2024年2月26日月曜日

春の音づれと亀家族に幸あれ

水温(ぬる)み 甲羅干しする 亀家族
 亀の家族であろうか。三匹が石の上で甲羅干しをしていた。彼らは用心深く、近寄るとすぐ水中に飛び込む。手前の亀はシャッターを下ろした途端、水中にザブンとばかり、落差を物ともせず、滑り降りるかのようにして、姿を消した。

 にわか仕込みの子育て(孫育て)もかれこれ三週間目に入った。連日連夜、お母さん、お父さんは大変である。私たちはその恩恵にあずかる毎日である。赤ん坊をこんなに身近に覚えるのは私にとっては初めてのような気がしてならない。いったい、5人の子育てや、8人の孫育てにかかわっていたのだろうか。私はともかく、家内も同じ思いでいる。

 すっかり、引きこもっていた家内も、赤ちゃんのペースに合わせ、生活できるようになっている。最初は私たちの家庭で十分受け入れられるだろうかという思いもあったが、新しい命の成長ぶりを見るのは、老いゆく私たちにとって起死回生の妙薬である(※)。

 そんなことを考えていたら、2022年に一年間連載した青木澄十郎さんに次の文章があるのに気づいた。(国会図書館デジタルライブラリー『信仰群像』ヘブル書第11章講解 63〜64頁より)

 モーセの偉大さは喧々(けんけん)する必要がない。ユダヤ人は私たちは「モーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話になったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ」(ヨハネ9:28)と公言したほどで、イエスを認めぬユダヤ人もモーセと言えば建国の偉人として彼らの誇りとするところであった。このモーセについてヘブル書は如何なる点を信仰の模範としたのであろうか。先ずその言うところを聞こう。 

「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三ヶ月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした」(ヘブル書11:23)

 これがモーセの信仰から学ぶ第一の点である。現行訳の『信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって・・・』とあるのは読者を誤らせる。それはヘブル書が『両親』の信仰を紹介せんとしているかのように見えるからである。決してそうではない。これはモーセという人物は出生の時からすでに『信仰によって』包囲されていたことを示すためである。如何に彼が信仰の中に懐胎され、信仰の中に分娩され、信仰の中にうぶの声をあげたかを示さんとしているのである。信仰は神の与え給うところであって、人が自分で造り出すものではない。

 ある人は年老いて始めて信仰に入り、ある人は青年の時すでに信仰に入る。早く信仰に入った人ほど幸福である。神が偉人を起こし給う時はその胎内にある時から準備し給うのであって、エレミヤを召し給うた時にも「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(エレミヤ書1:4)と言っておられる。

 モーセの場合においても胎内にあるときから、神は彼のために信仰を用意し給うたと云うのである。だがこれを逆に観察するならば両親の信仰は胎児にも作用することを示すことになる。モーセによってヘブル書が我々に教えんとすることは第一に、信仰は神の賜物であること、第二に信仰によって孕まれ信仰によって生み出された子は幸いであることである。

※この2月8日に、私どもの9人目の孫として誕生した赤ちゃんは、両親により、2列王記2章19節以降を出典として「しおり」と名づけられた。上の青木さんの講解は私たちの「しおり」ちゃんへのお祝いのことばだ。

エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。(旧約聖書 2列王記2章19〜22節)

2024年2月25日日曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(下)

北海道・駒ヶ岳(1131m)※1
 今回、『涙の谷を過ぎるとも』を再読して、気づかされたことは多くある。もともと著者坂本幸四郎さんは旧制函館中学生のとき、アメリカ人宣教師の主宰する小さな集会に出席していたが、ある時、集会は閉鎖され、宣教師も帰国した。それは日米の間に戦争が始まったからである。それに呼応するかのように、著者坂本さんは教会を離れた。

 そして戦後まもなく、卒業後選んだ国鉄職員の道(青函連絡船通信士)の中で労働運動に邁進し、共産党の党員となるも、党の実態は戦前の日本社会が抱えていた病理そのものである家父長制でしかないことに失望、脱党し一線から退く。キリスト教への接近から、唯物思想への接近と、振り子は大いに揺れたが、そこにも安住する場はなかったのだ。果たして戦後自分はいかに生きていくべきか考えていた時期、その問いに真正面に取り組んでいたのが、全16巻からなる『戦後思想大系』であった。

 そして端なくも見出したのが、自分の住んでいる函館で起こった戦前の「小山宗祐牧師補の自殺」という衝撃的な事件であった。しかし、その事実は同じ教派であるホーリネス教会でもしっかりととらえられておらず、徒手空拳とも言うべき、しかも未信者である坂本さんが一切を知るべく奔走したことにより事態が徐々に明らかになっていくという構成であった(※2)。その主舞台は函館であった。そしてふと気づくと、小山宗祐さんは大正5年(1916年)1月生まれだった。

昭和7年6月27日 柏野 北海道号来る
 同じ大正5年1月生まれの人物に母の先夫吉田文次郎がいる。しかも、吉田文次郎は、森から旧制函館商業に汽車で通っており生活圏の一角を占めていた(※3)。小山宗祐さんと吉田文次郎は全く一面識もない別人だが、函館生まれの坂本さんが関西から牧師補として函館にやってきた小山宗祐さんの行動を一々紹介された文章を読むたびに、私の心の中では、いつしかこの両者は自然に重ね合わされていった。そうして小山宗祐さんは私にとってより身近な人ともなった。こんな本の読み方もできるんだなと思った(今までそんな読み方をしたことはなかった)。

 戸籍によると吉田文次郎は昭和13年(1938年)10月11日午後零時五分中華民国江西省瑞昌県瑞昌野戦病院に於いて死亡。小山宗祐は昭和17年(1942年)3月26日午前5時40分函館市新川町28番地に於いて死亡。片や吉田文次郎は22歳で野戦病院で死亡、片や小山宗祐は26歳で新川拘置所内で死亡している。

 小山宗祐が函館に来たのは、昭和16年(1941年)ごろであり、その時には吉田文次郎はすでに戦病死している。もし「戦争」がなかったら、ひょっとして両者は函館で会うことになっていたかも知れない。私の母は先夫を大変尊敬しており、その戦病死さえ、「文次郎さんは〔思想〕でやられた」とも私に言ったことがある。それは私の中学生時代に耳にした言葉で、それは「アカ」を指していたのではないか(と、思う)。本当のことはわからない。

 私の母美壽枝は北海道森町の吉田文次郎のもとに、滋賀から昭和11年(1936年)に嫁いでおり、二人の間にはまだ子どももいなかったが、「戦争」がなかったら、未亡人になることもなく、森町に住み続け、跡継ぎも与えられ、家族で函館や札幌に出かけ、一年に一度は留守宅である滋賀の地に帰ったのでないかと思う。一方、小山さんには将来を約束していた方がいたようなので、こちらは結婚し、良き助け手とともに、牧師として集会を持ち続けたのでないかと想像される。

 けれども「戦争」は昭和13年(文次郎死亡の年)、昭和17年(宗祐死亡の年)を足蹴にするかのように大突進をし、最後は大雪崩のすえ、昭和20年の敗戦となった。ために母美壽枝は昭和15年(1940年)には内地に引き上げ、昭和17年(1942年)には家を絶やさないためと、父膽吹清を婿養子として迎え、その間に私が誕生した。私は吉田家の一人息子として生を受け、吉田文次郎の後を継ぐ者となった(※4)。

 方や、小山宗祐氏は跡取りも残さず、この地上の生を終えた。遺されたものが彼遺愛の聖書であり、その聖書は坂本さんの手に渡ったのは、前回触れた通りである。その坂本さんもネット情報によると、1999年(平成11年)に亡くなっている。果たして今その聖書はどこにあるのだろうか。いやそれより、坂本さんのキリスト教への接近は果たして最後どうなったのだろうか。

 坂本さんは、イエス・キリストの教えには心惹かれるものがあっても、聖書の非科学的なところが受け入れられず、また現実のキリスト者のありかたにも飽き足らず、かと言って社会改革の道を歩む運動体にも希望が持てず、一人のキリスト者の死の道を辿ることを通して、求道の道を続けられたのであろうか。その成果がこの一冊の『涙の谷を過ぎるとも』(1985年刊行)の本であった。その書物が出版されるころ、すなわち1984年(昭和59年)、職場の同僚とともに、函館の地を歩いたときは、私は胸底に吉田文次郎・美壽枝夫妻の故地を訪ねる思いを秘めており、思いは森に集中しており、函館遊歩の時は残念ながら上(うわ)の空であった。

 81年の歩みを許され、こうして様々な人々の歩みを知るにつけ、いついかなる時も懸命に生きるべきことを教えられた。函館は生涯一度しか訪ねたことがない。その函館を通してこんなにも多くのことを考えさせられるとは。「あだや人生無駄に過ごすべからず」である。それが私のこの本を読んでの率直な感想である。

※1 母のアルバムにあった写真であるが、亡夫吉田文次郎の撮影によるものと思われる。今まで何となく、この写真を見ていたが、今回、よく撮られている写真だと思った。私の撮った写真(『涙の谷を過ぎるとも』上、所載)は駒ヶ岳を背後にして駅頭から湾に向かってのものだった。以前、この森町にOMFが初めて入ったことを記した。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_22.html
この湾奥から森町に彼らは上陸したことを追体験し、これまた感慨を新たにさせられた。

※2 この事実は一人のキリスト者であり、同志社で教鞭を取られていた和田洋一氏たちによって初めて明らかにされた。

※3 今回、吉田文次郎の遺したアルバムを点検してこの写真に注目せざるを得なかった。
キャプションは吉田文次郎の筆跡であり、昭和7年は彼が15、6歳のころである。このような小型飛行機は国民の拠金として軍に献上されたものである。彼はこの勇姿を収めている。この時、彼は、アカどころか、一端(いっぱし)の軍国少年であった!

※4 この辺の事情については本ブログに既に投稿してあった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post_15.html

 唐突だが、今朝の春日部の福音集会で話された方が引用されたみことばを記して置く。私にとってこの本を二度まで読んだ(いや、二十数年前をふくめると、三度と言うべき?)感想と無関係ではない、聖書のみことば、イエス様のおっしゃったことばであった。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(新約聖書 マタイの福音書17章20節)

「からし種」と「山」、何と対照的なものをさして、イエス様は私たちの迷蒙を打ち砕いてくださるのだろうか。所詮、私たちの信仰はもとより、私たちの存在は、からし種に過ぎない。それが「不動」にして「大いなる」山を動かすことができるとおっしゃっている。そんな馬鹿なことが、と誰しも思う。極めて良心的で真摯であった坂本さんが「聖書の非科学的なところが受け入れられず」と言われたのは、このようなイエス様のことばもふくんでいるのではないかと思う。しかし、神の上に人がいるのでなく、人が創造主である神の前に頭を下げなければ、信仰は生まれない。恐らく、その一点が坂本さんをして、福音から遠ざからしめたのではないかと思う。

2024年2月24日土曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(中)

 『涙の谷を過ぎるとも』という本は、小山宗祐(そうすけ)という牧師補が、昭和17年(1942年)1月に、治安維持法違反の疑いで逮捕され、3月の公判中に拘置所内で自殺する事件(※1)について考察されている本である。

 私はこの本を二十数年前には手にしていたが、2003年に蔵書を大量に処分した際、処分してしまった本である。そのような本をなぜ再び、今度は図書館から借り出してまで読む気になったか、と言うと、それはひとえに一月(いちがつ)以来ずっと追跡していた「山崎鷲夫」氏の存在にかかわることである。

 私は山崎さんが書かれた『宣教物語 地の極の開拓者』の叙述に痛く感動した(※2)。その際、この著者はどのような時代・環境の下でこの本を書き、これだけの叙述ができるかその理由が知りたくなり色々調べた。その結果、彼には『ホーリネスバンドの軌跡』(1983年刊行)の編著者としての総頁数800頁弱にも達する大部の本があり、この本は先ほどの『涙の谷を過ぎるとも』とは異なり、処分せず、私の書棚に残っていることに気づいた。ただし紐解いたことはなかった。

 今回概略眺めてみたが、その時、改めて小山宗祐牧師補の一件をどのように山崎さんは受けとめているのかが、戦前の著作の好印象もあり、気になった。それもあり、この坂本幸四郎さんの書かれた『涙の谷を過ぎるとも』を思い出し、是非とも再読しなければと思い立った。今週市外の図書館を経由して借り入れることができた。幸い、二回読むことができた。そしてこの本の魅力が何なのか改めて考えた。

 それはそのままでは歴史の中に埋もれてしまいかねない小山宗祐氏をその死後、28年経っているのに、その真実を調べ上げていった根気強さとその愛の尊さを随所に感じさせられるものだった。

 そもそも、一人の人間の生と死は必ず戸籍に記録されるが、その戸籍を知ることが、場合によっては、いかに困難になるかを知って驚かされた。特に、自らの信仰のゆえに国策である戦争に異議を唱えざるを得なかった小山宗祐さんの場合、非国民として罰せられたので、周りにいる者のすべてが(家族やキリスト者をふくめて)事件には決して触れて欲しくない思いを戦後数十年経っても持ち続けていたので調査は困難であった。

 著者の坂本幸四郎さんが最初調査に取り掛かったのは1969年(昭和44年)とあった。その時、彼は自らの戦争体験を振り返りつつ、次のような確信を持っていたのがわかる(※3)。

「生身の人間にとって歴史とはなんだろう。歴史の書にあらわれてくる人名は著名な人で、指導者である。そのほかはひとりの人間として無視され抜け落ちている。このひとたちに歴史がないのだろうか。そうではない。書かれないだけだと痛く感じた。
 軍隊生活を思いだした。ここは極端な員数社会である。ひとりの人間の人格、自由が抹殺されている。・・・
 書かれない歴史のなかにうごめく無数のひとがいる。新聞の束の裏から何千、何万という目がこちらを見ている気がした。その中に小山宗祐青年の目がある。わたしによって書かれた歴史にしなければならないと思った。」(同書43〜44頁より)

 結局、彼の試みは成功したのでないだろうか。小山宗祐氏の両親も兄弟姉妹も亡くなったのに、1985年の墓参にまで京都へと出かけるようになったほど残された遺族から信頼されていたからである。そして、そのあと、一冊の小山氏の遺品である聖書が坂本幸四郎さんに託される。著者はその聖書を手にした感想を次のように書き留めていた。

「しずかに頁をめくると、いたる章句に青や朱の傍線が引いてあり熟読したことがわかる。各書の冒頭に、詳細な書き込みのある手製の頁がある。・・・さすがイラストの名手だけあって、楷書で細字をびっしり書きこんである。どれほど魂を注ぎこんで読みこんだかひしひしとつたわってきた。
 この聖書はおそらく憲兵も特高も見た。しかし乱暴に扱われず損傷することなくもどされたのは、この聖書の傍線と書き込みに気圧されたからに違いない。彼らは宗祐の肉体を拘引したが、宗祐の魂の書は拘引できなかった。
 聖書はいま小山宗祐牧師補の化身となってわたしのところにある。(※4)」(同書228頁より)

※1 自殺かそれとも拷問死か真偽を調べようと奔走された。これは簡単に結論が出る問題でないが、著者は可能な限り客観的文書の存在にあたろうとするが、当時の国家体制では結局無理ではなかったのではなかろうか。現在のロシアにおけるナワリヌイ氏の処遇を見てもわかる。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_25.html
そして、意外や意外、その山崎氏が坂本氏のもとを訪ねていることが次のように述べられていた。「1982年(昭和57年)の夏、ホーリネス教団の東京聖書学院教授、山崎鷲夫氏が函館の拙宅にこられた」(同書202頁)山崎鷲夫氏の略歴をこうして間接的に知ることもできて、私の疑問も解けた。一方、この「鷲夫」という名前は、『荒野の泉』の訳者である父亭治氏の命名でないかと勝手に想像している。すなわち、旧約聖書イザヤ書40章31節「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

※3 1969年の1年間、坂本氏は事件の真相をつかむために東奔西走するが、そのきっかけになったのは筑摩書房刊行の『戦後思想大系』の中の一巻であり、その本を通して「戦前が何であったか、さらに戦後の意味を考えることになった」(同書31頁)と述懐している。私が信仰の問題を抱えて、生死をかけて苦闘していた時は、まさしくそういう時代でもあったことを彼の行動に照らし合わせ、改めて深く考えさせられた。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

※4 この感動的な文章に誰しも満腔(まんこう)の敬意を表明するのではないだろうか。しかし、それだけに私には坂本氏が小山宗祐氏の真奥の霊の姿も見ていただきかったという思いを禁じ得ない。それは彼が小山宗祐氏の生涯を振り返って、あとがきに次のように書いていることにも関連することである。

「小山宗祐牧師補が自殺し、遺品となった彼の聖書の手製頁の書きこみの中に、詩篇84篇6の『涙の谷を過ぐるとも』があった。どうしたのかここだけインクのシミが涙のようについている。涙の谷、それは権力に圧殺された民が、原始から今に続いて流した血涙が埋めたものである。
 この民らを救うものが宗教であるのか社会の変革にあるのかわからない。涙の谷が、はるかな未来につづき、果ては人類滅亡の日をむかえるのではないかと恐れがある。」(同書231頁)

 坂本氏が本の題名として引用した聖書84篇6節全文を下記に引用したい。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

 坂本氏は聖書のみことばの前半部に注目され、またご自身の探究の結果をすでにご紹介したようにまとめられた。そのことに異論はあろうはずはないのだが、私は今ひとつ付け加えたいことがある。それはみことばの後半部である。「そこを泉のわく所とします」。これはまさしくキリスト者の抱いている「いのち」の喜びに、つながる大切なみことばであると思うからだ。だから、坂本氏には「宗祐の魂の書は拘引できなかった」と書くだけでなく、「宗祐の霊は拘引できなかった」と書いて欲しかった。私たちを霊的に指導してくださったベック兄は「歌うもの、踊る者、皆言わん。わがもろもろの泉は、汝のうちにあり」(詩篇87篇7節)といかなる時もイエス様に信頼するようにと、この文語訳の聖書の言葉を口癖のように言っておられたことを思い出す。これも同じ心であろう。さすれば、小山宗祐牧師補は若年ながら主にあって殉教されたのではないだろうか。

2024年2月23日金曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(上)


 1984年(昭和59年)3月 、職場の同僚11人で函館に旅したことがある。こんな写真があることを思い出したのは、最近『涙の谷を過ぎるとも』(坂本幸四郎著、河出書房新社、1985年刊行)をこれまた数十年ぶりに手にとっての読書中のことであった。

 同書の冒頭近くにこれとほぼ同じ建物(教会建築群)の写真があったからである。私たちの旅は八人のクラス担任と副担任三人からなる、解散旅行であった。当時私は学年主任の立場にあったが、主任とは名ばかりで、実際はそれぞれの先生方が個性あふれるクラス経営をなさっていて、私も主任であると同時に担任でもあったので教られることばかりであった。この函館行きも副主任である先生のリーダーシップよろしく、三学年を卒業させたあと学校側からも暖かい支援をいただいて旅立ったものであった。

 ところが、肝心の私は当初それほど乗り気ではなかった。他の先生方の熱意に押されての旅路であった。しかし、その実、私には一つの隠された目的があった。それは亡母が戦前1936年(昭和11年)に函館とは目と鼻の間とも言っていい、森町に嫁いで夫が亡くなるまでそこで過ごし、滋賀の家の出先の地であったことが常に念頭にあり、一度是非この目で森町の旧跡を訪れたいと思っていたからである。それは若くして逝ってしまった母の思い出の地をどうしても追体験したかったからである。

 函館に着いてもその思いが強く、一行の皆さんとは単独で別行動を取った。そして念願の森駅、旧跡を駆け足ながら、見歩くことができた。三月とは言え、北海道は寒く、森駅から太平洋(実は湾であったが)を望見し、その余りにも寂しい姿に亡母の思い(20代そこそこでここで過ごし、戦争で夫を亡くした)を重ね合わせ、私の思いは複雑で泣きたい思いであった。それは再び他の皆さんと合流しても消え去らぬ思いであった。しかし、自分はこうして亡母の地、先祖が生活をした現地をこの身で体験したという確かな思いが残った。

 そういう意味で、1984年の学年解散旅行は私にとって忘れられない旅路ではあったが、その後、ブログで時々その亡母のことを触れることはあってもそれ以上出ることはなかった(※)。ところが今回、『涙の谷を過ぎるとも』というほぼ同時期に出版された本の再読をきっかけにさらに深いことを考えさせられたのである。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

2024年2月15日木曜日

幸いな人

如月(きさらぎ)の ダブル祝意 寄すケーキ(※)
 先週木曜日2/8に赤ちゃんが誕生して、一週間が経つ。月曜日には、産院を退院して、産後しばらく過ごすために、私どものところに母娘がやって来た。身近に赤ちゃんを覚えるのは久しぶりだ。五人も子どもを産み育てた家内もまったく忘れてしまっている。ましてや夫である私には、断片的な記憶こそあれ、ほとんど覚えていない。昔、湯川秀樹がどこかで孫に接する発見・喜びを淡々と綴っていたが、それは人間に対する驚きであったように思う。

 娘が誕生した年、1981年に、湯川秀樹は亡くなった。あれから43年経ち、81歳のこの歳で孫の誕生に立ち会うとは随分な果報者だと思う。一日一日を大切に過ごしたい。さて、女親が死ぬ思いで出産の苦しみをさせられるのに対して、男親にはいよいよ「我も親か」と一段とすべてのことに積極的になるのでなかろうか。その初仕事は名づけであろうか。

 娘の旦那さんも名前をつけるのにどのような知恵をしぼっているか楽しみであった。月曜日、初めて赤ちゃんに対面した時に、「赤ちゃんの名前は聞かないの?」という娘の言葉で(それまでも聞きたかったが、まだ考え中だと悪いと思って聞いていなかっただけなのだが)聞いてみた。サラサラと名前が出て来た。正直言って少し拍子抜けした思いであった。家内は単純に喜んでいた。

 その後、話するともなく家内と娘が話し合っている会話の中でその赤ちゃんの名前の由来が語られていた。そしてびっくりした。その旦那さんの妻を愛おしむ思いが、その名前に込められていたからである。その話というのは以下の聖書の故事だという。

この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。(旧約聖書 2列王記2章19〜22節)

 苦難も、喜びも共にする旦那さんの優しい心を感じて私は嬉しくなり、最初、拍子抜けした我が思いを恥じるばかりであった。

※長女が五人の子育てで、手慣れたとは言え、今週火曜日に遠路届けてくれた。2/7の私、2/8の赤ちゃんの誕生の祝いだった。私たちもこれに答えて、次女夫妻と二日がかりで舌鼓を打った。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(新約聖書 ルカの福音書1章45節)

2024年2月11日日曜日

主がくださる贈り物

春を呼ぶ 伊勢崎ピアノ 音響く
 三ヶ月ぶりに伊勢崎に行って来た。残念ながら、我がメッセージは、時間ばかり喰い、要領をつかんでいただけない代物(しろもの)であった。いつものことではあるが、こういう場合、帰る時には気が重い。しかし、今日は少し違った。それは駅構内に入るや、写真のピアノ演奏が行われていたところに、ちょうど遭遇したからだった。例により音楽の素養がない私なので演奏曲が何なのかわからないが、勝手にショパンのポロネーズの演奏ではなかったかと家に帰って調べたら、そのような気もしてきた。

 問題はこのような演奏が駅構内の自由通路で行われていたことだ。周りには駅ベンチに腰掛けている二十数人の人がいるだけで、その人たちも特別その演奏を静かに聴こうとしてその場にいる人でなく、私のように電車の待ち時間を過ごしているに過ぎない。ピアノ演奏者は、冬の自由通路ゆえ、外の風も吹き込む寒いところにも関わらず、ただピアノに向かって一心に鍵盤を叩いておられた。私はしばしそのピアノに耳を傾けた。演奏が終わるやどこかから拍手が起こるかと思いきや、何の反応もなかった。その方はピアノの蓋を閉じ、まるで何もなかったかのように、その場をさっと立ち去られた。私は「それでいいの」と思いながら見送った。

 演奏者もいなくなり、ピアノは、一人取り残された感じになった。それまで遠目で見えていた、派手派手のピアノのラッピングを近くで見て、写真に収めた。ところがそれから十分ほど経ってからだろうか、今度は別の人がピアノに向かって演奏を始めた。その時にはもう帰りの列車に乗る時間が来たのでその場を離れざるを得なかったが、後にしながら、「伊勢崎市やるじゃない!」と嬉しくなった。市民がこうして誰にも拘束されることなく音楽を楽しむ場所が公共空間に設けられていることに拍手を送りたいからだ。

 演奏者はそれぞれ自己の信念に基づいて演奏し、静かにその場を立ち去る。多くの人は無関心であるかもしれない。けれども、きっと聞いている人も中にはいらっしゃるだろう。その人たちにとって、その音楽により慰められたりするのではないだろうか。それだけでなく、自分もやってみようと思う人も出てくるのではないかと、このような試みがいつまでも続けられるようにと願う(※1)。

 さて、春日部から伊勢崎は電車で二時間弱、三月に一回と言うペースはいつも車窓から見る景色に四季折々、魅了させられる。今回も往きの時、利根川を渡る際の風景は遠く富士山も見え、なかなかいい景色なのだが、いつも撮りはぐる。行きはそれどころでない。まずくはあれどメッセージの仕込みにそれこそ神経を集中しているからだ。帰りはその点、その日の出来具合にがっくり来ていても、車窓から見る風景は私にとって大いなる慰安の時である。何枚か写真に収めたが、冠雪している山は、多分日光の男体山だと思う。これらの山容は足利付近から撮った。こうしてみると、埼玉県の平野部に住みついてほぼ半世紀経つのだが、滋賀県という山や湖・川に恵まれた地に生を受けた私には、心の奥底に、川だけでなく、やはり山を見ているとなぜか心が落ち着くのだ(※2)。

 今回はメッセージのまずさを指摘するだけで、多くを語れず、それに合わせるかのように、小さなお交わりを書き留めることはしなかったが、いつもに変わらぬ豊かな交わりを得た。互いの高齢化に伴う肉体の各器官の衰えを意識しつつ、病を新たに得た友を心配し、例の犬騒動のあった場所は、広い伊勢崎市なのに、意外と礼拝した場所の近くであったこと、またお隣の前橋市政のことなど、行動して初めて知り得る数々の事実もあった。振り返れば、三月に一回の伊勢崎行きはこうして今回も私にとって、主から多くの贈り物をいただいた時となった。

※1 詳しい内容は「伊勢崎駅ピアノ」で検索されると知ることができます。なお、解説を見られるとそのピアノの由来もわかりますが、このピアノのラッピングは「赤いレンガ造り」というテーマで「伊勢崎銘仙」を基調に制作された須藤玲子さんのデザインによるものだそうです。

※2 『翔んで埼玉ーー琵琶湖より愛をこめて』を昨年末、郷里滋賀県の彦根の劇場で見ました。この二月八日に生を受けた赤ちゃんは果たしてどんな思いでこれからの生を送っていくのでしょうか。生まれてからの一日一日の歩みを通して、キリストにある豊かな交わりを体験していって欲しいなと思わされています。

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(新約聖書 コロサイ3章16節)

2024年2月9日金曜日

可愛いゆりかもめ


 「果報は寝て待て」とは昔からあることわざだが、1月27日に予約しておいた図書が入ったと今朝、図書館から連絡があった。予約したのは、山崎鷲夫さんに関する1978年刊行の岩波新書であった。他館からの借り入れだから、すぐは入らないとは思っていたが、一週間経てども連絡がないので、最初イライラしていた。その後、半ば諦めもし、ここ二、三日は忘れてもしまっていた。その本が入って来たと知り、改めて我が身の「忍耐心」のなさを、知らされた思いであった。

 図書館までは一キロほどかかるが、やはり古利根川に面している。この近辺を流れる古利根川には、鴨群に対抗するかのように、もう一方の覇者である「ゆりかもめ」が棲みついている。ひょっとして今日もいて何らかの写真が撮れるのでないかと期待して出かけた。案の定、ゆりかもめは、川中に固まっていた。それだけでなく、時折り飛翔しては橋の欄干や高い照明灯を止まり木にして、まるで私に写真を撮っていいですよと言わんばかりだった。鴨ほどは警戒心がないのはありがたかった。

 さて、そんな忍耐心のない私だが、その娘である次女は昨日無事に女の子を産むことができた。高齢出産で気が気でなかったが、こうして無事に生まれてみると、主なる神様の御守りと皆さんのとりなしの祈りの賜物と思い感謝に堪えない。

 元々結婚も願えど、中々、導かれず、ほとんど諦めかかっていた時に、不思議なるかな、職場の同僚の方と一緒になれた。そうして結び合わされた二人であったが、こどもが与えられず、これまた半ば諦めていたが、友人に励まされて、今回の初産となった。

 それにしても十月十日とはよく言ったもので、長い長い忍耐の月日でなかったかと思う。でも過ぎ去ってみれば、短かかったなあーと思ったりする。私にとっては「果報は寝て待て」であったが、当の本人はこれまた「案ずるよりは産むが易し」と、ことわざ通りであることを体験したことであろう。コロナ禍の病院で、昔のようにすぐ駆けつけて、ねぎらいの言葉をかけたり、赤ちゃんの姿を見て感動するような場面はないが、いずれ退院してじっくり赤ちゃんと対面したいと願っている。 

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(新約聖書 ヨハネの福音書16章21〜22節)

2024年2月8日木曜日

雪は人の心を溶かす


  娘の出産が間近に迫って来たので、こちらも受け入れ態勢を整えねばと部屋の整理に及んだ。たくさんある額の処分もその一つだが、中々踏み切れず、困るなあーとため息を吐(つ)いていた。そのうちこの額が目についた。小村雪岱の「雪兎」と題する版画である。

 1970年代も終わりに差し掛かっていたであろうか。現在の地に引っ越して来たが、斜め向かいの老夫婦が暖かく迎え入れて下さった。その後、行き来もし親しくさせていただいたが、そのうちにこの作品を上げると言われた。江戸っ子だったのか、気風(きっぷ)がよく、面倒見の良い方だった。関東大震災の写真も所蔵しておられ、私が社会科教師であることを知ってだろう、「見にこない」と声をかけてくださったりしたこともあった。

 折角いただいたのに、それ以来、子育てやら何やらと余裕もなく、飾ることもせず、押し入れにしまい込み、いつの間にか埋もれてしまっていた。この版画を下さった方はもう10年近く前にお亡くなりになり、家も壊され、今では新しい方がその方の旧宅跡地にはお住みになっている。日増しにその方からいただいた御愛も忘れてしまっていた。

 しかし、こうしてこの作品が出て来て、いただいた当時のことも微かに思い出すことができた。作品を調べてみると、どうも1943年の制作のようであった。2百7、80枚あったものの一つであった。私と同期であることに親しみを覚えると同時に、二日前に雪が積もったことを思うと、この「雪兎」と題する版画がタイミング良く出現したことを喜び、遅まきながら、作者の心意気を少し味わっている(※)。なお、その向かいの方は雪岱の甥御さんということであった。

※画面をよく見ると、大空からコンコンと雪は止まることなく降ってくるようだ。一方、傘を差して雪見するかのようで、またそうでもないかのように、美しい着物姿の女性が腰を下ろして「雪兎」を掌(たなごころ)に持つ。私には、何とも言えない切ない雰囲気が伝わってくるように思えてならない。これが日本画、日本人魂の特徴かもしれない。そして、同時に、これを機会に、旧作だが、「雪のたから」の文中の一挿話を思い出した。こちらはこちらで、創作とは言え、今も私の心を芯から揺さぶる話である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/03/blog-post_30.html

あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。(旧約聖書 ヨブ記38章22節)

2024年2月7日水曜日

恵みとあわれみとの冠

白鷺の 降り立つ河原 雪白し

 昨日と打って変わって晴れた一日となった。樋(とい)を伝う、雪解け水の「せせらぎ」、と言っていいのか、もっと上手い表現がありそうなのだが、思い浮かばない。その音は私の郷里滋賀の冬の思い出へと一挙に引き戻す。寒い寒い冬、雪に閉じ込められる思いがする中で、この融雪水の流れる音はそのまま春のおとづれを伝えるようで心が暖かくなったものだ。

 勇気を出して今日も古利根川を散策した。昨日あんなにたくさんいた鴨たちは一体どこへ姿を消したのか、ほとんど見かけなかった。それでも桜の木々には、小鳥たちがチュッチュ、チュッチュと囀っている。梢のてっぺんの方で彼らは彼らで陽の光を喜んでいるのだろうか。囀りの声で、即座に鳥の名前が言えればさぞ楽しいだろうなあーと思い、せめて囀りを擬音化してみようと試みるのだが、これが中々うまくいかない。

 そろそろ今日もこれにて散歩は終わりと橋を渡っていたら、何やら白い羽根を羽ばたかせて上空から舞い降りる鳥がいた。白鷺だった。昨日は姿を見せなかったが、昨日の不在を今日埋め合わせるかのように。こちらは、あわててiPhoneを引っ張り出し、その姿を追う。残念ながら彼の飛行はとらえられず、かろうじてその歩みを追うばかり。ただ、遠ざかり行く彼の姿と土手に積もった雪、また川の間に挟まった写真が出来上がった。写真(家?)の迫田さんは雪の景色を綺麗に撮っていた(※1)。

 ところで、今日は我が誕生日だった。痩せ我慢を張るわけではないが、誕生日だからと言って特段、何もするわけではないが、子どもたちがそれぞれ祝意をあらわしてくれる。みな、LINEだが、それで十分だ(※2)。次女の出産予定日は昨日だった。むしろその方が気がかりだ。生まれたら、それこそ文句なしの祝い事だ。一緒に祝いたくなるのが人情というものだろう。逆に言うと、81年前、やはりそんな人々の期待、祝意をもって自分も迎えられたのだと思うとただ感謝である。

 『日々の光』という聖書日録の今日の箇所はそんな私にうってつけのみことばであった。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。・・・主は、あなたのすべての咎を赦し、・・・あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせられる。(旧約聖書 詩篇103篇1〜4節)

※1 https://www.sakota575.com/%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%AE%A4%E2%91%A1/

※2 午後、一人の方の要請を受けて、友人とその方を訪ねた。私は、初対面だとばかり思ってお訪ねしていたが、その方はお会いするなり、「お久しぶりです」と言われた。話によると、20年前私の家に来られてお話しした、その上家内から聖書をもらったと言われた。私はすっかり忘れていた。辞去して、帰り道、その方のことを少しずつ思い出し、すっかり忘れていたことを申し訳なく思った。国会では盛山文科相が、最初は記憶していないと言い、翌日追求を受け、少しずつ思い出したと答弁して問題になっている。彼我の違いは、政治家と一市民との違い、それゆえに責任の重さの違いこそあれ、すべてを知られる神様の目から見れば、もし、私がその方に記憶していないと言い張るなら、同罪だと思わざるを得なかった。今はその方に、一時的とは言え、その方に覚えていないと言った私の非を謝りたいと思っている。一方、人間には記憶違い、とんでもない思い違いがあることも事実だ。そして81年間の我が歩みの中には、覚えていないこと、忘れてしまっていることが、まだまだたくさんあるのだと思い至った。だからこそ主の恵み、あわれみはありがたいのだ。

2024年2月6日火曜日

「飛翔」する鳥たちの冬

翡翠の ダイビング様(よう) 見たし冬
 昨日は、事前に大雪の予報が出ており、ほぼその通りになりましたが、半雪国に育った私にとってはそれほどの雪とは思えませんでした。でも、予報にしたがって、散歩や買い物は午前中に済ませました。正解でした。画面の写真は、河岸に餌を求めて余念がなく、いくつもの塊になっている鴨群の中の一派が人の気配を知って、一斉に飛び上がるところです(下図の写真が飛翔する前の平和な彼らの姿です。平和を乱したのは私たちの闖入でした!)。

 一体、古利根川には何羽の鴨が生育しているのでしょうか。寒さも寒しの中、彼らは水中に陸(おか)にと各自、餌をせっせと集めているのです。そんな折り、昨日の東京新聞の夕刊トップニュースは「マガモ食は茨城にあり」と、水中のマガモの写真を載せていました。そこにはその🦆がレンコン生産農家にとって大きな食害になっており、その窮余の策として、県がマガモを捕獲し、フランス料理のメニューとし、「高級品」として推奨していると書いてありました。

 哀れと言えば、哀れですが、大変な人間の知恵が求められているのだと思いました。その鴨群が飛び去った後、今度は「翡翠(カワセミ)」にお目にかかりました。ススキの穂先にあたるでしょうか、そこにやや黒味がかったように見える鳥が一羽見えたのです。しかし、私たちの気配を感ずるや、これまたすぐさま、より川中に近い草木の上へと飛び去りました。そこに鮮やかな翡翠(ひすい)色が見えました。どうしてあんな色が出せるのでしょうか。それにしても、曇天の空、いずれは数時間後には雪雲に変わる空のもと、翡翠は川中の魚を求めてダイビングするため、さらに私たちの思いを見透かすかのように、川中へと飛び去って行きました。残念ながらその姿をiPhoneではキャッチできませんでした(※)。

※『野鳥観察図鑑』の説明によると、「翡翠は水面上に張り出した枝や岩などに止まって水中の獲物をねらい、直接または空中で停空飛翔してから急降下し、ダイビングして捕える。魚が主食だがエビや水生昆虫も食べる。」(132頁)とあった。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰られた。(旧約聖書 創世記1章26節)  

2024年2月5日月曜日

父子の絆(『荒野の泉』と『宣教物語』)


 今日の写真は、『荒野の泉』と『宣教物語ーー地の極の開拓者』という二冊の本の表紙を並べさせていただいた(※1)。それは他ならぬ、今回「ツィンツェンドルフ伯爵」のことを詳しく知ろうとして、思わず知らされることになった様々なことに、今一つ加えるべき事情があったからである。

 『荒野の泉』の訳者は山崎亭治さんであるが、その訳者あとがきは次のように記されている。

『荒野の泉』を読み出したのは大正の末期、原書の出版早々であったと思う。当時は仙台教会の牧師をしていたが、所属教団内部にも教会にも情勢の変化が生じ、私は内的に非常に大きな苦悩を感じていたが、本書によってこの霊性の危機から救い出されることができた。それが動機で本書の翻訳を始めその一部を戦前の雑誌「聖潮」に掲載した。また出版の許可については著者ミセス・カウマンが最後に日本に来られた時すでに与えられたのであったが、当時の社会情勢では出版することは不可能であった。しかもその当時の原稿は幸か不幸か戦災にあって消失してしまった。しかし戦後私はまたもやこれが翻訳を志し、教務の余暇を利用して訳業を進めた。巡回の時なども時を見出して訳した(※2)。さて訳了はしたものの、明治育ちの私の文章は現代の人たちに興味を持たせることは無理であった。いろいろな工夫をして見たがうまくいかないので、長男鷲夫夫妻に仮名遣いと文章の修正の一切を託した。・・・

                 昭和39年(1964年)12月

 ここまで読むと、山崎亭治さんが『荒野の泉』(カウマン夫人著)を翻訳された動機と、その翻訳版が出版されるまでに、一時は原稿が焼失するなど紆余曲折があり、最後、令息の鷲夫夫妻の手を借りて日本語版が完成したことがわかる。英語版は1925年だということだから、すでに40年近い日月が経過していたことになる。

 ところで、写真の右側にお載せした『宣教物語ーー地の極の開拓者』の著者は山崎鷲夫さんである。私がツィンツェンドルフ伯爵について朧げながら初めて知ったのはこの本が最初であった。ところがこの本は家の中に埋もれてしまって見つからなかった。その挙句去月中旬頃出てきた。私はその本の叙述を読みながら、著者は全然経験もしないことをどうして書けるんだろうか?原本があり、それを翻訳しているのでないかとさえ思った。ただ本には前書きも後書きもないから、私の勝手な推測に過ぎない。それとは別に一番後ろに刊行月日が昭和16年(1941年)1月1日と記されていることが私には最も印象深かった。なぜなら翌年(1942年)の6月26日、この父子は治安維持法違反の容疑で他の多くの人々と共に逮捕されたからである(実際は戦後の10月に免訴になったのだが)。

 そして、改めて我が蔵書を調べてみると、『祈祷の目的』(E,M.バウンズ著山崎亭治訳)もあることに気づいた。しかも山崎鷲夫さんの編集された800頁弱の大冊の存在があることも知るようになった(※3)。私は、今、この亭治さん、鷲夫さん父子の歩まれた時代を追い始めた。これが悲しくも「日本の宣教物語」の一つなのだろうか、という思いで。

※1 右側の写真を拡大して、西インド諸島の人が「両手を挙げて福音を待ち焦がれている姿」がイラストとして描かれているのを確認されたし。これがツィンツェンドルフ伯爵に引き入れられたヘルンフートの人々が最初に国外からの招きに応えて渡っていったことを記念するイラストである。他の四つのイラストもそれぞれの宣教地となった地をあらわしている。一番北にはエスキモーの人々の住むラプランドが示されている。

※2 山崎亭治氏は牧師、聖書学院の教師などを歴任され、1970年版の新改訳聖書の翻訳にも携われたが、新約聖書のヨハネの手紙の翻訳は山崎亭治さんの労作のようである。

※3 この本も40年ほど以前に購入して以来、今日まで全く開いたことがなかった。自分には無関係だと決めつけていたからである。だとしたら、なぜ購入したのかと問われるかも知れない。人生とは案外そういう面を持っているのでないだろうか。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(新約聖書 1ヨハネ4章8節〜10節) 

2024年2月2日金曜日

B. McCall Barbour 書店の証

B. McCall Barbour 書店(エジンバラ 2010.10.5)
 『荒野の泉』というキリスト者の間で読み継がれているベストセラーがある。それは365日、それぞれの日毎に聖句を載せ、それに関する、過去のキリスト者の霊想が並行して載せられている書物である。私はこの本を、書架に並べているが、いまだにキチンと読んだことがなかった。それに比べると、家内は長年愛読しており、何人もの方々に贈り物として数年前まで使わせていただいていた本である。そういう意味では、私にとっても馴染みのある本である。

 ところが、今年の年頭に、主にある親しい友である方から、いただいた風景入りのカード(※1)の中にツィンツェンドルフ伯爵の言葉が載せてあった。最初、この伯爵の言葉の文字が小さくて読み取れなかった。もっと知りたい、いったいどこに載せてあるのだろうかという思いであった。そして、ひょっとしてこの『荒野の泉』に掲載している人物の中にあるものではないだろうか、というのが私のちょっとした勘だった。ところが、どうしても見つからなかった(※2)。その代わりに、1月14日に登場する「J・ダンソン・スミス」という人名が妙に気になった。

 そして、過去のブログ記事(※3)を繰って見て、まさに私の脳裏にくっきりと刻み込まれていた「J・ダンソン・スミス」氏、まさしくその人だった。2010年、結婚40周年を記念して、海外旅行を子どもたちがプレゼントしてくれた。その時、選んだ最初の訪問地はスコットランドのエジンバラであった。そのエジンバラで偶然にもJ・ダンソン・スミスさんの御子息(お嬢さんと息子さん)の経営する書店に入り、しばし御交わりをさせていただいたことがあったからである。もとより、異国人同士である私たちは、その時が初対面であり、お互いに未知であり、それゆえに私たちはお名前も、またその方がどんな方かも知らなかった。

 ところが、その一連のブログを読んでいただくとわかるが、お嬢さんである方が「今度は天国でお会いしましょう」とそのお店を辞去する時に言われたほど、フレンドリーなお交わりをいただいた。そのお父様のJ・ダンソン・スミスさんの霊想が『荒野の泉』に載っているというのは、嬉しい驚きだった。早速、読んでみた。そこには次のような文章が綴られていた。

 彼さきにゆきたもう これは私の慰めである
 彼さきにゆきたもう 私の心はその上に安住する
 彼さきにゆきたもう これは救いを保証する
 彼さきにゆきたもう それゆえにすべてはよい。
              ーー J・ダンソン・スミス

 これまた何と尊い導きの言葉、美しい詩であろうか。彼とはもちろん、主イエス・キリストである。これが、あのパンフレットがダンソン氏を紹介するにあたって述べている「writing beautiful poems」のあらわれの一端なのだろうかと嬉しくなった。

 そして、一月に紹介してきたツィンツェンドルフ伯爵の新生が、十字架上の受難の主を体験することであり、そのことではハヴァガルもまた同様な経験のもとでその人生の画期としていることを確かめた(※4)。ところで、McCall Barbour氏が"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言い、かつ"All have sinned, but the Lord Jesus can save!"とその仕事の後継者であるJ・ダンソン・スミス氏たちをして言わしめていることを、昨日、一昨日のブログで確かめた通りである。

 この時代を異にする四者に共通することは、結局、人間にはできないが、主にはできる。それは人間が罪人だからであり、その罪を贖ってくださったお方はただ一人神の子、主イエス様だけであるという聖書が一貫して私たちに伝えている「福音」ではないかと思った。

 時到り、岸田首相は裏金疑惑を謝罪した。トヨタ会長豊田氏は相次ぐ車両検査の不正を謝罪した。翌朝、TBSの森本毅郎スタンバイで、政界、財界の両トップである人が謝罪を表明せざるを得ず、しかもその謝罪も本当の改革・改善への道備へとなるか大いに疑問だと言っていた。まさに憂慮の日本である。"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言いたい。

 果たせるかな、私たちの日曜の福音集会のメッセージは「私たちにはできないが、神様にはできる」であった。洋の東西を問わず、時代の先後を問わず、主の示される道を歩み続けたいものだ。

 末尾にJ・ダンソン・スミス氏の霊想を掲載している『荒野の泉』の1月14日の引用聖句を掲げておく。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
※2 あとでその方に確認させていただいて知ったことだが、私の推測どおりツィンツェンドルフ伯爵の言葉は『荒野の泉』所載だった。ただ、まさか元旦の日とは思わず、見落としてしまった。

 知らざる道に 神はわれらを導きたもう
 歩みは遅くとも上に導きたもう
 幾度か気落ちして立ちどまるとも
 よし暴風と暗さは日を隠すとも
   やがて雲の去りゆく時 
   神のわれらを進ませたまいしを知る

 事多き年月を越えて神はわれらを導きたもう
 夢の如き希望、疑いと恐れをうちすてて
 たどり難き迷路のただ中を導きたもう
 損失と 悲哀と 雲とざす路のただ中を
   われらは知る 御旨のなされしを
   かくてなお彼はわれらを導きたもう

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※4 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_27.html

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(新約聖書 ヨハネの福音書10章4節) 

2024年2月1日木曜日

協力者・継承者であるJ.Danson Smith

茶梅に 如月の日は 射し出ずる
 昨日に続き、McCall Barbourの書店について記されたパンフレットの訳であるが、誤訳もあると思う。読者諸氏の賢明なご指摘をお願いしたい。明日にはなぜこれを載せたか詳細を報告したい。

The Ministry(宣教活動)

 マッコール・バーバー氏が、1943年(※1)召された時、同氏の親友で協力者であったJ.ダンソン・スミス氏は宣教に変化が生じていることに気づいた。年を経ることはるか以前に、彼は、主に従い、その後についていくために、工学分野の世界で高い地位につくことを諦めた。彼はマッコール・バーバー氏と緊密に働いて、宣教活動の出版面を伸ばした。マッコール・バーバー氏は出版面から離れ、説教や著述が自由にできた。何百という小冊子やリーフレット、みことばカードが発行され、毎年、千人のうちの十分の一、つまり百人に達するまでになった。主はダンソン・スミス氏に特別な賜物を与えられた。それは美しい詩を書くという賜物(※2)で、これらの何百というたくさんの詩がカードの形で出版された。今日彼の聖句は企業によって発行されるグリーティング・カードのほとんどに使用されている。その神が与えられた賜物は引き続いて数千の人々を魅了し楽しませている。

 第二次大戦や神のしもべが召されたことにより集会が中断された。紙はほとんどなく、制限され、多くの問題があるにもかかわらず、主はダンソン・スミス氏が宣教活動を続け、さらにいっそう発展できるようにとされた。年月の経過とともに、結果的には、ダンソン・スミス氏の息子と娘がその働きに召された。五歳で救われ、主によってみことばを取り継ぐように召された息子は文字通り主によって宣教へと「押し出された」。そして彼の妹もかなり幼い歳で主を信じたが、後に続いた。ダンソン・スミス氏が天国に凱旋したあとは、未亡人となった夫人も後に、仕事に参加し、彼らは宣教団の完全なリーダーシップを取った。

 高い郵便料金の出現とともにたくさんの小売商は消滅した。しかし、この時までに多くの聖書販売店から健全な文学に対する需要が増え始めてきた。今ではさらに若い人のリーダーシップがこれを伸ばし始めている。彼らはまた箴言や著名なアメリカの出版業の創設者であった故F・J・ゾンダーバンの助言によって勇気づけられた。今日宣教団は大きく成長し、B.・マッコール バーバー商会は6つのイギリス商会に対する卸売商として活動する以外に、17のアメリカの商会の代理店である。もちろん、自社の本や、グリーティング・カードや贈り物そのほかのものも発行し続けている。最上の販売品はキング・ジェームズ版の聖書だ。そしてこの本に対する需要は(唯一の正確な信用できる翻訳とともに)絶えず伸びている(※3)。

 宣教活動の増大する分野は、直接的には店内にしろ電話越しにしろ人々に対することである。少なからざる人々は救い主を信頼し、今も救いを喜んでいる。主の愛する人々の多くはこれまで励まされてきた。ところが、今日、多くの人は、かなり多くの礼拝場所において、背信とdeclensionのゆえに、交わりが小さいかほとんどない状態である。こういう人々に対する宣教は喜びであり、特権である。

 T・C・ダンソン・スミス博士は、週末には福音を宣べ伝えるために全英各地に出かけている。彼とG・A・ダンソン・スミス嬢および同労者は主にある人々の祈りを大切にしている。日毎にチームとして、私たちは主のあらゆる真実さのゆえに、主に対する感謝と賛美をささげている。同時に、私たちは宣教団を覚えて祈りにおいて支えてくださっているすべての人のために主に感謝している。神に栄光あれ!

 今日、宣教は決して妥協することなく主のメッセージをし続けている。そのことはいつまでも同じだ。救いは悔い改めと主イエス・キリストの血潮による尊いきよめに対する信仰だけである。主イエスだけが唯一の救い主である。主はまもなく再び来られる!

※1 全く、個人的なことだが、1943年は私が生まれた年である。この年にマッコール・バーバー氏は召されたのだ。
※2 この賜物こそ、今回私が明らかにしようとしていることだ。明日、詳述する。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_16.html
※3 ベック兄は聖書は売るべきでないと考え、それを実践した。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(新約聖書 黙示録22章17節)