2018年6月28日木曜日

あなたは何を見ていますか


イエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12・2)

 私たちの目を、自分自身からイエスに転向させるのが聖霊の不断の御働きである。しかしサタンの働きはその正反対である。なぜならサタンは常に私たちをしてキリストを見させず、私たち自身を見させようとするからである。サタンはかくほのめかす。「おまえの罪は、ゆるされるにはあまりに大きい。おまえは信仰を全く持っていない。悔い改めが足りない。決して長続きするはずがない。神の子としての喜びもない。おまえはただ、気まぐれにキリストにすがりついているにすぎない」と。これらはすべて私たち自身についての考えであり、私たちは自らの内を見ることによっては、決して慰めや確信を見いだすことはない。しかし聖霊は、私たちの目を私たち自身より全く転向させられる。彼は私たちが無であり、「キリストがすべてである」ことを告げたもう。ゆえに次のことをおぼえよ。あなたが救われるのは、あなたがキリストを捉えていることによってではない。キリストがあなたを救いたもうのである。あなたが救われるのは、キリストのうちにあるあなたの喜びによるのではない。キリストがあなたを救いたもうのである。またあなたが救われるのは、キリストにある信仰によるのでさえない。―それは手段ではあるが、あなたを救うのはキリストの御血といさおしなのである。さればキリストを捉えているあなたの手を見ず、キリストを見つめよ。あなたの希望を見ず、希望の源泉たるイエスを見よ。あなたの信仰を見ず、信仰の導き手、またその完成者なるイエスを見つめよ。

 私たちは自らの祈り、行為、感情を見ることによっては、決して幸福を見いだすことはない。魂に平安を与えるのは私たちではなく、イエスである。直ちにサタンを征服し、神との平和を得たいと望むならば、「イエスから目を離さない」こと以外に道はない。あなたの目を単純にイエスに注ぎ、彼の死、苦難、いさおし、栄光、とりなしをあなたの心に鮮明ならしめよ。朝目ざめる時、イエスを見つめ、夜休む時にもイエスを見つめよ。おお、あなたの希望。恐れをしてイエスとの間を隔てしむるな。しかとイエスについて行け。彼は決して裏切られない。

(『朝ごと』スポルジョン著 6月28日より引用。昨日の小生の感想に全くぴったりの勧めである。でも多くの主にある友が同じ経験をされるのではないかと思い、あえて掲載させていただいた。)

2018年6月27日水曜日

主は仰せられる


あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1・3〜6)

 今日は市川の方々のところに出かけ、聖書をともに学び、そのあと三人の方々とお交わりした。最初の方はもう30年近くお交わりをいただいている方だが、こうして個人的にお交わりしたのは初めてのような気がする。そのあと初めて参加してくださった方とその方を誘われた友人の方とも一緒にお交わりした。

 聖書の学びはピリピ人への手紙に表現されている集会内の一致の実際を探って見た。8年ほど前に那須で初めて学んだ時の原稿をもとに話させていただいた。でも十分お伝えしたいことも伝えきれず、一種の敗北感をいだいたままお交わりに入った。ところが、あとでお交わりした方々は、私がもう一つ用意していて実際はしなかった「主イエス様を知る」という話しに即するかのような真剣な質問をしてくださった。

 主を真剣に求められる方との出会いはいつであっても楽しいし、喜びであり、感謝である。でも家に帰ってきたら、今日の暑さでぐったりきて、その上、メッセージが思うようにできなかったことで落ち込んでいたこともあり、休息を取った。そのあと自らの録音を聴いてみたが、ありのままの自分が出ていることに何かほっとさせられた。今度メッセージを依頼されたら、やはりよく祈って備えようと思った。もちろん、背後で多くの方々が祈っていてくださったのだ。そのことを忘れずに感謝したい。

 さて、そうしてやっと落ち着いた思いで、階下に降りたら家内がうれしい話を聞かせてくれた。先ほど、聖句の看板を見て、この聖句を写して行きたいと通りがかった中年の男性の方が言ったということだった。私たちは家庭集会のたびに聖句を看板に出す。もう字の上手い下手は勘弁してもらっている。その方が集会のことをさらに聞いてきたので、家内は次のように答えたという。「組織もない、献金制度もない」けだし至言である。こんな純粋な「主イエス様」だけを中心に生きようとしている者たちがいる限り、主は「集会」をきっと支えてくださると思った。

2018年6月23日土曜日

人を繋ぐもの

漁村の風景(離島沖の島)

互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3:14)

 木曜日は高校時代の同級生11人(内女性二人)と有楽町の「慶楽」でともに会食した。5月の中旬に、同級生二人が和歌山、近江八幡から6月21日(木)に上京するので集まりませんかと、東京在住の同級生の「幹事」の方からていねいなお誘いのメールをいただいた。にもかかわらず、私は参加する意思はなかった。たまたま連絡のあった週にはすでに中学の方の同級会で故郷の琵琶湖の離島沖の島に出かける一泊二日の旅行に出かけようとしていた矢先であったからである。

 ところが、一週間ほど前、有楽町のその集まりに参加する船橋の友達から、会って是非話がしたいから、出て来いと電話があり、それではと重い腰を上げて出かけることにした。出かけて良かった。11名とは人数的にもちょうど良かった。一同で丸テーブルに腰掛けて互いに話し合うことができたからである。

 もともと11名のうち、二人だけが一度だけ同じクラスだっただけで、その人たちとも在学中特に親しかったわけでもない。だから、ほとんどの方とは卒業後親しくなったばかりの関係である。その内の一人の方とは高校時代全く面識がなく、卒業以来、友人たちを介して風の便りにお名前をお聞きしていて、一度お会いしたいと思っていたが、その方とは今回初めてお会いした。

 しかも宴も閉じて一旦解散して、それぞれ散っていったはずなのに、地下鉄構内でまたお会いして、改札口を前に短時間であったが、その方の高校以来の歩みについて濃密なお交わりができた。彼は己が人生を語り、「これも運命だな」とつぶやいた。そして慌てて「いや神様かな」と付け加えた。

 宴の中で中心的な人物(彼とは三年前、近江八幡の自宅を訪れ、二時間あまりお交わりしたことがある)が、「地に宝を積むな、天に宝を積め」と言うが、自分たちは俗的だが、私を指して、この人は人格高潔で天に宝を積んでいると曰った。私はとんでもないとばかり、自らがいかに下等な罪深い人間であるかを証し、イエス様によって救われたのだと、初めて他の方々に自らの信仰について話することができた。私にとっては想像もしなかった話の展開となった。

 さて、私と是非話がしたいと私をその宴に引っ張り込んだ方との交わりを最後に記しておこう。彼がもともと私を呼び出したのは、三年ほど前、新幹線で米原から東京までたまたま双方とも夫婦でいたのだが、一緒に乗り合わせて帰って来たことがあった。二時間半近く、四人で互いに話し込んだのが機縁であった。

 その時、私たちは夫婦して自らのキリスト信仰を証しした。彼は大学がミッションであった。また先年脳梗塞を患い、体の弱さも覚えられたのではないか。雑誌を読んでいて「キリスト教」という名辞に出会うと君のことを思い出していた。それでもっといろいろなことを話したかったのだと言われた。私も同君と同じクラスであった時の印象を語った。

 そのうちに、同君がこの前、新幹線の車内で君が自分にいじめられたという話をしていたが、家に帰って何をいじめたのか考えに考えたが、ひょっとしてこのことでないかと言うのである。運動会の仮装行列の準備をしている時に、まじめ(と思われる)組の連中が提案して話が軌道に乗りかかって来た時に、「そんなのやめてしまえ」と自分が言っておじゃんになったことが原因じゃないか、君はまじめ組だったから、そのことに思い当たったというのであった。

 私はそのことも忘却の彼方であるし、第一、新幹線の中で「君にいじめられた」なんて明け透けに暴言を吐いていたことさえ忘れていた、いい加減な自分を改めて思い知らされた。ただ同君の存在は当時英文読解の授業中に読まされた"Three men in a boat"の主人公の一人のイメージがあったのだと弁解した。これは言わずと知れたJerome K. Jeromeの作品である。どんな内容であったか思い出せない。家に帰って調べてみると、丸谷才一が翻訳していることを知った。今度一度邦訳で読んでみたいと思わされた。

 あれやこれやでここにはまだまだ書ききれない11人の同級生との2時間余りの会食を挟んでの真実な交わりがあった。この11人を結びつける紐帯は何なのであろうか。改めて考えさせられたが、「愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:14)としか言えない。

2018年6月20日水曜日

主よ!感謝します!


あなたは私のために、
嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、
喜びを私に着せてくださいました。
(詩篇30:11)

 久しくブログを休載していたが、また少しずつ雑感風に日常茶飯事に起こる出来事を素材に書くことにした。

 今日は、あいにく雨が一日中降っていたが、前夜のサッカー勝利の興奮がさめやらぬ中、またその前日の大阪の地震の多くの被害を見聞きするにもかかわらず、身辺の事柄に忙殺された。1990年の5月以来ほぼ毎月欠かさず行なわせていただいている家庭集会の日であったからである。

 家庭集会は教会を出て、今の集会に出席するようになってからの定番である。必ずお一人の方のメッセージ、またお一人の方の証をみんなでお聞きし、そのあと三々五々各テーブルを囲んで話合いお交わりをするという単純なものである。私たちはそのための会場を提供するだけである。

 雨の日など、皆さん、出て来られるのはそれぞれおっくうであろうが、遠さをものともせず、集まってきてくださる。今日は藤沢や横浜、栃木県の小山などからも集まってくださった。その点、会場提供者はいながらにして、「主の恵み」を頂戴することになる。

 そんな恵みの一つに出席者の皆さんのお顔を覚えることがある。そして、その数が、出席される方のお顔がたとえ違い、入れ替わっても、合計してみるとほぼコンスタントな数字になっているのはいつ振り返っても不思議である。たとえば5月は57名の方が出席され、前回出席された方が今回は来られないでおられるのに、今日も54名の方が出席されたからである。

 口コミで皆さん集まって来られる。その中には急に思い立って10数年ぶりに来られた方や、全く初めて集ったという方もおられる。その私たちはひとつのみことばで一つにされるのだ。今日のメッセンジャーの方の話の題名は『幸福の指標』であった。

 そして冒頭のみことばはそのメッセンジャーの方が引用されたものである。お話によるとご結婚されて9年ぶりに与えられた胎の実が、わずか8ヶ月で奪われたという不幸であったという。しかし、その不幸をとおして、主の愛をお知りになられた。まさに主イエス様の愛をとおして嘆きは踊りに、荒布は解かれ喜びを着せられなさったのである。

 証をしてくださった方も、事業をかかえるご主人を支えながら内助の功を果たす上で様々に働いてくださった主をお証くださった。相変わらず、雨の降る中、家路を急がれたお一人お一人も来る時と違って心の中に主の与えてくださる平安をいだき、お帰りになったのではなかろうか。

2018年6月19日火曜日

みことばのありがたさ

琵琶湖の離島沖の島から帰って来る船

主よ。お救いください。(詩篇12:1)

 日曜日、礼拝に出られなかった。礼拝したくなり、電車内ではあったが、スポルジョンのアプリを開いた。"Help, Lord."の文字が飛び込んできた。その折、自分が最も必要としていたみことばであった。同時に、同じ詩篇12篇には5節〜6節に次のように書いてあった。

 主は仰せられる。
「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、
 今、わたしは立ち上がる。
 わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
 主のみことばは混じりけのないことば。
 土の炉で七回もためされて、純化された銀。

 「今、わたしは立ち上がる。」とおっしゃるすべてのことをお任せしようと思った。主なる神様は、悩む者、貧しい人を放って置かれないお方であることがより一層わかった。

 スポルジョンの文章を以下少し引用してみよう。
 この祈りはすばらしい。それは短いが適切であり、寸鉄人を殺すの味を持ち、かつ暗示的であるからである。ダビデは忠実な部下が少ないのを嘆き、願いのうちに心を天に向けた。被造物が頼みがいのないのを見て、彼は造り主のもとに走った。彼は明らかに自らの弱きをおぼえた。しかし同時に、真理のために心から自分の力を尽くさんとした。なぜなら自ら何もせずに助けを求むることはあり得ないからである。この短い祈りは単刀直入であり、極めて明確である。ある信者たちの長々しい祈りにはるかにまさる。詩篇記者は熟考せる祈りを携えて一途に神のみもとに行った。彼は何を求め、またどこに求むべきかを知っていた。・・・・
(『朝ごとに』6月17日より引用)

 家に帰って邦訳文を朗読しているうちに自らの罪深さ(主を信じきっていない)を思い、内から涙が次々出てきた。寸鉄人を刺す。スポルジョンの霊想は、澱みきった私の信仰を内側から正し続けてくれる。感謝である。