”絵を描くのが好きな仲間たち” 作品展 市川良一さん作品 |
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ロマ15・5〜6)
ベック兄の語られた集会のありかた
(ドイツにおける集会から学ばれて※)
(ドイツにおける集会から学ばれて※)
集会には五つのポイントがある。(1)聖霊が教会を満たし、支配している(ことが肝心である)。牧師職を決め、牧師のみが神のみことばをとりつげる資格があるとするような現代の教会は真の意味で神から喜ばれることはできない。(2)信者と未信者との区分が集会において(は)明確に区分されていなければならない。(3)全キリスト教派、教団がひとつになることは決して神のご計画ではない。(4)ある地域と隣の地域が連合してひとつの集会を形成することも、人間的な要素が集会を支配する危険性がある(ので、良くない。)(5)教会の規律が正しく守られていなければならない。
この五つの集会のありかたと関連させ、神の喜ばれる集会のありかた、主イエス・キリストを信ずる群の目的について、聖書をとおしていくつか学んでみたいと思います。
人の集まり・・・社会、人種、国家、クラブ、組合、趣味同好会、自分の生活方法に共鳴する人、同一の目的を持つ集団。連帯感と慰め合うこと・・・いずれも人間の意志に基づいて成立している。
教会 エクレシア
ギリシア語で「召し出された群れ」の意味。(本来は)自由都市国家の代表者たちが集まり種々の事柄を決定する行政的な目的を持ったもの(を意味した用語)。
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16・18)
教会は人の意志によって成ったものではなく、イエス・キリストご自身のすなわち神のご目的によってこの世に形成されたものである。人の思いつき、意志によってではない(人間のつくる各種の集まりと異なるところ)
イエス・キリストご自身が教会の隅のかしら石となっておられる。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3・11)
教会はその建物や組織、教会員というものではなく、イエス・キリストご自身が据えられ、今も生きて働いている有機的組織である。神ご自身が、ご自身を慕い求めてくる人々と共に生きて住みたもう(ところである)。
神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。( 1テモテ3・15の後半)
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。( マタイ18・20)
この地上には多くの教派、教団が形成されているが、真の教会とは、ただイエス・キリストが教会の源となっておられ、イエスご自身が、主として、教師として、かしらとして立っておられることである。
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2・20)
集会のかしらはイエス・キリストであり、集まる群はただそのイエス・キリストがかかられた十字架の贖い、血潮によって救い出された、主に仕える僕(しもべ)であり、この僕(しもべ)の間にはいかなる差異もありません。従って私たちは聖書の教える神ご自身のご命令以外、いかなる人間的な組織や決まりも私たちを拘束するものではない。私たちが従うのはただイエス・キリストご自身だけである。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ロマ書13・1)
教会は主イエス・キリストがかしらであり礎であると同時に、ご自身のからだを教会とされ、集まる私たちをその肢体として表現されている。
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(1コリント12・12)
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15・4)
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4・4)
教会に私たちが連なるとは、私たちがキリストのみからだの一部分となり、主のご意志にすべてをおまかせすることを意味する。肢体なる私たちを支配するのはからだそのものであられるイエス・キリストである。(これが)神のお建てになった教会、神の住みたもう教会(の姿である)
(※この話は、ベック兄が1972年2月9日、約半年間のドイツ帰国・滞在の旅を終えて、日本に戻られた時、集会の方々に話されたものである。その帰国は決して宣教師の方々が骨休みにいただかれる、いわゆる賜暇休暇ではなかった。ベック兄はこの時すでに宣教団体から離れておられたからである。むしろドイツでもみことばのご奉仕をされたのでないかと私は推察している。これは当時その場にいてその話を筆録された方が書き残された手書きのものをもとに作成したものである。今、新たな思いで読む時、様々なことをみことばを通して深く教えられる。読者諸兄とともに考えながら味わいたい。)
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