2020年5月23日土曜日

高慢な教職者と謙遜な労働者

谷口幸三郎作 1980年


 自ら非常に博学で宗教的だと思っている一人の教職者(牧師などを指す)が天寿を全うして死んだ。疑いもなく彼は良い人だった。天使らが主によって彼のために定められた霊界の場所へ連れて行こうとして来た時に、彼を中間状態へ置いた。そこは彼の生活と信仰にとって益となるところだった。

 天使らは言った。「あなたはここより上の階級に行く用意がまだ全くできていません。それでしばらくここにとどまり、私たちの仲間の働き人が教えるように主から命を受けていることを学んでもらわねばなりません。それが終わったなら、私たちは大喜びであなたと一緒にここより上の階級のところにお連れしましょう。」

 教職者は言った。「私は一生の間、天国に至る道について人々に語って来た。私は今更何を学ぶ必要があると言うのか。私は何でも知っている。」

 それから導き手である天使らが言った。「あなたより先に上の階級へと彼らは上っていきます。私たちは彼らを引き留めることはできません。しかし、あなたの質問には答えることができます。友よ。もし私たちが正直に話しても気を悪くなさらないで下さいね。あなたはここに自分一人がいると思っていらっしゃるが、主イエス様もここにいらっしゃるのですよ。あなたには見えないかもしれませんが・・・あなたが『私は何でも知っている』と言われたプライドがイエス様を見えなくさせているし、より高い上へと進むのを妨げているのです。へりくだりこそ高慢に効く薬です。そのことを実践なさい。そうすれば、あなたの願いはかなえられますよ」

 このあと、天使たちの一人が彼に話して「今あなたより上に進んで行った人は学識もなく無名の人でした。あなたは彼を注意してみなかったかもしれませんね。彼はあなたの教会に出席している一人でしたよ。人々も彼を全然知りませんでした。なぜなら彼はありきたりの労働者であり、仕事のため遊ぶこともほとんどできませんでした。しかし彼の仕事場では彼が勤勉で正直な働き手として知られていました。クリスチャンとしての品性は彼と交わったすべての人に認められていました。その彼は戦争の時に、フランスへ召集されました。ある日、そこで負傷していた仲間を介抱していました。その時弾丸にあたって殺されたのです。

 彼の死は突然でしたが、用意できていました。だからあなたがとどまらなければならない中間状態にとどまる必要はなかったのです。彼が上に進んだのは「えこひいき」でなく、霊的価値によるもので、彼が世にいる間、彼の祈りと謙遜との生活が霊界のために大いに準備されていたのです。今や彼は目的地に着いて喜んでおり、主の恵みにあって、救われ、永遠のいのちを与えてくださった主に感謝と讃美の声を上げているのです」

(以上は『霊界の黙示』の第6章の「天の住居」と「天の生活」の間に挿入されていた文章の私訳ですが、本来は5月19日の『霊界の黙示』(下)に掲載すべきものでした。ただ長くなるので勝手にカットしましたが、この文章があってこそ、「天の住居」と「天の生活」が生きてくるのです。読者諸氏にはもう一度、とくと『霊界の黙示』(下)を味読いただきたいと思います。謙遜は栄誉に先立つ(箴言15:33)

2020年5月22日金曜日

主のご計画の一端(下)

「女学校時代の母」

 なぜ驚いたかと言うと、その本は気持ち悪いどころか、「福音」がちりばめられていたからである。私の家に、福音に基づいた本があるなんて、信じられなかった。この吉田家は、滋賀県の高宮に家を持ち、北海道森町で米屋をしていた。母はその吉田家に女学校を出てすぐ嫁いだのであった。ところが二人には子どもがいないまま、夫文次郎は中国南昌の野戦病院で戦病死した。21歳のか弱い女性が漁師町で商いができるだろうか。案じた母の実家の両親は引き上げさせ、滋賀県の高宮の地でお家継続を願ったのだろう。もともと母の実家と吉田家は親戚同士であった。

 その彼が残した本を母は森町から滋賀県に引き上げてくる時持ち帰ったのだ。彼のことは父の手前、それほど母は私にはっきり話したわけではないが、それでも私は父のアルバムと同じくらいに彼・文次郎氏のアルバムを見て育った。彼は函館商業を卒業していたが、そのアルバムも何度も見ていた。また母からは文次郎氏が思想問題で軍隊ではうまくいかなかったのでないかとさえほのめかすことがあった。わずか2年ばかりの新婚生活で母の先夫に対する信頼感は、父が休職したおりなど、先夫恋しさのあまり、多分に理想化されてしまっていたのだろう。私はそういう父と母の夫婦生活における微妙なお互いの気持ちの行き違いを目の当たりにして育った。

 そこに後に私が人生で最大の蹉跌を経験する要因がすでに伏在していた。その私に婚約者をとおして三年越しとも言える双方の文通を通して「福音」が入って来た。福音が大切か、先祖以来連綿と続いた家風が大切か、その二者択一をめぐって私たちはキリキリ舞をさせられていた。しかし、主は堂々とよちよち歩きの信仰者に過ぎない私たちに、50年前に新しい吉田ファミリーとしてのスタートをさせて下さった。

 その上、最近になって敬愛する谷口幸三郎氏が、自らの信仰が30年前だとばかり思っていたが、それよりも早く40年前に自ら手がけていた作品があったことを証してくださった。ちょうどその時は、村上恵子さんが召された時であった。私は何とかご遺族を慰める方法がないかを思って、はたと思いついたのが、このサンダー・シングの本であった。ご紹介する限り、いい加減な作品であってはいけないと思い、何回も読んだ。全ページ106頁だからそれほど読むのに骨の折れる作品ではない。

 そして確信を抱いたのは、これはまさに必読書だと言う思いであった。残念ながら訳者のお用いになる日本語は昭和2年のものであって、令和の時代に生きる人々には少し難解かもしれない。幸い、今回英文がサイトで探索したら見つかった。https://archive.org/stream/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926-UploadedBy/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926_djvu.txt
参考までに自分でも訳して金井氏の訳文と比較してみたが、やはり大変な名訳で流麗なる文章だと思ったが、明日はその個所の私訳を谷口氏の作品とともに紹介したい。

 それはともかく、このようにして『霊界の黙示(Visions Of The Spiritual World)』がキリスト教は家風にあわないと論戦を張られた私の家に、それも私が生まれる以前の昭和15年(1940年)ごろに北海道森町※の吉田家が畳まれ、滋賀県高宮町の本宅へと帰郷して持ち込まれていたという事実だ。母の先夫吉田文次郎氏がどうした案配でこの本を所持していたのか、そしてほんとうに読まれたのかどうかも明らかではない。ただ本の表裏書きに以下の添え書きがあった。

本郷正嘉より別れの記念に君が机下に送呈す。

 時は日中戦争緒戦のころであった。吉田文次郎氏はじめ多くの若者が召集令状を受けて出征していった。その中にはキリスト者もいたであろう。本郷氏がどんな人物か知る由もない。しかしそこにはこの本に示された福音こそ、生死を分かつ戦争をも、ものともしないという本郷氏のキリスト信仰の告白が秘められていたのでないか。ここにこの本の持つ味わいがすべて語られているように私には思えてならない。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。(ローマ8:18〜19)

(※さらに今から7、8年前、古本で手にした『すべては備えられた』(フィリス・トムソン著松代幸太郎訳)を読んでいたら、その110頁に森町に言及した個所があった。何とハドソン・テーラー創始のO.M.F.が日本宣教のため戦後1951年ごろ上陸したのが「森という海べの町」であったという記述があった。そう言えば私は1979年春先だったと思うが職場の同僚たち八人と函館に旅した折、ほんの短時間だけ一行を離れて一人足を伸ばして、森を訪ねたことがある。森駅の前に海が迫っていた。「ああ、母はこんなところに住んでいたのだ」と白波が波立つ荒い海を見ながら、感慨を新たにしたことががあったが、まさかそこに日本広しと言えども、よりによってO.M.F.によって「森町」が選ばれ、福音が届けられようとしていたとは夢にも思わなかった。そう言えば、今日は母が亡くなって59年だ!)

2020年5月21日木曜日

主のご計画の一端(中)


 その倉で手にした二冊の本は対照的な本であった。『霊界の黙示』に比べ、もう一冊の本は死後の生活が明るく描かれていた。今から思うと千夜一夜の物語に近いものでなかったかと思う。当時、すでに思春期に入っていた私をわくわくさせる内容だった。それに比べると『霊界の黙示』は名前からして気持ち悪かった。「霊界」ということばが第一私にはいただけない代物であった。それやこれやでこれらの本の存在は、高校、大学、社会人になるにつけすっかり忘れ去られていった。

 ところが、いざ私が結婚するという時になって、相手がクリスチャンだということで、私の家では問題になった。私自身はキリスト教はもちろん信ずる気はない、家は仏教であるが、取り立ててそのことに問題を感じていなかった。前回述べた通り、むしろ今まで自分自身の生活に根づいており、その衣を脱ぎ捨てることなどこれっぽちも考えていなかった。ただ到達した学問が経済学史であり、マックス・ヴェーバーの諸著作に親しんでおり「キリスト教」に無関心ではなかった。またマルクスを経由しての森有正ファンでもあったので、できれば自らもそのような信仰を持てればと思ったこともあったが、それはファッションでありそれ以上のものではなかった。

 両親がキリスト教は家風に反すると言っても、私の父はもともと母が吉田家を絶やさないために、養子として迎えた人だった。その母は私の18歳の時に44歳で亡くなってしまった。その後、父は私の勧めもあって、再婚した。その方が私の継母になった。その二人が純然とした家系を継いでいる私に反対したのだ。家風は確かに昨日も書いたが、神仏混淆のふつうの日本家庭であった。むしろ祖父も祖母もいない、言うなら核家族であった。50年後の今から振り返ると、家風云々の両親の反対はそもそもそれほど強靭なものでなかった。それは両親と私には見えていた問題であった。反対の理由は別のところにあった。家風云々はその反対を覆い隠す隠れ蓑にすぎなかった。

 ところで、1967年に家内は洗礼を受けた。私は1970年に洗礼を受けた。この両三年間の間の二人の間の信仰をめぐる闘いは、結婚に導かれるまで、今放送中の『エール』が描く世界に一部似ている。家内がそもそも洗礼を受けるにあたっては、何代も続いた庄屋の家にとって大問題であった。家内には睨みを利かす祖母が健在であった。そして双方の結婚話が持ち上がった時、家内の両親はむしろ私に家内の信仰に対して棄教を勧める役割を期待したくらいであった。四つどもえとも言える私たち二人の結婚騒動だった。

 しかし、不思議なことに結婚に反対したそれぞれの両親は、まず1981年に私の父が、1994年には継母が、2004年に義父が、2010年に義母が亡くなったが、私の父と継母は聖書に基づく葬儀、家内の父母は仏式だったが、特に継母と義母ははっきり主の救いを信じて召された。その上、義父の実兄は私たちに福音を求め、信じて召された。

 継母が亡くなり、高宮の家の整理に入り、私は倉の二階にあった先代の遺品が気がかりだった。母の先夫は吉田文次郎※と言って、昭和13年22歳で戦死している(母は21歳で戦争未亡人になったのだ)、その彼の遺品である。その時、私はあの中学以来、この『霊界の黙示』を再び手にしたのである。そして、読んでみて驚いた。それは1994、5年の頃で、実に40年ぶりのこの本との再会となった。

※彼の小学入学のころの姿が過去「いのちの尊さ」という題名でブログに載せた写真左側の少年である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、決して失望させられることがない。(1ペテロ2:6)

2020年5月20日水曜日

主のご計画の一端(上)

2020.5.6

 家には神棚が台所にあった。仏間には仏壇があり、丈高く、幅広く、部屋の一角を占め、家の中では特別な空間であった。座敷に接し、玄関の間からすぐ入れるようになっていた。毎朝この仏壇にはおぶく(仏供)膳を上げ、夕には下げる。初詣には隣町の多賀大社に出かけた。町内には高宮神社があり、私の字は宮町であり、お膝元であった。社務所には親に託されて一升酒を持ち、若い衆入りすると、いよいよ一人前とされた。

 その社務所前で祭りの準備であろうか、後始末の時であったろうか、材木の切れ端や枯れ木をみんなで集めながら燃やしていた時、「あの人はアカだ」ということばが大人の人たちの中から聞こえて来た。何の意味かはわからなかったが、戦後のある時期の社会運動が私の田舎にも身近にあったのだろう。

 それはともかく、神社の境内は格好の遊び場であり、最初の遊びは鎮守の森に入ってのターザンごっこや隠れん坊であった。もちろん昆虫採集もした。長ずると男の子は毎日が野球だった。二本の大木の根っこを利用し、一塁、三塁にあてる。ホームベースはその三角形の頂点につくる。女の子は女の子で縄跳びなどしていた。学校が終わるとどこからとなく皆集まって興じた。

 そんなある日、そこに一台の車が乗り込んできた。境内に乗り込むなんて非常識だとは思ったが、皆でその車のまわりに集まって、持ち主を驚異の目で見上げたりした。ちょっとした英雄に見えた。何しろ、中山道はアスファルト舗装がもう始まっていたかも知れないが、ちょっと前までは馬が馬糞を残しながら家の前を馬車を引き引き、往来していたのだ。もちろん、その頃は車の持ち主は町に皆無に等しかったのでないか。どうもその人は東京から故郷に帰って来たようだった。

 別れ際、みんながまた見せて欲しいと言った。その人もわかった、と言った。その後、野球をするたびにその人がまた現れないかと期待したが、それっきりだった。中学になるともうそのような境内での野球には満足しない同級生も現れ、神社の隣の草地のグランドを利用しての軟式野球に興ずるようになった。そうしていつの間にか神社からも離れるようになった。神社を外側から見るようになった。

 一方、家の一人息子であった私は大事に大事に育てられたが、中学校に入った頃であった。父が結核にかかり、休職しなければならなくなった。そのため収入は途絶え、事態は一変した。母は様々な衣料品を仕入れては販売して歩く行商を農作業の傍ら始める。図体の大きくなっていた私は農作業を母と共になす貴重な労働力源となった。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾干し、畑への施肥のための「肥え」運び。今から振り返ってみると十分な労働であり、空模様を気にしながらの日々は雨・風・雷など自然の脅威をじかに感ずる一時であった。

 しかし、そのような時、「死」への言い知れぬ恐ろしさに慄えさせられた一日があった。洋間に一人閉じこもり部屋を真っ暗にし、ひたすら泣き叫ぶだけだった。それは恐らくそのころ友人の父の死を間近に見、今また父が病に倒れたことが起因したと思う。別の日、うす暗い倉の二階にあがり、ちょっとした拍子に何冊かの本を見つけた。その中に、「死後の世界」を描いた本が二冊あった。それは母が先夫の遺品として密かに置いておいたものだった。その中に『霊界の黙示』があった。(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14〜15) 

2020年5月19日火曜日

霊界の黙示(下)



天の住居

 かくしてこの神の人は遥か遠方から自分のために指定された住居を検べているのを見た。そは天に在ってはすべての物が霊的であり、霊の眼は中間の物を透して計ることの出来ぬ遠距離をも見ることが出来るからである。量(はか)りがたい膨大なる天の全距離を通して神の愛が顕(あら)われ、その中のどこでも神の造り給うた各種の物が喜び尽きぬ有様において、神を讃美しまた感謝しているのを見ることが出来る。この神の人が天使らに伴われて、定められた彼の住居の入り口に達した時、その上に輝く文字をもって「歓迎」としるされておるのを見た。しかして文字自身が聞こえる響きをもって幾度も「歓迎 歓迎」と繰り返し繰り返した。

 彼がその家に入った時に驚いたのはその前に主を見出したことである。その時の彼の喜びは、我らの言をもって言い表わし得る以上であって、彼は叫んで言うた。『私は彼(主)の命に従って主の聖前を去ってここに来たのに、主ご自身が私と住まんとしてここに在(い)給うのを見出した』と。この家には彼の想像力が抱き得るところのすべての物が在り、すべての者が彼に仕えんと準備していた。近い家には彼自身の心に似た聖者が楽しい交わりの中に住んでいた。この天の家は世の創めの先から聖徒のために備えられた国だからである。(マタイ伝25:34)しかしてこれこそ真にキリストに従うすべての者を待つところの栄えある未来である。

天の生活

 天においては誰も偽善者たることが出来ない。そはすべてのものは他の者の実情をありのままに見ることが出来るからである。栄光のキリストより流れ出づる光は万物を照らし顕はならしめるから、悪人は悔恨の中に自らを隠そうと努め、義人は光明に満つる父の国に入るをもって無上の喜びに満たされる。そこにおいて善はすべての人に顕(あきらか)になり益々進歩して止む時がない。そは彼らの進歩を妨げるべき何物もそこに存在せず、彼らを支持するところのすべての助けが備わっているからである。義人の霊魂が到達した善の程度は彼の全容貌から放射する輝きによって知られる。そは品性及び性質は大なる栄を顕して様々に輝く虹の如き色彩の貌によって、それ自身を表すからである。天には嫉妬がない。すべての者が他人の霊的向上と栄とを見ることを喜び、全く利己的な動機なくして常に相互に、心より仕えんとしている。すべての教えがたい賜物と天の祝福とが、すべての共同な使用のためにそなえられている。誰も自己心より、自分のために何か貯えようと考えるものはなく、万物はすべての人にとって十分である。

 愛なる神は最高の天の御位に座し給うイエスの人格において見ることが出来る。「義の太陽」にして「世の光」なる彼より、癒しかつ生命を与うる光線と、光と愛の波とが流れ出でて、彼の宇宙の最も遠い果てにまで及び、すべての聖徒と天使とを通して流れ、その触れるところ、何物にも活力を与えて元気を満たすのを見る。

 天には東も西もまた南も北も無く、ただ人あるいは天使の各々にとってキリストの御位はすべてのものの中心として現れる。

 そこにはまた各種の美しく甘味な花や果物や多種類の霊的食物がある。それらを食う時には優れた風味と爽快とを経験するが、その美しい香気に同化した後、四周の大気を香しくするところの佳い香りを体の気孔より発散する。

 簡単に言わば、天に住むすべての者の願望と要求とは神にあって十分に満たされておる。そは各々の生活の中に神の意志が全うされ、天のすべての条件と、あらゆる状態との下において万人は驚くべき喜びの尽きることの無い経験を持つからである。かくして義しい者の到達するところは永遠の喜びと祝福とである。

(『霊界の黙示』83〜84頁、88〜91頁より引用。三日間にわたりカット写真として先日16日に召された村上恵子さん作成の絵手紙の作品を用いさせていただいた。ところが翌日の17日には菅野弘子さんが召された、毎日お二人のためにずっと祈って来た。お二人に天国の様子はどうですか、とお聞きしても聞かせてもらえない。その代わりにサンダー・シングの本から、その文章を引用させていただいた。翻訳文が昭和2年のことばであるので今の人々には了解できないかもしれないが、「天国語」とでも思い、何度も読んでいただきたい。熟読玩味、自ずと文意は通ずと思う。明日はそのサンダー・シングの本がなぜ私の手元にあるのか、その経緯に少し触れてみたい。)

2020年5月18日月曜日

霊界の黙示(中)



 「われ鬼神(きしん)を語らず」とは、孔子の有名なことばであり、私がその意味を知らないわけではない。何よりもイエス様は「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)と天について語ることは主ご自身であって、人間が知り得ない領域であることは確かである。その点、以下引用するサンダー・シングのことばはあくまでも一つの寓話※と解したい。彼は主を信じて召された人が天から地上を見る時、どんな状態なのかを「想像」して書いていることに注意して読む時、聖書の真理から逸脱することは避けられるのではないか、と思い、以下『霊界の黙示』78〜82頁より引用させていただいた。

愛する主の慰め

 彼の魂が肉体を離れるや否や天使らはその腕に彼を受けて去ろうとした。しかし彼は数瞬間待つことを乞うて、その命のない肉体(自らの亡骸)と、友人らを凝視し天使らに言うた。『私は肉体を離れた霊が自分の体とその友とをこのように見ることが出来るとは思わなかった。私は友人らが私が彼らを見るように見ることが出来ることを願う。もし出来たならば彼らは私を死んだ中に数えず、また私のために泣かないであろう』と。かくて彼は自分の霊体を検(しら)べて美しく輝きかつ妙にして、粗雑な肉体とは全く異なることを見出した。これによって彼は冷たい形骸に向かい泣きつつ接吻している妻子を抑制しようとした(「泣かないでいいよ」、とすがりついて離れない妻子の行動をやめさせようとした)。

 彼が美妙な霊の手を延べて彼らに説明し、大いなる愛をもって彼らをその亡骸から去らしめようと努めた。しかし彼らは見ることが出来ず、その声を聞くことも出来ない。子どもらをその死体から離らせようとした時に、その手はちょうど空気かのごとく肉体を通り去って、彼らは全くそれを感ずることが出来なかった。時に天使の一人が言うた。『来れ、我らは君を永遠の家庭に伴おう。彼らのために悲しむな。主ご自身もまた我々も彼らを慰めよう。この離別はわずかの日数に過ぎないのだ』と。

 やがて天使(みつかい)らに伴われて天へ向かった。彼らが少し進むや、他の天使らの一群がこれに逢って「歓迎」と叫んだ。先に死んだ多くの友と彼の愛した人々もまた彼を迎えた。これを見てその喜びは一層増し加わった。天の門に達すると天使らおよび聖徒らは黙して両側に立った。彼が中に進むや、入り口においてキリストに逢い、直ちにその足下にひれ伏して拝した。しかし主は彼を引き起こし、抱いて言い給うた『良くやった。善かつ忠なる僕よ、汝の主(あるじ)の喜びに入れよ』と。その時彼の喜びは言い表わすことが出来なかった。彼の眼から涙が流れ落つると主は大なる愛をもってこれを拭い去り天使に向かって言い給うた。『彼のために初めより備えられた最も栄えある住居に伴い行け』と。

 そこでこの人の霊はなお、地上のような思想を持っていたから主に背を向けて天使らとともに離れ去ることは主を汚すことかと思い躊躇したが、遂にその顔を住居の方に向けると、どこからでも主を見ることが出来ることを知って驚いた。そはキリストは何処にも現在し給いどこからでも聖徒および天使らに見えるからである。主と共に彼の周囲が喜ばしいものをもって囲まれているのを見て、歓喜にみたされた。ここでは最も低いものも、最高のものに対して決して妬みをもって他を見ることなく、また位置のすぐれているものは、彼らの兄弟の低い位置におる者に仕え得ることを幸福としている。これは神の国にしてまた愛の国だからである。

 天の各所に宏壮な園があって、いつも各種の異なった美しくして甘味な果物を生じすべての美しい香りの花が咲き、決して凋(しぼ)む時がない。その中で各種の被造物は絶えず神を讃美する。色彩(いろ)の綺麗な鳥が美しい讃美の声をあげ、天使や聖徒の美妙な歌は、これを聞く時驚くべく有頂天とも言うべき喜びを経験せしめる。どこを見るもはかることの出来ぬ喜びの光景を示さないものはない。真にこれこそ神が己を愛する者のために備え給うたところのパラダイスであって、そこには死のかげも、誤りも、罪も、苦しみもなく、いつまでも続く平和と喜びとがある。

(※このことを訳者である金井為一郎氏は「この単純にして不思議なーー世界に比類の無いーー書物を日本に紹介するにあたって、読者は原著者の人物と経歴とを簡単にでも知っておく必要があると思う。未だ聞いたことの無いおとづれであるから、単なる一個の空想家が書いたとすれば誠に価値の少ない寓話と考えられてしまう。しかし著者自身が世界の驚異である」と言っている。しかし私はそこまで手放しにこの本の叙述をことごとく認めているのではない。ただ著者が、「人間の魂は不滅であって、永遠のいのちとして生きるのかそれとも滅びを待つのかが肝要だ。だからいそいで私たちは福音を伝えねばならぬ」(昨日の吉祥寺ネット配信のベック兄のことば)という思いを共有している点は評価してあえて紹介させていただいている。)

2020年5月17日日曜日

霊界の黙示(上)


 「幽明境を異にする』という言葉がある。国語辞書によると「幽」は暗い意で死後の世界を指し、「明」はこの世を指す、とある。日本人の死生観を的確にあらわしている。一方、今日コロナ禍に日々私たちは喘がされている。全世界が絶壁に追い詰められてあとがないと言っても過言ではない。しかし、果たしてそれだけであろうか。聖書のみことばに基づいた死生観をあらわした『霊界の黙示』(サンダー・シング著金井為一郎訳昭和2年刊行)からその第6章の以下の部分を(上)(中)(下)の三回に分けて順次紹介する。

正しき者の状態とその栄ある前途

 天または神の国はこの世に住むすべて真の信者の生涯の中より始まる。彼らの心はつねに平和と喜悦とをもって満たされ、どんな迫害と困難とを忍ばなければならぬともこれを意としない。それはすべての平和と生命との源なる神が彼らの中に住み給うからである。死は彼らにとって死でなく、永遠の家へ、とこしえに入るの門戸である。あるいはかく言うことができよう。すでに永遠の御国へ新たに生まれたものでも、肉体を離れる日は彼らにとって霊界への誕生であって死ではない。かつ非常な喜びの日であることは以下の出来事によって明らかである。

一義人の死

 三十年間全心をもって主に仕えていた真の信者が死んだ時にどうなったかを、天使の一人が私に告げた。死ぬ少し前に神が彼の霊の眼を開き給うて、未だ肉体を離れぬ中に霊界を見ることを得しめ、その見たことを語ることができるようにならしめた。彼は天が彼のために開け、天使および聖徒の一群が出で来たりつつある様と、救い主が差し伸ばした聖手をもって彼を迎えんとしているのを見た。このすべてが彼の上に突然打ち開かれたのを見て傍にいる人をびっくりさせるような声をもって叫んだ。『我にとって何たる幸福の時か!』『私は長い間、我が主を見んことを願い、主のところへ行くことを待ち望んだ。おお、友よ! 愛によって照り輝く主の御顔と我がために来た天使らの群れとを見よ。何たる光輝あるところか! 友よ私は真の我が家へ出発するのだ、私の出発を嘆かずして喜べ!』と。

 傍におった人の一人が静かに言うた『彼は気が変になっている』と。その囁く声を聞いて彼は言うた。『いや、そうじゃない。私の心は全く確かだ。私はあなたがたがこの驚くべき光景を見得んことを望む。これがあなたがたの目に隠れていることを悲しむ。さようなら。私どもは次の世で再び逢いましょう』と言うて目を閉じ『主よ我が魂を汝(あなた)の手にゆだねます』と叫んで眠りについた。

(引用部分は『霊界の黙示』76頁〜78頁からの引用。明日は「愛する主の慰め」と題する主要部分である。さて、愛する村上恵子さんは冒頭の絵をはじめとして私たちに多くの信仰の賜物を残して昨日夜8時1分に召されました。このシリーズはそのことを覚えての掲載でもあります。)

2020年5月5日火曜日

私と「エール」(下)

昭和45年(1970年)4月26日の新聞※

 「エール」という朝ドラはつくづく良くできていると思う。家族であるがゆえに持つ愛憎が余す所なく描かれているからだ。子どもの立場になって見ても、また親の立場で見ても、さらには夫婦の間柄どれ一つとっても、真実なものを感ずる。昨今能弁ではあるが、自分のことばで決して語ろうとされない首相の会見を何度も聞かされて辟易さえしている当方にとって、ドラマの会話の中ににじみ出るその真実さに改めて刮目させられる。

 その上、その人たちを取り巻く市井の人たちのあたたかさも伝わってくる。それは、ある意味で「昭和」という時代の絵模様ではないかと思う。それを平成生まれの役者の方が演じているのだからすごい。逆に言うと、真剣に音楽一筋に生きた古関裕而夫妻の生き様が時を超えて人の胸を打つからだろう。同時に脚本がしっかりしていて、それを具体化するために一種の総合芸術とも言うべきものが電波に乗せられて、すべての人の心に届く。大変な数の人々の共同作業からなるこの作品の今後に心から「エール」を送りたい。

 今回、私がこのドラマに関心を持ったのは、本当のことを言えば、実は単に時間ができたからではない。5000曲も作曲した古関裕而さんの曲が母校の滋賀県立彦根東高校の校歌作曲者であったからである。しかもその作詞者吉田精一氏が家の縁戚にあたる方であったからである。私はそのことをずっと知らなかった。私たちの世代では「吉田精一」と言えば、国文学者としての氏の存在が余りにも有名で、どうして東京のその方が校歌作詞者なのかと不思議にさえ思っていたくらいである。

 ところが、ある時、母校が1996年に発刊した『彦根東高120年史』を通して、その作詞者の吉田精一氏は同姓同名の全く別人で、私が小学生時代、町の公民館でその方からアインシュタインの話をお聞きした方であった。我が家は中山道に面しているが、道路を挟んで斜め前に精一さんの家があった。そして、私の家の路地を挟んだ左隣が精一さんと私の家が本家とする家があった。着物姿の精一さんは、よくその中山道を対角線上に横切っては、その本家の玄関へとよく駆け込まれたものだ。それは、俗塵にまみれてはなるものかとばかりの勢いを子ども心に感じさせるものがあった。町内の神社の祭典費を集めに行っても頑として断られた人であった。

 最近私はその彼について母が65年前の1955年の1月の日記に次のように書いている記事を見つけた。「度を過ごした潔癖が寿命を短くした、人生を寂しい物にしたとしみじみと語られた精一さんの言葉は自己への反省とも聞き取れ感銘を深くした。」精一さんの母親おなおさんの死に立ち会った母が通夜の席で精一さんとご一緒して聞いた話のようである。(おなおさんは本家の方々が東京に出られ留守宅になったので、ずっとその本家を守られた人であった。)

 その精一さんは明治45年に、私と同じ高宮小学校を卒業し、その後彦中、四高を経て東京帝大農学部に進まれ、戦前は東京農大で教鞭をとられた。戦後旧制から新制へと教育体制の変革期に郷里に帰り、私の母校の先生をなさった。そのような有為転変ののち町の教育長もなさった方であるが、戦前の農大時代に同校の応援歌を作詞され、古関裕而さんが作曲者であった。その精一さんが戦後自らの母校でもあり、教師でもあった高校の校歌を作詞し、またしても古関裕而さんに作曲をお願いされたのだった。だから精一さんは古関さんと二度のコンビを組んでおられることになる。(この項は『120年史』762〜763頁による)

 いずれも旧聞に属することではあるが、人と人との出会いとはまことにまか不思議である。今朝の「エール」27回目では、裕一が音楽を取るか、愛する人「おと」との結婚を取るか、再び二者択一の選択を迫られ、音楽を取り、「おと」との結婚を断念する。それは重い決断であった。しかし、そのような決断にもかかわらず音楽を目的としたイギリス留学の道が閉ざされるということで終わった。私たちの場合はキリストを取るか、恋人を取るか選択を迫られ、結婚前の三年間に次々と様々な事件が起きた。他人事ではない思いがひとしおする。金婚記念を機にまさにタイムリーなNHKによる「エール」であると思えなくもない。

 しかし、最後にやはりコロナウイルスに悩む私たちへの神のみことばの「エール」を記しておきたい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11)

(※写真はこどもたちがエールとしてプレゼントしてくれた第三弾目であった。それは八枚からなる生誕、結婚、五人のこどもの誕生の日の新聞のマイクロフィルムであり「50年というふたりの長い長い道のりをゆっくり振り返ってみてください。そして、今度たっぷり思い出を聞かせてね。51年目も変わらず主の守りと平安がありますように」と添え書きがあった。なお、吉田精一作詞古関裕而作曲の彦根東高の校歌は以下で聞くことができる。https://www.youtube.com/watch?v=CbZZ5zZBaYY

2020年5月4日月曜日

私と「エール」(中)


 このところ朝のNHKドラマの「エール」に夢中である。前回の「スカーレット」は夫婦とも滋賀県出身者である私たちにとってはそれだけ身近で、しかも家内は創作好きとあって、陶器づくりに励む主人公に大いに肩入れして、毎回欠かさず観ようとしていた。そこへ行くと私は十回に一回程度の視聴でそんなに熱心でなかった。

 ところが今回の作品は、二人して欠かさず見ている。50年の結婚生活にあって初めての経験である。大体仕事をしている時は時間帯が無理であった。「おはなはん」※は学生時代のころであったせいだろう、何となく観たような記憶がある。それ以来、仕事、結婚、子育てと二人ともそのようなゆとりはなかった。

 ところで本題の「エール」だが、作曲家古関裕而をモデルにした作品とあって前評判の高かった作品である。ましてや今年はオリンピック開催の年であった。彼の「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘』はじめ様々な曲が披露されると思うと、それだけで何か胸あこがれる思いがしていた。私のようにテレビ離れの人間まで引きつけるとは、まことにこの上もないNHK企画だと思っていた。ところが、このコロナ騒ぎである。とうとう先週はコロナ犠牲となった志村けんさんも登場される場面がほんの少しだったが、最後に出てきて哀愁を覚えた。

 現在6週間目に入ったところだが、主人公裕一が幼い時から、成人し、「仕事」、「結婚」とどれ一つとっても、若者には一寸先何が待っているかわからない中を、ひたむきに進んでいく姿が活写されていく。しかも、そこに全く別世界に生きていた男女が結ばれていく過程が彼らの音楽に賭けていく苦闘と並行して描かれるのだ。コロナ騒ぎで多くの音楽家が生活の糧を失って苦しんでおられる。しかし、「エール」はまさにその「音楽」が人間の生きる上の一つの活力であることを証明して憚らない。

 主人公の男女二人の出会いと交際、そしてそれを取り巻く家族を見ていると、私たちの50年前の七転八倒の一つ一つが同時にダブってくる。先日も、福島在住の主人公裕一が手紙の文通三ヶ月間でこの人(おと・音)しかないと決心し、彼女のいる豊橋まで駆け出して行った姿を大写しで見た時、二人とも思わず顔を見合わせざるを得なかった。私たちの場合も関西と関東と離れていたので互いの意思疎通には手紙しかなく、その文通が二人の中を取り持ったからだ。三ヶ月でなく、三年であった。だから、単純に計算しても、彼らの12倍を要する書簡の往復ではあったが・・・。

 そのようにして、互いの家庭から飛び出て、一組の新しい家族が誕生するまでには人間はすさまじいエネルギーを発揮するのだと改めて思った。このエネルギーは、春先に雌雄の魚が産卵期に見せる水の中で飛び跳ねる姿を思わせる。これは生ける神が生きとし生けるものに与えた天与の力だと思う。今私たちはコロナウイルスという見えない敵を相手に、国家としても地域社会としても、また個人としても、各人がそれぞれのレベルで戦いを強いられているように思える。しかし、いつの時代にも難問はあったのでないだろうか。

 たまたま、最近私は『歴史人口学事始めー記録と記憶の90年』(速水融著)という本を読んだ。速水さんは100年前のスペインインフルエンザを史書としてすでに2006年にまとめておられるが、そのような歴史考察をもとに、これからの時代は「我慢の時代」(同書293頁)だとそこで語っておられた。一見、何の変哲もない主張のように見えるが、速水さんは「産業革命」に対して江戸期から始まる日本社会の変動を分析し「勤勉革命」(281頁)という独自の歴史概念を提唱され、現在の日本社会の高齢人口の増大、人口減少の時代に見合う主張をなさっている。残念なことに速水さんは昨年12月にこの本の執筆を最後に90歳で急逝されたが、その時、もちろんコロナウイルスの存在は知られなかった。しかし、その直後コロナウイルスはあっという間に世界を席巻し、昨今は政府が「行動変容」を盛んに求めるようになった。こんなことを考えると、速水さんの歴史研究は先見の明があったと言わざるを得ない。

 最後に神から私たちに送られている「エール」のことばを記す。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者1:9、12:13)

(言うまでもなく今日の写真は前回に続く子どもたちのエール第二弾である。
なお速水さんの本の紹介は東京新聞の書評がある。一読されたし。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2020041202000176.html 
ついでに「おはなはん」は
https://www.youtube.com/watch?v=yizg55xEik4

2020年5月2日土曜日

私と「エール」(上)

金婚式の祝  2020.4.26※
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(ヤコブ3:8)

 私は今年2月に喜寿を迎えた。ところが、私の肉体には、この頃体の欠陥が次々現れてきている。先ず、「唇」である。昨年末高校の同窓の集まりの後、家内にもこの会で一人の方との交わりが大変良かったので、いっときも早くそのことを報せようと、喜んで帰ってきたのはいいが、心が急いていたのか、暗い夜、思わぬところでつまずいてしまった。その打った場所がいけなかった。再び車止めだった(2017年11月だったか、信越線横川でバスを降りる際、足を踏み外し、倒れ、顎の骨を折る大怪我をしたことがあった)。相方の唇は擦過傷を負い、出血が激しかった。救急車のご厄介になった。その時、縫ってもらわなかった。そのせいか、未だに唇がだめになっている。

 次に「鼻」である。昨年だったか、ある集まりで突然鼻血が出た。それからことあるごとに鼻血が出るようになった。医者は興奮するから出るのだとおっしゃった。思い当たる節はある。すぐ一つのことに熱中する。だからのんびりと生活しようと思っている。でも、この一年間鼻血は収まらない。

 ところで、今一生懸命に打っているこの「指」もまた問題をかかえている。「指」の折り曲げが困難で傷んで仕方がないのである。こんなふうに体の部位を書きつらねながら、一番肝心の「頭」が抜けていることに読者も気づかれることと思う。

 ところが、聖書はもっと素晴らしい指摘を私にくださっている。 

 昨日の聖書通読箇所の一つにヤコブ3章、4章があったが、その中で3章の「舌」に目が釘付けになった。リビングバイブル訳は3章全体に「舌をコントロールする」と見出しをつけている。そして出だしを次のように訳していた。 

「愛する皆さん。みなが教師のようになって、人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。人よりもすぐれた判断力を持つべき私たち教師がもし悪を行うなら、ほかの人よりはるかにきびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1) 

 毎朝、NHKの「エール」を見ているが、自分にはこどもを心から愛し育てて来なかったという後悔がある。その一つの性質がここに出て来る、「教師」としての自分の存在だ。こどもをほめてこなかった、いつもきびしい視線しか持たなかったという思いがある。 

「賛美とのろいが同じ人の口から出るのです。愛する皆さん。こんなことがあってはなりません。同じ泉の水が甘くなったり、苦くなったりするでしょうか。いちじくの木にオリーブの実がなったり、ぶどうの木にいちじくの実がなったりするでしょうか。塩水の池から、真水を汲むこともできません。」(ヤコブ3:10〜12) 

とあった。ああ、自分はこのような救いようのない人間なのだ、だからイエス様のいのちをいただいているのだ(という思いがする。 )

(※五人の子ども家族がすばらしい贈り物をしてくれた。その中の一つである。こどもたちのエールである!)