2024年4月25日木曜日

復活の熱情(3)大指導者の熱情

今日は、ベニカナメの剪定作業に汗を流しました。と言っても、小一時間というところでしょうか(実際は二時間ほど費やしましたが・・・)。長女が剪定ばさみ、脚立を積み込んで都下東大和から駆けつけてくれました。昨日は雨だったか(もはや記憶も定かでないボケ老人の感覚でしかありませんが)、明日はどうなのかわからない天候不順の折、今日しかないと思い定めて来てくれました。

昼食は有り合わせのものを長女自身が作って、「自作自演」っていうところでした。普段中々交われないお互いですから、食べることよりも、どうしても話が弾みますが、遠路ゆえ、それもままならず、二時過ぎには元来た道を急いで帰って行きました。

いつの頃からか、高齢世帯である私たち夫婦を心配して、様々な作業にかこつけてはご機嫌伺いに来てくれます。

今日の写真は庭のブルーベリーの写真です。ただし上の写真は随分昔の写真で自分としては気に入っている写真で、過去のブログにも登場しているはずです。それを見るといつの頃かわかるのですが、多分、今よりはもう少し後の頃だと思います。今日のブルーベリーは、左端の写真です。しかし、この前も雨にも関わらず、大きなヒヨドリがちゃっかりここに潜り込んで、花を食べにやって来ました。猿知恵ならぬ「鳥知恵」はすごいです。仕上がりのベニカナメも載せたかったのですが、まだまだ剪定が不十分で父(とっ)ちゃん刈りなので載せませんでした。

さて、「復活の熱情」は今日で終わりですが、大指導者とは言うまでもなく、イエス・キリストです。この方が、今に至るまでどのように働かれているかを聖書に則って著者は丁寧に説明しています。私は新約聖書二十七巻、特に「使徒の働き」をコンパクトにまとめ上げた叙述だと感心しました。お読みになるみなさんの上に神様の祝福が大いにあらんことを祈ります。


三 大指導者の熱情 

 人々は、指導者に好意を持つ。頭脳においてであろうと体力においてであろうと、他の人に抜きんでた人物は、常に人を引きつける。その人気が続くかぎり、彼が何を事としていようと、人々は、彼のために生き、また死のうとする。それが共産主義とスターリンであれ、大英帝国とチャーチルであれ、または他のどのような結びつきのものであれ、世界の人々は今日においても、平和と繁栄とを約束し、各自の理想を実現させてくれるような指導者を求めてやまない。

 復活のおかげで私たちは、名ざしうるあらゆる人物にまさる指導者を与えられている。時代も、事件も、悪意や失策も、彼を押えつけておくことはできない。このようにして、私たちは、メッセージを伝えるときに彼の権威を保証されているだけでなく、また、その企て自体に、彼の助力を仰ぐことができるのである。

 聖書は彼の指導の方法についてどのように述べているかを見ておこう。彼は弟子たちを、まず、新しい世界に直面させられた。エルサレムの二階座敷をあとに、この小さな群れは、文化的な、しかし冷笑的な世界に、十字架の福音を携えて進んでいったのである。異邦人にとっては、十字架につけられたユダヤ人を信ずればその人は救いを約束される、というような不合理な宗教行為は、愚の骨頂に聞こえた。ユダヤ人にとっては、木にかけられた者をなおメシヤと呼ぶことは、瀆神もはなはだしい主張であった。この群れのだれにとっても、この奇異な福音を、ギリシア哲学やユダヤ的律法宗教に負けない、世界宗教とする伝道計画を立てることは、不可能であった。その彼らを、よみがえりのキリストは、エルサレムに引き止めて、上よりの力を着せられるまでは待つように導かれたのである。彼は弟子たちに、メッセージを、あかし人として語るのであって、演説家、雄弁家として語るのではない、とさとされた。教会を建て上げるのは、主ご自身でなければならなかったのである。「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16:20)「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:47)。

 彼は、事をどのように進めるかについても、彼らを導き教えられた。御霊を通して、方針、組織、計画におけるあらゆる主要な変更事項が啓示されるように、取り計らわれたのである。教会の社会事業のための七役員の選任、異邦人伝道の開始、異邦人回心者の立場に関するエルサレム会議の議決、ローマ帝国の伝道のために通る道筋ーーすべては彼によって決定された。彼は必ずしも、そのしもべの死を免れさせてはおられない。そのようなときにさえ、働く人はなくても、働きが停滞するようなことはなかったのである。彼らのために、彼は時にはドアを開き、時にはドアを閉じられた。彼らが反対に直面したときは、大胆さを与えられた。こうして彼は、敗北の中からひねり出すようにして勝利を導き出し、ローマ帝国のすべての植民州で、奴隷のあばら家からカイザルの宮廷に至るまで、人々がよみがえりの主の福音を知り、信じ、愛するようにされたのである。使徒教会に犠牲的忠実さを喚起したもうた主の助力は、今日の私たちが仰ぐべきものでもある。よみがえりのキリストは、依然として前進を試みておられ、私たちがそれに歩調を合わせることを求めておられる。教会において、商店において、田畑において、会社において、更には、貧民くつにおいても、教室においても、アラビアの砂漠においても、チベットの山においても、また南米のジャングルにおいても、彼は、最初の弟子たちに求められたのと同じ無条件の信仰、同じ不動の忠誠を私たちにも期しておられる。また彼は最初の人々に与えられたのと同じ導きと同じ保護の手を差し伸べておられる。彼は死を征服されたかたであるゆえに、私たちを、その勝利の行進にあずからせ、また、熱心に、歓呼の声をあげつつ、彼に従う者とさせて下さるのである。

導きたまえ 永久(とあ)の君よ
進軍の日 今しきたれり
戦いの野の なが幕屋こそ
今よりのちの われらが住み家
なが御恵みに 強くせられて
備えの日は 今こそ成りね
永久の君よ われらが主よ
高く歌わん 戦いの歌を

導きたまえ 永久の君よ
従い行けば 恐れは去りぬ
恵みの御顔 われを守れば
朝日のごとくに 喜びあふる
十字の光に 照りいだされて
われらの旅路は 輝きぬ
勝利の冠 われらにあり
導きたまえ 大能の神よ
    (アーネスト・W・シャートレフ)

2024年4月24日水曜日

復活の熱情(2)最終的な権威の熱情


あちらこちらの街路のツツジの植え込みは、今時、赤と白で道行く私たちの心を弾ませてくれているのではないでしょうか。特に白色のツツジは、清楚な少女の出立ちをいつも思わされ、身を清められる思いが致します。

ところで、上記画面に見られるように、これまで堤上の桜の木々の下で、ひっそり出番を待っていた植え込みにも、陽が当たる時季がやってきたようです。赤いツツジが「こんにちは」と次々声をかけてくれるようになったからです。

赤いツツジの点描は、そのすぐ奥で、今を盛りとあたり一面に広がるタンポポの園とともに私たちに爽やかな笑顔を振りまくかのようでもあります。自然界は、一刻の猶予もなく、調和した美を私たちに提供してくれます。その自然の秩序は神様ご自身が私たちにくださっている大きな贈り物です。

今日の『キリストの復活』の「復活の熱情」にまつわるメリル・C・テニー氏の話は短いですが、世の権威にたちまさる主の権威がいかに最終的な権威であるかを語っています。その権威の熱情が如何なるものか少しでも知りたいものです。

二 最終的な権威の熱情

 伝えるに足るメッセージを持つということは、一つの事である。それと、メッセージを伝える権威を持つということとは、別な事である。セールスマンは、どんなによい品物を売り込もうとしているときにも、信用ある商社が自分の後ろだてとなっているということが確信できなければ、売り込みに熱心になることはできないものである。疑いと熱情とは、決して共存することができない。そうだとすれば、私たちがある重大な宣言ーー人は、そのメッセージを信じて救われるか、または、それを拒否することによって失われるか、二つのうちの一つを選択しなければならないという、猶予することを許さない重大な宣言ーーを携えて、海を渡り陸を越えて行くのは、いったいどのような権威に基づいてなのであろうか。

 よみがえりのキリストは、そのメッセージを伝えるにあたっての権威であられる。ペテロとヨハネは、足のなえた男をいやしたあとで、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問されたとき、こう答えた。

民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(使徒4:8〜10)

 復活は、イエスを、地のあらゆる権威の上にある神の右手に高く上らせた。それで彼の弟子たちは、自分たちを地上における彼の代表と考えて、彼らを沈黙させようとした彼以下のあらゆる君主たちや議会を、公然と無視する態度に出たのである。

 よみがえりのキリストは、語り手の伝えるメッセージを保護する権威でもあられる。彼が彼らに与えられた言葉、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と、増長したピラトに対する彼の返答、「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたがたはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)とを比べていただきたい。御父が御子に対して、その働きが完成するまで、その身の保護を保証されたように、キリストは、彼の事業のために彼に従う者たちが出て行くとき、その安全を見守られるのである。キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう(※)。弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。

※引用者註 著者が「キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう」と要約している聖書個所はいったいどこの個所であろうかと思って調べたが、差し当たり、次の個所などが考えられるのではなかろうか。使徒5:22を中心とする前後の聖句。そして使徒12章。いずれもペテロが経験していることではある。ペテロはその「熱情」においては弟子中第一番であったが、主の預言(ルカ22:31)どおり、結局は主を裏切らざるを得なかった。その彼が復活の主に出会い、ペンテコステ(聖霊降臨)を経験し、全く別人の人となって、サンヒドリンでの尋問に対した。それは、まさに最終的な権威の熱情、「主イエスの熱情」に支えられてのことだと思わされた。繰り返しになるが、上記の最後の言葉「弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。」とは千金の重みを持つ言葉である。

2024年4月23日火曜日

復活の熱情(1)新しいメッセージの


今朝は、この花が目立ちました。毎年今頃決まって花を咲かせますが、庭に降り立って、この花の写真を撮るのは久しぶりです。名前は家人も知らないと申します。幸いなことに今ではiPhoneがその疑問に見事に答えてくれます。それによると、「オオツルボ」と言うそうです。この複雑な花弁(色の組み合わせといい、形状の様々の姿といい、その上、実に素晴らしいバランスを保ちながら環状に配置されている)が「いのち」の発露としてあらわされていることに深く敬意を表したいです。

復活のメッセージは、私たち一人一人が神を信じないという罪の証拠をイエス様のお体の傷跡として残していることと、それゆえにその方のよみがえりは、私たちに罪からの全き訣別という新しい生活への希望を与えてくれるものとして示されています。この二方面のメッセージは、この「オオツルボ」の開かれた花弁が示すように、すべての人に向かって開かれている、気高くも希望を抱かせるメッセージです。「新しいメッセージの熱情」と題して解き明かす、メリル・C・テニーの論述を引き続いて篤(とく)とご熟読くださいますように・・・。

一 新しいメッセージの熱情

 よみがえりのキリストというメッセージは、伝道における説教の核心をなすものである。イエスを、死人の中から復活したかたとして説いて投獄された、ペテロとヨハネとは、釈放されるやいなや、また同じ説教を試みた。パウロは、復活の福音の非常に有能な弁明を終えると、「この鎖は別として」(使徒26:29)、みんなの人がわたしのようになって下さることを、わたしは切望しているのです、と言って、その議論を結んだ。ただ強大な現実性だけが、彼らに、迫害や窮乏を乗り越えて世界伝道に進む、尽きることのない熱心さを与えることができたのである。

 この現実性において、第一に指摘されなければならない事実は、復活が罪の事実を証明するものだということである。イエスが墓の中にとどまっておられたならば、十字架は、手を焼かせた民衆先導者を法的に除去しただけのこと、あるいはおそらく、たいせつがられていたある教師の悲劇的な最後、あるいは悪くても、正義のひどい失策と見られただけで終わったであろう。このうち、今どの見解が採られるにしても、結局のところ、彼に対する刑の執行は、無知で偏屈な時代のへまとして説明し去られてしまうのである。死人の中からの復活だけが、次の事を決定的な事として立証する。すなわち、ナザレのイエスは、預言者たちがあらかじめ告げていたユダヤのメシヤであったということ、また、彼の神の子であるという主張が、詐欺師の根拠のない大言壮語ではなかったということ、更に、ユダヤ人と異邦人とがともに嘲笑し、退けた人物が、実は栄光の主であられたということである。「(あなたがたは)いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました」(使徒3:15)」と、ペテロは、議会の人々に言った。このひとつの行為を通して、神は、御子を死に追いやった人間の悪巧みと激情を、罪として、永遠に宣告されたのである。復活ののち、イエスは弟子たちに、「イエスは、その手と足をお見せになった」(ルカ24:40欄外)とあるが、それは、人間の罪が生み出したことの、無言の、しかし最も厳然とした証拠を示されたものであった。

 こうして弟子たちは、罪が決して理論上だけのものでなく、事実性を持つものであるということを思い知らされたのである。したがって、彼らの説教が、大づちの一撃のように、聞く者の心と良心に落ちかかり、悔い改めを激しく迫ったのは、少しも驚くにはあたらない。キリストがよみがえられたのなら、彼を死においやった罪は、まっこうから問題とされ、征服されなければならないのである。言いのがれや言い訳は許されない。それは直ちに解決されなければならないのである。

 キリストの復活は、真の救いの保証である。彼の傷跡は、罪のためのあがないが完成していることを物語っている。使徒行伝十三章には、有名な、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教が載せられている。それは、彼の伝道説教の典型的なものの一つと考えられている。彼は、長い歴史的な議論の終わりを、キリストの死と復活の叙述で最高潮にまで盛り上げ、次の言葉でその説教を結んでいる。

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです(義と認められるのです)。 (使徒13:38〜39)

 キリストのよみがえりは、律法の要求が残らず満足させられたことを意味する。キリストのよみがえりは、人類の反逆に対する寛大な神の恵みにあふれる回答なのである。キリストのよみがえりは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:25)ということを意味しているのである。

 よみがえりのキリストは、不死の証拠である。キリスト抜きの不死は、よく見積もっても夢にしかすぎない。人々はそれを、可能性であると論じ、蓋然(がいぜん)性であると考え、ほんとうなら良いのにと望んだ。しかし、その点に関する、最善の、最も理論的な思想の表出も、ついには実現の可能性のないものと判断されるのが常であった。「プラトンよ、あなたはまことによく推論を重ねた。しかし・・・」というのが、多くの思想家たちの態度であった。それに反して、イエスは、不死について論じようとしてはおられない。ただ、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25〜26)と言われただけである。彼は墓からよみがえられたとき、ご自分の言葉を確証された。不死は、彼においては、一つの確かな事なのである。

 このようなメッセージに、真の熱情がかきたてられるのは、当然のことである。罪が真であるならば、人は非常な危険の中にいるのであって、それから救出されなければならない。だれかの家が燃えていたなら、私たちはその家の人を起こして、彼が焼け死んでしまうことのないようにするであろう。しかし、その人の霊的危険に対してなら、私たちは、それほどの関心を寄せなくてもよいのであろうか。もし救いが真であるならば、私たちは、人の益になるよい知らせを持っていることになる。そのよい知らせを持って友人を訪ねるのは、うれしいことである。それでも、永遠の現実を宣べ伝える特権に対してならば、あまり感興をわかさなくてもよいのだろうか。不死が真であるならば、私たちは、失意の人たちにも希望があることを教えることができる。それでも私たちは、そんなものを伝えることには熱心にはなれないと言うのであろうか。復活のメッセージの現実は、私たちの生活に、新しい妙味を添えてくれるものなのである。

2024年4月22日月曜日

復活の熱情(序)

庭先のクレマチスが、いつの間にか花を咲かせているのに、気づきました。私は、その余りにも、解放的な開花ぶりにはいつもびっくりさせられます。(もっと、お淑やかに、花を咲かせていけばいいのにと思って・・・)しかし、こんなに美しい花弁をじっと我慢していたとしたら、時満ちてパッとばかりに花を咲かせるのも当然なのでしょうね。

復活を実地に経験した弟子たちは、失意、絶望の中から熱情の使徒に変えられます。彼らなら、「クレマチス」のこの心に共鳴することでしょう。引き続いてメリル・C・テニーの『キリストの復活』の第六章「復活の熱情」からの引用です。

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒2:32)

 ある日曜日の午後おそく、いくじなさそうな、落胆しきった十人の男たちが、エルサレムのとある二階の座敷に、ふさぎ込んですわっていた。三日前に、彼らの愛する師、また希望の柱であった指導者のイエスが、ユダヤの最高聖職者たちとローマ総督との決議によって。殺されてしまったのである。この不意のできごとに、彼らはただ、悲嘆にくれるばかりであった。幸いなきのうの記憶も、ただ連想のかなたのものであった。的を射るようなたとえ、不正に対する批判の鋭鋒、また、明察に基づくその教えの持つ威厳ーーすべては過去のものであった。罪のゆるし、永続的な心の平和、御国の到来について、彼が与えられた約束も、今では価値のないものに思えた。「彼の墓は悪者どもとともに設けられた」(イザヤ53:9)者が罪をゆるすということが、どうしてありえようか。恥辱の十字架の上で苦悶の死を遂げた者が心の平和を与えるということが、どうして可能であろうか。自分をさえ救いえなかった者に、どうして御国の到来を説く資格があると言えよう。永遠の義に対する彼らの信仰さえ、今では動揺せざるを得ない。義にして主権者なる神が、彼のように全き生涯を送った者を、あのような死の苦難にあわせられようとは、とても考えることができなかったからである。

 明らかに、彼らの集会は、彼らの熱心さの告別式をしか意味しえないものであった。彼らは、偉大なメッセージを持ち、よい動機に励まされて、事をしてきたように思っていたが、イエスの死とともに、いっさいは、穴のあいた風船のようにしぼんでしまったのである。イエスが民衆の眼前で、あの恥辱の死を遂げられたため、彼らは、彼を弁護するために声をあげることさえ控えた。それに、彼に忠誠を誓った者として身を現わすことは、あの際、危険であった。しかも彼らは、イエスに出会う前の自分たちに戻ることもできずにいた。それにしては彼は、あまりにも深い、打ち消しがたい印象を彼らに与えたのである。絶望の苦々しさと、思い出ーーそれも悲しい思い出ーーしかないであろう未来の殺伐さとのために、彼らは、人生や仕事に対する励みや熱を、すべて奪われてしまったのである。

 そのとき突然、集まりの暗がりの中で、彼らはだれかの存在に気づいた。彼らの耳に、聞きなれたかたの声が響いて来たのである。「平安があなたがたにあるように」ーーそして、まさにイエスが、彼らの前に立っておられるではないか。彼らは、自分たちの五感を信ずることができなかったため、彼に仰天し、自分たちは何か強い幻覚に襲われたのではないかと、互いに驚き合った。しかし、そうではなかった!

 「御手御足には傷を受け
     わきには刺し傷」

 傷跡を認めて、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)。よみがえりのキリストの現実性が、彼らの態度を全く変えたのである。悲しみは喜びに、恐れは信仰に、そして落胆は希望に所を譲った。また、主とともに持った過去の経験も、彼が生きておられたことにより、あるつきまとう記憶というようなものではなく、動的な力として感ぜられるようになった。

 失意の人たちに、よみがえりのキリストが現われたもうことによって、彼らの中には、新しい熱情が生まれた。そしてそれは、ペンテコステの風にあおられて、ついには、教会の樹立を促すものとなったのである。真のキリスト教が存在する所には、どこにでも、真実の熱情のたぎりが見受けられる。キリストの福音は、ディレッタントがたいくつしのぎにもてあそんだり、学識者たちが、その個人に対する呼びかけにもかかわらず、超然として議論しえたりするものではない。それは真であるかないかのいずれかである。しかも、真でなければ、永遠に放棄されてもしかたのないものである。しかし、もし真であるならば、それは、私たちが衷心からそれを信奉し、また、無限の熱意をこめて、地の果てに至るまでそれを宣べ伝えることを、要求するのである。もし人々が、ただの人、しかも限られた期間だけ官位につく人の選挙に対して、熱狂的になりうるとすれば、神によって、救い主またさばき主になることを定められ、その身分を保証された、よみがえりのキリストの現実性に対して、私たちが熱情を示すのは、当然のことではないだろうか。

2024年4月21日日曜日

復活の効力(3)身体の効力


今朝も新しい訪問客がありました。昨日の彼女の美しさに目を見はりましたが、今日の彼はより鮮やかでした。その上、花の間を離れることなく丹念に蜜を吸っていました。飛び石伝いという言葉がありますが、まさしく花園を飛び回る彼の姿はそうでした。

さて、「復活の効力」の最終項目は、からだに及ぶと、最後の復活に働くことは当然として、今生かされている生身のからだにも及ぶのだと、パウロの証を著者は深く読み込んでいます。

 三 身体の効力

 復活の力は、この現存のからだにも適用されうるものである。

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8:11)

 多くのよい注釈者たちは、この聖句を、最後の復活に対してだけ適用される言葉であるとしている。そうだとすれば、死から立ち上がるのは、「死ぬべきからだ」であるということになる。確かにそのような解釈は可能である。だが他方では、「死にやすい」という意味を持つ「死ぬべき」(ギリシア語thneta)という言葉が、なぜ、すでに死んでいるからだに用いられなければならないかについて、少し困難を感じさせられる。もし、神の御霊が宿っているのなら、なぜそれを、死体と認めなければならないのであろうか。なぜ、神の活動を、私たちの肉体に関するかぎり、未来の復活に限定しなければならないのであろうか。私たちは、ここで用いられている「死ぬべき」と「生かし」という二つの言葉が、コリント人への第一の手紙十五章でも使われており、そこで言及されているのは、明らかに最後の復活のことであるということを、認めるのをよしとする。しかし、この聖句の前後関係から、未来よりは現在に対して適用されるべきであるということは、明らかではないだろうか。「生かしてくださるのです」という語句を、ただ究極における肉体の更新をさすものとするよりは、ここでは、信者の現在の肉体生活における御霊の継続的な働きを描写するものと見るほうが好ましいと思われるのである。

 もちろん、神のみことばは、現在のからだがそのまま不死のものとなることを保証してはいない。私たちの生存中に主が来られるのでなければ、私たちは、他の人々と同様、やはり地のちりに化さなければならない。しかし、この聖句は、明りょうに、内住したもう神の霊が、私たちにキリストの復活の力を適用させることによって、私たちの現在の肉体に新しい生理的な力を分与することができ、また、分与しようとしておられる、という意味を含んでいるように見える。御霊は、私たちが地上における神のためのわざをなし終えるまで、随時必要に応じてそうすることがおできになり、またそうして下さるのである。

 パウロは、コリント人への第二の手紙において、彼がアジアにいた時のある経験に言及している。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました」(第二コリント1:8〜9)。その経験がどんなものであったか、私たちは知らない。病気であったか、非常な迫害であったか、ほかの何かであったか、私たちには知らされていない。たいせつな事は、そのとき彼が自分を頼みとせず、「死者をよみがえらせてくださる神により頼んだ」ことである。そのために彼は、更に幾年もの間有益な苦労をすることができるように、救い出されたのである。彼の生涯は、この力によって生き抜かれた。なぜなら彼が、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(第二コリント12:9)と言われた神を信じたからである。

 言うまでもなく、この力は、私たちに、罰を受けることなく神の生理的法則を無視した生活をすることを許すものではなく、また、むちゃな肉体の使用を保証するものでもない。しかし、私たちが、神の奉仕のため、また神の命令のゆえに、すべてを費やし、なおかつ弱さのゆえに自分にはこれ以上の事ができないと感ずるときに、御霊はその力によって、普通ならとうてい望みえないことをもなしうるように、私たちの肉体を更新し、その有用さを増して下さるのである。クリスチャン・ライフは、魂だけでなく、からだをも新鮮にしてくれるのである。

2024年4月20日土曜日

復活の効力(2)知的な効力


出がけに一羽のアゲハ蝶の来訪を受けました。玄関先の植え込みの花がお目当てのようでした。もちろん、彼女はじっとはしていません。数秒後にはどこかへ飛んで行きました。考えてみると彼らほど姿態を次々変えて行く生き物はいませんね。この一枚の静止画面を見ているだけの感想ですが、改めてその衣装の素晴らしさと花との調和に驚かされます。

さて、今日の個所は、いっそのこと省こうと思った作品でした。しかし、何度も読み返すうちに、自らの無知、無能を思い知りました。第二次世界大戦中に物されたと思われるこれらの著者の論稿は、当時鬼畜米英とばかりに「撃ちてし止まん」と意気盛んだった日本人による戦後の翻訳によって紹介されていることを思うと感無量の思いがします。

二 知的な効力

 私たちが新しい生活の場に向かって行くとき、それに相当する結果が、その思考生活にも見られなければならない。コロサイ人への手紙三章は、このことを明白に表現している。

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい 。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:1〜3)

 ここで「思いなさい」と訳されている言葉は、思考過程のことではなく、思想内容に言及しているものである。だからこれは、今日の平たい言葉で言えば、「この問題をどう思いますか」と言うような場合に私たちの持つ概念を含んでいる。言うまでもなく、これは、「あなたの意見はどうですか」とか、「あなたの考えはどういうことですか」という質問を意味している。復活の力によって、思考は、新しい分野に対して開かれ、新しい内容を盛り込まれるのである。

 こうして、キリスト者は、救われていない人々の心をとらえているような事柄に、その心を煩わされるようなことはなくなる。かんばしくない浮薄な読み物や、肉性を扇動するような芸術、また、低級な激情をあおるような音楽ーーつまり、よみがえりのキリストという基準に調和しないすべてのものを、彼はその思考から遠ざけてしまうのである。

 これは決して、霊妙な、実行不可能な事柄ではない。あらゆる価値ある思想、また、人類の発展に寄与しうるあらゆる知的、美的な努力は、新しい光ーー復活の光ーーの下で、十分に可能であるばかりか、正しい評価もできるのである。欧米の最も偉大な音楽、過去十九世紀の間に生み出された最良の芸術、私たちの最も強力な自由に根ざす政治哲学、最高の文学、など、人生を愉快なものとし、美的、霊的特性の向上に貢献した業績はすべて、直接間接に、よみがえりのキリストに従った人々によってもたらされたものである。

 それだけではなく、思考は更に、復活によって、新しい力を与えられる。数年前、著者は、あるひとりの男を知っていた。彼は教育もなく、回心するまでは、そのような限られた履歴で、完全に満足しきっていた。学問などには、ほとんど関心がないように見えた。また、彼の無関心さは、彼が標準英語につゆほどの考慮も示していないことによって、だれにでも歴然としていた。回心とともに、彼は目ざめた。そして、数年後には、力強い説経者となり、また、将来を期待される神学者となったのである。死が彼の生涯を縮めなかったならば、彼はおそらく、この時代の有数な指導者のひとりになったと思われる。神の復活の力は、いかなる凡庸な人物をも変えて、思想において幅と深さとを兼ね備えた者を生み出すことができるのである。

2024年4月19日金曜日

復活の効力(1)霊的な効力(下)

名残惜し 航跡さやか 鴨夫婦
いつの間にか、川からは鴨たちがいなくなっています。そんな折り、遠目にも鮮やかな二つの波模様が交わることなく、川面に扇形の弧を描きながら、動いているのが見えました。二羽の鴨による航跡でした。数少なくなってきた水鳥のデモンストレーションを久方ぶりに見る思いでした。

今日の引用個所は昨日の「霊的な効力」と題する文章の続きの部分です。冒頭の「死人をその足で立たせようとした」とは、象徴的な言い回しであります。私自身の経験で恐縮ですが、かれこれ50数年以上前、昼飯を春日部駅東口前のラーメン店で食べたことがあります。その時、私は一人でしたが、食べ物のために、主に感謝の祈りをささげて食べました。その時、周りの人たちは、そんな私と違って笑いに興じながら皆楽しげに立派な食事をなさっていました。瞬間、確かに私は一人だし貧しい者だが、神様に祈って食事をしている、一人ではない。周りの方々は仲間がいて楽しげである。彼我(ひが)の違いはどこにあるのだろうかという思いでした。それは、たとえ、その食卓がどんなに立派であろうと、主を心の中に迎えていなければ、その食事は単に肉体が動いているだけであって、すなわち「死人」の動きに過ぎないのではないだろうかという素朴な思いでした。もともと信仰からは縁遠い者であった私が、そのような行動を取ったのもキリストの復活を通して与えられた霊的な効力の一例なのではないだろうかと思い、敢えて、今日の引用の前に「私見」を書かせていただきました。

 死人をその足で立たせようとした、ある昔のローマ人の話が伝えられている。彼は、むだな試みを何度もくり返したが、とうとう愛想をつかして投げ出してしまい、こう言った、”Deest aliquid intus"ーー「ふぬけめが!」。死体に必要なのは、支柱ではなくて、新しいいのちである。新生していない人に必要なものも、目新しい人生観ではなく、内的な動力でなければならない。

 この必要な動力は、キリストにおいて供給されている。神のいのちが死の力を殺し、キリストを墓から復帰させたように、それは、私たちすべての中に働いている罪の力を殺してくれる。イエスの復活後にも、死はこの地上から姿を消してはいない。しかし、いまや私たちは、それが打ちのめされた冥加の尽きた敵であり、その運命をのがれることのできないものであると言うことを、知っている。キリストが死を征服されたので、それはもはや無敵ではなく、最後には完敗を喫しなければならないのである。罪は依然として私たちにまつわりついている。私たちから除去されてはいない。しかし、復活のいのちは、その力を中性化させて、私たちを新しい者とすることができるのである。救いとは、単なる死体の改善ではなく、復活である。

 それだけではない。新生以前に絶やされた一生命の生き返り以上の、全く新しいいのちの創造を意味するものである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5:17)。新しい動機、新しい習慣、新しい見方、新しい欲望ーーすべてが彼の内に創造され、彼は、新しい活動に従事し、新しい目標に向かって前進する者となるのである。パウロはしばしば、「新しい人」という言葉を口にする。それは、復活の力が彼の内に作用して、その人格を全く新しい内容のものとする、ということを意味している。

 この力は、ある人たちに対しては、直ちに、目をみはらせるような効果を現わす。だらしのない無知が、旺盛な知識欲に道を譲る。無愛想な自己主義が、犠牲的な愛に変ぼうする。道徳的面での腐敗は、清潔に変身し、不正直は廉潔になる。その人の存在がすっかり別のものになったのであるから、彼の変化をだれもが認める。

 他の人々の場合は、その効果がこれほど目を引くものではないかもしれない。しかし、だからと言って、それが現実的でないというわけではない。常にある体裁を保ってきたために、外的行為に急激な変化が認められることはないであろう。しかし、与えられたいのちに相違はない。過去に犯した罪からであろうと、未来に犯すかもしれない罪からであろうと、救いの力と不思議さと純粋性とに、相違のあるはずはない。復活の効力は、その人の霊性の実りによって明らかである。

 新生によってこのように新しい人が創造されるとすぐに、その人は、自分が生活の新しい場を必要としていることに気がつく。ひよこが、孵化の瞬間、殻を破って、外部の光と空気の世界に出て来るように、キリスト者は、魂にキリストの復活の力を受けるとき、新しい生活の場にその足を踏み出すのである。ローマ人への手紙六章は、この点を、罪に対して死んだ者はもはやその中に生き続けることはできないという表現によって、明らかにしてくれる。なぜなら、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

 復活した人は、復活のふんい気を必要としている。わしが、家禽(きん)といっしょに納屋の前庭で遊ぶ生活に満足できず、山の高峰や、空気も希薄な光り輝く大空に舞いかけるように、私たちも、ひとたび罪の死のさまから起こされると、罪深い交際や環境に満足できなくなるのである。私たちは、神に向かうように起こされたのである。