だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。(マルコ2・22)
この箇所の青木さんの霊解はブログ子にはやや納得がいかないところがあるので(理由は末尾に記す)、能う限り、様々な方々の注釈を調べたが、以下のものがもっともふさわしいのではないかと考え転記する。(『聖書注解』キリスト者学生会発行1959年版 825頁)
福音の新局面に古いユダヤ教の慣習をあてはめることは、真新しい布ぎれを古い着物についだり、新しいぶどう酒を古くて固い、弾力性のない皮袋に入れるように不適当であり、結果において不幸である。これはまさに後のユダヤ教教師の誤りであった。パウロのガラテヤ書の論争はそこに向けられている。(例ガラテヤ4・9〜10)
これに対し。青木氏の霊解(『一日一文マルコ伝霊解』37頁)は以下のものである。
主はご自身の教えの新しくしてパリサイ人の思想の古いことを攻撃されたのだとのみ見るのは少し狭い見方であろう。もちろんそうにはちがいないが、たとえイエスの新しい教えを信ずる者でも2000年も過ぎた今日はまた古い思想だとの誹(そし)りを受けまいものでもない。私は思う。これはキリストを信ずる者の思想はつねに新鮮なものでなければならないことを主張したのであろう。
形式にとらわれる者は停滞するがゆえにつねに古い。心から湧き出でてくるものは、たといその形は古くともその質はつねに新しい。その質の新しいものは形式にとらわれない。むしろいつも新しい形を創造していく。キリストを信ずる者は神より賜る恵みがその心から日々湧き出てくるゆえに一日として陳套(ちんとう)の日はないというのであろう。
祈祷
一日として古きマナを貯えるのを許し賜わざる天の父よ。願わくはややもすれば陳套ならんとする私をあわれみくださって、日々あなたの新しい恵みを味わい、日々新しい世界を発見し、日々新しいいのちに歩ませてください。アーメン
以上が青木氏の霊解であるが、ブログ子が不満を覚えたのは、下線部の叙述は折角の青木氏の主のみことばに対する絶対的な信頼が、それを疑わせる表現になっていないかと恐れたところにある。もっとも祈祷のことばを読めば、そう目くじらを立てる必要もないのかもしれない。
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