2013年3月22日金曜日

四コマ漫画のすばらしさ

イヌフグリ 英名はBird's eye 古利根川土手にて
「おーい 栗之助」 森 栗丸作

人間は時に残酷

この小さき可憐な花に

たくさん咲いている!! イヌフグリ!!
この名をつけたのはなぜ?

別名ヒョウタングサ
今日は顔しか見せませんから

毎朝、楽しませてもらっている、この四コマ漫画。今朝はイヌフグリが主題であった。色といい、形といい、セリフといい、どれ一つとっても群を抜いている。画そのものを紹介できないのはまことに残念。青字で書いたのは、主人公である犬の栗之助くんのせりふだ(ろう、紫字は女の子のセリフ)。最後のコマには栗之助くんの左耳がピンと立ち、右耳はだらっと垂れ、顔はしかめっ面の顔が描かれている。最初の栗之助くんの顔は平和そのものの澄まし顔であったのに。

ここ二日ほど風邪気味で、外出を控えていたが、今朝の漫画と陽気に誘われるがまま久しぶりに古利根川の川べりに出た。すでに桜は五分咲き。なたね、水仙など色とりどりの花々が咲いている。鳥たちは梢から梢へと忙(せわ)しげに飛び交う。散歩する人々の動きも軽やかだ。三寒四温。異常な気候も大きな流れは変わらない。悠久の歴史の中に営む、限りある私たちの生を想う。

ところで栗之助くんの最後のセリフと動作が少し気になった。不釣り合いな両耳の姿だ。本気で怒っているのなら、両耳とも揃ってピンと立つはずだからである。人間って仕方がないね、と半分あきらめてのポーズかもしれない。これに反して、聖書は、主なる神さまと私たちの間柄についてどのように述べているのだろうか。

昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました。(旧約聖書 詩篇74・16〜17)

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」(新約聖書 ヘブル2・6) 

2013年3月21日木曜日

救いの道(完)神の食卓は無代価

どれもこれも手作りのおもてなしに招かれて※ 2012.5.21
わたしたちは、町でトラクトを配布したことがあります。その時、もしだれかがわたしたちのうしろにひざまずいて、ぜひ一枚下さいと頼んだとします。その際、わたしたちがそれを無視したとすれば、人々はどう思うでしょうか。きっと、こう言うに違いありません。「あの意地の悪い人たちをごらんなさい。ひざまずいてトラクトを頼んでいるのに、知らん顔をしているのです」と。しかし、それは決して、わたしたちの態度ではありませんでした。トラクトを渡すことは、わたしたちの心からの喜びであったのです。彼はひざまずく必要はなく、立ったまま一枚受け取ればよかったのです。

神は、人類に対して背を向けておられるのではありません。ぜひこのことを、知っていただきたいのです。救われるために人々は、神に嘆願したり請うたりする必要はありません。神は初めから、人を救おうとして待っておられるのです。神はそのためにひとり子を下さいました。神は堕落した人類に対して、愛とあわれみをもって「きたれ、取れ、信頼せよ、受け入れよ!」と言っておられます。したがって、人は祈願したりする代わりに受け入れ、賛美しなければなりません。そうでなければ、あたかも神が祈願を受けなければ救いを与えて下さらないかたであるかのように思い込まれてしまいます。しかし実際は、人間のほうが救いを受けることを不本意とし、神の与えたもう救いを拒否しているのです。

神は、永遠のいのちという賜物を差し出して、人々に受け入れるようにすすめておられます。クリスマス・プレゼントを差し出す時、それを受け取るように懇願する必要はありません。プレゼントの贈り主がわからない場合は別です。しかし、贈り主がわかっていながら前に出されているものを受け取って下さいと懇願しなければならないとすれば、贈り主の誠意を無視し、はずかしめることになります。その差し出されたプレゼントを受け取って、感謝すればよいのです。それと同じように、わたしたちも神に対する態度を改め、その贈り物を受け取って感謝をささげようではありませんか。

イエス・キリストのいのちを受け取る
それ以外に何もできず
聖霊がわたしを造り変えられるから
わたしは新たに生まれ変わる 

これだけのことです。あなたが信仰によってキリストを受け入れられるなら、必要ないっさいのことは聖霊がなして下さいます。キリストのあがないの死が救いの基礎であり、根拠であります。信仰は、キリストと罪人との間をつなぎます。したがって、「主イエスを信じなさい(あなたの信頼を主イエスに置きなさい—新英訳聖書)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16・31)

あなたは、聖なる神のみまえにおいて罪人であり、有罪なのです。そうして、そこには「何の差別もありません」のです。しかし神は、あなたが罪から救われる方法を備えて下さいました。だからわたしは喜びをもって、きょうあなたに、「キリストは・・・わたしたちの罪のために死なれた」という神の声明を宣べ伝えたいのです。なんという栄光に満ちたすばらしいメッセージでしょうか。この喜ばしいおとずれを、受け入れられないでしょうか。人間の罪に対する神の救治策を受け入れなさいますか。おお、それならば失われた有罪の罪人であることを認めなさい。”有罪”であることを承認して、自分自身を神のあわれみにゆだねなさい。あなたは、それをなさいますか。それをして下さい。今、それをしていただきたいのです。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳24〜26頁引用。※昨年某氏宅に招かれて豊かな食卓の幸に七人で舌鼓を打った。すべて、ご招待くださった方に勧められるままであった。)

2013年3月20日水曜日

救いの道(7)救われることはかんたん

二人展より(麻布十番・フェイス10画廊 3/15~3/20)
律法を満足させる方法は、二つあります。一つは、律法を守ることであり、もう一つは、律法を犯した時、その刑罰を受けることです。その刑とは「死」です。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6・23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18・4)。律法には必ず刑罰があります。律法を犯した者は、決してその刑をのがれることはできません。しかし、神は罪人を救い、しかも義をもって救うために、キリストを下さいました。神の義を満足させるためにキリストを人間の罪のための供え物としてこの世につかわされたのです。

「神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ためでありました(ローマ3・26)。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」(ローマ3・25)。「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです」(第一ヨハネ2・2)。これらの聖句にも示されているように、イエスが罪の刑罰を受けられることによって、すなわちイエスの死によって、神は恵みをもって人と交わることができるようにして下さったのです。

神のみことばをそのまま受け入れ、そのとおりに信ずることは、普通の人にとってはむずかしいことです。彼らは、神の恩恵を受けるためには、必ず何かを「行なう」ことが必要だと主張します。たとえば、悔い改めについて、普通どのように考えられているでしょうか。普通の人は、長時間のざんげと悲しみ、心からの後悔、苦悩、苦行修行を重ねて、自分の罪を告白したり、ゆるしと救いを祈ったりしてはじめて神のあわれみを得ることができると思っています。そのようにして、「彼は罪を悔い改めた」と信ずるのです。

その人は、罪を自覚するかもしれません。しかし、罪の自覚は悔い改めではなく、回心を意味するものではありません。みことばによってわかるように、この経験は救いの根拠ではありません。神は、人が救われるためには、長時間の悔い改めを要するとは、どこにもおっしゃっていません。しかし人は、十分長い時間をかけて悔い改めるならば、それによって神がついにゆるして下さると思うのです。

魂のあがないは
悔い改めや祈りの涙によらず
ただ主の血によるなり

たとえあなたが、自分の罪を悔いて神に告白し、ゆるしと救いのために祈られても、あるいは神のあわれみとゆるしを絶えず懇願されても、それによって救われることができるでしょうか。このような行為によって、神の恩恵を受けることができるでしょうか。あなたは、それが不可能であることを知っておられると思います。

このようなあなたのなす行為のすべて、すなわち、涙、祈り、告白、悔い改めから離れなければなりません。そしてキリストを受け入れ、キリストの血潮により頼み、カルバリの上で完成されたみわざに自分の信仰を置き、キリストが罪の価を全部払われたことを信じて信頼する時が来なければなりません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳22〜24頁より引用。「希望にあふれて」と題するゴットホルド・ベックさんが書かれた実見談が「光よあれ8集」に載っている。『及川廣太郎先生は、竹田清先生の後輩でした。数学者として東大の名誉教授になり、日本だけでなく、ドイツでも著作が出版されている有名な方です。自分は無宗教だと言っておられましたが、がんになり、その病は彼にとって大きな重荷になったのです。廣太郎さんはイエス様の招きのことば、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」を聞いたとき、すぐに従いました。彼は祈りました。「主イエス様、私のわがままのために死んでくださったことを感謝いたします」別れる時、彼は言ったのです。「救われることはかんたんなことですね」。』)

2013年3月19日火曜日

救いの道(6)価なく私は義しくされた

The Crucifixion,1870 by Carl Bloch
あなたは、教会でも最も活動的な人であるかもしれませんが、救われておられないかもしれません。というのは、教会の諸活動は決して人を救うことができないからです。教義や教理、あるいは祈祷、禁欲、十一献金、悔い改めの涙は、皆必要なものですが、決してあなたを救うことはできません。また、牧師でも司祭でもたとえどんな人であっても、人を救うことはできないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(新約聖書 使徒4・12)。ただキリストだけが、人を救うことがおできになるのです。

神の救いを受けるにふさわしい道徳的な、また宗教的な行為はありません。人間に可能な最善の生涯を送っても、また教会の役員として最高度に熱心に働いても、その正しい行為によって神に近づくことはできません。道徳、正しい行為、愛に満ちたわざ、あるいは犠牲的な奉仕によっても救いを得ることはできません。またそれらによって神の恩恵を受けることはできないのです。救いは、わざによって得られるものではありません。救いは、「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・9)。したがって、もしあなたが現在の状態で、自分の行ないによって救いを獲得しようとされるならば、あなたは滅亡の途上におられるのです。人は決して、自分で自分を救うことはできません。

人間の救いの計画は、いつも自分の功績や行ないによりますが、神のご計画は恵みによるのです。聖書には、こうしるされています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2・8)。恵みは、行ないや功績とは全く別のものであり、救いがもし恵みによるものであれば、行ないは救いとはなんの関係もありません。また、もし救いが行ないとか功績によるものとすれば、恵みによって得ることはできません。全き恵みか全き行ないかのいずれかなのです。

恵みということばは、聖書中でも最も偉大なことばです。「神の恵みの福音」は 、人々に宣べ伝えるためにわたしたちにゆだねられた最も喜ばしいおとずれです。神の救いに関するすばらしい声明を、わたしたちはローマ人への手紙三章二十四節に見ることができます。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と。この、どのことばにも深い意味があります。たとえば、「贖(あがな)い」ということばには「買いもどす」という意味があります。人類は、最初のアダムによってサタンと罪と死に売られました。イエス・キリストは、その罪をにない、罪の刑罰を受けて代価を払われ、あがないをなして下さいました。キリストは、わたしたちをサタンの奴隷市場から買いもどして下さったのです。

主イエスはわれらの罪のため
恐ろしい刑罰を受けられた。
カルバリの上で小羊となって血を流し
あがないを成し遂げられた。

その代価は、主ご自身のとうとい血潮でした。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました(1ペテロ1・18〜20 )。このように、身のしろ金が完全に払われたので、神は「価なしで」人間を義とされました。

ヨハネによる福音書十五章二十五節に、「理由なしに」ということばがありますが、これはギリシャ語では「価なしで」と訳されています。「彼らは理由なしに わたしを憎んだ」。すなわち、なんの根拠もなく憎んだのです。神はこのように、なんの根拠もなく、罪人を義とされます。それは、「何の理由もなしに」、または「価なしで」です。神の恩恵に値する功績や行ないは、わたしたちの中には何一つありません。神は、イエス・キリストのあがないのわざによって、わたしたちを義とされました。この恵みは「価なしに賜わった恩恵」であり、価なしに与えられたのです。それは全く神によるものです。人はそれを、何かのよいわざによって、あるいはそれに値する行為をもって獲得することはできません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳19〜21頁より引用) 

2013年3月18日月曜日

救いの道(5)私の債務は全部支払れた!

          イエスさまは おもい じゅうじかを せおって                  カルバリの おかを のぼって いきます。(絵本聖書)
人は自分を救うために、何もすることができません。世のさまざまな宗教を見ると、人間は神に向かって進もうとしています。すなわち、自分のいさおしによって救いを得ようとしています。しかし聖書が示す真実は、神のほうから人間に近寄って下さったという事実しかありません。これは、神の恩寵です。羊を装ったおおかみが、わたしたちの兵士に戦場で死ぬならば永遠の命を得ることができると言いました。また、もし人が自分の命を国のためにささげるならば、天国へはいることができると言いました。しかし感謝すべきことに、兵士たちは自分たちが神に会う資格のないことを知っていました。

歴史上の戦いで流された血は、どんな小さな罪をもきよめることができません。しかし二千年前、神でありながら人の形をとられたイエス・キリストがカルバリの丘で流されたとうとい血は、すべての時代のすべての罪をきよめるのに十分なものでした。人は、永遠のいのちを得るために何もすることができません。主イエスはカルバリの丘で「完了した」(ヨハネ19・30)と叫ばれました。人間の救いのために「すべてが終わった」のです。その完成されたわざに、人がいまさら何を加えられましょうか。

もし道徳や人間の義が完全であるならば、キリストが死なれる必要はありませんでした。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2・21)。もし人間に自分を救う力があるとするならば、キリストの死は世界史上最も残虐なものと言えるでしょう。しかし、神は人間の無力や救い主を要していることをご存じでした。だからこそご自分のひとり子を下さったのです。人は救い主を必要としています。道徳は人を救うことのできないものです。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9〜14)

パリサイ人は終始、「私は、私は」でありました。 「私は・・・断食し・・・私は・・・ささげています。私は・・・他の人たちのような・・・でない」と。それは宗教であり、極端な自己主義です。今日、多くの人たちにあなたの救いの根拠はどこにありますかと尋ねるならば、たいていの人は「私は教会へ行っています。私は十一献金をしています。日曜学校の先生をしています。私は受洗しています。私は教会の役員です」などと答えられるでしょう。どれもこれも皆、「私、私、私」です。そこには「キリスト」は全然ありません。「キリスト」がなさったのではなく、「私」が何をしているからというのです。罪人のかしらであると言ったパウロは、どうだったでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言っています。わたしたちは、罪人としての自分自身を認めようではありませんか。罪人、それがわたしたちの永遠の性質なのです。そして、キリストが何をして下さったかを誇ろうではありませんか。わたしたちの義は、汚いぼろ布であり、「イエスがすべてを払われた(※)」ことを忘れてはなりません。

罪人よ。
大いなるわざも小さなわざも
神のみまえにては力なし
主イエスが救いのために
すべてをなされたゆえに

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳17〜19頁をもとに引用者が構成しました。※オズワルドは「 」書きで聖書の引用句であることを示しているようです。このすばらしいことば「イエスがすべてを払われた」の含意するところは、1コリント6・20やコロサイ2・14やマタイ18・24以下などがありますが、残念ながら私にはこれにあたる聖句を直接思い出すことができませんでした。読者諸兄姉の中で思い当たる方がおられたら是非コメント欄で投稿してみて下さい。)

2013年3月17日日曜日

救いの道(4)欺かれないでください

どこへ行っても、ほんとうは救われていないのに救われていると信じ込み、誤った土台の上に立ち、まちがった経験に安んじている人々を見ます。幾千という教会員、何百という自称クリスチャンは、自分たちの天国に対する望みを説明することができません。彼らは、自分たちは正しいと思い、また神に会う用意が十分にできていると信じています。彼らに、二、三の簡単な質問をしてみれば、彼らが異邦人と同様に、神の救いに関して無知であることがわかります。サタンは彼らの目と耳を閉ざして、理解を鈍くしています。それは、彼らが欺かれた状態におり、回心していないためです。彼らの魂は暗黒の中に閉じ込められ、サタンは彼らを暗黒の中に置こうと懸命になっています。その人たちはたいてい、教会でも活発に働き、委員会やその他の会合にも忠実に出席し、いつでも善良で道徳的な人たちですが、救われていないのです。

このように、これでいいのだという誤った信念の中に死んでいく魂が多いという事実を知るだけに、わたしははっきりと救いの道を示して、多くの人々を永遠の滅亡から救いたいのです。考えてみて下さい。教会員がクリスチャンでありながら、自分たちに対して天国のとびらが閉ざされていることを知った時の絶望的状態を、一生、まじめに熱心に働いただけに、その失望も非常に大きいのです。

ですから皆さん、わたしがその救いの道を示すことを許していただきたいのです。また、あなたが救われていてもいなくても、わたしのことばにしばらく耳を傾けていただきたいのです。それは、あなたが欺かれないためです。

人は、いつも救われるためには何かをしなければならないと心に思っています。遠いインドには、恵みや永遠のいのちは神からの賜物であることを知らない人々が多く、彼らは自分の功績や努力をもって救いの達成に全力を尽くしています。ある人は炎天にさらされながらくぎの床に横たわり、またある人は火の上に自分をつるしています。ある人は沈黙の誓いを立てており、また動かなくなるまで手を上に上げています。多くの人は巡礼の旅に出て、何百キロもはったり歩いたりします。その時、二メートルごとに全身を延ばすのです。何千人もの人々が救いを得ようとして、ガンジス川で自分のからだを洗います。

また、ギリシャ正教も、ユダヤ教、カトリック教もすべて、自分の行ないによって救いを得ようとして、くり返し何かのわざに励みます。なんという恐ろしい束縛でしょうか。また、なんと恐ろしい人為的宗教の奴隷下にいることでしょう。人は救われようとして、なんという困難なわざに励むことでしょう。しかし、神は明確に、またくり返し語っておられます。永遠のいのちは賜物であって、決してわざによって得られるものではないと、あなたが賜物としてそれを受け入れなければ、永遠のいのちを所有することはできないのです。

聖書には明らかに、「自分の救いを達成してください」としるされていますが、「救いのために働きなさい」とはどこにもありません。神がまず働いて下さるまでは、あなたが救いのために働くことはできません。また聖書の中には、「あなたがたのあがないのために働きなさい」とも書かれていません。二千年前、すでにキリストは救いのみわざを成し遂げて下さいました。もしわたしたちが、自分自身のあがないのために働かねばならないとすれば、なんという絶望的なことでしょうか。神であって人の形をとられたかたではなくては、それはできないことであるからです。

ここに、ひとりの大学にはいった青年がいるとしましょう。彼は試験に合格し、授業料を払ってはじめて学生になります。教務主任は彼に、「大学の課程を修めなさい」と言いますが、まず学生として認められなければ大学の課程を修めることはできません。学生として認められてから、彼は四年間勉学を続けるのです。友よ、あなたの救いもこれと同じです。働く前に、まずその救いにあずからねばなりません。神があなたに対して働かれた時、あなたも働きだすのです。あなたは決して、神の賜物を得るために働きだすことはできません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳14〜16頁より引用。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。」新約聖書エペソ2・8〜9有名な日本の言い回しに「分け上る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」とあり、仏教であろうとキリスト教であろうとゴールは同じだとする考え方があります。しかし、聖書は明確に行ないによる道と神の賜物を受けて歩む道を峻別しています。さしずめ今日拝借したこの本の表紙の挿絵はそのことを示しているのでないでしょうか。)

2013年3月16日土曜日

救いの道(3)天国はきよいところ

ああ、何とうるわしい家族の姿であることか、ゴッホの心
あなたは、有罪ではないとおっしゃるかもしれません。あなたは、決して罪を犯したことはないと言われるかもしれません。しかしあなたは、人間の犯し得る最大の罪を犯されたと申し上げたいのです。主イエス・キリストを拒むことほど、大きな犯罪はありません。あなたは神の愛を拒み、神の心を無視し、また神の備えられたとうとい血潮を踏みにじられたのです。あなたは神のあわれみを拒否されたため、不信仰の罪を犯されました。聖書の中で、これほど大きな罪はありません。これは、忘恩の罪でもあるのです。

神は、ご自分のひとり子をあなたに下さったのですが、あなたは、この神のとうとい贈り物を拒まれました。イエスは、「彼(聖霊)が来たら、罪・・・をさばく」と言われました。なんの罪でしょうか。殺人でしょうか。姦淫でしょうか。それとも盗みでしょうか。いいえ、それらではありません。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16・9)。不信仰! これこそ許されない罪です。あなたは友人から贈られたものを拒絶して、人の好意を無視するようなことは決してなさらないでしょう。ところが、永遠の救いという神の贈り物を拒絶することはなんとも思われないのです。

あなたがもし救われておられないならば、この瞬間不信仰の罪を犯しておられるのであり、それは最大の罪を犯すことになるのです。

罪の深さが問題なのではありません。イエス・キリストに対するあなたの態度が問題なのです。あなたは、イエス・キリストを救い主として受け入れられたでしょうか。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイ27・22)というピラトのことばほど重大な意味を持っているものはありません。あなたとイエス・キリストとの関係が、あなたの永遠の運命を決定するのです。

あなたは今、神のみまえで自分が有罪であることを認めておられますか。一つの罪が、あなたを永遠に天国から締め出すことを知っておられますか。それは不公平だとおっしゃるかもしれませんが、天国は備えのできた民のための場所であることを忘れてはなりません。もしあなたが、罪を犯したまま天国にはいることを許されたとするならば、それこそ神の不公平を意味し、そこにおいてあなたは、最も不幸な者となるでしょう。聖徒の仲間として入れられる時、あなたはどんな気持ちがするでしょうか。それを心から喜ばれるのでしょうか。あなたはむしろ、罪の仲間とともにいるほうが気楽だとお感じになるのではないでしょうか。あなたはまず備えられなければなりません。新しい性質を持ち、神に関することを心から喜ぶことのできる新生の経験をされなければなりません。汚れた者は、決して天国にはいることができないということを覚えていただきたいのです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイ5・8)

神のきよさを知り得た時に、はじめてわたしたちは、罪の極悪を知ります。人は、神の聖なる性質をあまり知らないので罪を軽んずるのです。

ペテロはイエスを見るまでは、自らの価値なきことを知りませんでした。しかしそれを自覚した時「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)と叫びました。預言者イザヤに神のきよさがわかった時、彼は「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(イザヤ6・5)と叫びました。神が、「全く、かつ正しい」と言われたヨブでさえも、彼の性格に何かの欠点を見つけようとしたサタンのむなしい試みのあとで、神のきよさに触れた時、自分の罪深さを告白して言いました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と。

神の前に罪人である皆さん、あなたはこのようなきよい神の前に立たれた時、どうなさいますか。太陽の光線の中でほこりが見えるように、あなたが神の聖と全き義の前に立たれる時、今まで気づかなかったような罪がはっきりと表れてくるのです。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳11〜14頁引用) 

2013年3月15日金曜日

救いの道(2)神の審判の前に引き出され

神が低地の町々を滅ばされた時、ソドムとゴモラにいたすべての人は同じように罪深く、堕落していたと思われるでしょうか。大きな罪を犯した者も、ごく小さな罪しか犯さなかった者もいたのではないでしょうか。すべての人たちが等しく、大罪人ではなかったと思います。しかし、すべての人が罪人であったので、神のみまえに有罪でした。「硫黄と火」がソドムとゴモラの上に下った時も、老若男女、偉大な人物もそうでない者も、また善良な者も悪しき者もすべて滅ぼされました。彼らは皆その町に住んでいて、同じ仲間でしたから「有罪」とされたのです。

エジプトの長子が全部、同じように堕落していたとは考えられません。多くの者は、おそらくその国の最もすぐれた政治家であり、また詩人や哲学者、祭司であったに違いありません。しかし神は、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)と言われました。そこで、小羊の血を塗った家は過ぎ越され、塗っていなかった家の長男は滅ぼされたのです。それは、極悪罪の問題ではなく、服従の問題でした。問題は、血が塗られていたかどうかでした。この場合にも、二つのグループしかなかったのです。その血によって守られた人々と、滅ぼされた人々です。

友よ、あなたはイエス・キリストの血によって守られていますか。「肉のいのちは血の中にある・・・・いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17・11)というみことばを忘れてはなりません。また、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)という神のことばを変えることのできる人はひとりもいないのです。神はまた、ヘブル人への手紙9章22節で、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と言われました。あなたは血によっておおわれていますか。もしそうでなければ、あなたは滅びなければならないのです。あの大洪水のような神の審判が、必ずあなたをおおいます。あなたの前には、死か永遠のいのちかのどちらかが待っていて、そこからのがれることはできないのです。

世界の大刑務所において、あなたはあらゆる種類の犯罪を見ることができます。大罪を犯した者から、良心的参戦拒否者に至るまでさまざまです。一方は多くの人を奪った殺人犯であり、他方は人の命を奪うことを拒否して投獄された者です。

彼らは全部国の法律を守らなかったので有罪の宣告を受けねばなりませんでした。人がおぼれるには、水が1.8キロの深さもなくてはならないというのではありません。30センチほどの深さで十分なのです。馬の周囲を囲んでいる塀が一ヵ所くずれれば、その塀が全部がない場合と同じように馬は自由になります。一つの罪を犯しただけで、あなたは百万の罪を犯した仲間に加えられます。なぜなら、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」と神が言われたからです。

あなたは、みことばを信じますか。あなたにぜひ覚えていただきたいことがあります。それは、一つの点において失敗し、ただ一つの戒めを破り、ただ一つの罪を犯しただけで、すべての点において有罪と同じことになるということです。

わたしが、十の輪の鎖でつるされているとします。ところが、突然鎖が切れて、わたしは落ちてしまいました。よく見ると切れたのはただ一つで、他の九つの輪はそのままでした。罪についても同じことが言えます。わたしたちは、十戒という律法によって保たれています。しかしその中の一つでも破れば、わたしたちは失われた者となるのです。なぜなら、律法を犯したからです。あなたは律法全体をお守りになりましたか。その中のただ一つの戒めでも、破ったことはないでしょうか。一つでも破れば、あなたは有罪となるのです。それがどの戒めであるかは問題外です。それが殺人であろうと、あるいは偽証、姦淫、盗みであろうと、もしあなたが一つの戒めでも破ったならば、律法を犯したことになり、「有罪」とされるのです。そして、その時、世の大罪人の仲間にはいるのです。全能者の怒りは、あなたの上をおおっています。それは、あなたが神の宣告を受けておられるからです。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳1963年刊行。同書9〜11頁より引用。本稿は「救いの道」の第二回目であるが、回目は2/19の項目をご参照ください。

2013年3月14日木曜日

私には主の助けが必要です!

一日、いったい私は何度うそをつくのだろうか。ある人が講演の際、女性は一日180回はうそをつくと言われたそうな。この数は多いと思うべきか、それとも少ないと思うべきか。自分自身でこうしようと思い、主の御前で祈っていることもケロッと忘れており、配偶者から指摘され慌てることもある。このブログでもいくつかの作品を約束していながらいまだに果たせていないものもある。こうして数え上げてみると180回という数字はそれほど根拠のない数字でもなさそうだ。

一週間ほど前にお会いした方々にお便りを出すと言っていながら、いつの間にか先延ばし先延ばししていて、とうとう今日になってしまった。今まで数知れぬうそ、約束していながら、自己の都合ですっぽかしてしまって忘れてしまうようなそういううそを何度もついてきた。だから、今日はそんな性癖に少しは歯止めがかかったことに安堵した。ちなみに冒頭ご紹介した人の言によると男性は220回うそをつくそうな。恐るべし、恐るべし、である。

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2・23〜25)

昨日も幸いなことに家庭集会を持たせていただいた。すべての人が主イエス様のみことばを求めて集まられた。距離をものともせず、遠くから来られる方々ほどその求めは急であるのだろう。帰られた後、そのような方々の話を聞くと大いに励まされる。しかし、この距離は、本質的には主に対する距離をふくんでいるのでなかろうか。主からもっとも離れていると自覚している者ほどその飢え渇きは激しいと言えそうだからである。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(詩篇42・1〜4)

昼間の集会では、人間の持つ無力さ、疲れ、たゆみ、つまずき倒れる性質に対して、主が提供される力はどれほど圧倒的な力を持ち、人の体、魂、霊に強さを与えるかが解き明かされ、夜は「主の喜び」が私たちの内側にいかに根付いているかが問われた。(引用聖句は昼がイザヤ40・25〜41・1、夜はネヘミヤ8・10、詩篇16・11であり、題名はそれぞれ「主の前に静まる」「主にある喜び」であった。)

次回は3月27日(水)午前10時半からである。

2013年3月13日水曜日

Mさんの証(2001.3.20)から

寄り添う白鳥 彦根城・黒御門に面するお堀
昨年一人の方(Mさん)が召された。奥様が最近家を整理していて、ご主人の召される11年前の証の録音テープを見つけられた。その証を聞かせていただいた。私はこの証を聞いて襟を正された。「夫婦の愛」という最も基本的な家庭の姿を、心中に植えつけられた思いがしたからである。昨日も長年奥様と別居していて、最後に病を得て、家族のもとで召されることになった敬愛する一人の方の葬儀に出席した。ご遺族の挨拶の中で、ご子息が「愛しあう夫婦の姿を最後に見させてもらった」と涙ながらに語られた。期せずして同じ感動を味わった。以下にMさんの証の聞き書きを紹介する。

今ここに二人でいるのもイエス様のみわざだと信じます。ふりかえれば、イエス様が妻を通して私に働きかけていただいたことはたくさんあります。軽井沢でもバイブルキャンプに一緒につどって、一緒に行ったこともありま す。兄弟の真剣な祈りの姿を見たこともあります。救いの言葉を聞いたこともあります。力強い握手もいただきました。ぬくもりをとおして、私の冷え切った心をいやそうと働いてくださったイエス様でした。見てさわって食べて自分にとって都合の良いことだけを受け入れる、そんなどうしようもない私にも神様は助け手として妻を(与えてくださり)、再三、妻をとおして、私に働きかけてくださいました。

まあ、そんな中でも三人の子どもたちは、それぞれ祝福をいただき、主イエス様の御前で結婚式を挙げ、今は祝福された生活をしています。去年の9月に長男が巣立って、今は妻と二人の生活をしています。6年前に、センターの近くに家を与えられました。週末は御代田での生活をしています。

・・・ 家のまわりには自然が一杯あります。・・・・・・・・・そんな生活を与えられた中で、目を良く開いて見ました。何百年、何千年と、こういう自然が繰り返し、この大きな大地を育んだ土、大きな木、冬が来れば、凍りついた土地も、春が来れば、芽吹き、鳥がさえずり、小さな虫も地上に出てきます。すべて神様が創造された大自然の営みです。何千年、何万年をも繰り返しているのでしょう。

人間だけが、というよりも、私は、神のみこころからはずれ、自分だけの気持ちを持つ人間となり、自我に芽生え、ほんとうに、そんな自然を破壊するような、自分の都合の良いようにすべてを造りかえ、この世の価値にだけ心を奪われ、ましてやすぐそこにいる自分の助け手である妻をも傷つけるようなごうまんな心を持つ者となっていたわけです。自分を弁護するようですが、すべての人間は何らかの悩みを持ち、心の傷をもってこの世を渡って歩いているのではないでしょうか。

去年の12月に会社の忘年会での帰りに、また酒に酔って私の悪い面が出ました。もう妻がこの世の人間とは思えないほどの言葉で私に最後のことばをかけました。ちょうど日曜日の日でした。礼拝にも参加せず、二人で一日中話しあいました。妻の口から出る言葉は今まで経験したことのないほど、強さと恐ろしさとすごみがあり、もうイエス様が妻の口を通して話している最後の、土壇場の警告とわかりました。そのことばを受け入れる決心をした時、本当に心に持つすべてのなやみが砕かれ、この世での身についた垢で固められた自分のからだの殻が何か本当にすべて崩れ落ちて、心の中に光が差し込んだことは事実です。

話しあった後、二人で家の外に出ました。もう日が暮れようとして、もうわまわりは暗かったはずです。顔を上げて妻の後ろ姿を見て、本当に自分が歩んで来た道・・・。今ほんとうに明るい、どうしてこんなにまわりが明るいんだろうと言うような気持ちを実際に経験しました。疲れ切った妻の背中が、はっきりと私の目に入りました。
イエス様ありがとうございます。「○○子、ごめんなさい」と言いました。

その後、12月30日に洗礼を二人でさずかりました。妻の洗礼を目の当たりにし、心の中に今までのことがまた圧縮されて再びよみがえりました。家族の触れ合いを犠牲にして私の犯して来た罪、触れ合いの時間をも犠牲にして、自分の思うがまま会社での時間を主にした生活、自分が作った品物が、私が最もその当時力を注いで作った品物が10年後、解体されてゴミとなって捨てられていくさま、この世での価値を追い求め、自己満足していただけの自分の姿を振り返り、妻・子どもにほんとうに悪かったと思いました。

洗礼を受けてから毎日読む聖書のみことばがほんとうによくわかります。イエス様に救いを求め、イエス様の愛をいただき、イエス様の十字架の負い(目)をとおして、神様が人間をもとの人に立ち返らせるため、イエス様を死につかされたことを(感謝します)。ほんとうに私を救っていただき、ありがとうございました。

今、聖書のみことばがほんとうに私にとって真理であり、またほんとうにこれはもう決まった通りであるというように実感したところを拝読させていただきたいと思います。

まず創世記の1章27節。「人が神様に造られたこと」が書かれております。拝読します。

創世記1:27
「 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

また、神様は男と女を結びつけ、互いに助け手とされるということが書いてあります。マタイ19章の4節から5節です。拝読します。

マタイ19:4
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

お互いに助け合うべき二人が(私は)一方的に(妻に)傷をつけ、神様に与えられた助け手を犠牲にして来た、(夫婦)生活をしいたげて来ました。

また、結婚後の、神様が、私の心を示しているところがあります。マタイの13章13節、14節、15節。すいません。読ませていただきます。

マタイ13:13〜15
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞か ず、また、悟ることもしないからです。13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。 13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされ ることのないためである。』

心が救われるために、人間がまた神のもとに戻る人になるためには、(どうあれば良いか)ということも書かれてあります。ヨハネ3章の3節。拝読します。

ヨハネ3:3
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
こうしてこのMさんの証はみことばが次々と証されていくのです。そして、その合間には心から発せられる「ありがとうございます」という主への感謝の気持ちが吐露されるのです。残念ながら全部をご紹介できないのですが、これこそ真の人間の生き方ではないでしょうか。

2013年3月12日火曜日

うたがいから信仰へ(8)

彦根城西の丸から琵琶湖および湖北の山々を眺望する
「絶対者と面接するとき、人が行なうべき唯一のことがあります。無条件の服従に身をなげ出して絶対の信頼をするということであります。真剣な祈りの中でキリストについての新約聖書のあかしを研究したすべての人はこのことを知っています。このようにキリストが私どもから得る信頼こそ、キリストが語りたもうことに私どもがたよることをあたりまえのことにするのです。(中略)

『神の前では、私どもは、いつでも誤っている』ということばでゼーレン・キルケゴールが表現する事柄を私どもが経験したならば、その時、私どもの真実の主としてキリストを知るのです。またキリストに身をなげ出すことは、私どもを発育のとまった意気地のない存在者にするのではないのです。反対に、無条件的な信頼と服従の中でキリストに身をなげ出すことを許される内的解放を経験するのです。私どもがキリストに全心的に保留なく身をなげ出せば出すほど、私どもはますます私ども自身を見いだし、自身の姿を保つことに成功するのです。」(『私はなぜキリスト者であるか』42〜43頁)

私自身、神の存在をはっきり証明されれば信じてもいい、とどれだけ願ったでしょうか。しかし事はそのようには運びませんでした。ある時、神学生の方にどうしても信じられないのだと苦渋を訴えました。そのとき、その方は私に一つのみことばを紹介してくださいました。

(この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、)宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(新約聖書 1コリント1・21)

私は自身の願望は空しいものであることを、このみことばをとおして知らされました。またそのころむち打ち症を患って電車で時間をかけて足利から保谷市までカイロプラクティックの治療に向かったことがありました。その治療をしてくださった方はカナダ出身の女性の老宣教師でした。私は思いあまって彼女にもみことばの助言を求めました。その時彼女が間髪入れず示してくださったみことばは以下の言葉でした。

主を喜ぶことは、あなたがたの力です。(旧約聖書 ネヘミヤ8・10)

私にとって主を知ることが永遠の課題であり、そちらに向かって何とか手がかりをつかもうとしていたのに、はじめて「主」を「喜ぶ」ことこそ肝要なのだと、いきなり有無を言わせず、ドンと肩を圧されて主の前に出された思いがしたのです。そうしていつの間にか、キリスト信仰は、私の認識の問題でなく、私自身がわからないながらも主を、直接聖書のことばをとおして信じ、体験していく道へと歩みはじめたのです。

こうして私はハレスビーの前掲の表現を借りるなら「無条件的な信頼と服従の中でキリストに身をなげ出すことを許される内的解放を経験」していくようになるのです。

2013年3月11日月曜日

うたがいから信仰へ(7)

天秤櫓と廊下橋(彦根城内)
表題のテーマはO.ハレスビーの著書(『私はなぜキリスト者であるか』の内に収められているもの)にちなんだものであり、彼の論考に添い、できるだけ私自身の経験も吐露しながら、引き続いて考えて行きたいと思います。

祈りとは目に見えない神に語りかけることです。そのことばは空しくこだまするだけのものでしょうか。

「私は、きわめて熱心に祈った。私は、私の母が、死と戦っていたときに、私の子が苦しんでのたうちまわっていたときに、神に叫んだ。私のなやみの中で、私は、神いましたもうことと、私ども人間が祈るとき、神はきいて、答えたもうこととを確かにするために、神が干渉なさってあの人たちを苦しみの中から、また私を疑いの中から助け出したもうように神に叫んだ。しかし答えはなかったと。またそれにつけ加えて、それは私の一生のうち最大の失望であった」(同書31頁)

彼はこのような気持ちははじめて神に向かおうとして祈ろうとする人々の共通意識であることを認めます。その上で、「人の心の中には、神が造った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない」(パスカル)という人だけが持つ霊的存在という性質に着目し、彼自身が祈り始めた経験をさらに次のように述べています。

「私が祈り始めた時とった態度を、今、ご注意ください。第一に、私は、神の側での祈りの応答を信じませんでした。気まぐれな個人が、時に神に求めるような事柄に、神が心をとめることができたり、心をとめようとしたりする可能性そのものを私は否定しました。私は心の中で永遠者に向かってのぼる純粋に主観的な運動のほか、何をも祈りの中に見ませんでした。(中略)第二に、そしてこの関連では最も重要ですが、私は、率直にまた信頼して、神と語るために神に向かいませんでした。私のこの世的なまた利己的な生活をやめることが、私の志では決してなかったのです。反対に、祈ろうとする私の企ては、私の良心の多かれ少なかれ、明らかな呵責にわずらわされないで、私のこの世の生活をつづけられるように平和と安楽を見つけようとする半意識的あるいは無意識の努力でした」(同書34〜35頁)

聖書には「彼らは木に向かっては、『あなたは私の父。』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ。』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください。』と言う」(旧約聖書エレミヤ2・27)というみことばがあります。ハレスビーが「率直にまた信頼して、神と語るために神に向かいませんでした。私のこの世的なまた利己的な生活をやめることが、私の志では決してなかったのです」と言っているのは上の聖書中の「わたしに背を向けて、顔を向けなかった」と同じことではないかと私は思います。

結局彼のこの祈りは成功しなかったと、彼は言うのです。 神との真の交わりを経験するためには、すなわち「うたがいから信仰へ」と一歩踏み出すためにはどうしても各人がルビコン川を渡らねばなりません。賽は投げられなければなりません。しかし人はその決断を渋り、それゆえに信仰への道を踏み出すときの大きな言い訳として、再び自己の理性の牙城に閉じこもり、永遠に懐疑者の道を歩み続けるのです。

私自身、何度もこの「優柔不断」を経験させられました。しかし、主のあわれみにより、懐疑者であることから離れて、今では主の城門の内に入らせていただいているのです。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(新約聖書 ヘブル11・6)

2013年3月9日土曜日

うたがいから信仰へ(6)

三須臾 鳥啄(ついば)みて 我カメラ
O.ハレスビーが信仰を持てそうもない懐疑者に勧めたのは、まず新約聖書を読みなさいという勧めでありました。イエス在世当時以来、今日まで人々にあるのは主なる神様に対する懐疑心であります。人が考えることと神さまがなさることとはスケールが違うので、自分の尺度で考えればつねに疑問があるのは人間の自然の性質として当然であり、そのこと自身は何ら怪しむべき事柄ではありません。今は何ら抵抗感無く、聖書を読んでいるひとりひとりも最初からそうであったのではありません。これは100パーセント保証できる事実です。

それではそういうひとりひとりがいつの時点から聖書を疑わずに読むようになったかと言えば、前回指摘しましたように、自らのうちにある真実な姿と、イエスにあらわれた真実を自らのうちに体験することであります。今週学校時代の友人の大学卒業アルバムを拝見させてもらったとき、その大学の学長さんが自らの写真の下に、小さく「外なるもの汝を汚すに非ず。内なるもの汝を汚すなり※」と書かれていました。私の友人はそのことを意に留めていませんでした。しかし、このことばはまさしくイエス様が言われたことばの引用です。

しかし、O.ハレスビーはさらに一歩前に進み、次のように勧めます。

「私の次にさしあげる小さな忠言は、これです。神に祈りを始めなさい。新約聖書を読み始めると同時に始めなさい。しかし、祈りの価値を疑います、とあなたは言います。わかっています。しかし、それでもなお、お始めなさい。(中略)

祈ることは率直にまた信頼をもって神と語ることです。あなたが一介の懐疑者であっても、どうしてそのことができないのですか。あなたは人間と話します。いと高きお方なる神とどうして語らないのでしょう。神は見えないのです。それはほんとのことですが、人間の中にある真の人格はまた見えないのではありませんか。あなたの目に見えるものは、からだだけです。人間は内的実在をもち、信仰によってその実在者と接触をうちたて、こうして自分の存在を確かにするのだということを信じなければなりません。

わかりました。だが私が祈るとき、なんと言うのでしょうか、とあなたは問うておられる。あなたは、神と率直に、また信頼をもって語るべきです。ですから、あなたは神について疑いをもっていること、また祈りを信じていないという事実を神に告げてお始めなさい。あなたの疑問が除かれて、神を確信し、神があなたの祈りをききたもうことを確信することができるように、あなたに近づき、あなたと語りたもうよう神に願いなさい」(『私はなぜキリスト者であるか』29〜30頁引用)

私自身、現在の住んでいる場所に縁ができたのはキリスト信仰との関係ですが、そのもっとも初期の頃、この町の駅頭にある中華そば屋さんの店内でひとりで食事した時のことは忘れられません。そのとき、私は周りの人がいるのに、一人で主なる神様に祈ってから食事をしようとしたからです。その時、不思議なことですが、目を開けて気づかされたことは、まわりの人々が家族や友人たちと楽しげに食事している姿が、急に色褪せて見えたということです。それは確かに肉をほうばり、おいしいスープを啜っていても、もしその人が生けるまことの神様との交わり(祈り)がなければ、それはただからだが動いているだけなのじゃないかという新しい発見でした。

目に見えない神さまと今自分がそんなにしげしげとお話しているわけではありませんが、少なくとも、私自身はやはり新約聖書を読みながら、祈る者と変えられていったことは知らず知らず懐疑者から信仰者へとギアチェンジがなされていくときの大切な経験であったのではないかと思うのです。

(※この方は渡瀬譲氏でその略歴は異色を極めているが、少なくともこのことばを大学の卒業アルバムに書かれたと言うことは知る人ぞ知るの世界ではないかと思います。参考までに聖書のことばを書き写しておきます。「イエスは言われた。『あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。』イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」マルコ7・18〜23)

2013年3月7日木曜日

近江の箱舟(蛇足篇)

五個荘内を走る中山道と川
ところで、湖東地方の公共交通機関である近江鉄道の経営状況はどうなのであろうか。無人駅が余りにも多そうなので、思い切って最寄りの駅で聞いて見た。30数駅ある駅の中で常時社員が詰めていて開業しているのは、彦根、八日市、近江八幡、貴生川など数駅にとどまり、その他は、派遣社員による限られた時間の勤務より成り立っているか、全くの無人駅だと言われた。ご多聞にもれず、会社は赤字だということだ。伝統あるわが町の最寄り駅も今や派遣社員の勤務より成り立っていると知りびっくりした。

私はその方に、でも私にはありがたい電車なのですと申し上げ、日曜、月曜に続き三度目になるフリー切符を購入した。ただ今回は自転車を持ち込んだ。実は、月曜に日曜日に車内で遭遇したあの方の家を探し求めようと思い立ち出かけたが見つからず、この日は五個荘駅から自転車を駆使して再度挑戦しようと思ったからである。

前の日に足を棒にして探し歩いたお家が今度はスイスイと自転車で探せるのだ。そう思うとそれだけで気分は爽快だった。しかし、またしてもそう簡単には見つからなかった。前日、たまたまその町内で出会った郵便配達の方が「信号を真っ直ぐ行って、左側の二階建てのアパートの一階の一番左端だ」と親切に教えてくださった一言が頼りだった。

今回は交番を先ず訪ねたが、すぐ教えてくれると思いきや、個人情報に関わることなのだろう。そうおいそれとは教えてくれなかった。事情を話したらこちらを信用してくださったのだろう。やっと住宅地図で一緒に捜してくださった。ところがアパートなので最後まで確とした情報は得られなかった。ただ前の日よりはおよその場所がわかった。

喜び勇んで捜しにかかった割には、相変わらず捜し当てることができず、諦めて帰るしかなかった。その時、遠くから足のひょろひょろした男性が乳母車を押して来られるのが見えた。あの方かと遠目には見えたが、近寄ってみるとそうではなかった。でも勇気を出して、同じ身体不自由の方だから、ひょっとして名前を知っておられるのでないかと思い、聞いたが知らないと言われる。ただアパートならわかると言われた。その方が指し示された方角のアパートは郵便配達の方が言われた条件にぴったりだ。訪ねてみるとまごうことなく彼はそこにいた。室外から声をかけ来意を告げた。彼はすぐ動けず声だけが聞えたのだったが、言いようもなく嬉しかった。私が彼のベッドまで上がり込み、話するうちに彼の身の上はさらに詳しくわかった。

男所帯で雑然とした部屋に入り彼を心から気の毒にまた愛おしく思った。でも、イエス様はあなたの苦労を全部知ってくれてるよ、立派になる必要もない、お金も必要ない、ただイエス様を信ずれば良いのだよと言って、一緒にお祈りした。最後、彼も大きな声でアーメンと言った。主が私たち二人を合わせてくださり、同じ思いにまで導かれたとしか言えない。ほんの十数分しかお暇(いとま)しないで別れた。私はそれで良しとした。心は不思議な感動で満たされ、夕闇迫る中、家路を急ぐため、無人駅である五個荘駅に急行し、まもなく到着した電車に乗った。

やれやれこれでやっと家に帰れると思ったのも束の間、運転士さんが飛んで来て、自転車は駄目だ、土日ならいいが時間オーバーで駄目だと言う。私は何とか目をつむって乗せて欲しいとひたすら頼んだ。結局私が引き下がるしかなかった。自転車を投げ捨てて、乗るわけにはいかない。ここは自転車で中山道を走るしかないと覚悟を決めた。乗り切る自信はとてもないが、このことは主のくださるもう一つの大切な訓練のように思えたからだ。もう真っ暗な夜道をいつ果てるともしれない自転車による孤独な旅を耐えに耐え家へと帰ったらほぼ二時間近くかかっていた。距離数を調べてみたら13キロあった。

いきなりの遠出ならとても体力は持たなかっただろうが、何しろ前日、彦根城に登り、降りて来ては、五個荘を歩きまわったりしていたので十分ウォーミングアップはできていたのだ。初めは近江電車の運転士さんが粋なはからいをしたと賞賛したが、この日の運転士さんは私の乗車(自転車を持ち込んでの)を拒否したわけで私にはとても賞賛できたものではない、逆に呪いたい思いだった(※)。

しかし、考えてみると、イエス様の用意されている救いの箱舟もすべての人に用意されているが、場合によっては拒否されるということに思い至った。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

イエス様はすべての人間の罪を赦すため、十字架にかかられた。何と素晴らしい愛だろう。しかし、その恩恵は信ずる人にしか与えられない。別にイエス様が意地悪されているわけではない。ちょうど運転士さんが精一杯からだの不自由な人を乗せようとされたのは彼の愛のあらわれだが、今回の帰りに私が遭遇した運転士さんは特別私に意地悪したわけではない。ルールに則っての処置だったのだ。うまく表現できないが、世の人はそのことを知らない。知ろうとされない。信じてただ箱舟に入れば良いだけなのに・・・。

(※近江電車はサイクルトレインという企画で自転車持ち込みを認めている。ただし平日は9時から16時までである。乗ったのは16時以前だったが帰りが18時近くになった私の場合その規定を大幅に上回っていたから運転士さんの処置は当然であった。)

2013年3月6日水曜日

近江の箱舟(下)

私たちの交わりを庭の枝枝に宿りながら見ていたムクドリ?
実は、私の近江八幡への遅着はそれはそれで思わぬ展開となってしまった。プライバシーの関係があるので細かいことは省略するが、車で迎えに来て私の遅延を忍耐して待っていてくださった方に開口一番減らず口をたたいたことに起因することがらである。礼拝、福音集会を終えたその日の昼間の交わりの時にそのことが明るみに出された。

キリスト者とは主を心から礼拝する民を指す。しかし、それだけでなく互いに忌憚なく交わることを重視する民でもある。近江八幡でも毎日曜日そのような心からの交わりが食事をともにしながら持たれている。ところが、その日の食事の交わりの中で、私がその方に発した軽いことば・冗談がご当人から問題にされた。そのことを指摘されるまで私は全く気づかないでいたことだった。知らずにその方の心を傷つけていたのだから恐ろしいことだ。

その方から指摘されて始めて自らの非礼を自覚した私は、ただ平謝りするしかなかった。逆にそれを根に持たないでこのような場で公にしてくださってありがとうございますと申し上げた。しかし、それでも何となく事柄が事柄だけに一瞬気まずい思いがその場を支配しそうになった。その時だった。その中で一番若い青年、しかもその方と日頃から親しい青年が一言、「謝ったのだから赦すべきだ」と発言したのだ。まさにタイムリーなことばだった。

「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」(旧約聖書 箴言25・11)

私はこのことをとおして皆の心がさらに一つにされ、高められたのではないかとさえ勝手に思っている(もっともこれもひとりよがりの思いかもしれないが・・・)。そして私たちはみんなで一緒になって二日前に手術された方を見舞うことができ、そのころには私とその方とのわだかまりもすっかりなくなったのではないかと思う。今にして思えば独りよがりになりがちな私には苦い薬だったが必要な訓練だった。

皆さんと別れたあと、近江八幡在住の学校時代の友人が遊びに来てくれと携帯に連絡してきた。私は普段はこちらにいないので誰かこちらの方も一緒のほうがいいと咄嗟に思った。それで様々なことを考えた末、ここは先ほど私に苦言を呈された方しかいないと思い至った。早速連絡したら快く引き受けてくださった。こうして、私たちは友人の家にお邪魔し、その方は友人とは初見だったが、三人で親しいお交わりができた。

ここまでは日曜日一日のことなのだが、月曜、火曜とあの電車で会った気の毒な方の家を訪ねることもでき、友人は友人で今度は私の家にやって来、お互いを今までよりも理解し合えたのでないかと思う。今回は母の兄姉の中で唯一健在である叔父とも彦根城の近くの路上で不思議な出会いをし、家に案内され、久しぶりに旧交を暖めることができた。

短い滞在期間であったが、どれ一つとして無駄な出会いはなかった。近江の箱舟にもっともっと多くの人が乗りこまれるようにと心から思う。

2013年3月5日火曜日

近江の箱舟(中)

桜川駅下りホーム、やや暗い、日曜朝はこんな天気だった
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(新約聖書 ルカ19・10)

やっと乗り込んだその方は、先に座を占めている私たちに話しかけられるのだが、今ひとつことばが聞き取りにくかった。婦人方はそれでもやさしく何とか話を聞こうとされる。そのうち私もその輪の中に入って行った。話の中でその方がカメラ片手に「朝日大塚」の池の撮影に出て来られたことがわかってきた。カメラを出して写真を見せて下さった。過去の写真なのだろうか、春先の野原の美しい写真で、みなで褒めそやし、車内はにぎやかになった。

不自由なからだでどうして一眼レフを自由自在に動かし、シャッターが切れるのか私にはふしぎだった。そのうちに彼が最初からからだが不自由なのではなく、20年ほど前に脳梗塞で倒れ、半身不随になり、さらには若くして奥さんを交通事故でなくされたことまでもわかってきた。私はいても立ってもいられない気持ちになり、友だちになりたいから、名前と住まいを教えてくれと申し上げた。彼は私のノートにスラスラと書き、最後に70歳ですと付け加えた。全くもって私と同年齢の方で、互いにさらに親しみを覚えた。そんなこんなで、私も八日市で降りることは念頭にあったのだが、うっかり乗り過ごしてしまったのだ。

慌てて降りた駅は「桜川」という名前だったが、もちろん始めての土地だった。先ほどから、車内で急に親しくなったご婦人方も私のこのドジぶりを知って同情しながら、笑顔で車内から送り出してくださつたが、あっと言う間に電車は走り去り、あとは私一人が無人駅に取り残された。もうとても近江八幡に10時に着くのは無理と観念せざるを得なかった。上り方面の電車に乗って再び八日市まで引き返さなければならない。何しろ一時間に一、二本という運行が当たり前のローカル線だ。

しかし、初めて降りる駅はそれはそれで楽しいものだ。駅待合室で上り列車の時刻を調べ、四駅乗り越したことも始めて自覚したが、待合室のウインドウに短冊に記された子どもたちの俳句らしきものをみつけた。時間潰しに見ているとそれぞれの子どもたちの特徴が字や絵、文章にあらわれていて片時楽しませてもらった。そのなかに、こんな作品があった。「原始人 今日のえものは みなで分け」どこかで読んだような気がしたが、こんなやさしい心を子どもが希求しているのを知り、心が暖かくなってきた。

しばし、待つ間に電車が入って来た。あわせて無人駅なのに、スピーカーを通して「上り列車、下り列車とも約5分ほど遅れて到着します。お急ぎのところ大変申し訳ありません」というアナウンスが流れた。私は、いいんだ、いいんだ、あの運転士さんが一人の方を積み残さず動かれた愛ある行動が本部にも受けとめられ、この司令塔からのアナウンスになったのだと了解した。原始人万歳!ローカル線万歳!なぜか私の心は主を礼拝する前から満たされていた。

結局八日市に戻った私は近江八幡には10:40には着くことができた。しかし、この話はまだ先がある。

2013年3月4日月曜日

近江の箱舟(上)

何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(新約聖書 マタイ7・12)

昨日は朝、近江電車のローカル線ならではの心暖まる出来事を経験した。

私はこの会社の一日乗り放題のフリー切符を利用して近江八幡に向かい、10時前に到着する予定で家を9時に出た。JRを利用すれば乗車時間は30分ほどで済むが、何しろJRの最寄り駅までは徒歩2、30分は優にかかる。それに対してこちらはわずか3分足らずで行ける。乗車時間はかかるが、JRの往復運賃に比べればフリー切符の方が割安なのでそうした。

ところが、ちょうど電車が「五個荘」という駅に到着し、今まさに電車が出ようとした時、乗ろうとして一人の方が反対ホームで下りた踏切の遮断機をかいくぐりホームから線路に降りてこちら側のホームに来ようとしているのが見えた。遠目に見てもその方は身体が不自由で、介助者もいず、すでに発車時間も過ぎており、どだい無理だから運転士は無視して発車しても良かった。

けれども、運転士の方は、じっと我慢してその方がこちらのホームに来られるまで発車時間を遅らせたのだ。電車は時刻通り走ってもらわねば乗客としては困るのだが・・・。田舎の二両連結の電車だが、乗客は2.30名だっただろうか。この間、皆さんはどんな思いだったのだろう。

豈図らんや、この人が下りているバーを自力で潜り抜けること自身が大変な難儀であることが徐々に分かってきた。バーそのものは何とかワンマン電車の運転士さんが持ち上げることはできたが、その人を誘導するにはまだまだ人手が必要だった。一人の方が車内から降りて助けにかかった。それでもモタモタしておられる。先頭車内から見ているのは、男性では私一人、あとは女性客だった。

しばらくして三番手として私も加わろうと車外に出て対岸ホームに近寄った。しかし、その方をこちらまで連れて来るのは私の非力ではとても無理だった。その時、後部車両に乗っていた二人の若者がさっと駆けつけて来て、その方の両肩を脇から二人で抱えてホームから線路へ降ろしはじめてくれた。車内ではご婦人方が「家族は、無責任だ。こんな形でおっぽり出すとは」と当然な声が聞こえていた時だった。様々な身体の不自由な人も介助者や駅員の手厚い助けを得て電車に乗り降りするのはよく見かける風景だ。しかし、ここは無人駅だ。また運転士はワンマン電車の運転士だ。連絡があったわけではない。たまたま、そのような一人の乗客に全員が遭遇した形になった。

果たせるかな、その間、何分かかったのだろうか。みんなの協力で、その人はやっと車内に乗り込むことができた。その男性は乗りこむや否や、立ち上がるさえ不自由な身体を起こし、さらにまわらぬ舌で「みなさん、ご迷惑をかけてすみませんでした」という意味のことを大きな声を出して謝られた。拍手こそ出なかったが、みな一様に大安堵した雰囲気が車内を覆った。もう、電車が遅れようが関係ない、無事その方をお乗せでき、電車が動き出したことをともに喜んだ瞬間だった。

この間、若い運転士さんは大変だったと思う。まして単線のローカル線だ。この電車は下りだが対向車として、上り列車が進行して来るかも知れない。咄嗟の自らの善意ある判断で自らの首を締めなければならないかもしれないからだ。でも結果的に良かった。私はこの乗り込んできた方に人間的な関心を持ち、積極的に話しかけていった。そして、今度は彼との話に夢中になった私が乗り継ぎ駅の八日市駅で下車することを忘れて、そのまま四つほど先の駅まで乗り越してしまうというハップニングに見舞われてしまった。

2013年3月3日日曜日

縄目を受けられたイエス

カール・ブロック聖画選より
それから、イエスを縛って連れ出し・・・・。(新約聖書 マタイ27・2)

なんという愚かなことでしょう!

イエスを縛ったなわ、それは全くこっけいなしろものというほかありません。

一言で湖上の嵐を静めたお方、一言でラザロを死のなわめから解き放たれたお方、悪霊どもを制する力をお持ちになったお方・・・このイエスを数本のなわで拘束できるというのでしょうか!

このなわは、人々が、こんにちに至るまで、神の御子のお力について大変な思い違いをしていることを、示します。

しかし、なぜ主はかくもおだやかに縛られたもうたのでしょうか? なぜ主はなわめを引きちぎり、反対者の足もとに投げつけてくださらなかったのでしょう? そうなればどんなに格好よかったかしれません。なぜそうなさらなかったのでしょう?

それは、主が十字架に引かれ行こうと心に決めておられたからです。主イエスは、数百年前に預言者イザヤが予告したとおりのお方でした。「彼は・・・ほふり場に引かれて行く小羊のように・・・口を開かない。」「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした」(53章)

主イエスがこのこっけいななわめを受けられたのは、ご自身、そうされようと心に決めておられたからにすぎません。人々が押しかける一時間前に、主は静かなゲッセマネの園で御父にお告げになりました。「飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりを 」と。こうして主はこの苦しき杯を飲みほされました。

十字架の死が、この世のためにどれほど必要であるかをご存じの主は、自ら両腕を差し出してなわをお受けになりました。

主よ! 私たちの目を開いて、贖いのみわざを悟らせてください。
                          アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳3月3日の項目より引用。確かにブッシュ氏が指摘されるように、イエス様が受けられた縄目は不思議です。縄目と言えば怪力サムソンについての旧約聖書士師記15章16章の記述を思い出しました。何というちがいがあることでしょうか。)

2013年3月2日土曜日

うたがいから信仰へ(5)

いつの間にか、こんなにきれいに、花を咲かせてきましたよ。
ここで私がどのようにして新約聖書を読めるようになったかの証をさせてください。実はくわしいことはわからないのですが、ハレスビー自身もノルウエーという日本に比べればはるかに福音の満ちている国で成長しましたが、遅くまではっきりとした救いの確信は持てなかったようです。おそらくそれが彼にこのような本〈私はなぜキリスト者であるか〉を書かせた理由でないかと私は勝手に想像しています。彼の求道の歴史はある点で私が理解できるものでした。それはやはり新約聖書の奇蹟に富む記述がつまずきだったからです。

しかし、私にはいつの間にか、そんなことが少しも気にならなくなったのです。それは聖書全体がわからないでいたのですが、その中に書かれているほんのわずかなことばをどういうわけか自分が信頼し始めたことによるようです。たとえば次のようなイエスが語ることばが私の心の中にはっきりと座を占めたのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書7・37〜38)

 当時(20代半ばのころ)、もちろん今もそうなのですが、私は人を愛することができない、また人の前で素直になれない悩みを抱えていました。自分がどうしてもありのままの自分でなしに、取り繕うとして顔がこわばるのです。また自分よりもすぐれた人を見るとその人に対してライバル心を感じてしまうのです。そんなおりだったのでしょう。このみことばがすっと心の中に入って来たのです。私の内側には何にも人を愛する思いはない。しかしここにイエスを信じる者は、そのような私の汚い心を越えたもっと奥深いところから、こんこんと尽きない泉のごとき愛が流れ出て来る。その愛を主は下さる。その愛をもって人を愛することもできるのだという喜びでした。

そしてこの短いことばの中に、すでに矛盾を感じていました。これは聖書の中の一節だのにどうして「聖書が言っているように」と言えるのだろうかと疑問を感じたわけです。けれども聖書をとおして語りかけて来る圧倒的な主の愛が私に臨み、そんなことはどうでもよくなりました。そしてその疑問も信ずるうちに聖書自身によって答えが与えられたのです。ここでイエス様が言っておられる「聖書」とは人としてのイエス様も知っておられた「旧約聖書」のことを指しているのだと後にわかるようになったからです。

さらにずーっと後に、それは何年もしてからですが、この聖書のことばの続きに書いてある次のみことばにも目が開かれるようになったのです。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネ7・39)

すなわち、信ずる者の内に住んでくださる御霊の存在でした。こうして一事が万事、わからない、それこそ超自然的と思われることがらも自分とイエス様の関係がしっかりして来るに連れて徐々に疑問は疑問としてありながら、何年か経つといつの間にか理解できるように変えられているのです。それは不思議なことです。

ハレスビーはこの本の最初の方で懐疑者に対して、あなたのもつキリスト信仰に対する懐疑は 「論理的な議論によっては克服できない、ただ体験のみによってできる」(同書24頁)と言っています。昔の記憶ですが、内村門下の経済史家であった大塚久雄氏がキリスト信仰は「実験」であると言っていた覚えがありますが、同様のことを指しているのではないでしょうか。

とにかく新約聖書をだまされたと思って、わからないところは飛ばして結構ですから、読み続けてください。世の宗教(仏教だけでなくキリスト教もふくめてです)が与えるものと全く異なるイエスの与えるいのちがお読みになる皆様の心にきっと流れ込んで来ると私は確信します。最近つくづく聖書は「宗教批判」の書だと確信するようになってきました。

(聖書をお求めの方は直接下記のサイトでお問い合わせください。送料は別ですが、聖書そのものは無料で提供されています。http://www.christ-shukai.net/

2013年3月1日金曜日

うたがいから信仰へ(4)

年少の友が闘病中の方に進呈された油絵
(画面上の左上の白線は蛍光灯の反射)
左の油絵は今週火曜日の葬儀会場に掲げられた一枚の油絵である。この2月22日に召された方が病床でつねにこの絵を眺めイエス様が再び迎えに来てくださることを今か今かと待ち焦がれて過ごされていたとお嬢様がご遺族のご挨拶のおりご紹介くださった。

私も召された方とはお元気な時に二、三度ご一緒に食事をさせていただき、親しいお交わりをいただいたことがあった。昨年にはご主人が先に天に召された。相次いで天に住まいを移された方のご葬儀であった。

私は仲の良かったお二人の姉妹に月並みとは言え、お妹さんお姉さんが(三人姉妹の真ん中の方であったので)召されてお寂しいでしょうね、と申し上げたら、「いいえ、ちっともさびしくありませんよ。私たちもすぐに行きますから」と屈託なく笑顔で答えてくださった。こんな会話は恐らく主を信じておられない方には不可解に映ることであろう。

しかし、それもこれも死を超越される「わたしは、よみがえりです。いのちです。」とおっしゃるイエスのなせる奇跡の一つではないだろうか。イエスという方がどんな方であるかは四つの福音書が丹念に記録している。先日ある方が談たまたまお坊さんはお経を読むけれどその意味がどんなものか信者は知る必要があるのではないか、それも知らないで闇雲に信心しているのはどうかと思うと言われた。全くもってその通りだと思う。そこへいくと、聖書信仰は全くそれとは異なり、じっくり書かれていることを読み、自らの立場を鮮明にする(ある場合には自らの罪があぶりだされる)ことにある。この上は、イエスの存在を否定する方が是非直接聖書をひも解いて自らの目でイエスを判断されればどんなに素晴らしいことかと思わずにはおれない。

昨日述べたようなことが一私事であり、私一人のお粗末な生活内容であるのなら良い。しかしイエスは人の心を全部見抜いておられる方である。その方が人は「悪い者」だと言われることだから、大なり小なり人の心には自我が渦巻いており、利己的であることはどんな立派な方も否定はなさらないのではなかろうか。問題は人がイエスという方をどのように見るかである。続いて語るハレスビーの言に耳を傾けていただきたい。

「あなたが、今新しい目をもって見ておられることは、イエスがその全生涯の中で、他の人々にしてもらいたいと思うことをその人々になさったということであります。イエスはその全生涯の中で、実際このことに生き抜かれたのです(※1)。イエスはこれを行ないたもうたのでした。そのことについて語られただけではなかったのです。

イエスは、歴史に知られている最も気高い人物であることを、あなたは以前から知っておられました。だが、そのことは実際あなたにさほどの印象を与えなかったのです。他面、今あなたはイエスのこの面を評価する道徳的資格をもっておられます。(中略)

あなたご自身が、人にしてもらいたいと思うことをその人々にしてやろうとして、ただの一日だけでもそうすることに成功しなかったとき、あなたはこう自問なさる、『結局、全生涯を通じてこのようなこと自体を—そのほかに生き方がないかのように、一つの踏みはずしも誤りもしないで、自然に、また、あたりまえのようにすることができたイエスは何者であったか』と。

あなたは今、イエスの人格の中で奇跡的なものを経験なさる内的資格をもっておられるのです。イエスの真に奇跡的な面、真に超越的な面は、絶対善の彼の心であります。ここにあなたは、超自然的なもの、絶対的なものと顔を合わせられるのです。あなたは、私どもの宇宙におけるいちばん類のない奇跡について、内的な直接的な確証を所有しておられるのです。(中略)

いつかはフィンマーケン(※2)の果てにすわっていながら、オスロ—の教会で守られている礼拝を聞くことができるだろうと、一世代前にだれかが言ったとしますれば、そのようなことは道理に合わないし考えられないと言ったでありましょう。今日では、それが不可能などとは何人も言わないのです。

私どもの心は、基礎となる経験をもたない間は万事考えられないものを宣言することは強要せられるように感じるものです。しかし、私どもの心が事実を経験するとすぐさま、私どもの知的な基礎全体が変えられて、矛盾と不合理性とが消え去るのです。(中略)

根本的であるイエスの奇跡的な面、つまりイエスの内的なものは、私ども皆の内的なものとは異なっていること、イエスはご自身の倫理的性質によれば、他の全部の人々とは本質的に異なっているということをあなたが経験なさったなら、イエスの生涯と人格の他の奇跡的な面について新しい立場に達したのです。」(『私はなぜキリスト者であるか』23〜27頁より飛び飛び引用)

(※1聖書を読みますとイエスが全く私心のなかったことが判明します。「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」ヨハネ5・19とイエス様は言われました、だから人にできないことがイエス様はできたのです。※2フィンマーケンhttp://www8.ocn.ne.jp/~hatt/norway_rel96.jpgはノルウエーの北極圏に属する地方名です。ハレスビーは1879年生まれ1961年没のノルウエー人です)