすべてのことはまず礼拝、祈りをもって始められ、祈りをもって終わらなければならない。礼拝をとおして私たちは自らの内に宿る聖霊様と語り、天の父なる神と相見(あいまみ)ゆることができる。礼拝によって神との交わりを与えられる。教会は祈りの場とすべき(である)。
それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。(マタイ21・12)
(したがって)礼拝を重んじない集会は決してあり得ない。
2、教会(集会)は交わりのためにある。
この地上における交わり、人と人との交わり合いは実に多いが、キリスト者にとって教会における愛する主にある兄弟姉妹方との交わりほど私たちに大きな喜びと心からの一致を与えるものはない。主イエスが働いてくださる時、私たちはお互いの心を開き、心の奥底に入ってゆくことができる。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3・26)
私たちは家庭で、会社で、同じ趣味を持つ人同士で交わりがある。しかし、キリストにある交わりほど、喜びも楽しみも(与えるものは世の中に)決してない。聖書の中にも、主にある者が交わるその喜びがいかに心溶けゆくばかりに感謝と大きな恵みであるか(が、書いてあり)、聖書を開くとわかるが、父や母に対する愛も、また実の兄弟との交わりも、救われていない者同士であれば、その喜びはただ人間的な喜びに終わってしまう。集会に集うひとりびとりの兄弟姉妹が、主を通して愛の交わり、愛の一致が見られる時、私たちは教会における最大の喜びを得ることができるのである。
主にある私たちが日々集会に集いながら、お互いのことに関心なく、また心からの交わりがなければ、決してそこには主が働いているとは言い得ない。イエス・キリストは愛そのものである。主イエスに結ばれるものはともに愛の一致、愛の交わりがなければならない。
主にある私たちが日々集会に集いながら、お互いのことに関心なく、また心からの交わりがなければ、決してそこには主が働いているとは言い得ない。イエス・キリストは愛そのものである。主イエスに結ばれるものはともに愛の一致、愛の交わりがなければならない。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には。 わたしもその中にいるからです。(マタイ18・20)
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17・21〜22)
キリスト教は交わりの宗教であると呼ばれている。キリスト・イエスのお説きになった愛は決して自分一人では成立し得ない。愛の成立するのには必ず他者が必要である。
交わりをとおしてお互いの信仰を深め合い、強め合う。
愛の交わりをとおして、主イエス・キリストがわたしたちとともにひとしく働いておられる事実、喜びの事実を体験できる
3、教会は奉仕をささげる場所である。
外に出て戦う力を養う。私たちが何かの目的をもって仕事をし、奉仕をし、ささげるその内なる力は教会における交わり、祈りによって与えられる。教会の交わりをとおし、与える喜び、奉仕する力を得る。
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20・35)
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