2024年1月31日水曜日

McCall Barbour氏の生涯

 14年前にスコットランド・エジンバラの書店で一組のパンフレットを手渡された(※1)。必要あって今回翻訳してみた。タイムリーな文章であると思う。詳細は、のちに説明する。とりあえずそのパンフレットを今日と明日に分けて掲載する。先ずは前半部分の書店主McCall Barbour氏について述べた文章である。(原文はhttps://mccallbarbour.co.uk/about/ を参照されたし)

人となり

 ベンジャミン・マッコール・バーバーは1865年エジンバラの貧しい家庭に生まれた。今日、若い頃の彼の生活はほとんど知られていない。けれども1890年までにエジンバラの目抜通りの一つに、成功せる高級な文房具店を経営していた。

 その当時は電話はなかった。だからコミュニケーションは主に手紙や電報であった。仕事の上でも人々は急を要する答えが欲しかったので、何百人もの電報配達夫が雇われていた。彼らは街中を自転車で配達しまわった。当時は1日に六回郵便配達があった。それでコミュニケーションは取れ、十分だった。非常に熱心なクリスチャンだったマッコール・バーバーは電報配達夫である少年たちに大変な重荷を覚えていて、彼らが仕事の空いた時間にやって来ては、ゲームで遊ぶことが出来るように、地下に遊技場兼ミッションホールを開いた。彼は遊戯や遊びの外では直裁な福音メッセージを話した。それでたくさんの若者たちが主に導かれた。彼の宣教活動は電報配達夫に限られていなかった。彼はすぐに若者たちのすぐれた指導者となった。彼の信仰に満ちた説教は常に最も有効であった。

 その頃、宣教活動にとって、中国における主の働きにとっての恐ろしい事柄が起こり始めていた(※2)。そうした時、マッコール・バーバー氏はこの件についての一組のスライドを獲得して、礼拝の行われるいろんなところで語り始め、人々が神の召しを受けて宣教地に出て行くように祈ることを促すようになった。1895年主は彼に仰った。「あなたが行きなさい」それで彼は仕事を手放し、ささげたお金でもって献身し、七名の青年とともに訓練を受けにアメリカにある聖書カレッジに出かけた。半年経って、マッコール・バーバーに行くように召された主はエジンバラに戻るように話された。彼は答えた。「主よ、今私には仕事がありません、お金もありません」しかし、主は彼に先のことは主に信頼しなさいと話された。彼は従った。そして、残りの48年間の生涯、目に見える支援は受けなかったが、主が彼の必要を満たしてくださった。七人の青年は、アメリカに留まり、訓練を終え、福音という栄光あるメッセージを表すために世界の各地へと出て行った。

 マッコール・バーバー氏はエジンバラ市の中心にホールを確保し、その48年間、福音を伝え、みことばを教えた。約四百人の青年、数人の子女たちが彼の集会からフルタイムで主に仕えるために世界各地へと出て行った。彼が書簡として用いていたどの手紙の上部にも、彼の生涯の経験となった、ゼパニヤ書の三つの単語があった。

He faileth not.(※3)

そのメッセージ

 1900年、マッコール・バーバー氏は最初の小冊子を書き、出版した。その小冊子は彼が大変な重荷を抱いていた青少年向きにデザインされていた。その小さな始めから、その文書伝道は成長し、今日では大変広範囲に広がっている。

 この偉大な神の人の生活指針は箴言3章5〜6節であった。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」彼は歳をとった人にも若い人にも、どんなすぐれた忠告を与えることが出来たのだろうか。彼のメッセージは生き生きしており、救われる必要こそ重要であった。救いは罪の悔い改めとキリストの尊い血潮による洗いを求めることを通してのみであった。そして一度救われたら、神の子は日々死ぬことを学ぶ必要があった。自己に死に、古き性質に死ぬことが勝利の道であったし、常にそうである。この教えが彼の力強い宣教の要素となっており、ガラテヤ書2章20節の素晴らしいみことばを喜んだ。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」主イエス・キリストが生活の中に生きており、その生活を完全に支配している時、どんな祝福が続くのだろうか。勝利あるキリスト者は、主の働きを喜び、豊かにされることを学ぶのだ。パウロが1コリント15章58節で言っている通りだ。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」

 彼のメッセージのもう一つの幸せな面はテトス書2章13節に見出される。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むように」そう、マッコール・バーバー氏は救い主が再び来られるというニュースをしっかり握りしめていた。彼は長年にわたって一月に一回Prophetic Rallyを開催していた。第一次大戦中、彼は「今日かも知れない(Perhaps Today)」のタイトルで小さなカレンダーを発行し始めた。そして毎月違うメッセージを持つこのカレンダーは今も毎年発行されている。

 主イエス・キリストのそのしもべたちに対する最後の命令は「行きなさい」であった。そして長年にわたって毎月、マッコール・バーバー氏はMissiponary Rallyを開催した。たくさんの人や数人の子女が神の召しに従って、失われた人々を捜し求め、その人たちに救い主を指し示すために出て行った。母国における福音伝道と海外に対する宣教の働きが「イエス様が救い主だ!(Jesus Saves)」という栄光あるメッセージを運んでいるのだ。

 マッコール・バーバー氏は天国へ召される前の最後の数時間の間に、彼のそばにいた人々に言ったのは次の言葉だ。「福音を獲得せよ」それこそ確かなメッセージだ。そしてそれは依然として今日も真のメッセージなのだ。すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!(※4)

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※2 義和団事件に象徴されるように中国社会の反キリスト教の動きを指しているのでないかと想像する。
※3 ゼパニヤ書と言えば、「救いの勇士だ」が有名で、それに当たるかと思ったが、英文聖書で言葉を探したところ、欽定訳聖書のゼパニヤ書3章5節にあった。日本語訳で「主は不正を行わない。」がそれに該当する。そう、思って読み進めると、マッコール・バーバー氏の確信ある信仰がわかる気がする。

※4 この言葉が、昨日赤字で示した英語を翻訳したものである。

すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!
All have sinned, but the Lord Jesus can save!

2024年1月30日火曜日

地の極の開拓者(結)

寄せ合う絵 温もり伝う 冬画廊(※)
 今朝の東京新聞の「風来語」欄で、久しぶりに小出宣昭主筆の「三人称の命」と題するエッセーに接した。その中で「想像力」の大切さに触れて、能登半島震災に対する義援活動の活発さに期待し、一方でかつて「日本人は天性親切で、お互いよく助け合うが、それはたいてい、互いに知り合いである場合に限る」と見抜いた明治時代に来日したドイツ人医師ベルツの言葉も紹介していた。このような彼我の違いはどこから来るのであろうか。それはやはり「福音」が浸透しているかいないかにあると私は考えざるを得ない。以下『地の極の開拓者』の最終章「愛と忍耐との結ぶ実」(抜粋文章にせざるを得なかったのだが)を読み考え続けたい。

 ヘルンフートに移住した11人の人々はあたかもエルサレムに在りし11人の使徒らを思わしめる。『だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか』(ゼカリヤ4章10節)彼らが移住した5年後においてはわずか三百に過ぎぬ一群であった。10年後には正式にツィンツェンドルフ伯爵が群れの監督となったが、1760年にこの世を去るまで23年間彼らの良き指導者であり保護者であった。その指導力は実に記録以上のものがあった。彼は毎朝、日々の格言として新しい聖句を選び出したばかりでなく、数名宛の組を定めて、毎時間連続の祈りを続けさせたのである。兄弟たちは彼の死後もその指導者の精神を受け継いだ。ハルレにおける「芥子種」はヘルンフート における「ディアスポラ」にまで発展した。彼らの原則はその名のように「分散(ディアスポラ)」である。ヘルンフートの開拓後10年にして移住者600を数えたが、ドーバーが西インドに出発したのを始めとしてグリーンランド、ラプランド、アメリカ、アフリカなどにも移住を開始した。それが百五十年後には百三十の宣教基地と三百余名の宣教師と、その五倍に相当する支援者の群れを有するに至った。

 彼らの最初の教会としての団結は、宗教改革以前よりも存在していたが、それがツィンツェンドルフ伯爵の領地の中に新しくよみがえり、彼ら自らは「一致兄弟団」と称していた。彼らは何処へ行くともその単純なる信仰をもって一貫し、また主なる神からなる上よりのことに対する服従を固執したのである。しかしながら彼らはやかましい信仰箇条に縛られてはいなかった。ただ次のような言葉にすべてを言い表していたのである。
「根本的なことには一致、枝葉の問題には自由、しかし万事は愛をもって・・・」

そして、遠隔の地にあって奉仕した宣教師たちの精神について著者は「能力ある神の言」と題して、次のように述べている。

 第一は忍耐深く神を待ち望むしもべたちの信仰を神は嘉(よみ)し給うということである。宣教師の生涯は奉仕の生涯であり、献身の生涯である。神はあらゆる失望と、失敗と見える事柄を変えて、その善しとし給う時に祝福となし給う。

 第二は聖書がどんな異なった言語に翻訳せられたとしても、常に人類に対する神のメッセージを伝えているということである。聖書の中には救いに至らしめる神の能力が依然として存している。サリナム川の黒人から、北アメリカの森の中のインディアン、凍った海辺に住むエスキモーに至るまで、またアフリカ内部の迷信深い人々にまで世界のあらゆる国々の大衆に対して神の書物たる聖書は同じメッセージをもたらしているのである。神はその書を尊ばれる。

 神の使者たちは静かな深い信仰をもって、聖言が彼の幻を実現せしむべき大いなる日の黎明をもたらすことを確信して忍耐し期待しつつ戦っているのである。『見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどのおおぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立って、「小羊に栄光あれ」と大声で叫ぶ』(黙示録7章9節)日を待ちつつ。

 モラビアンの群れが宣教的教会として卓越せる秘密は、煎じ詰めれば次の三つである。
第一は宣教者的精神である。彼らは失われし世界に対する負債の福音的基礎に立ち、即決的服従(註:すぐ従うという意味であろう)の精神に満ち満ちていたのである。
第二は最も困難かつ、最も希望なき宣教地に向かって優先的に選出する開拓者精神である。
第三は神に是認される熱心である。モラヴィアンたちの生涯には世俗的野心はなかった。ただ救霊ーー感化主義にあらずーーこれが原則であった。信徒数の増加は直接的目標ではなかった。すなわち回心者の数を数えることよりも、数の中の質を重んじたのである。彼らが最も少数、かつ貧しい立場にありながら常に宣教事業の先鋒であり得たのは、その聖き生活と、不断の祈りと、喜んで与えることと、しもべである精神の涵養と、兄弟愛の実行のゆえであった。
 新しき使徒行伝の一章は、このような愛と忍耐の実をもって綴られたのである。

このようにしてこの『宣教物語 地の極の開拓者』は157頁の小編を閉じている。私はこの小編を読みながら、「地の極」とは確かにチベットの人々、一方酷寒の地に住むエスキモーの人々など実に様々な、私たちが普段接しえない人々、それこそ「三人称の命」(小出宣昭)に他ならない人々の生活を思うことが出来た。そして、創造主がその命を捨ててまで愛された愛の対象であったことを思えば、宣教師の方々が様々な労苦に耐えて命を捨ててまで福音を伝えられる姿に頭を下げざるを得なかった。すなわち、そこには誰もが踏み込まない地への「開拓」であることの困難さを知った。しかし、私の思いはそこにとどまらず、私自身が主なる神様にとって「地の極」「開拓」されるべき存在であることに思い至った。それこそ、まさに「起承転結」の私の「結」である。

All have sinned, but the Lord Jesus can save!(by McCall Barbour)

※先日、畏友谷口幸三郎さんの個展に伺って、撮影させていただいた作品の一つである。題名は「電車をみたあと」とあった。なお、赤字の英文については明日解説したい。『宣教物語 地の極の開拓者』は絶版で手に入らない。ただ国会図書館にはデジタル化されており会員手続きを取っておられる方ならインターネットで読むことができる。

2024年1月29日月曜日

地の極の開拓者(転)

チベット自治区(※)
 「起承転結」という言葉がある。「地の極の開拓者」はツィンツェンドルフ伯爵だけでなく、その伯爵の領地に信仰の自由・住まいを求めて移住して来た11人のモラヴィアの人々からなるヘルンフート村そのものが開拓者の嚆矢(こうし)であるから、さしずめそれが「起承転結」の「起」にあたるとして、初回の「ヘルンフートの夜回りの唄」では、その信仰を象徴する一つの習慣を紹介した。そして、それを受けての「承」として、二回目はツィンツェンドルフ伯爵の信仰の原点を説明したが、本来この順序は逆であるべきだった。すなわち「信仰の原点」こそツィンツェンドルフ伯爵と11人のモラヴィアンの人たちを結ぶ絆であり、そのあらわれがヘルンフート村の尊い「夜回りの唄」であったからである。記してお詫びしておきたい。

 さて、今回第三回目としては「転」として、ヘルンフート村から実際に海外宣教という働きがどのように展開していったかその実際を見たい。それはまさに第一回の「挿絵」として紹介させていただいた、『地の極の開拓者(海外伝道物語)』の表表紙・裏表紙として示されていた世界地図が示すとおりである。つまり、ヘルンフート(村建設の場面)→西インド諸島(手を伸ばし救いを求めている人)がその最初である。時は1732年であった。

 その後、グリーンランド(1733年)、北米インディアン(1735年)、サリナム(1735年)、ホッテントット(1737年)、アフリカの心臓部(1854年)、ラプラドル(1752年)、チベット(1853年)、ニカラグア(1849年)とその宣教はヘルンフートに居を構えるモラヴイアンの人たちによって進んで行った、このような相次ぐ『地の極の開拓者』の働きがこの本では10話ほどに分けて詳しく紹介されている。その中のほんの少しの部分であるが「辛苦の伝道旅行」と題するチベット伝道に関するエピソードを以下に紹介したい(『宣教物語(地の極の開拓者)』山崎鷲夫著137頁〜142頁の引用)

 ここに一人の何かを商うらしい人物がある。彼はチベット特有の服装をしていて、広い鍔のある帽子をかむり、えび茶色の手織りの長上着を着ている。手には杖を持ち、辛抱強げな馬のそばを静かに歩いている。行手は岩石重畳の道である。一方は稜線の鋭い険しい岩山であり、一方ははるか下方の流れまで切り落としたような断崖である。したがって馬の足取りが絶えず確かであるように不断の注意が必要であった。そうでなければつまずいたら最後、川の中に転落するばかりでなく、荷物もろとも大損害を被らねばならない。

 彼はどう見ても商人にしか見えぬ、彼の馬にはあらゆる品物が振り分けに積んである。小さな天幕のように見える大袋、折りたたんだ寝床の包み、馬糧のまぐさ、それに湯沸かしと鍋である。だからして季節的旅行者のように見える。しかし彼は商人ではない。羊毛やホウ砂や杏の買い出し人でもない。すなわち彼は神の国の業務に携わっているのである。彼は他の人々に語るべき何物かを持っており、そのために家を捨て、故郷を離れたといって過言ではない。彼はまた家族をも犠牲にしている。しかもなお彼は歩みつつ歌っているではないか。

 彼の心には神の恩寵が溢れていた。彼はキリストの中に救いを見出したのでその心には思念と理解以上の平和が保たれていた。このキリストを信じた平凡なチベット人は荷を積んだ馬を引っ張りながら放浪者のごとく福音を運搬している。彼は西の国の書物を持っているゆえに度々蔑視される。その書物は我らのものと型が全く異なっていて、非常に細長く、ルーズリーフの様式であり、とぢ金は赤と黄の木製のネジである。いかにもチベット人に喜ばれる書物の形であるが、その内容は福音、すなわちチベット語の聖書であった。

 この放浪者は道端で簡素な食事を料理し、大麦のパンや干し杏をかじり、乳油の茶を飲んだりする。道すがらどこかの村に入ると、先づ子供を道端に集め、その中に座り込んで絵巻物の一束を取り出すという段取りである。その中にはわずかなものしかないが、聴衆にとっては全く珍しいものばかり、九十九匹の羊を野に置いて一匹を尋ねにゆく善き牧羊者の話や、十字架上で死に給うた世の救い主の話など。そして罪深き世人を救うために死に給うた神の子の物語と生涯とがこの書物の中に記されているとて、やおらその袋を開いて聖書を見せるわけである。時に聴衆の中の誰かが「もっとその救い主について知りたいのですが、一つその本を下さい」と言う。こうして村から村へと巡回し、折よく通り合わせた旅人と話したりする。やがて袋は軽くなり、荷物がきれいさっぱりになると、身軽になって帰途につくのである。

 道すがら渡りたくとも狭くてろくろく横木もないような橋や、全然橋がなくなって徒渉せねばならぬ河、石がなだれ落ちるような断崖があった。また昼は炎熱灼くがごとく、夜は寒気肌を刺すような気候の激変があった。行く先々でも、伝道者が歓迎されない村があり、彼もその書物も排斥された。それでも彼はできるだけ忍耐して、単純な信頼の歌を唄いながら進んだ。そしてただ主の御命令を実行し、同胞の間に出るだけ忠実に証をなし得たことを意識しつつ家に帰り着いたのであった。

 チベットの国境からほど遠からぬレーの村に、小さな病院があった。人々は診療を求めて集まって来る。大抵は裸足の巡礼者で旅行病にかかっていた。ある者は盲目で、白内障を癒す道があると聞いて遠くからやって来たのである。これはモラヴィアンの病院である。受信者たちは必ずしも聖書の話を聞くことを無理強いされてはおらない。しかしチベット人の伝道者が待合室にいて、誰でも耳傾ける人のために話してやる準備がなされていた。

 ここには婦人の医者が働いているが、彼女の父親もかつてこの同じ病院の医師として在任していた。父を失った少女は一旦英国に帰ったが、学校や大学を終えると再びチベットに来て国境でその父の業を継いでいるのである。これこそモラヴィアンの伝統でなくて何であろう。宣教地への召命はその血の中に通っているのである。この若き婦人の医者は種々な企画に満ちていて、近くの村にも支部とも言うべき診療所を設けている。そして他の多くの同僚たちと共に、信仰と忍耐をもってやがてこのチベットの大秘境が福音に対して扉を開くに至ることを待っているのである。

 山を越え、谷に沿うて曲りくねって行く川道に、諸君は岩石の上に彫刻された仏教の聖語を見出すであろう。またそれと同じ言葉が、門柱や祈祷用輪軸や、風にはためく旗の上から諸君に挨拶するのを見るであろう。宣教師はかかる岩石でさえも、ブッダに対する無言の証を立てることが出来るのであるから、同様に主イエス・キリストをも証するであろうと言うことを考えてみた。そこで彼は岩石に福音の言葉を書くことを決意した。そして海抜3000メートルのキエラングの村外れで働きが始まったのである。平らな岩の上に型紙を置いてペンキや刷毛で文字を記すことは大して難しいことではない。

 巡礼者たちは苦しげに歩きながら、岩の上に刻まれた仏教の聖語と共に、『神は愛なり』あるいは『それ神はその生み給える独り子を賜うほどに世を愛し給えり』などの言葉を見、何を意味するかを考えて不思議に思うのである。よし彼らはこれを了解せずとも、また彼らに読むことが出来ずして単に文字や彫刻が珍しいものであるにしても、彼らは宣教師のところに尋ねに行くということである。

※この写真は、『秘境探訪(中国少数民族地帯を行く』と題して藍健二郎さんが写真集として出版されているものを、友人からいただいて、使わせていただいた。このところは見開き二頁にわたる写真で、どうしても折り目に当たる部分が邪魔になってきちんと反映されていず、作者には申し訳ない思いがする。この場所は下部に金沙江(チンシャー川)が流れており、その対岸がまさしく「西蔵」と赤字で岩石に書き記されているとおり、チベットであることがわかる。21世紀の今日においても秘境であるチベットに19世紀、閉ざされた扉を開けるかのようにモラヴィアンの人たちは福音を伝えに入っている。この時、モラヴィアンの人たちは西側から入っている。それに対して写真集を著された藍さんは東側から入っておられる。だから拝借させていただいた写真は上記本文に示されたチベットを反映したものではないことをご了承いただきたい。しかし、私には本文が示す最後の数行が心に響いた。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受けるものは、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(新約聖書 マルコの福音書16章15〜16節)

2024年1月27日土曜日

地の極の開拓者(承)

蝋梅と 名付く先人 豊けきか 
 睦月も早や数日になってしまった。この月、毎年、線路道に決まって蝋梅が花を咲かせてくれる。ありがたいことだ。蝋梅について、このブログではすでに七篇書かせていただいているが、私にとっては、その最たるものはやはり義母との思い出を述べたものである(※1)。それはともかく、「ろうばい」という呼び名、またその漢字は「蝋梅」と書く。名は体を表すと言うが、私はその妙味を痛切に感じる。

 一方、棘(いばら)にその思いを捉えられた人がいる。その人が「ツィンツェンドルフ伯爵」である。「棘の冠」と題する、前回の「夜番の唄」に連続する文章を転写する。

 モラヴィアからの落人たちが若いツィンツェンドルフ伯爵の領地にやって来たと言うことは、少なくとも伯爵にとって一つの運命の決定とも言うべきであろう。最初の行きがかりは主の御名(聖なる名)のために故郷を追い出された人々に対する寛容さ以外ではなかったのであるが。

 A.T.ピアソンが「モラヴィアンの使徒」と名付けたツィンツェンドルフ伯爵は、敬虔派の学校の校長であるフィリップ・スペンサーとその高弟フランケとにその霊的系図を受けているのである。彼の祖父はオーストリアの貴族であったが、キリストのために一切を投げ出した人であり、その感化によって祖母も伯母もこのような霊的訓練を重んじた。だから、このような環境の中で成長した彼は、わずか四歳で、その愛する救い主との契約を立てたということである。そして未だ見えない救い主と交わろうとして、神の臨在の前を歩む真からのキリスト者であった祖母が、常に近くにおられる主と物語っている姿にならって、子供らしい単純さから救い主イエスにひとくさりの手紙をしたため、主は必ず受け取って読んでくださると確信して居城の窓から投げたという、いじらしい物語が伝えられているほどである。

 十歳の時、ハレにあるフランケの学校の生徒であった頃、彼は「芥子だねの一粒」団と名乗る小さな祈祷グループを組織した。このような精神が、後日大いなる実を結ぶに至ったのである。

 また、その青年時代に、当時の慣習に従い家庭教師を伴ってヨーロッパ遍歴の旅に赴いた途中、いのちの力である生ける救い主ご自身に一切を捧げる厳粛な神の召命の経験をさせられた。

 それはデュッセルドルフのある美術館でのことであった。棘の冠を戴き給う受難の救い主の前に立ち止まって見入る彼の心に、天来の声が響いて来た。そして絵の前を立ち去る若き伯爵は変わって新しき人となった。その絵の傍に記された文字は次のように読まれた。
『我れ汝がためにこの凡てのことを為したり、汝我がために何を為ししや』(※2)
若き敬虔な貴公子はここにイエス・キリストの熱心なるしもべとなったのである。

 彼はその敬虔さを行為に表すべきであった。贖い主を知ったという衷(うち)なる喜悦(よろこび)は信仰の究極ではなくして、彼をして、主のために何事かを成さねばやまない源泉となさせしめたのである。

 この少数の落人たちが伯爵の領地に入り込んで来たということは、その後引き続いて逃れて来る人々にとって平和な場所であったばかりでなく、ツィンツェンドルフ伯爵にとってもまた、天与の機会であったのである。彼らが新しい村を建設しようとするその企てに彼が興味を持ったばかりでなく、やがて彼らの指導者またその真の首領となり、この小さい群れのみならず、神なくキリストなき、異邦人の広大なる世界を思い、彼らの魂の救いについて隠れた大役を受け持つに至ったのである。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post.html

※2 私はこの言葉が聖書のどこかにあるはずだと、一生懸命、文語訳聖書を探すのだが見つからなかった。駄目元という思いで就寝前、家内に何か思い当たることはないかと尋ねた。普段記憶の衰えている彼女は、その言わんとすることを汲み取り、一つの讃美歌を歌い出した。讃美歌332番(日々の歌113番)であったhttps://www.youtube.com/watch?v=N5GiKx6Eu6M。その歌の終わりは「われ何をなして 主にむくいし」であった。途端に、私は、2016年一年かかって訳出し、毎日せっせとブログに掲載していたハヴァガルに関する一つのエピソードを思い出した。そして大塚野百合さんの著書を引っ張り出して再読して、驚いた。ハヴァガルもまさしく同じ経験をしていたのだ。彼女もまた、同じ美術館で、しかも同じ絵を見て、棘(いばら)にその魂を震撼させられた人であった。そこには、ツィンツェンドルフ伯爵が18世紀に、ハヴァガルが19世紀とほぼ100年という時代の隔たりの違いはあったにせよ。そのところを『讃美歌・聖歌ものがたり』236頁より、引用して確かめてみる。

 (ハヴァガルは)ドイツのデュッセルドルフの美術館にシュタンバーグという画家の「エッケ・ホモ」(「この人を見よ」という意味のラテン語)という絵があり、その実物か、または複製を見て感動し、それを想起してこの歌を書いたという説があります。これは十字架にかかっているイエスの絵で、その周りにラテン語で「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のためになにをしたか」と記してあるそうです。彼女は、この町に留学していましたから、その絵を見たでしょうが、手記には、何もそれらしきことは記していません。彼女は、祈りの時、イエスが彼女に「私は、あなたのために命を捨てたが、あなたは、何を私のために捨てたのか?」と語りかけられるのを聞いて、この歌を書いたのでしょう。十字架にかかって命を捨てたもうたのが、まさに自分のためであったと信じて、その恵みに圧倒されていたのです。

 この歌を無価値のものと思った彼女は、これを暖炉にくべたのですが、たまたま風でそれが焼けずに戻って来たので、そのまましまっていました。それを読んだ彼女の父が、良い歌だと言ってくれたので、彼女はそれを保存する気になったそうです。彼女の魂に語りかけられたことを書きしるした歌を、世間に発表することは、彼女にとって、気恥ずかしいことでした。この歌を見ると、彼女の幸福の秘密は、イエスが命を捨てるほどに自分を愛しておられることを彼女が信じたことにあるようです。

 この讃美歌には、アメリカの19世紀の優れた讃美歌作曲者フィリップ・ブリスの曲が付されています。ブリスは、ハヴァガルのように、神に完全に献身した人間であり、そのことに最高の喜びを感じていた音楽家、また伝道者であったので、この歌の言葉に感激しながら曲を作ったはずです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/03/gospel-in-song_18.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/12/blog-post_27.html

神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章21節)

2024年1月25日木曜日

地の極の開拓者(起)

冬寒に みふみの光 心点(さ)す
 1月もすでに20日余りが過ぎ去った。私たちの耳目は今、能登半島の方々が舐めている悲惨な状況に集中させられているのではないか。しかし、悠遠な地球は、80億という人口を抱えながら、それぞれの人生に光や影を落としながら、前へ前へと進んでいく。現に、裏金疑惑、新幹線のストップ、豪雪と、問題は次から次へと発生していく。いつの間にか、ウクライナ、パレスチナの戦争でさえ、視野から遠ざからざるを得ない。もはや過ぎ去った過去を思うこともなく・・・。そんな時、私が過去の話にこだわるのもおかしいが以下書かせていただく。

 新年早々、私は一人の人物について書かせていただいた。「ツィンツェンドルフ伯爵」のことである。その際、私は「ツィンツェンドルフ伯爵」に関して過去所持していた一冊の本が年末確かに手元にあったはずなのだが、その後見られなくなった。何度探しても書架のどこにも見当たらないと嘆いていた。この20日間余りの間にも何度も書架を探すのだが、相変わらず見つからなかった。そして、もうそのことをそろそろ諦めていた。 

 ところが、その本が、昨晩全く想像もしないところから、すなわち書類の間に挟まって出て来た。題名も忘れ、その本の外観も説明できないもどかしさを持ったままでこの間、永久に忘れ去ってしまうところだったのに。

 早速、読んでみた。これは児童書でなく、数少ない当時の最先端の本であることに気づいた。明日以降、少しそのことについて書かせていただこうと思う。わずか157頁の本だが、先ずは、私の1月3日に書いた話が記憶違いで、私の作り話もいいところ(※1)だったので、その正しい内容を読者諸氏にお詫びのため、以下転写してみる。題して『夜番の唄』である(同書9頁より、聖句は引用者)。

 村(ヘルンフート)の建設に当たって彼らが試みた一つのことに、彼らの信仰的気風が窺われるのも面白い。もちろん浮浪人や迷い出た家畜のためや、火事やその他の損害を免れるためでもあり、また常に村人に神の臨在を想わせるために夜回り番が置かれたのであるが、初めの間は、一週間交代で、やがては専門にこれにあたる者ができた。夜番の者は提灯と杖を持って人々が眠っている時に次のような単純な歌を唄いながら時間を知らせて歩くのであった。

『八時が過ぎました、
 ヘルンフートよ黙思しなさい。
 ノアの方舟の八人は救われました、
(創世記7:13、1ペテロ3:20)

 九時になりました、
 兄弟たちよ、鐘の鳴るのを聞きなさい
 心も家も主の喜び給うよう清くしましょう、

 十時になりました、
 兄弟たちよ、時計の鳴るのを聞きなさい、
 キリストの御胸に安息いたしましょう、

 十一時が過ぎました、
 十一という時の間に
 主は我らを地上から天へと招き給います、

 兄弟たちよ、お聞きなさい、
 真夜中の時計が音立てています
 真夜中に我らの新郎(はなむこ)は来給います、
(1テサロニケ5:2〜11)

 一時が過ぎました、
 闇を超えて晨(あした)は近づき
 大いなる暁(あかつき)の星は我らの心に輝きます、
(2ペテロ1:19、ローマ13:12)

 二時です、二時です、
 我らの沈黙の時、主は待ち給います
 二つです、意志と理性は仲良しです、

 時は三時です、
 恩恵(めぐみ)深き三つは祝福です
 霊と心と肉体をもって主を賛美しましょう、

 四時になりました
 三つに一つ加えましょう
 主は第四時を恩寵の時となし給います、

 五時を時計が打っています、
 五人の処女(おとめ)は拒まれました
 別の五人はその時、婚宴の褒賞(ほうしょう)に与りました、
(マタイ25:1〜13)

 時計は六時です、
 私どもは仕事に出ねばなりません
 兄弟たちよ、救いの恩恵(めぐみ)を大切にしましょう」

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post.html

救いのかぶとをかぶり、また、御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(新約聖書 エペソ人への手紙6章17節)

2024年1月23日火曜日

叡智よ起これ!

冬枯れに 啄(ついば)む鳥と 会話する
 このところ欠かさず古利根川を散策している。散策する場所は他に見当たらない。もし、この川がなかったら、と思うと、ゾッとする。川上の遠くには日光の男体山も見られるはずだが、今冬はまだ一度も見たことがない。その代わり、すっかり馴染みになっているのが、鳥たちのそれぞれが、冬枯れの野原や水中で餌を啄んだり、魚を捕まえる姿である。

 上の画面では、奥に見えるむくどり一羽と四羽の鳩しか撮影できなかったが、実際は10数羽の鳥が仲良く餌を啄むのに懸命であった。彼らはどんな植物の実を食べているのだろうか、いつも尋ねてみるが、答えてくれない。私には不思議でならない。

 川中は相変わらず、群れなす鴨が占拠しており、総数は優に100羽を超えるのでないかと思う。その他にカイツブリが鴨と混じりながら、水中の魚を捕食するのであろう、水中深く潜り、次に顔を出すのは3、4メートル先の方だ。思わず、歩調をゆるめ、水中に目を凝らす。そのような時、私たちを尻目に見るかのように、どこからか「ゆりかもめ」が水面すれすれに飛んで来ては、目の前で空中ショーを見せてくれる。一方常に存在するのは白鷺だが、決まって一羽で孤高の王者のごとく闊歩する。しかし、その実、彼もまた水中の魚・餌をじっと見据えているのだ。

 この際、他の鳥の姿も見ておきたい。左は言うまでもなく、人々に忌み嫌われるカラスである。彼もまた、今は河岸に植った木の上から獲物を見つけるのに、余念がない。



 この鴨はまさに時ならぬ人(私)の闖入で、急いで河岸を離れていく姿である。 




 河岸では、桜の木々が、今はじっと耐えて、春の到来を待っている。そんな木々の上に、たくさんの小鳥が、その梢でせっせと、餌を得るべく大挙して群がっていた。




 こんな豊かな川の姿を目の前にしながら、今、断水に悩まされている能登半島の人々の苦しみを思うと心が痛む。鳥たちをふくめて、水あればこその生活体系の中で私たちは、生かされているに過ぎない。水とその配給に人間の叡智がこれまで傾けられてきた尊い財産がある。その叡智は最後は政治を通して現実に私たちのものとなることを、今私たちは学ばされているのでないか。目の前の水を水道へと導く施策が、確実に実行されるように望みたい。

天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。(旧約聖書 イザヤ書45章8節)

2024年1月21日日曜日

朋あり遠方より来たる


  先週の金曜日、上京して来た大学の友人と会うので、新宿ワシントンホテルに出かけた。11年前にもその友人をふくめ、四人で信州を旅したことがある(※1)。その時はほぼ半世紀ぶりの再会だったから、懐かしかったが、今回は会うこと自身にはそんなに前回ほどの新鮮さは覚えていなかった。ただその友人がここ二、三年にかけて年賀状に「吉田さんに渡したい本がある」と書き始め、昨年からその本がかつて教わりはしなかったが、大学の先生であった白杉さんの著作だと言って来た。内心、「絶対主義論」などの歴史関係の本なら是非拝見したいものだと思っていた。
※1https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/05/blog-post_25.html

 それにしてもこちらも手土産を用意しなければならないと思うのだが、あまりこれと言ったものも思いつかないまま、和菓子を少しと、本ブログで展開している私の「証」(※2)をプリントアウトしたものなど数編を用意して、約束の時間、12時に間に合うようにと家を出た。あらかじめホテルの位置はネットで確かめて家を出たはずだった。
※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

 ところが新宿駅に久しぶりに降りてみて、西口、東口もわからず、人波の中を歩き始めなければならなかった。しかも目の前には巨大な建造物が次々に立ち現れるが、一体そのビルが何というビルか名前がわからない。たちまち「東京はこわい」と思わざるを得なかった。何日か前に、谷口幸三郎氏の個展鑑賞の折には「東京はすごい」と感嘆していたばかりの私だったのに。

 結局辿り着くのに2、30分ほど要し、約束の時間を7、8分過ぎてしまった。お互いに会うなり、双方の口から思わず出て来たのは、期せずして「田舎者だから」という言葉だった。彼は山口県の防府から大学のワンゲルの同窓会に出席するため上京したのであったが、首都圏の一角とは言え、今や映画『翔んで埼玉』の一つである春日部市から新宿に降り立ったのが私だったからである。

 あちらこちら彷徨ったおかげで、ホテルを見つけるまで都庁舎を目の前にした徒歩行となった。東京都庁の巨大な建物を見上げては、都知事の持つ巨大な権力をも同時に覚えざるを得なかった。そうして自己弁解するが如く、思わず口をついて出て来たのは「田舎者だから」という言葉だった。

 同じく「田舎者」だと告白して憚らない友人は、山口から後生大事に携えてきた二冊の本を私に差し出した。大学を出て57年経つが、その友人曰く「あなたは私にこの本を譲れ」と当時言ったが、その時自分は断り、譲らなかった。そして、今日まで書棚に置いていた。しかしこの近年「私の書棚より、あなたにお譲りした方が、あなたも喜ぶだろう」と思って、上京ついでに持参したということだった。そんな事を彼に強いていたとは、すっかり忘れていた(※3)。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_16.html

 たちまち二人は60年近い前の互いの交友状態に戻り、現代日本の世相を語り合わざるを得なかった。話はもっぱら彼が中心で、私はむしろ聞き役だった。あとで、某代議士の秘書生活を20年弱過ごしてきた彼に「裏金疑惑」に関する考えを聞くべきだったと思ったが、時すでに遅しであった。ネットや携帯でのメールのやりとりよりも、自分はこのような一対一の人間同士の会話こそ大切だと思っていると、今も迂遠な読書人生活を続けている彼は、「田舎者」と自称しつつ、地方での責任ある「名望家」の政治に信頼を置いているのではないだろうかと思わされた。

 が、別れ際、「何よりも吉田さんが元気でよかった」と言った。その彼の気持ちは二冊の本を譲る彼の思いであったことに今にして思い至る。いい友を与えられていたのだと改めて思わされた。二冊の本とは、一つが『価値の理論』(1955年刊行)、二つが『独占理論と地代法則』(1963年刊行)で、いずれもミネルヴァ書房から出された、当時52歳の若さで亡くなった白杉庄一郎博士のかつての名著であった。そして、これらの本ならすでに在学中に苦労して手にしており、その後、用済みで処分し、今は、私の書棚からはいち早く姿を消した過去の本であった。だから、それらの二著は決して私の期待していたものではなかったが、彼のその友情を記念すべき本なので、ありがたく受け取って帰って来た。

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(旧約聖書 箴言18章24節)

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(旧約聖書 箴言27章17節)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(新約聖書 ヨハネの福音書15章13節)

2024年1月15日月曜日

冬本番

烈風に 頭(かしら)揃える 鴨の群れ
 80数羽の鴨が一団となって北風をものともせず、「ピヒョーピヒョー」と、あの特徴ある喊声のもと移動する姿は偉観である。北風は、この画面で言うと左から右方向になるし、同時に水の流れは左(上流側)から右(下流側)なので、二つの流れに逆らっての一同による「進軍(?)」である。堤上には、寒風吹き荒ぶ中、散歩する人も余り見かけなかった。空は青く、日は照っているものの、川岸は容赦なく吹きつける風にさらされるばかりであったからであろう。その余りにもの、風の強さ・冷たさに、こちらも、早々に、尻尾を巻いて退散せざるを得なかった。辛うじて彼らの動きをカメラに数枚収めるのがやっとだった。それに比べて、鴨をはじめとして、このようにして越冬する小鳥・野鳥の雄々しさには改めて感服する。

 さて、この鴨の生態に関する聖書の言葉は何かないかと探したが、なかった。その代わり、次のようなみことばを見つけた。「いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く」(旧約聖書 箴言30章27節)そしてそれに関連するみことばを探索したら、次のようなみことばに思い当たった。

シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者はわななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。・・・主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。・・・しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。(旧約聖書 ヨエル書2章1節、11節、32節) 

 鴨の一隊が「ピヒョーピヒョー」の喊声のもと一糸乱れずつき従って行く姿は今も目に鮮やかである。我もまた、主の声を聞き分ける者でありたい。

2024年1月13日土曜日

生きんがためのたたかい

こあかげら 枯れ木つついて 脇目なし 
 今日は思わぬ拾い物をした。それにしても、寒さしきりのこの日、古利根川はさしずめ野鳥たちの天下の感がした。いつも居場所を占領している鴨やカイツブリの縄張りは、上流から飛来した「ゆりかもめ」の八羽ほどに川中にしっかりと場所を占められ、別の川縁へと移動していた。一方、堤上では鳩やむくどりや雀たちが餌採取に余念がなかった。人は、と見ると、寒さも寒しなのだろう、釣り人は四名を数えるのみであった。

 ところが、いつもの散歩コースも、終わりに差し掛かった時、同行者が目敏く、道端の潅木の枯れ木に留まって盛んに動いている一羽の鳥の存在に気づいた。最初、私はどうせ雀じゃないかと高を括っていた。同行者はそれでも執拗にそばに近寄って手招きするのだった。近づいてみると中々動きの早い、小鳥であった。私たちが近づいたからと言って、逃げるでもない。しかし、この鳥は枯れ木をただつつくばかりで、それも下から上へと、下がってはまた上へ上がるなど足繁くその運動を繰り返し、動きに余念がない。こちらはその姿態を、iPhoneでとらえるべく懸命に追った。その写真の中の一枚が冒頭の写真である。

 なりは小さいが、木ばかりつついている。あとで知ったのだが、キツツキの一種だった。そしてその実際を目の当たりにできたのは幸いだった。そう言えば、二年ほど前に「ルリビタキ」をやはり岸辺の繁みのうちに望見できたことがあった。この時は、その余りにもの羽毛の美しさを目のあたりにして、儲け物をした思いがした。それ以来だ。

 それにしても、家に帰って、その鳥を調べるに際して我が唇から「アカゲラ」と言う呼び名が勝手に出て来たのには驚いた。手許の『野鳥観察図鑑』の、何と「アカゲラ」の隣に「こあかげら」が載っていて、まさしくそうだったからだ。

 日々厳しい寒さの中で川のうちにある豊かな糧を求めて小鳥たちは今日も餌を求めて集まってきては、飛び交い、あるいは泳いでいる。その上、川内には気づかないだけで、これまたたくさんの魚が餌を求めて泳いでいるのだ。左の写真は、川内にいる「ゆりかもめ」を撮影しようとして近づいたところ、岸辺にたむろしていた鴨が慌てて一斉に飛び散って行ったところである。

 まさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるはなし。」だ。悠久な自然界はかくしてとうとうと流れ来る。

 それにしても、震災のため集落全体が移動しなければ生活できないという今の能登半島の人々の実態は、小鳥たちの生態から見たらどのように映るのだろうか。大きな自然界の一コマと言っていていいのだろうか。人間には鳥と違って、それを解決する手段が神様からゆだねられている。

 年初来、東京新聞の『本音のコラム』の有識者の諸氏の言葉はそのような言葉で満ちている。「人間が起こす戦争は人間が防ぐこともできる。防げる戦争への準備でなく、防げない天災への対策にこそ税金は使うべきなのだ」(前川喜平1/7)「最低限の随行人数で現地の悲鳴を最大限受け止めてきてよね、首相なら。」(斎藤美奈子1/10)「防災を国政の柱の一つにする政府がほしい」(三木義一1/11)そして、『時代を読む』欄(1/7)では宇野重規氏が当番論者で最後に「人の命の重みと安全、そして人と人とが支え合うべきことを痛感させられた念頭に当たって、闇を突き進む決意をしたい」と述べている。それぞれ含蓄のある言葉だ。

 週刊新潮1/18号の『夏裘冬扇』で片山杜秀氏が過去の日本歴史における大地震の年代とその間隔、またその時代における被害とそれに対応した王朝の態度を振り返りながら、「もしも似たペースなら、南海トラフのX年も占える。北陸の現実を見よ!国土強靭化とは何だったのでしょう。」と無策であってはいけないと憂慮を示していた。

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ書8章7節)

2024年1月11日木曜日

幸三郎さんの作品の鑑賞

冬寒に 人の暖(談)見つ 兄弟
 東京はやはりすごいところだ。漱石の「三四郎」の中に、三四郎が熊本の母からの便りに辟易しながらもありがたがっているふうなのだが、夜遅くまで返事を書いている場面がある。その終わりに「東京はあまりおもしろい所ではない」と書いた、とあった。作品中の中頃の場面だから、その後三四郎がどう思ったかわからない。

 このように書いてみたのは、昨日谷口幸三郎氏の「家族の風景」と題する個展(※)に出かけたことによる。同氏の作品はそのアトリエを知っているし、自転車で走れば、10数分のところにある。だからいとも簡単にその作品に接することができる。ところが、「個展」となると別だ。東京に限る。何しろ東京は人が集まる。だから、個展は個展でも同時に人が集まり互いに交わる世界を提供してくれるやはり不思議な空間なのである。それは東京ならでは得られない。だから、悔しいが東京はすごい。※https://sukiwa.net/

 この個展で私はいとこの義妹夫妻と一緒に鑑賞した。展覧会というのは中々楽しいものだ。作品もさることながら、鑑賞者お一人お一人の気持ちが、その展覧会場の空気を支配するからである。私が行った時は、3、4組の方がお見えになっており、どなたも作品を鑑賞する喜びに満たされておられたように見えた。作者である幸三郎さんも、夫人である晶子さんと一緒に接待に応じておられた。思わず、「三四郎」の中で丹青会の展覧会に原口の作品を美禰子に誘われて三四郎が出かけて行く展覧会場での場面を想起した。互いに見知らぬ者同士が作者を知って(慕って)集まってくる独特の空間を漱石ならではの筆致で描写している(同書294頁以下)。

 初めて幸三郎さんの個展に接したのは、もうかれこれ30年ほど前にはなろうか。お茶の水画廊が最初だった。その頃初めて幸三郎さんとは主にある兄弟(主イエス様を信ずる信仰を通して神の子どうしである兄弟)として知り合いにになったばかりであった。いとこや職場の同僚を誘って行ったこともある。その画廊が閉じられ、この近年は西荻の「数寄和」が中心である。ところが、西荻はいとこや我が長男も住まい、知人も何人か住んでおられるところだ。これは私にとって東京ではあるが不思議な特別なところである。

 冒頭掲げたのは会場の絵では唯一写実的なデッサン絵と言っていいのだろうか、ジャンルを知らないが、私が最も気に入った作品である。鉛筆というべきか、細かい線描に幸三郎さんの繊細な神経がうかがわれ嬉しくなった。いや羨ましくなった。モデルは二人の息子さん、幸平さん、遼平さんである。確か1999年と表示があったから、四半世紀前の作品である。


 何年か前から幸三郎さんは絵以外に陶器の作品に手を伸ばされるようになった。それは立教女学院短大の先生や附属天使園のお仕事をなさった頃と並行しているのだろうか。絵とはまた肌合いの違った暖かい感触を持った作品の数々である。ライフラインを寸断され、水、電気に事欠き生命の危機にさらされている能登半島の震災被災者の方々が一日も早く平常の生活に復帰でき、能登半島の様々な文化遺産を維持され、このような空間をゆとりを持って味わわれる日が来るようにと祈らざるを得ない。

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから、実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を行ってその後影を見送った。(『三四郎』303頁、「野々宮」は確か寺田寅彦がモデルだったと記憶しているが・・・)
 我が漱石は中々の絵画愛好家でなかったのでなかろうか。さしずめ、私は作者の気韻を下記のみことばだと思った。読者はいかが読み取られるだろうか?

安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(新約聖書 ヘブル人への手紙4章9〜10節)

2024年1月9日火曜日

我がパソコン人生

鴨の群れ 一つに成りて 冬越ゆる
   昨年末、ノートパソコンが壊れた。人生最後のパソコンと死ぬまで、これで終われれば良いと密かに期するところがあった。早速、主治医ならぬ、我がパソコンのエキスパート・保護者の支援を仰いだ。長男、次男、三男のそれぞれ頼もしい面々である。遠くパリにいる次男もLINEで意見してくれた。最後の頼みの綱は、普段仕事で使い切っているであろう三男であったが、敢なくも、「駄目だ」と宣告された。万事休すである。

 私のパソコンはこれで五代目である。一番最初は長女が1996、7年ごろ誕生祝いにプレゼントしてくれたiMacであった。我が家庭にiMacが運び込まれた時は、かつてのテレビ時代の黎明期を思わせる喜びぶりだった。私は、ひょんなことに1967年商業高校での初任の時、会計や商業法規や商品という科目とともに英文タイプの科目を持たせられた。それまでこのような前頭葉を使わず側頭葉をのみ働かせるタイプ打ちは良くないと主張していた「数学者岡潔」の信奉者であり、専門学校ならともかく、高校教育がやるべきでないと考えていて気の進まぬ授業であった。しかし、教師である限り、そんなことは言っておれぬ、やむを得ず、自らも練習に励んだ。その後、1970年代、80年代とワープロは事務機の主流の一つとなった。こうしたお陰で、私は同年輩のアナログ世代を尻目にデジタル社会に一早く雄飛する準備が出来ていた。

 残念ながらそのiMacは3、4年で使えなくなった。同時に職場ではどうしてもWindowsが主であったので、苦労したが、次男の勧めもあり、ソニーのVAIOを購入し、定年までこの機種で過ごした。ところが、この頃であろうか、今度は次女がMack Book Airをプレゼントしてくれた。Windowsのバージョン変更の動きもあり、この久しぶりのMacで潜り抜けることができた。しかし、この機種も数年足らずで充電機能が働かずダウンしてしまった。再び次女が今度はMac Bookを買ってくれた。これが年末使えなくなった、私にとって五代目のパソコンになる。かれこれ都合7、8年ほど使ったのだろうか。

Mac二台に久米律子さんのGrace3
 こうして我がパソコン人生は終焉を迎えつつある。今、打っているパソコンはやはりMacだがデスクトップ型であり、私のパソコン人生にとっての初代にあたるiMac以来のデスクトップ型である。これはこれで三男の深い配慮で使わせていただいている。だから、これをカウントするなら、六代目となる。ノートパソコンの使い勝手はないが、部屋の衣替えをして初代のIMacの位置に設置した。

 Net社会にいち早く馴染まされたのは、長男であり、次々、五人の子供たちは、その後に続き、Net社会に捕まえられ、泳ぎ切っている。遠くパリに20年の長きを数える滞在が許されているのも、まあ言うなればNet社会、グローバル社会の特徴であろう。一人、我が連れ合いはNet社会に乗り損ね、今もアナログ社会を満喫しており、家族にあって大切なその証人となっていてくれる。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(旧約聖書 伝道者3章1〜2節)

2024年1月7日日曜日

メモリアル・トレインの「暖」

北風に 記念トレイン 暖運ぶ
 昨年の11月、東武野田線の古利根川の鉄橋の側で、何人かの人たちがカメラを向け、待ち構えていた。どんな電車が来るのかと思っていたら、朱色の車体の電車だった。青い空や常緑樹の緑などを背景に色鮮やかな印象が残った。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/11/blog-post.htmlその電車に今朝は偶然乗り合わせた。傘寿を過ぎたと言うのに、年甲斐もなく、興奮して手ぐすね引いて、iphoneで4枚ほど撮った。

 乗ってみて驚いた。車内には、かつての東武電車の車体などが、霊験あらたかの如く、写真となって、いつもは広告板と利用されているところに、所狭しと何枚も一斉に展示されていたからだ。左に掲げたのは、その意義を述べた文章の一つである。乗車時間は春日部・岩槻間のわずか10分足らずだったが、その電車はメモリアルトレインで後尾車両のお尻に当たるところに「東武鉄道杯少年野球大会」と銘打っていた。始めて昨年、人々が写真を撮りに集まって来る理由がわかった。東武鉄道が、車両開発を記念して、いつもはその路線では走っていない車両をこうして走らせているのだ、と。

 こうして着いた岩槻駅駅前のワッツコミセンのお借りしている多目的ルームで、今年初の礼拝を持った。いつもどおり、賛美と聖書の朗読と祈りを、示された者がするという自由なスタイルである。事前の打ち合わせは一切ない。一年52週、愚直に各人が御霊に示されたまま参加している。牧師のいない私たちの集会は、まさにここ数日連載したモラビアン兄弟団が志向した「ユニクス・フラトルム(兄弟の教会)」である。

 その最後にささげられた、聖書朗読の箇所と祈りには嬉しくさせられ、主の御名を崇めざるを得なかった。それは昨晩、家庭で輪読し、そのことについて書かれているF.B.マイヤーの「きょうの力」を読んだ以下の霊想に通ずるものがあったからである。

私たちが神によりたのまないのは、神を知らないからです。もしも、神の神たることを知ったならば、どうして神によりたのまないことがありましょうか。人はよく自分の信仰の小さいことを嘆きます。その原因は神を知ることの少なさにあります。あるいは私たちは神については知っているかもしれません。けれども、神ご自身を知らないのではありませんか。人々が神について語っていることは多く聞きます。けれども、自分自身で、直接に、人格的に、神ご自身を知らないのです。

神を知る材料は至る所にあります。自然にも、聖書にも、また諸聖徒の模範にも。そして、何よりも、「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう」という、主ご自身の論理を突きつめて考えてください(マタイ7・9、10)。ちょっと知っただけでは、友人を知ることはできません。神はなおさらです。もっとゆっくり、もっと深く、もっと親しく、顔をあわせて、神ご自身を知りましょう。

 このようにF.B.マイヤーが書き記した(『きょうの力』328頁)のは、下段にお示しする聖句だった。そして、先ほどの最後の方というのは、お年を召してから、主の救いにあずかられた元国鉄マンであったが、その方が読まれたのも同じ聖句をふくんだものであった。顧みると、礼拝に参加するために、寒風の中「暖を運ぶトレイン」に乗車した私は、礼拝においては、その元国鉄マンの方の祈りに励まされ、心の中に「暖」をいただいたと言える。記念にその聖句を記す。

御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね呼び求める者をお見捨てになりませんでした。(旧約聖書 詩篇9篇10節)

2024年1月6日土曜日

ツィンツェンドルフ伯爵(補遺編)

白鳩と 小春日和を 分かち合う
「ツィンツェンドルフ伯」と題して過去三日間、長々と書いてきましたが、モラビアン・ミッションの成り立ちについて、海老澤氏がそのヘルンフートの故地を訪ねて、帰国後書かれたレポートをこの機会に転写します。(『海外伝道物語』5〜12頁より※。)

神の国のために

 今しもデンマークの国中、歓喜にあふれて、会堂の鐘は鳴り響くのであった。

 それは若いスエーデンの王チャールズ第十二世の凶暴な手より逃れ、彼の軍隊はデンマークから撤退して平和が回復されたからである。

 デ・デアムの聖歌の声はすべての会堂から洩れてくる。この日デンマーク王フレデリック第四世は、深い感激をもって会堂から出てきた。彼の心の中に、不思議にも、神の恵みを、この本国の臣民ばかりでなく、海外の属領、そこには白人を牧する牧者もなく、ましてや異邦人の魂に心を用うる何者もまだおらない所の海外に、福音の伝うべき責任のあることを、ささやいてやまぬものがあった。彼はすぐに宮廷牧師を召してその心中を打ち明けた。

 先ず最初に宣教師をインドへ送らなければならぬ。「それはデンマーク国家のための事業でなくして、神の国のためであらねばならぬ」と彼は言い、宮廷牧師にその宣教師の推薦を命ぜられた。

 宮廷牧師は考えてもみたが、どうもデンマーク人中にその適任者の心当たりがなかった。それで当時ドイツにおいて、キリストのために特殊な献身の覚悟をなした一団の者を率いて、ドイツルーテル教会に新生命をそそぎつつあったスピネルという人に手紙を認めたのであった。

 その一団とは世に「敬虔派」と呼ばるるところのものであり、敬虔派とは、神の聖言(みことば)を研究し、そのごとく生活せんとする主意によって結成された一団であった。そこでスピネルはその一団の中から、特に青年チーゲンバルグを選んで、海外伝道の準備のために、彼をハレ大学へ送った。

 当時ハレ大学にはオーガスト・ヘルマン・フランケがおった。彼は教授であると共に、一大孤児院の創立者であり、貴族の子弟を収容する学校の校長であり、その大学、その町で、有数な人物であった。彼は海外伝道の熱心家であって、その頃支那伝道のことをしきりに考えていたのである。

 前途有望の青年チーゲンバルグは、フランケ教授の下に、異邦人の使徒となるべき準備をなした。

 そしてその親友ブルツチャツと二人は、1705年10月に、コペンハーゲンへ往って、フレデリック第四世に謁見した。その後インドへ出かけて往き、この王および英国の友人らの後援の下に、インドに新教のミッションを開設したのである。

 これは、我がモラビアン教派の運動の先駆と言ってよい、これからツィンツェンドルフ伯爵の活躍する舞台が展開してくるからである。
           ☆
 10年の後、休養のため、インドの宣教師チーゲンバルグがドイツに帰国した。彼はインド人の信者二人を同伴して帰った。そしてその一人は将来伝道する目的で、教育を受くることとなった。

 ハレにおけるフランケ教授の家で、この珍しい宣教師に逢い、その話を聞いた者の中に、熱信な青年貴族、我がツィンツェンドルフ伯爵がおったのである。伯爵は当時同大学に学び、その学生間に、すでに「芥種(からしだね)の会」というのを組織していた。その会の目的はユダヤ人を始めすべての異邦人を教化するというのにあった。そのような心がけで、今海外から戻った宣教師の話を聞きその生きた証し人たるインド人を見て、伯爵はどのように激励されたであろうか。若い貴族の信仰の血は燃えた。

 そして伯爵はその親友の一人、フレデリック・ホン・ワッテビルと契って、何れの時か、神様が選び給う宣教師を用いて、他の何人も伝道しない地方に、福音を伝えるミッションを開始しようと決心していた。少年は成人した。神は時至って彼らにその働き手を与え給うのであった。

兄弟教会の人々

 三十年戦争によって打撃を受けて離散したユニクス・フラトルム(兄弟の教会)の残党が、その頃まだ、モラビヤの地方に彷徨(さまよ)うて、その信仰と実行を継続していた、彼方此方にその尊い信仰と伝統とを持っている家々があったが、次から次とこれを訪ねまわっていた一人の篤志家があった。その名をクリスチャン・ダビッドと呼ぶ。

 彼はかつてローマ・カトリック教の熱心家で、ほとんど狂熱的であったが、のち漸くその良心に不安を覚え、信仰の自由を求めて彼方此方を流浪していた。ローマ・カトリック教会の圧制の下に、聖書を読もうとしても、秘密にして持っていなければならず、その上、信仰上の光を求めても誰一人導いてくれる者のない当時において、ダビッドは自身の宗教経験から、かかる人々の助け手となっていた。彼らの間には、何とかして自由の天地に信仰を楽しみ、良心の満足する宗教生活をしてみたいという熱望が、自然に湧いてきたのも無理のないことである。

ツィンツェンドルフ伯爵の保護

 「ツィンツェンドルフ伯爵の領地内にその安住の地が求められよう」というニュースは、彼ら同信の友には、実に神様からの恵みの音づれと響いた。当時ツィンツェンドルフ伯爵はすでに二十二歳の青年で漸く丁年に達して、伯爵と同様に神の国の事業に熱心な美しい夫人と、結婚するばかりになっていた頃であった。斯くてモラビアンの一小団、大人五人小児五人の一行が、身に一物も持たずに、夜陰に乗じて、住み慣れた今のチエコスロバキヤの地方を逃れ出て、ダビッドに導かれつつ、約束の地を目ざし、寂しい森の中を辿って、旅を続けた。ただ信仰自由の境地が、南ドイツの彼方に見出されるであろうという望みをもって・・・

 彼らは、斯くてサクソニーの一小邑ヘンネルスドルフへ辿り着いた。そこには伯爵の祖母の住み家があって、伯爵の幼年時代を過ごした村である。そこで伯爵の家庭教師はこの亡命客の一行を熱心に親切に世話してくれたのであった。 

 彼は、一行に、今のラバウとチッタウとの間の道路に沿った地をあてがった。それは一行の中の二人が鍛冶屋の経験をもっているので、この地方の道路が悪いために、車の輪が多く破損するから、この辺に落ちついたならば、仕事にありつき得るであろうという予想からであったという。

 彼はまた一行が木を伐って家を建つべき地点までも指し示してくれた。そこでダビッドはその斧を木の根に打ち込みながら、感謝と感激とにあふれて
   「まことや雀はやどりを得
        燕(つばくらめ)はその雛(ひな)を入るる巣を得たり」
と歌いつつ、働いたということである。それは1722年の6月17日のことであったと、その地点に建てられた記念碑に刻まれてある。

 ツィンツェンドルフ伯爵の教師は、この森の中に、泉を中心として、一つの広場を設け、市街を建設すべき考案を描いていた。けれどもそうするうちに冬が来て、ただ漸く淋しい森の中の路傍に、最初の一軒ができただけであった(この最初の家はその後火を失して半ば焼けたが、残された材木をもって、ツィンツェンドルフ伯爵の肖像を納める額縁が造られ、私も記念のためにその小さいのを一つ求めて帰った)。

 ある日のたそがれ時であった。若い夫人と馬車を駆って、その家路についたツィンツェンドルフ伯爵は、森の木立の間から、洩れ来る光に目をとめた。馭者に聞いて見ると、あれが信仰のために遁れて来た人たちの家であるという、伯爵は馬車から下りてその家を訪づれ、親しく歓迎の意を表せられた。伯爵がまことに愛と信仰とに満ちた好個のキリスト者であったことは、こうしたことによっても窺われる。

 彼の領地に定住することとなったのであるから、事実上彼の家臣である。けれども伯爵が彼らと共に跪(ひざまず)いて、彼らとその家とを祝福するよう神に祈られた時、主従の関係などというものは少しも感ぜられなかった、これがヘルンフートの小邑の始めであり、モラビアン・ミッションの起源をなす出来事であった。

ツィンツェンドルフ伯爵の指導

 その後もツィンツェンドルフ伯爵は、ただに保護者であったばかりでなく、その信仰、人格において終わりまで一団の指導者であった。彼は自ら毎回司会をして多くの歌を歌わせ、礼拝を守る習慣をつくった。また最初より兄弟主義をもって一団を律し、単純質朴をもって教会の風とした。今もなお婦人は教会に出席する時は、必ずレースの白頭巾をかぶり男女席を別にしている。昔は婦人たちが皆同じ質素な制服を着ていたというが、今は服装は色々である、そしてそのキャップを結ぶリボンの色によって、寡婦は白、夫人は緑、娘はピンク、少女は紅というように区別されている。後に宣教師を海外に派遣するようになった時には、その伝道地を、他の教団の手をつけぬ最も困難な地方、西インド、グリーンランド、ラプラドル、北米土人、南ア、ヒマラヤなどを選んだ。また伯爵自身西インドまで伝道視察に赴かれた記録をも見出されるのである。

 伯爵はまた教会のためにその領土中半径三マイルの一円の山地を与え、永くミッション事業を継続せしめた。従来その収入をもって伝道事業上に多くの便宜を得ていたが、大戦以後はサクソン州庁に貸与しているその土地から得るところは極めて少なく、ために事業上頗る困難を感じているという。それにしてもかかる篤信の領主の下に、一団の特殊な信仰団体が発展し来たって、全世界の伝道を企てつつあるのみならず、その感化はアングロ・サクソンの伝道熱心に点火し、殊にウェスレーを通じて全世界一千万の会員を有するメソジスト教会の運動を巻き起こさしめたことは驚くべき感化力と言わねばならぬ。

※ 以上、「モラビアン・ミッションの起源」と題する海老澤氏の論考でした。なお、同書は国会図書館内でデジタル化されています。全文は74頁の小冊子ですので、すぐ読めると思います。興味のある方はそちらの方もご覧になられてみてはいかがでしょうか。参考のためにサイトを記入しておきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000646738

彼(ノア)は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。(旧約聖書 創世記8章8〜12節) 

2024年1月5日金曜日

ツィンツェンドルフ伯(下)

鴨の群れ 同方向に 泳ぐ冬(※1)  24.1.4

 さて、新しく発見したもう一つのことですが、それは、海老澤亮さんの本『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』と一緒に、他の20数冊の本やノート(※2)と一緒に無造作にしまいこんでいた『主の山上の説教』という三冊本とノートにまつわることです。

 この本も、随分以前にいつか必要な時が来れば、読もうと思ってはいたが、結局読まず、今や捨て本近い扱いを受けて、ホコリをかぶっていたものです。ただ『主の山上の説教』という本の著者がジョン・ウエスレーであることは絶えず念頭にありました。

 ところが、海老澤さんの昭和10年(1935年)に刊行された例の本を、さらに読み進んでゆくうちに、次のような記述がありました。(同書13〜16頁)

メソジスト運動への影響

 ジョン・ウエスレー は、1738年5月24日、ロンドン・アルダースゲート街のモラビアン兄弟団の集会において「その心不思議に熱せられ」ライン地方を旅してマリエンボルンでツィンツェンドルフ伯を訪ね、それからヘルンフートへ来て、数週間滞在して兄弟団の信仰生活にひたり、同年の八月英国へ帰った。次の手紙は彼が帰英後に書いたものであるが、それはヘルンフート文庫に保存されてある。斯くてモラビアン運動がメソジスト運動の原動力を成したことは、特に記憶せらるべきところであって、次の手紙はその当時の事情を偲ばしむるよい資料である。

ツィンツェンドルフ伯宛(アムステルダムに於ける)

 その小さき一人の者に為された凡てのことを、ご自身のためにせられたものと数え給う我らの恵みふかき主は、貴下を始め伯爵夫人及び凡ての兄弟たちが、私のために尽くされた多くの親切に対し、それを七倍にして酬い給うことを祈る、もし私が、かくも互いに相愛する兄弟たちともっと長く過ごし得たならば、どれほどの満足であったでしょうか、けれどもそれは許されませんでした、主はその葡萄園の他の部分で働くように私を呼びかえし給うたからであります。否私はもっと早く戻らねばならなかったのでした。何となれば、一面門戸は開かれ大いなる効果も見られますが、反対者はまたその前に多くの躓きの石を置き、ために弱い者は日々道を離れつつあったからであります。数え難いほどの誤解が起こり、そのために真理の道は多く瀆(けが)され、そして憤怒、騒擾、過酷、罵詈、猜疑、闘争、嘲弄、邪推などが続発しました。そして敵はその機会を利用して小さき群を傷つけ、他の者はこれに加わらなくなりました。

 されど我らの恵みある主は、大部分これらの妨げの岩を取り除き給いました、主のみことばは伝えられ且つ崇められ、その聖業(みわざ)は進み且つ栄えております。至る所に大衆が覚醒して叫び出しました。「我ら救われんために何をなすべきか」と。彼らの多数は、天下に救われるべき唯一の聖名(みな)があることを知ります、それを呼び求むる者は益々加わりその聖名(みな)によって救いを見出しました。彼らの信仰は彼らを全くならしめます、そして彼らは一つ心、一つの魂になりました。彼らは互いに相愛し、その召命による同じ信仰と希望とにおいて一つの霊、一つのからだに結び合わされております。

 オランダおよびドイツ、ことにヘルンフートにおける兄弟たちの愛と熱心とは、我らの間の多くの者を激励しました、彼らもまた、神もし許し給わば、貴下にお目にかかり、その大いなる尊い約束に預かることを望み、ただ私が愛の果(み)を彼らにわけ与えるだけでは、その心に慰めを得ないでありましょう。

 些細なことについて率直に申し上げれば、私の賛成しかねることもありましたが、それは多分私が充分貴下を理解し得ないためでありましょう。

 恩寵(めぐみ)豊かなる主は、すべてのことにおいて公正なる判断を貴下に与え給うように祈ります。そして益々謙譲と柔和と、純情と質素と、真剣さと細心の注意とに富ましめ給わんことを祈ります。一言もってこれを覆えば、信仰と愛とに富ませ給い、ことに信仰のない者に対して、天に在す貴下の父の恵みふかき如く、貴下も恵みに富まれんことを祈る者であります。

 私は貴下の不断の篤き御祈りを希う、斯くて神はその同じ聖霊(みたま)の一部をわけ与え給うように・・・

 貴下に負うところ多く、深い愛情をもてる、
 けれども又価値のないキリストにおける兄弟   ジョン・ウエスレー 

             ロンドン 1738年10月30日

 言うまでもなく、これはジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙です。

 ジョン・ウエスレー の1738年5月24日の霊的覚醒の出来事は人口に膾炙(かいしゃ)されている余りにも有名な出来事なのですが、私はかつてオズワルド・チェンバーズのやはり霊的覚醒を語ったランベルトによる評伝を読んだことがありますが、そこにはジョン・ウエスレー の経験を引用しながら、次のように書かれていました。

 ラッテンベリー博士は、ジョン・ウエスレー の回心の経験を書き記して「炎がよく用意されていた炭火の上に落ちた」と言いました。エッツワース牧師館での訓練の年月、信仰篤い母親の愛、秩序あるオックスフォードでのホーリー・クラブ(の生活)、それに神にささげられた生活ーーこれらが準備された炭火を整えて、アルジャスゲート通りの上の部屋で、永続的な影響をもつ神の炎が点火されたのです。チェンバーズにも彼を神の炎に燃やされた預言者にする恐ろしいまでの打ちのめす経験がおよそ30年という準備の背景にあったのです。(『Oswald Chambers』David W. Lambert著23頁より私訳)

 このようなことが私の知っているすべてでした。ところが今回、私が手に取った海老澤亮さんが昭和10年(1935年)に著された本の中に、ジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙が紹介されていたのです。これはまさに私にとって初耳で、それも私の捨て本の中の20数冊の本の中に、仲良くホコリにまみれながらも、私が目を通すまで、私の無関心・黙殺をよそに、まるで互いに隣人同士で語り合っていたかのように、私がその本を開いて読むように、2024年の冒頭に至るまで存在し続けてきたことに深い驚きを感じたのです。そして改めてツィンツェンドルフ伯を通して働かれた主のご摂理を覚えたのであります。(これを機会に今まで敬遠してきた、ジョン・ウエスレー のその本も読んでみたいと思っています)

 そして、端なくも私たちの良き導き手であったベック兄・宣教師もドイツのアイドリンゲン姉妹会、ドイツの各集会、イギリスのオースティン・スパークスのHonor Oakに集う人々など、ヘルンフートを根城としたモラビアン兄弟団に相当する兄弟姉妹の祈りに支えられて日本人の救いのために来日し、日本に骨を埋められたことを思うことができました。

 そして、新年早々私にメールでツィンツェンドルフ伯の言葉などを送ってくださった方は、まさにそのような働きの中で救われ、今日までその信仰生活を歩んでいらっしゃるご夫妻だったのです。だから、私がタイムリーにそのご夫妻から受けたメールをどうして喜んだか少しでもお分かり願えたのではないでしょうか。もちろん、これらは小さなこと(些事)に過ぎません。しかし、今年、私はどんな小さなことでも大切にしたいと思わされております。これが、新年早々私が主からいただいた大きな恵みのことです。

※1 鴨は数えてみると全部で80数羽に達した。全部撮影した写真とも考えたが、鴨の姿が少しでも見えるものが良いと思い、上掲の写真を採用した。鴨は不思議と同一方向を目指すかのようであった。私にはその目当てとするものが、主であるように思えた。そして同時に悲しくも能登半島震災の死者は現在84名と報道が知らせていることも覚えた。東京新聞は賢くも、このために「助け合い、しのぎ 生きてる」と今朝の朝刊に大見出しを掲げた。そう願わざるを得ない。

※2 ノートは母が1961年5月22日44歳で、亡くなる二ヶ月ほど前に書き記した日記であったが、このノートの存在などすっかり忘れていた。海老澤さんなどの本とまた別の意味でホコリをかぶったまま数年放置したままであったが、元旦は、急いでそのノートを繰らせる日になった。

3/29
帰り早々下痢は止まらんかもしれんとガクッと来る。昨夕から何とか努力してもう一度起ちなおりたいと思っていた時だけに眼の前が真っ暗になりそう。何とか温かい励ましの言葉がもらえないものかしら?死を覚悟しているとは言え。
浩万利へ7時頃泊まりに行く。

3/30
来年の栄冠を獲得した時、去年の失敗があったればこそと喜んでくれたら、どんなにか嬉しいことだろうともうそれだけで満足。医者に捨てられても生きなければならないとそればかり。

3/31
腹がはるので浣腸するがどうもすっきりせず不快。昨日よりは力が出るが、丸い鏡掛けに映った顔、眼くぼみ、頬こけ、死の一歩前を思わせるようでギョッとする。

4/1
青木さん名工大へ入学。浩浪人になった事再び確認する。来年は頑張ってやらねばと身引きしまる。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13〜14節)

2024年1月4日木曜日

ツィンツェンドルフ伯(中)

ツィンツェンドルフ伯
 大変な惨事をよそに、このようなブログを投稿していることをお詫び申し上げます。かつて、東日本大震災を目の当たりにして、その当時投稿していたブログ記事3/11日を思わず断念し、その代わりに一日先の3/12日に下記のブログを書いたたことを思い出しました。 https://stryasheep.blogspot.com/2011/03/blog-post_12.html 

被災地で苦難に遭われているご家族の上に、一時も早い復興とお慰めが主から与えられますようにと、お祈り申し上げます。

 さて、昨日、お知らせしましたもう一つの新しい発見についてお書きしたいのですが、その前に次のことを是非触れねばなりません。それはツィンツェンドルフ伯爵の領地であったヘルンフートという町の実態についてであります。海老沢さんは、昭和十年(1935年)即ち今からおよそ百年近い前になりますが、「教会中心の町」(同書16頁からの引用)と題して語っています。(※)

教会中心の町

さて、最初の家が建てられてから町の設計に従って次の十年間に、ヘルンフートの町は建設された。(ヘルンフートという語には二つの意味があって、一つは「主の護り」を意味し他は「主の番兵」のような意味をもって用いられた。従ってそれは、常に主のお護りの下にあり、また人は常に主の番兵として警戒しているべきであるという意味合いをもって、ヘルンフートと名づけられたようである)

先ず会堂の建てられた広場を中心として、道路は四方に設けられた。それは全く文字通りに教会中心の町であった。現在でも町の人々の職業は、ミッション博物館、出版社、病院など、ほとんど皆伝道に関係を持っている。伝道事業を離れてこの町の人々の生活はないと言ってよい。普通のドイツ人でさえ知らぬほどの、人口わずか千六百の小さい町が、過去二百年間に男女三千人以上の宣教師を海外伝道に派遣し、現在なお二百六十人が海外に伝道している。従って町内の各戸は、ほとんど皆、宣教師と縁故のない家はないくらいであって、二十ヶ国の言葉がこの町で話されると言われている。そのはずである、この町にある伝道学校には二十数名の男女青年が、海外伝道に赴く準備をしているが、彼らは皆世界各国の宣教師の子女である、私は一夕彼らの会に招かれて懇談したが、彼らの生国を聞いて、皆世界の各方面より来ていることに驚いたのであった。

東南ドイツの片田舎、ヘルンフートの町外れ、チエツコスロバキヤの国境をめぐる山脈を遥か彼方に眺めて、今は広々と開拓せられた高原がある。その中央の小さな丘の上に望楼が立てられている、それが即ちフートベルグである。ここに昇って四方を見渡せば、これが世界教化の一大運動を巻き起こした一円の地、彼方には右にツィンツェンドルフ伯が祖母の下に育てられていたヘンネルスドルフの城址を眺め、やや左にツィンツェンドルフ伯の住まれた屋敷もほの見える。丘の裾にあたっては、モラビアン・ミッション一団の者の永久の憩いを示す墓地があって、ツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドの墓標は、昔の美しい信仰生活を偲ばしめている。その墓地まで家族別でなく男女別であること、その墓石は政治家のも平民のも全く同型であることをもっても、この一団の心の態度が読まれるであろう。

 ヘルンフートという小さなドイツの町は、相互扶助の精神をもって町が形成されたのですが、それはツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドなどが、主から与えられた志に従って形成された町であることがわかるのでないでしょうか。

 元日の午後起った能登半島地震は、またもや地震の恐ろしさを私たちに訴えてやまないものがあります。そんな被害にどう対処して行けば良いか漠然と考えていましたが、今朝の東京新聞の『本音のコラム』欄で、三木義一さんが「何の予兆か、お正月」と題して書かれていたことにハッとさせられました。それは地震の予知は難しいが、「被災された能登の人々は明日の我々でもあるのだ。能登の人々が、一刻も早く平凡な日常を取り戻せるように公的援助を惜しんではならない。そのために、僕らは税金を国や自治体に預けているのだから!」と書いておられました。いつもは必ずと言っていいほど、最後は駄洒落で閉じながら、やんわりと日本社会に警告を与えられる、元青学の学長さんが、租税法の専門家であるだけに、その提言には首肯せざるを得ないものがありました。本来「ヘルンフート」とは何の関係もない、三百年前の異国ドイツの話ですが、敢えて付け加えさせていただきました。

※私はこの海老澤さんの著書はちょうど日本が「いくさごろ(1935、6年)」というふうに侵略戦争に向かっていく時に、この本を書かれたのは、せめてものの抵抗の働きの一つではなかったかと思いました。その本の冒頭で海外進出は「戦争」「貿易」「海外宣教」と三つあるが、その中で最初の二つと海外宣教の違いに言及して「全く利害の問題をはなれ、利権獲得の企てなしに、与えるは受けるより幸いであるとして、神を与えキリストを与え、価なしに福音を与え、最後に自己を与えようというのが、海外伝道の精神であった」と書いておられました。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(新約聖書 マルコの福音書16章15〜16節)

2024年1月3日水曜日

ツィンツェンドルフ伯(上)

 新年おめでとうございます。
新年早々嬉しいことがありました。実に小さなことなのですが、私はなぜか「ツィンツェンドルフ伯」のことが気がかりになっていたのです。

 そうしたら新年に入り、ご夫妻からLINEを通して、一通のメールが送られて来ました。そのメールにはみことばと併せて、ツィンツェンドルフ伯のことばが紹介されていたのです。それがその方のご許可を得て、今日上記のように転載させていただいたものです。ただここにはN.L.チンゼンドルフと書かれていました。ひょっとして私が知っているツィンツェンドルフ伯のことでないかも知れない。そして、私にはこんなに平易なことばで語られるのがツィンツェンドルフ伯なら、是非もっとそのことも確かめてみたいと思わされたのです。

 もう30年以上前でしょうか、教会に出席していた頃、古本で一冊の本を見つけました。その内容はツィンツェンドルフ伯の住んでいたヘルンフートの美しい村のならわしを記したものだったと記憶します。そのならわしとは夜回りが、「今は夜の何時か」と聞いて回るという内容だったと思います。「夜回り」と言えば、冬の寒い夜空を仰ぎながら、拍子木を叩いて「火の用心、御用心。戸締り用心、御用心。」と各家々を尋ね回ることしか経験していなかったのですが、この村では、キリスト者がいつも主の「再臨」を待ち焦がれていて、「今は夜の何時か」と問うて参るという、いかにも簡素な中にも、質朴な人々の日々の生業(なりわい)が記されていて大変好ましかったのを覚えているのです。その本は今日まで私の手元にあっては、その癖いつも何処かへ潜り込んで見えなくなってしまう不思議な本で、つい数日前にも確かこの目で見たものでした。

 それが年の初めの話として出て来たので大変びっくりし、第一、「チンゼンドルフ」なのか「ツィンツェンドルフ」なのか、はたして同一人物か知るためにもその本(実は児童向きの本ですが)がどうしても見たくなって、探すのですが、見つからないのです。雲隠れした状態でした。もう何回となく、書棚を隅から隅まで探すのですが、見つかりません。普段、そのような本を置く場所でないところまで探しても一向に埒(らち)が明かないのです。

 ところが意外なところに、その本ではないが、その児童書では物足りない、もっと詳しく書いた本が欲しいと思って、これは多分教会を出て集会に移ってから数年後、今から10数年前にやはり古本で見つけた『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』(海老澤亮著 基督教出版社刊行 昭和10年)が全く埃(ホコリ)を被(かぶ)った状態で出て来たのです。私ははやる心を抑えながら、その本を読み進めていき、また同時にネットでツィンツェンドルフ伯の姓名を詳しく調べたところ、まさに、Nicolaus Ludwig von ZinzendorfでN.L.チンゼンドルフは私が呼び慣れている「ツィンツェンドルフ伯」その人であることがわかりました。

 それだけでなく、不思議なことに二つの新しいことを気づかされたのです。今朝はそのうちの一つをご紹介したいと思います。私には尊敬するひと回り上の最年長のいとこで、今も健在で元気に過ごしている人がいます。ある意味で私の人生は、これは少しオーバーな表現になりますが、このいとこの姿を見て進路設計をして来たと言っても過言でありません。そのいとこが、私がキリストを信じたおり、そのお宅でたまたまそのことが話題になり、彼は私の狭量な信仰熱心の姿を戒める思いだったのでしょう。「キリスト教の宣教は下心があってのもので、そこへ行くと、仏教は何でも受け入れる、キリスト教より仏教の方がいいのじゃないか」と言われたのです。爾来、私は彼の言う「下心」説に納得できないまま、今日に至りました。

 ところが、この出て来た海老澤亮著の『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』の本をまだ頁を繰ることも間もないところに次のように記されていたのです。(同書3〜4頁)

当時はまだ海外伝道に志す者が極めて少なかった。新教において殊にそうであった。
羅馬教では既にその企てがあった。コロンバスはスペインから出て西巡で印度に往こうとし、バスコ・ダ・ガマという人はポルトガルから出て、東巡りで彼処に往こうとした。そして法王は彼らの発見したほどの土地は、みなその支配権のうちにあるものと考えた。

当時彼らの良心はそれらの土地がその所の住民のものであると考えるほどに鋭敏ではなかった。唯その住民が野蛮であるから、之を文化に導かねばならないとは考えた。それで法王は(今でもバチカン宮殿に残って居るといわれるが)一つの地図に、北極から南極まで、大西洋を境に直線を引いて、その西をスペインに、その東をポルトガルに与えると宣言した。唯条件はその発見する国々の住民に福音を伝えることであった。

これは随分乱暴な伝道方針であった。従って福音の使者が、度々侵略主義の手先と解されたのも無理はない。そしてそのような印象がつい最近まで世界の各国に言い伝えられたのは、真の宗教の使者にとって大変な迷惑であった。

 ここまでお読みいただければ、このくだりを読んだ私が心の中で快哉を叫んだ気持ちを分かっていただくのではないだろうか。年長のいとこが私の狭量な信仰を諭すために、私に痛打を浴びせかけたかに見える言葉は決していとこの誤解でなく、羅馬教、すなわちローマ・カトリック教のそのような伝道姿勢にあったのだと分かったからです。年長のいとこはローマ・カトリック教のことを言っていたのであって、それは私が信じた聖書に基づく信仰を理解してくれなかったことに起因するとは言え、あながちいとこの説は暴論ではないと思うことができたからです。積年のいとこに対する誤解が解けた思いで、いい新年を迎えられたなあーという思いでした。そしてそれだけでなく、私は年末、そのいとこのお嬢さん方(お顔も知らない間柄なのですが)と昨年の私のブログ『半可通の「柏木義円」紹介』が機縁で手紙をやり取りすることになりました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/06/blog-post_13.html 
それだけでなく、昨年末のクリスマスの折り、このお嬢さんお二人が既に受洗しているキリスト者であることを初めて知ったのです。あれやこれやで意外な事実、しかも喜ばしい出来事に私は新年早々付き合わされております。

 明日はツィンツェンドルフ伯に関する、もう一つの大切な新しく発見したことをお伝えしたいです。

セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」(旧約聖書 イザヤ書21章11〜12節)

夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(新約聖書 ローマ人への手紙13章12節)